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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

まあ、いいや。

2012年01月14日 14時06分05秒 | 意識論関連
 脳内部において特定可能な領野というものは、それが特定の条件に対して反射的に反応しているからこそ領野が特定できるのであり。領野が特定可能であるということは、それが条件反射的な無意識処理であることを指し示している。

 本質的な意識機能というものは、このような特定条件下において反射的に演算されるような処理ではなく。環境条件といいったものに依存しない高次普遍的な演算でなくては本質的には「意識。」ということはできない。

 背内側前頭前野の機能というものは、価値観全体を客観的に見るための機能であるとは言えない。普段「通常。」において客観性を司っている機能であるとしても、特定条件において客観性を失う原因となっているということは、これは客観性自体を司っているのではなく、「概ね客観的に機能する主観。」機能であると考えるべきである。

 ヒトは普段通常条件においては客観性というものが働く「傾向性。」がある。だから背内側前頭前野の機能も通常は客観的に機能する。

 だが、通常以外の条件になった場合に客観性を喪失してしまうということは。客観性自体自体を司っているわけではなく、「通常は客観的に動作する主観。」としてしか機能していないということである。

 そもそもこうした脳内における特定可能な機能部位というものは、常習性によって行動「学習。」された条件反射的無意識機能に「整理。」されているからこそ部位が特定可能なのである。

 自己客観性を喪失してしまうということは、その機能自体が客観性を司っているのではなく。背内側前頭前野は主観を司っており、その主観が暴走することによって客観性を喪失してしまうと考えられる。

 ヒトは通常概ね特定の価値観だけに囚われずに客観的視点を喪失しない「傾向性。」がある。主観的に無意識的に判断していても、概ね客観性は自動的、条件反射的に機能するのである。

 問題は通常とは異なる条件下になった場合。それまで無意識的条件反射だけで充分に発揮された客観性が喪失してしまうことであり。こうした客観性喪失の原因は、通常条件下においてのみ「特化。」されてしまった主観によってシーケンシャルに引き起こされるものなのである。


 「意識。」というと、一般的には無意識的条件反射的な意識や、感情のことを「意識。」と形容する。強い感情が伴い何かに囚われている意識狭窄状態に陥っている場合。それが意識の全てであるとヒトは思い込む。強い感情が伴う事柄「実感。」を伴う意識こそが、自分の本当の意識であると錯覚するのである。

 振り込め詐欺に引っ掛かっている被害者の意識状態というのも、感情的な意識によって本質的意識である論理的思考が喪失している状態であり。詐欺によって特定の価値観だけに意識狭窄状態に陥れられているからこそ論理的思考ができなくなるのである。

 背内側前頭前野の機能というのは、結局前頭核の機能と類似した無意識的な感情優先的な主観機能に過ぎず。何ら論理的思考を伴う本質的客観性自体を司ってはいない。


 ヒトはデフォルトでは動物であるから、主観的な感情によって行動が決定するようにできている。そして概ねにおいては通常ヒトは客観的に物事が判断できるものである。

 「概ね。」「通常。」可能であるからといって、それが常に可能であるというわけではない。「概ね。」とか「通常。」ではない条件下においても客観性を失わないためには、普段の生活においても通常不要なまでの注意深さが必要となる。

 しかし、ヒトの多くは概ね安全でありさえすれば気分的に満足し、通常条件以上に安全性を追及することはない。

 「概ね安全であれば、常に安全である。」と錯覚するのである。こうした錯覚は気分的な「安心。」と論理的「安全。」性を論理的に区別していないことによって引き起こされ、錯覚を錯覚であると認識できていないことが問題なのである。

 無意識的な気分というものは、シーケンシャルに錯覚を促すものである。アイヒマン実験においても普段権威に服従しておけば自分に責任はないものである場面が多いことから、シーケンシャルに服従してしまうことによって、当人が意図しない暴力に至ってしまうことになるのである。

 常習性というものは、いわば脳内におけるループ処理を作り出す機能である。ループがループを作り出し、再帰呼出しを誘発することによって、感情的な行動というものは自己増殖的に意識狭窄をも発生させる原因ともなる。

 脳というのは常習性が作り出す感情によって暴走するような構造を最初から持っているのである。

 特定の感情に意識を奪われないようにするためには、自分自身を自律的に制御することを習慣づけておく必要性がある。これに最も有効なのが本質的に自発的な純粋行為への熱中である。誰に褒められるわけでもないのに好きで熱中する生き甲斐というものがあれば、その行動は社会とか時代には左右されることなく自分自身で自分を制御しなければならず。結果的に自律的な自己制御を身につけることにつながるのである。

 「他山の石。」の解釈には諸説あるようだが。外見上無駄に「見える。」ことであっても当人の徳にとって重要なことでであるという解釈もある。

 まあ。いいや。


 普段から論理的思考を行うためには、何かに集中して頭を使っていることが必要である。大抵のヒトは暇だと「人生なんてつまらない。」だとか、「自分はダメな人間だ。」とか、社会全体からみればどうでもいいような無意味な主観的価値観に意識を奪われ勝手に鬱だのパニックだのに陥るように出来ている。「ヒト。」とはそういうものなのである。

 これは脳の余剰の使い方を間違っているからである。

 「自分はダメな人間だ。」などというのは「考え。」ではない。これは勝手な「思い込み。」であって、論理的に自己自身がダメであることの論証など伴わないからである。

 他人と自己を比較しても無駄である。上を見ても下を見てもキリがないからである。むしろ「自分だけは振り込め詐欺には絶対騙されない。」とか勝手に思い込んで満足している方がよっぽどダメなヒトであって。重要なのは気分的に凹むことなどではなく、自分のダメな部分をきちんと理解し、把握し、対策を立てて失敗の再発防止策を「考え。」ることが本当の意味で「自分を磨く。」ということなのである。

 純粋行為にはこれがある。好きでやっていること、趣味に手抜きはないからだ。

 多くのヒトが無意識的な漫然とした脳の余剰の使い方しかできないのは、自発的に自分の脳を使っていないから、どのように脳を使えば「考え。」が成立するのかがわからないのである。逆に普段「思い。」だけで行動が左右されていることによって、感情的な「思い。」だけでしか行動選択ができなくなってしまうことになる。

 本能的な社会形成習性によって多数他人への迎合や権威への服従といった行動に反射的に従っているだけだと気分的な「思い。」が優先してしまうことになるのである。

 錯覚とか「思い込み。」というのは本能習性が作り出すものである。

 意識狭窄が生じて特定の心配事に意識を奪われている状態において、背内側前頭前野の活動が見られるのであれば。背内側前頭前野はそもそも客観性自体を促す機能ではない。

 瞑想などによって感情を抑制するというのは、個人的関心事全てを抑制してしまう「傾向性。」「癖。」を作り出しているだけであって、論理的思考による客観性自体を強化することにはならない。

 つまり、のべつまくなし無関心になる「癖。」、「傾向性。」を行動学習するだけのものである。これでは自律的に行動選択ができるようにはならない。

 単なる傾向性としての無関心であれば、これは結局「感情=行動。」であること自体に影響を与えない。だからカルト宗教の信者達は感情的な優先順位だけで行動が選択されるため、カルト宗教はやめずに気分的に嫌な話だけに無関心なのである。

 瞑想の持つ危険性というのは、論理的思考による感情抑制ではなく。あくまで環境依存的に「傾向性。」を行動学習して思考や行動を「整理。」しているだけだからであり。これでは自律的な自己感情抑制にはならないからである。

 無意識が引き起こす問題行動を、無意識的な行動学習によって一面的、表面的に改善しても、これはバランス問題にしかなっておらず。バランス自体を一体どうやって制御するのかが全く配慮されていない。

 大衆観念的にはバランス問題にしておくと気分的に「安心。」らしい、バランス問題にしておけば自分で何でもバランスをとることが可能だと勝手に思い込んでいるからであろう。普段日常的にバランスがとれているからといって、それが常に発揮できる保証など論理的に全く確保されていないにも関わらず、気分的に「普段できることであれば、常に絶対できるものである。」と錯覚しているだけであることは、多くのヒトは認識していないのである。




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 脳科学者達が一面的な観念に基づいて勝手に規定した基準に「○○認知能力。」とか名前をつけたからといって、それを鵜呑みにするべきではない。

 IQ、EQ、SQといった基準も同様である。IQというのはそもそも兵隊として使えるかどうかを測るためにつくられた基準であって、これが知能というものの本質であることの論理的根拠など最初からないのである。

 兵隊として優秀であることが人間として優秀であることの論証にもならないし、一級建築士の試験に合格したからといって人間として自律的に社会的責任を負うことができる論証にもならない。

 従って、「○○認知能力。」という基準でどんなに高い得点を得ることができたとしても、これは極めて一面的な能力基準でしかないことを忘れてはいけない。得点という抽象化された評価数値によって順位付けをされることが多くのヒトにとって気分的に「うれしい。」という快楽を与えることを利用して、これを単なる検定ビジネスに応用しているだけの場合が非常に多い。「褒められてうれしい=自分の頭が良くなった。」という短絡的大衆観念に意味などない。


 意識が変わらなければ行動や思考は変わらない。個人の行動に影響を与えないのであれば、多数の個人によって構成されている社会全体も変わることはない。多数他人の悪口を並べる前に、まず自分自身の意識、行動、思考の何が間違っているのかを「意識的。」に検証することが重要である。

 ヒトの大衆観念に基づけば、本論は「滅多に自分の身の上には起こることのない小言、つまらないこと、重要ではないこと。」であると「思う。」のであろう。その「思い。」がどんなに強くても、それは「考え。」に基づいた論理的判断ではない。

 論理的判断を伴わないから大衆観念なのである。

 こうした無意識性こそが人類社会を暴走させ、崩壊への無意識な「流れ。」を作り出すのである。


 ヒトという種の生物の多くは論理的に「考え。」ることが嫌いである。主観的に気分が悪くなるからだ。その代わりに観念的に強く「思う。」ことを「考えた。」と勝手に錯覚して満足する。

 「思考。」という熟語には「思う。」ことと「考える。」ことの両方が含まれている。「思った。」ことが論理的にどういうものであるのかを「考え。」なければ、これは「思考。」ではなく単なる「思い込み。」「固定観念。」にしかならない。

 「考え。」ることを習慣づけるためには、日頃から自発的に何かに集中、熱中しておくことが重要である。酒やパチンコやクソゲーに溺れ、他人の迷惑に意識が働かなくなるのは、他人からの見た目、外見にばかり意識を奪われているからである。

 ヒトの多くがなぜ「他人からの外見。」に固執するのか、それこそが本能的な社会形成習性によって促される反射的行動であるからだ。

 クソゲーが流行する原理とは、数値を用いた他人との順位欲を利用して、本能的競争心を煽るからである。これはギャンブルの中毒性や常習性と全く同じ構造である。資本主義社会においては金さえ儲ければ全ては正義であると価値づけられるが、これは本質的には「社会の要請。」には応えていない。

 大衆の欲望を利用して儲けることは、本質的には「社会の要請。」ではない。

 クソゲーを流行らせているのは、大衆の無意識的な行動である。それはヒトという種の生物が持つ本能習性、傾向性という「既に存在しているだけの自己。」という無意識性に流されているだけであるからだ。


 初めて経験するものに対して、脳は前頭葉を中心として全体が活性する。わからないものが一体何であるかを認識しようとする時には、脳全体を使うものなのである。従って、単に部分的活性が前頭前野で生じているとしても、それはむしろ無意識的な動物的反射行動を促すだけの活動であると考えるべきである。

 前頭前野で起こることの全てが意識活動であるとは言うことができない。ましてや脳地図上に特定可能な領野であるならば、これは既に反射的思考として「整理。」されてしまった「凡庸性に特化。」した「普通の反応。」でしかない。

 実験において、あれこれと興味のままに楽しむ姿勢は必要である。それによって意外な発見というものが導き出されることが多いからだ。しかし、論理的検証において大衆迎合的なウケ狙いで短絡的帰結を導き出すのは科学者として許されるものではない。今の脳科学者達の多くは大衆迎合的なウケ狙いばかりが「目的。」になっており、脳というものの動作についての純粋な考察検証といったものが欠如しており、無責任である。

 最悪なのは、予め立てた観念的な予測に対し、都合の良い結果だけを抽出してくるご都合主義である。「前頭前野に特定可能な領野があれば、それは全て意識機能である。」という勝手な観念に価値はない。それは大衆を丸め込んで金儲けをするには便利な観念かも知れないが、科学的には何の価値も存在しないのである。


 現状において、生きた脳の活動を測定するためには脳血流の観測程度しかない。澤口俊之は「心理学は現象論で、脳科学は実証だ。」などと勝手な順位付けをしたように、脳科学者達は自分達の測定こそが「実証。」であると勝手に勘違いする。脳の血流増加や、それに伴う領野特定であっても、所詮は脳内部における現象論であることに変わりはない。脳内部の現象と、実際の入出力行動における現象との関連性を論理的に考察しなければ、脳の本当の動作を知ることにはならない。

 現象と現象の相関関係を論理的に説明できなければ科学的論証にはならないのである。特定の現象だけを取り上げて実証だと勘違いするべきではない。これは典型的な観念主義者の実証方法である。養老孟司が「死体を担ぎ出す。」のと同じである。これこそが「このスワンは白い。」と論じているだけの短絡的オカルト観念の根源である。

 起こった現象の一面だけを取り上げて実証であると言い張るのがオカルトの典型的手法である。それこそが「思い込み。」という感情的な意識の狭窄状態なのである。



 背内側前頭前野にせよ、前頭核にせよ。その働きは程度に違いはあれど意識狭窄を促す原因になるという点において似たような動作であると考えられる。

 ヒトの意識の9割以上は無意識であることを考えると、意識が働いている状態というのは、脳の動作全体を見渡した上で考えれば、脳全体に活性が働いている状態こそが「1割以下。」であり。これこそが本当の「意識。」が働いている状態と考えるべきある。(*:後の記事で訂正。少なくとも「1割以下の稀な現象こそが本質的な意識機能である。」という考え方は間違っていないと思う。)

 どのような状態において脳全体が活性し、逆にどのような状態において特定領野に「整理。」されてしまうのか。それを研究すべきである。簡単に特定領野に活性が「整理。」されやすい脳ほど短絡的であると考えられる。

 背内側前頭前野などの特定領野だけに「整理。」されてしまうことこそが、思考が短絡的で無意識なのである。だから客観性を喪失することにもなる。

 本質的な客観性を保つことができれば、特定領野に「整理。」されることなく前頭前野を含む脳全体で統合的な思考探索が行われるはずだからだ。

 特定領野に「整理。」されているということは、こうした思考の探索性が失われていることも意味する。

 「凡庸でありきたりな形式的な考え。」に「整理。」されているということである。形式化された「考え。」、パタン化された「考え。」というものは、本質的には思考探索が伴わず。予め用意された固定観念に基づいた帰結しか出力されることはない。こうした無意識的な反射的思考には、本質的な「考え。」が働いていない。

 「考え。」が働いていないから「思い込み。」にしかならないのである。

 こうした無意識的な「思い込み。」こそが原発を暴走させ、戦争を引き起こし、イジメの原因になったりするのである。

 愚かであることは罪なのである。とは言っても学習障害などの先天的な認識能力のことを論じているのではなく。あくまで「理解可能でありながら、気分的に理解することを拒絶する愚かさ。」が罪であると言っているのである。

end;

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