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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

〇デクノボウ。

2018年12月01日 15時01分57秒 | 意識論関連
ニュージーランドで145頭ものゴンドウクジラのストランディング(集団自殺行為)が発生したと

ねとらぼに載ってた

生物に組み込まれた本能習性というのは あくまで結果的に「死ななかった」個体の習性であって

たまたま「死ななかった」だけであって 別に誰かの合理性に基づいて目的のために選択したものではない

だからこそ 時折クジラの集団自殺のような行動も発生するのである

具体的にクジラがどうして集団で砂浜に上がろうとするのかは不明だが

少なくとも合理的に何かを目的として行動したわけではないことは明らかである

集団自殺をすることは生存価にとって有利でもなければ 種の保存にとっても役には立たない

そもそも生物は生存や種の保存を目的とはしておらず 全ては結果以上の意味を持たない

既に先天的に組み込まれた本能習性に従って機械的条件反射行動の結果として集団自殺に陥っているのであって

先天的本能習性の結果絶滅しても 誰も保障はしてくれない

先天的本能習性というのは 誰の合理的目的行動選択も介在してはいないからである

ヒトという種の生物が殺し合いをすることも 先天的本能習性が促す行動バイアスによる無意識な「結果」であって ヒトという種の生物の脳は暴力で相手を殺傷すれば解決だと満足する習性が促す錯覚を 錯覚だと認識していないからである

錯覚を錯覚だと認識するのは 自律的な論理検証性という本質的な人間としての意識だが 大多数の大衆や文科系マスコミは自律的な論理検証を全くせずに 既存の学術組織の規模だけで盲目的に信頼し 何の疑いも持つことはない

これは ヒトという種の生物の脳には先天的に欠陥が存在するため 非合理な観念であっても気分的に安心さえしておけば誰も疑いを持たなくなるという先天的欠陥があるからだ

ミヒャエル:エンデ著「モモ」や グリム童話の「ハーメルンの笛吹男」というのは 集団洗脳によって人々が簡単に騙されてしまい 権威ではない少数派の意見に誰も耳を貸さなくなるヒトの先天的欠陥に対する教訓として描かれたものである

グリム兄弟の「ハーメルンの笛吹男」の話というのは ググってみたらドイツのハーメルンという場所で実際に起きた集団失踪事件が元になっているそうだ

洗脳状態というと 洗脳された人々は苦しんでいるかのように錯覚しがちだが 実際には洗脳状態というのは当人的には「これこそが真理で正しいことなんだ」という信念のようなものに取り憑かれており むしろ外部の者が否定すると「こんな正しいことを否定するなんて 何て可哀相な人達なんだろう」と思い込んで満足しているのである

疑わないのは それが気分的に安心で満足だからである

クジラによる集団自殺も 彼らにしてみれば それこそが安心で満足感が得られる行動だからであろう どんなにヒトが海に戻そうとしても浜に戻って来てしまうのはそのためである

先天的本能習性というのは 特定環境下においては生存や種の保存にとって有利に働くことが多いとは言えるのだが 環境の変化によってはむしろ生存や種の保存にとっては逆に不利な行動を促してしまうことも珍しくはない

それは 先天的本能習性というものには構造原理的に目的のための合理的選択が介在していないからである



集団組織にとって有利な利他的行動を採ることが個体の生存価にとっても有利に働くことがあるとしても 集団組織にとって有利な行動が社会全体にとっては持続可能性や安全性を損ねることもある以上 断片的効用だけを論拠に人間性の論証だと言い張るのは 単なる御都合主義的こじつけ以外の何でもない

嘘や暴力が生存価にとって常に不利に働くことの論証もなく 実際正直者がバカを見ることは珍しいことではないし 嘘つき卑怯者が世間的に成功している例も後を絶たない

それでも「ヒトには先天的に人間性が組み込まれている」と言い張るのであれば その論証が具体的にどのように役立つのかを説明して頂きたい

特定環境下において利他的行動などを採る習性を立証したところで 既にヒトが散々行ってきたあらゆる暴力的野蛮行為の反証には全くならないのである

そもそも先天的本能習性というものは 原理的に環境依存性から逃れることが出来ず 個体の自律的な判断という倫理や人間性の立証には最初から使えないのである

東京電力社内という環境下であれば 自律的に原発の津波に対する脆弱性が放置されてしまうことが避けられなかったというのであれば それを促した先天的本能習性こそが事故の最も根源的原因に他ならない

ロンドン市内で暴走強盗が流行してしまうのも 環境依存性が原因であり 自律のない者は簡単に流行に便乗してしまう習性があるからである

人間性の本質とは 自律的な社会的責任判断選択であり これは環境や先天的本能習性といった「結果」に依存しないからこその「目的」であり「自律」なのである

従って 「先天的本能習性で人間性を立証する」と言い張るあらゆる生物学者や哲学者は 何も自律的に論理検証したこともないデクノボウでしかないのである

そのデクノボウを疑うことなく盲目的に信頼していることもまた同罪である



Ende

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