土居健朗著、「甘え。」の構造。っていう本には、「自己中心的な人間に、自己はない。」ことについて触れている。
一見すると、自己矛盾に見えるこの一文であるが。実は自己矛盾ではない。この一文に用いられる「自己。」というものの定義が本当は複数存在するのである。
既に存在している自己としての「既存在。」と。今現在においてのみ行動選択可能性を持った「現選択。」である。これを先の一文に当て嵌めると。
「既存在する自己に忠誠忠実な人間というのは、現選択可能性を持った自己がないからである。」
となる。かえってややこしいかな。
自己中心的な人間っていうのは、自律的には自分自身の行動を選択できていない。既に存在しているだけの「ヒト。」としての存在でしかないってこと。
自己中心的な人間っていうのは、先天的に組み込まれた本能とか欲望や、後天的に社会環境から刷り込まれた固定観念でしか行動が決定されないってこと。そこに本質的な自律的な判断が全く存在しないから、人間としての「自己はない。」ってことになる。
難解かな。サルトルとかソシュールよかは簡単だと思うんだけどな。
自己については、また今度改めて書いてみようと思う。でわまた。
一見すると、自己矛盾に見えるこの一文であるが。実は自己矛盾ではない。この一文に用いられる「自己。」というものの定義が本当は複数存在するのである。
既に存在している自己としての「既存在。」と。今現在においてのみ行動選択可能性を持った「現選択。」である。これを先の一文に当て嵌めると。
「既存在する自己に忠誠忠実な人間というのは、現選択可能性を持った自己がないからである。」
となる。かえってややこしいかな。
自己中心的な人間っていうのは、自律的には自分自身の行動を選択できていない。既に存在しているだけの「ヒト。」としての存在でしかないってこと。
自己中心的な人間っていうのは、先天的に組み込まれた本能とか欲望や、後天的に社会環境から刷り込まれた固定観念でしか行動が決定されないってこと。そこに本質的な自律的な判断が全く存在しないから、人間としての「自己はない。」ってことになる。
難解かな。サルトルとかソシュールよかは簡単だと思うんだけどな。
自己については、また今度改めて書いてみようと思う。でわまた。