メンタリストのDaigo君がいくら腹を立てても 所詮は主観的「感覚」という先天的行動バイアスによる条件反射に過ぎないので それだけでは意味を為さない
被害がなぜ起きるのかを徹底的に原因究明し 再発防止の対策を立てなければ 被害はいくらでも繰り返されてしまうのである
東池袋自動車暴走事故の被害者遺族 松永莉子パパが「加害者が逮捕すらされない」ことに対してどんなに気分的に憤慨しても それ自体には意味がないのも同じことである
それは私が主観的に「腹が立つ」ことにも意味がなく 誰の主観的「感覚」にも それだけでは意味がないのである
「腹が立つ」だけなら常磐自動車道アオリ男の感情と同じであり 感情の強度程度で行動が決定していたのでは合理的な「解決」には至ることはない
ヒト個人の中には様々な感情や感覚があり その様々な主観を統合的に論理検証する客観性に基づいて行動選択をすることによって はじめて人間性として機能するのである
個人的感情という無意識に流されることなく 客観的論理検証性によって 「本当に優先されることとは何か」という統合的目的行動選択こそが 人間性として機能するのである
厳罰化に安易に共鳴してくれるヒトは多いのであろうが 厳罰化自体は事故の再発防止にとってほとんど意味がなく 時間が経てば事故や事件は簡単に風化し忘れ去られてしまえば効果は薄れるものである
東池袋事故の報道の後に減った踏み間違い事故は6%程度でしかなく 自動ブレーキの対人事故低減率60%以上にくらべても遥かに小さな値である
厳罰化による抑止効果というのは 罰に対する恐怖心を煽っているだけであって こうした精神論的な行動抑圧というのはJR福知山線脱線事故の原因となったJR西日本による懲罰的「教育」と同じものである
広告代理店の電通における「鬼十則」などというのも 強迫観念を煽るものであり どちらも会社の利益にとってわずかに効果があるとしても 有害な副作用の方が圧倒的に大きいのである
ヒトという種の生物は どうしても感情的な行動にこそ意味があると錯覚しがちな習性があり それによって本当に合理性のある効果的な対策というものを蔑ろにしてしまうのである
実際 生産現場においても 張り紙による注意喚起や罰則よりも ポカヨケ的な構造的改善の方が圧倒的に効果が大きいことは明らかである
ところが 生産現場以外の一般的対処においては合理的工夫よりも精神論的懲罰ばかりが優先されがちであり これは一般人の「意識」の低さ(感情が優先して合理性が後回しになる性質)に由来するものである
工場とかによく大きく書いてあるでしょ「安全第一」って 本当に安全を優先するために必要なのは張り紙とか懲罰ではなくて 構造的改善なんですよ
被害者や遺族だからといって 厳罰化といった精神論的抑圧を優先して良い理由にはならない そんな特権に合理性はないのである
実際に事故や事件の被害者や遺族になってから感情的になってしまいがちなのは致し方ないとも言えるのだが 実際に自分が被害をこうむるまで他人事として何も合理的で有効な対策を誰も採ってこなかった無責任さによって 回避可能だった被害である可能性は充分にある
「被害に遭ったから報復的懲罰だ」という感情的スパイラルを漫然と繰り返していても 本当の意味での事故や事件の再発防止に対する合理的で有効な対策にはならないのである
司法役人達はそれで充分であり 機械手続き的に判決さえ出しておけば合理的な再発防止策になろうがなるまいが どうでも良いのである
刑法裁判というのは 一種の因習に過ぎず「お祈り」と「かおまじない」レベルの話でしかないのである
航空機事故が起きたからといって 安全祈願のお札やお祓いをしたからといって安全性が高まる合理的根拠がないのと同様
刑法に基づいた判決が下っても事故や事件の再発防止に対する合理的対策になるわけではない
多数による気分感情的同調共感共鳴を得られれれば 気分的には良くなるのであろうが それは一種の集団心理が作り出す錯覚であり 合理性があるわけではない
合理的に事故や事件を減らすことを優先しないのであれば 回避可能だった危険性が放置されることになるのであり それを「人間性」や「心」と言うことは出来ないのである
ヒトの多くは 気分を良くしてくれる相手を主観的に好きになり 好きな相手の言っていることを盲目的に信用していれば安心で満足になる習性がある
その場限りに気分的に安心満足することによって 個人は自律的な責任判断を簡単に放棄するようにもなる
だが 統合的 客観的な視点に立脚して「考え」れば それは社会的には無責任な行動なのである
人災が人災たりうるのは そこに「人間」がいないからである
知恵や工夫なくして「人間」ではない
知恵や工夫は論理的な「考え」によって導き出されるものであって 感情的な「思い」の強度程度はむしろ「考え」を阻害する原因にもなるのである
「ヒトという種の生物」は 先天的には「人間」ではない
どんなに金もうけが得意でも 多数大衆から人気があろうとも 学歴や学力偏差値が高かろうとも 「自律的な社会的責任判断選択」ができなければ人間性の論証にはならないのである
養老孟司のような嘘つきであっても大衆やマスコミは「著作が売れた」とか「多数から人気がある」といった「根拠」に基づいて疑うことをせず 「客観的事実などない」と断言し「誰が退官してまで解剖なんていう辛気臭いことをするんですか」などと言い放った養老を 未だに「解剖学者」として扱う始末である
学者として自分が専門でやっていた領域を「辛気臭い」などと形容するというのは言語道断である
本来学者というのは公金を使って研究する領域を自分で選んでいるのであり それを否定するというのは社会に対する背信である
「脳化」などという非科学的オカルト観念に染まった養老を学者扱いしているマスコミや大衆は頭がおかしいことを自覚していないからである
養老のような非科学的オカルト観念に染まった「学者」というのは他にもたくさんおり 「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すればなくなる」などという訳のわからぬことで人気を得たマルクス:ガブリエルを鵜呑みにしたマスコミや大衆の頭の悪さを 全く自覚していないのであろう
「なぜマルクス:ガブリエルの言っていることを鵜呑みにしたのか」を 論理的に原因を理解していない状態だからこそ リチャード:ドーキンスのお伽話を鵜呑みにし マイケル:サンデルやジャレド:ダイアモンドや松沢哲郎や山極寿一の嘘や間違いを誰も指摘出来ない痴呆状態から抜け出せないのである
自分達の頭の悪さを理解せずに オウム真理教信者の洗脳をとやかく言えた義理ではなし ISILの野蛮性は何が原因なのかも語ることは出来ない
そんなことだから「被害者の実名報道を今後の教訓に活かす」などという大嘘を平気で言い出すことになるのである
一体どうやって被害者情報を教訓に活かせるというのか 全くもって意味がわからないのだが バカというのは自分の頭の悪さを自覚していないので一向に治らないのである
それは女子中学生監禁事件の寺内樺風の自覚の欠如と構造的には同じものである
Ende;
被害がなぜ起きるのかを徹底的に原因究明し 再発防止の対策を立てなければ 被害はいくらでも繰り返されてしまうのである
東池袋自動車暴走事故の被害者遺族 松永莉子パパが「加害者が逮捕すらされない」ことに対してどんなに気分的に憤慨しても それ自体には意味がないのも同じことである
それは私が主観的に「腹が立つ」ことにも意味がなく 誰の主観的「感覚」にも それだけでは意味がないのである
「腹が立つ」だけなら常磐自動車道アオリ男の感情と同じであり 感情の強度程度で行動が決定していたのでは合理的な「解決」には至ることはない
ヒト個人の中には様々な感情や感覚があり その様々な主観を統合的に論理検証する客観性に基づいて行動選択をすることによって はじめて人間性として機能するのである
個人的感情という無意識に流されることなく 客観的論理検証性によって 「本当に優先されることとは何か」という統合的目的行動選択こそが 人間性として機能するのである
厳罰化に安易に共鳴してくれるヒトは多いのであろうが 厳罰化自体は事故の再発防止にとってほとんど意味がなく 時間が経てば事故や事件は簡単に風化し忘れ去られてしまえば効果は薄れるものである
東池袋事故の報道の後に減った踏み間違い事故は6%程度でしかなく 自動ブレーキの対人事故低減率60%以上にくらべても遥かに小さな値である
厳罰化による抑止効果というのは 罰に対する恐怖心を煽っているだけであって こうした精神論的な行動抑圧というのはJR福知山線脱線事故の原因となったJR西日本による懲罰的「教育」と同じものである
広告代理店の電通における「鬼十則」などというのも 強迫観念を煽るものであり どちらも会社の利益にとってわずかに効果があるとしても 有害な副作用の方が圧倒的に大きいのである
ヒトという種の生物は どうしても感情的な行動にこそ意味があると錯覚しがちな習性があり それによって本当に合理性のある効果的な対策というものを蔑ろにしてしまうのである
実際 生産現場においても 張り紙による注意喚起や罰則よりも ポカヨケ的な構造的改善の方が圧倒的に効果が大きいことは明らかである
ところが 生産現場以外の一般的対処においては合理的工夫よりも精神論的懲罰ばかりが優先されがちであり これは一般人の「意識」の低さ(感情が優先して合理性が後回しになる性質)に由来するものである
工場とかによく大きく書いてあるでしょ「安全第一」って 本当に安全を優先するために必要なのは張り紙とか懲罰ではなくて 構造的改善なんですよ
被害者や遺族だからといって 厳罰化といった精神論的抑圧を優先して良い理由にはならない そんな特権に合理性はないのである
実際に事故や事件の被害者や遺族になってから感情的になってしまいがちなのは致し方ないとも言えるのだが 実際に自分が被害をこうむるまで他人事として何も合理的で有効な対策を誰も採ってこなかった無責任さによって 回避可能だった被害である可能性は充分にある
「被害に遭ったから報復的懲罰だ」という感情的スパイラルを漫然と繰り返していても 本当の意味での事故や事件の再発防止に対する合理的で有効な対策にはならないのである
司法役人達はそれで充分であり 機械手続き的に判決さえ出しておけば合理的な再発防止策になろうがなるまいが どうでも良いのである
刑法裁判というのは 一種の因習に過ぎず「お祈り」と「かおまじない」レベルの話でしかないのである
航空機事故が起きたからといって 安全祈願のお札やお祓いをしたからといって安全性が高まる合理的根拠がないのと同様
刑法に基づいた判決が下っても事故や事件の再発防止に対する合理的対策になるわけではない
多数による気分感情的同調共感共鳴を得られれれば 気分的には良くなるのであろうが それは一種の集団心理が作り出す錯覚であり 合理性があるわけではない
合理的に事故や事件を減らすことを優先しないのであれば 回避可能だった危険性が放置されることになるのであり それを「人間性」や「心」と言うことは出来ないのである
ヒトの多くは 気分を良くしてくれる相手を主観的に好きになり 好きな相手の言っていることを盲目的に信用していれば安心で満足になる習性がある
その場限りに気分的に安心満足することによって 個人は自律的な責任判断を簡単に放棄するようにもなる
だが 統合的 客観的な視点に立脚して「考え」れば それは社会的には無責任な行動なのである
人災が人災たりうるのは そこに「人間」がいないからである
知恵や工夫なくして「人間」ではない
知恵や工夫は論理的な「考え」によって導き出されるものであって 感情的な「思い」の強度程度はむしろ「考え」を阻害する原因にもなるのである
「ヒトという種の生物」は 先天的には「人間」ではない
どんなに金もうけが得意でも 多数大衆から人気があろうとも 学歴や学力偏差値が高かろうとも 「自律的な社会的責任判断選択」ができなければ人間性の論証にはならないのである
養老孟司のような嘘つきであっても大衆やマスコミは「著作が売れた」とか「多数から人気がある」といった「根拠」に基づいて疑うことをせず 「客観的事実などない」と断言し「誰が退官してまで解剖なんていう辛気臭いことをするんですか」などと言い放った養老を 未だに「解剖学者」として扱う始末である
学者として自分が専門でやっていた領域を「辛気臭い」などと形容するというのは言語道断である
本来学者というのは公金を使って研究する領域を自分で選んでいるのであり それを否定するというのは社会に対する背信である
「脳化」などという非科学的オカルト観念に染まった養老を学者扱いしているマスコミや大衆は頭がおかしいことを自覚していないからである
養老のような非科学的オカルト観念に染まった「学者」というのは他にもたくさんおり 「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すればなくなる」などという訳のわからぬことで人気を得たマルクス:ガブリエルを鵜呑みにしたマスコミや大衆の頭の悪さを 全く自覚していないのであろう
「なぜマルクス:ガブリエルの言っていることを鵜呑みにしたのか」を 論理的に原因を理解していない状態だからこそ リチャード:ドーキンスのお伽話を鵜呑みにし マイケル:サンデルやジャレド:ダイアモンドや松沢哲郎や山極寿一の嘘や間違いを誰も指摘出来ない痴呆状態から抜け出せないのである
自分達の頭の悪さを理解せずに オウム真理教信者の洗脳をとやかく言えた義理ではなし ISILの野蛮性は何が原因なのかも語ることは出来ない
そんなことだから「被害者の実名報道を今後の教訓に活かす」などという大嘘を平気で言い出すことになるのである
一体どうやって被害者情報を教訓に活かせるというのか 全くもって意味がわからないのだが バカというのは自分の頭の悪さを自覚していないので一向に治らないのである
それは女子中学生監禁事件の寺内樺風の自覚の欠如と構造的には同じものである
Ende;