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本能由来の気分感情というものを短絡的に人間としての「心。」であるとしてしまえば、通り魔やテロリストの感情気分もまた人間としての「心。」であるということになってしまう。
ヒトの気分感情は自然の産物である。大脳辺縁系に組み込まれた行動バイアスや習性といったものの全ては、生存の「結果」として遺されたものであって、そこには誰の「意思」も目的も介在していないのである。
自然界における調和というものは、確かに数十億年もの淘汰によって大変洗練されて「美しい」ものであると言うことは可能であろう。しかし、どんなに自然界が現状において調和洗練されているとしても、これは数十億年に渡る淘汰の暫定的結果以上の何物でもなく。論理的な持続可能性や安全性を誰かが保証してくれるわけではないのである。
とある男がいると仮定しよう。
この男の気分感情が現代社会から受ける何らかの精神的ストレスによって「荒れた」場合、本能習性のままに他者に暴力を振るったとする。
この男の行動を、「人間の自然な行動結果である。」と言うのであろうか。
気分感情が思考や行動に直結していることは、チンパンジーでもゴリラでも同じであろう。しかし、ヒトの場合気分感情が思考や行動に直結していれば「人間」とは言えないのである。
ヒトが人間足りうるためには、そこに論理検証性が介在しなければ人間とは言えないのである。
現在の生物学者の多くは、気分感情的な満足安心さえ追求しておけば、あらゆるヒトは人間としての行動や思考をするものであるという、極めて環境依存的な「結果論」ばかりを論じており。これは論理的根拠のある具体的対策には全くならない。
現代の文明社会自体は、ヒトの本能欲望が生み出したものであって。決して科学自体が現在の文明社会を作り出したのではなく、あくまで動物的本能欲望が科学を利用して来たに過ぎないのである。
それゆえ、温室効果ガスの増加による地球環境の破壊が科学的に叫ばれていても、文明社会は効果的な対策すら充分に立てられないのである。
特に金融証券関係や、経営経済学関係においては、ヒトの生物的本能習性を利用して私腹を肥やすことばかりを正義として扱い。個々の個人の主体的意思に基づいた社会持続可能性や安全性といったものを無視し続けて来たのも、現在の生物学による「個体生存絶対主義」に基づいて、経済学における目先の個体の利益追求性の正当化を助長して来たのである。
社会持続可能性や安全性といったものは、決して個体の利益追求によって構築されるような短絡的なものではなく。各々の個人が主体的に社会全体への「意識」の広さを伴って初めて構築されるものであり。自然任せにしておきさえすれば全ては解決するような短絡的で安易なものではない。
ましてや本能由来の気分感情さえ充足しておけば、あらゆるヒト/文科系大衆の全てが必ず物質的欲望を追求しなくなるといった短絡的でバカみたいな話は論外である。
自然界の生物が、必ずしも精神的充足をしている保証など存在せず。草食動物などは天敵に襲われぬように常日頃恐怖の中で暮らしているのであり。肉食動物であっても必ずしも精神的に安堵が常に得られているようなものではない。
現代文明社会におけるヒトにおいても、文明以前における食べ物の枯渇に苦しんでいた名残として、過剰なカロリー摂取などの不健康な食生活に陥るのであり。単純に気分感情さえ満たされておけば全てが健康になることの証明など全くないのである。
科学技術を利用して武器を獲得したヒトが、同一種であるヒト同士での殺し合いを行うことは。むしろ文明以前における過剰な恐怖心や暴力性の暴走であり。そもそも科学技術を「利用」する動機自体は本能由来の欲望に由来するものである。
ヒトという種の生物は、利用可能な科学技術であれば本能欲望のままに腹を満たし、同一種間においても殺戮を繰り返すような野蛮で暴力的な生物に過ぎないのである。
自然界における調和を「美しい」などと形容し、あたかも自然のままに全てを受け入れていさえすればあらゆる「人災」が無くなるなどと思ったら大間違いである。そこにあるのは気分感情的な安心満足だけであって、何ら合理性のある論理的安全性の保証ではない。
気分感情というものは自然の産物であり、ヒトという種における行動習性や思考バイアスを作り出すものである。こうした本能由来の無意識性こそが、個人の主体的「意思」に基づく目的意識を喪失させ、ヒトを気分的安心満足による思考停止に陥れ、組織的集団暴走へと導くのである。
生物学における「社会性」とは、集団組織化さえされているもの全てを指すのであって。そこに人間としての社会持続可能性や安全性を確立する必要性はどこにも存在しないのである。
肉食動物が環境と調和するためには、繁殖力の低下が必須であり、これは肉食動物が主体性自主的に獲得したような意思に基づくものではなく。あくまで繁殖力が高すぎることで環境と調和出来なかった「結果」として繁殖力の抑制された種へと淘汰されただけである。
現在の生物学者達は、あたかも全ての生物が主体的に環境との調和を行って来たかのように言い張るが。実際には偶発的に環境と調和可能な生物種だけに淘汰された結果が現存するだけであって、環境と調和出来なかった種の生物の全てが淘汰されただけなのである。
生物が生存しているのは、決して個体が主体的に目的意識に基づいて生存を求めたわけではなく。先天的本能欲望のままに行動していた結果として淘汰され、結果的に生存していたものを我々が「生物」と分類したに過ぎない。
従って生物というものには個体の主体的目的意識など存在せず、目先の欲望を満たすこと以外に何ら「考え」など働いていないのである。
それゆえ、僅かな環境変化に対応しきれずに、簡単に自然の食物連鎖は崩壊してしまうのである。
これは食物連鎖を形成している種や個体に意識的目的が存在せず、その場限りに本能欲望のままに行動している「結果」以外に何も存在していないためである。
そもそも肉食動物が集団組織的に他の動物を襲撃することが「心の平穏」だなどと言い張ること自体がキチガイじみた論理であり。何ら論理的根拠のない文科系大衆観念に過ぎない。
こんなバカげた話を放置しているから、振り込め詐欺の集団組織化すら誰も主体的に止められないのであって、振り込め詐欺師が金儲けをして満足していることであっても「心の平穏」であるならば、具体的に誰にも危害を加えていない振り込め詐欺なら人畜無害ということになるのである。
もちろん、その「人畜無害」性には社会持続可能性も安全性も考慮には入っておらず。その場限りに本能欲望のままに行動しておけば気分的に安心満足で「心が平穏」だということになるのである。
人間としての「心。」というものは、単なる個人の気分的感情に依らず、あくまで主体的意思に基づき社会全体の持続可能性や安全性の観点から行動選択を行うことによって、結果的に「心。」と形容することが可能になるのであって。決してその場限りの気分的安心満足の追求を指すものではない。
原発事故が発生する以前に、原発の危険性を上司に提言し、それが会社組織に受け入れて貰えないからといって気分感情的に嫌な思いをすることもある。場合によっては左遷されたり解雇されることもあるだろう、それなら「生きるため。」などという論理は全く社会安全性に寄与しないし、何ら気分感情的にも満足も安心も得られない。
ヒトが原発の危険性を放置して来たのは、目先の経済性、目先の欲望本能を満たすためだけに意識を奪われ「虜」になっていたことが原因であり。こうした意識狭窄化というものはヒトの本能習性という「自然性」によって生ずる「結果」なのである。
生物学者達は現代文明社会の全てが意識の産物であると勝手に規定しているが、現代文明社会は本能欲望というヒトの自然な行動バイアスの結果であり、無意識の産物に過ぎない。
本当に意識的に作られた文明社会であるならば、これ程までの問題や「人災」を抱えるわけがないのである。
現在の生物学者達がどんなに強く「思って。」も、具体的対策にならない観念である以上ペテン洗脳の類でしかないのである。こうした「思い込み」に囚われていることは、現実には社会安全性への妨害行為であり、もはや犯罪行為でもある。
現在の生物学や脳科学は通り魔やテロリストの心理構造について全く言及しておらず、その場限りに「自然は美しい。」だの「人間は素晴らしい。」などといった観念をぶちまけることで文科系大衆マスコミを丸め込み、論理的な社会安全性の追求を妨害しているのである。
当人達にその意識の有無は無関係である。むしろ妨害している意識もなく「人類の救済だ。」とでも思っている方がよっぽど問題なのである。
当意識論は気分感情的な「救済」には一切感知しない。気分的に満足できなくても、安心できなくても、そんなことはおいらの知ったことではない。むしろ気分的安心満足によって論理検証的「考え」が停止してしまう頭の悪さを認識して頂くことが主眼である。
Ende;
本能由来の気分感情というものを短絡的に人間としての「心。」であるとしてしまえば、通り魔やテロリストの感情気分もまた人間としての「心。」であるということになってしまう。
ヒトの気分感情は自然の産物である。大脳辺縁系に組み込まれた行動バイアスや習性といったものの全ては、生存の「結果」として遺されたものであって、そこには誰の「意思」も目的も介在していないのである。
自然界における調和というものは、確かに数十億年もの淘汰によって大変洗練されて「美しい」ものであると言うことは可能であろう。しかし、どんなに自然界が現状において調和洗練されているとしても、これは数十億年に渡る淘汰の暫定的結果以上の何物でもなく。論理的な持続可能性や安全性を誰かが保証してくれるわけではないのである。
とある男がいると仮定しよう。
この男の気分感情が現代社会から受ける何らかの精神的ストレスによって「荒れた」場合、本能習性のままに他者に暴力を振るったとする。
この男の行動を、「人間の自然な行動結果である。」と言うのであろうか。
気分感情が思考や行動に直結していることは、チンパンジーでもゴリラでも同じであろう。しかし、ヒトの場合気分感情が思考や行動に直結していれば「人間」とは言えないのである。
ヒトが人間足りうるためには、そこに論理検証性が介在しなければ人間とは言えないのである。
現在の生物学者の多くは、気分感情的な満足安心さえ追求しておけば、あらゆるヒトは人間としての行動や思考をするものであるという、極めて環境依存的な「結果論」ばかりを論じており。これは論理的根拠のある具体的対策には全くならない。
現代の文明社会自体は、ヒトの本能欲望が生み出したものであって。決して科学自体が現在の文明社会を作り出したのではなく、あくまで動物的本能欲望が科学を利用して来たに過ぎないのである。
それゆえ、温室効果ガスの増加による地球環境の破壊が科学的に叫ばれていても、文明社会は効果的な対策すら充分に立てられないのである。
特に金融証券関係や、経営経済学関係においては、ヒトの生物的本能習性を利用して私腹を肥やすことばかりを正義として扱い。個々の個人の主体的意思に基づいた社会持続可能性や安全性といったものを無視し続けて来たのも、現在の生物学による「個体生存絶対主義」に基づいて、経済学における目先の個体の利益追求性の正当化を助長して来たのである。
社会持続可能性や安全性といったものは、決して個体の利益追求によって構築されるような短絡的なものではなく。各々の個人が主体的に社会全体への「意識」の広さを伴って初めて構築されるものであり。自然任せにしておきさえすれば全ては解決するような短絡的で安易なものではない。
ましてや本能由来の気分感情さえ充足しておけば、あらゆるヒト/文科系大衆の全てが必ず物質的欲望を追求しなくなるといった短絡的でバカみたいな話は論外である。
自然界の生物が、必ずしも精神的充足をしている保証など存在せず。草食動物などは天敵に襲われぬように常日頃恐怖の中で暮らしているのであり。肉食動物であっても必ずしも精神的に安堵が常に得られているようなものではない。
現代文明社会におけるヒトにおいても、文明以前における食べ物の枯渇に苦しんでいた名残として、過剰なカロリー摂取などの不健康な食生活に陥るのであり。単純に気分感情さえ満たされておけば全てが健康になることの証明など全くないのである。
科学技術を利用して武器を獲得したヒトが、同一種であるヒト同士での殺し合いを行うことは。むしろ文明以前における過剰な恐怖心や暴力性の暴走であり。そもそも科学技術を「利用」する動機自体は本能由来の欲望に由来するものである。
ヒトという種の生物は、利用可能な科学技術であれば本能欲望のままに腹を満たし、同一種間においても殺戮を繰り返すような野蛮で暴力的な生物に過ぎないのである。
自然界における調和を「美しい」などと形容し、あたかも自然のままに全てを受け入れていさえすればあらゆる「人災」が無くなるなどと思ったら大間違いである。そこにあるのは気分感情的な安心満足だけであって、何ら合理性のある論理的安全性の保証ではない。
気分感情というものは自然の産物であり、ヒトという種における行動習性や思考バイアスを作り出すものである。こうした本能由来の無意識性こそが、個人の主体的「意思」に基づく目的意識を喪失させ、ヒトを気分的安心満足による思考停止に陥れ、組織的集団暴走へと導くのである。
生物学における「社会性」とは、集団組織化さえされているもの全てを指すのであって。そこに人間としての社会持続可能性や安全性を確立する必要性はどこにも存在しないのである。
肉食動物が環境と調和するためには、繁殖力の低下が必須であり、これは肉食動物が主体性自主的に獲得したような意思に基づくものではなく。あくまで繁殖力が高すぎることで環境と調和出来なかった「結果」として繁殖力の抑制された種へと淘汰されただけである。
現在の生物学者達は、あたかも全ての生物が主体的に環境との調和を行って来たかのように言い張るが。実際には偶発的に環境と調和可能な生物種だけに淘汰された結果が現存するだけであって、環境と調和出来なかった種の生物の全てが淘汰されただけなのである。
生物が生存しているのは、決して個体が主体的に目的意識に基づいて生存を求めたわけではなく。先天的本能欲望のままに行動していた結果として淘汰され、結果的に生存していたものを我々が「生物」と分類したに過ぎない。
従って生物というものには個体の主体的目的意識など存在せず、目先の欲望を満たすこと以外に何ら「考え」など働いていないのである。
それゆえ、僅かな環境変化に対応しきれずに、簡単に自然の食物連鎖は崩壊してしまうのである。
これは食物連鎖を形成している種や個体に意識的目的が存在せず、その場限りに本能欲望のままに行動している「結果」以外に何も存在していないためである。
そもそも肉食動物が集団組織的に他の動物を襲撃することが「心の平穏」だなどと言い張ること自体がキチガイじみた論理であり。何ら論理的根拠のない文科系大衆観念に過ぎない。
こんなバカげた話を放置しているから、振り込め詐欺の集団組織化すら誰も主体的に止められないのであって、振り込め詐欺師が金儲けをして満足していることであっても「心の平穏」であるならば、具体的に誰にも危害を加えていない振り込め詐欺なら人畜無害ということになるのである。
もちろん、その「人畜無害」性には社会持続可能性も安全性も考慮には入っておらず。その場限りに本能欲望のままに行動しておけば気分的に安心満足で「心が平穏」だということになるのである。
人間としての「心。」というものは、単なる個人の気分的感情に依らず、あくまで主体的意思に基づき社会全体の持続可能性や安全性の観点から行動選択を行うことによって、結果的に「心。」と形容することが可能になるのであって。決してその場限りの気分的安心満足の追求を指すものではない。
原発事故が発生する以前に、原発の危険性を上司に提言し、それが会社組織に受け入れて貰えないからといって気分感情的に嫌な思いをすることもある。場合によっては左遷されたり解雇されることもあるだろう、それなら「生きるため。」などという論理は全く社会安全性に寄与しないし、何ら気分感情的にも満足も安心も得られない。
ヒトが原発の危険性を放置して来たのは、目先の経済性、目先の欲望本能を満たすためだけに意識を奪われ「虜」になっていたことが原因であり。こうした意識狭窄化というものはヒトの本能習性という「自然性」によって生ずる「結果」なのである。
生物学者達は現代文明社会の全てが意識の産物であると勝手に規定しているが、現代文明社会は本能欲望というヒトの自然な行動バイアスの結果であり、無意識の産物に過ぎない。
本当に意識的に作られた文明社会であるならば、これ程までの問題や「人災」を抱えるわけがないのである。
現在の生物学者達がどんなに強く「思って。」も、具体的対策にならない観念である以上ペテン洗脳の類でしかないのである。こうした「思い込み」に囚われていることは、現実には社会安全性への妨害行為であり、もはや犯罪行為でもある。
現在の生物学や脳科学は通り魔やテロリストの心理構造について全く言及しておらず、その場限りに「自然は美しい。」だの「人間は素晴らしい。」などといった観念をぶちまけることで文科系大衆マスコミを丸め込み、論理的な社会安全性の追求を妨害しているのである。
当人達にその意識の有無は無関係である。むしろ妨害している意識もなく「人類の救済だ。」とでも思っている方がよっぽど問題なのである。
当意識論は気分感情的な「救済」には一切感知しない。気分的に満足できなくても、安心できなくても、そんなことはおいらの知ったことではない。むしろ気分的安心満足によって論理検証的「考え」が停止してしまう頭の悪さを認識して頂くことが主眼である。
Ende;