○錯覚。
ヒステリーとは心理的拘束のことを指すものであって、心理的拘束というのは感情気分による論理的根拠のない思考バイアスであり、思考を拘束するものである。
思考が停止している相手に対し、何度も同じような説明を繰り返すのはヒステリーではなく。むしろ論理的に理解出来ない相手の思考停止/拘束の結果である。
相手がバカなら、何度も説明しなければならないのは当たり前の話であって、「理解しないから諦める。」というのも気分の問題にすり替えているに過ぎない。
文科系観念者というのは、少数意見を繰り返すことをヒステリーだと錯覚し、多数派意見に同調することはヒステリーではないと安心したがる習性があり。こうした気分的安心満足こそが観念的ヒステリーと論理検証的執着を区別出来ない状態へと陥らせるのである。
多数派同調はヒステリーである。多数派に同調することは本能気分的に安心であり、同調しないことに対して異常なまでの拒絶反応を示すのが「ヒト」という種の生物に見られる社会性という本能習性である。
現在の生物学のパラダイム上では、本能習性の全てには意味目的が予め存在し、全ては意味目的のためにあらゆる生物の機能や習性が作り出されたことになっているが。これはとんでもないペテンである。
生物の機能や習性が生存にとって有利な場合が多いのは、生存にとって有利な機能や習性を持った種への淘汰の結果であって、種自体が自ら生存などの目的行動選択をした結果ではない。
生存は生物の目的ではなく、結果的に生存していたものを生物と分類しているに過ぎないのである。
分類はあくまで思考の道具や手段であって、分類自体を目的にすり替えてしまえば科学ではなくなる。現在の生物学や文科系観念というのは、こうした分類自体を目的にすりかえてしまう身勝手な観念を論理的証明であるかの如く取り扱う習性があり。ゆえに「死んでしまう。」ことが絶対的不正義であるかのように言い張るのである。
そもそも本能習性の全てが常に生存などの目的に適し続けることの論理的証明など存在せず、あくまで偶発的な結果として生存に適した傾向性を持っているに過ぎない。習性とは傾向性を陳列しているだけであって、絶対に習性に抗うことが不可能であることの論理的証明が存在するわけではない。
サルやイヌであれば予め組み込まれた行動習性に従って行動することしか出来ないかも知れないが、ヒトにおいては自らの行動習性という無意識が作り出す機械条件反射的行動を認識し、危険性を回避することも可能である。
特に認知機能に異常でもなければ。
だが、実際には多数派の認知機能の異常に対して、気分本能的安心満足によって異常性を認識認知することを簡単に放棄してしまう習性があり、こうした多数派同調性というのは、個人が主体的に自律判断をしないという本質的意識の欠落こそが集団組織的暴走を作り出すのである。
「自分だけは大丈夫。」だと、文科系観念者の多くは思い込み、「そう思わなきゃ、やってられない。」などと具体的に何を「やってられない」のかすら論じることもせずに、結局は気分的嫌悪感だけで自らの頭の悪さを認識したがらないことを正当化しようとするための言い逃れ/取り繕いを繰り返しているだけなのである。
「やってられない。」などというのは気分の問題である。原発技術者が上司に原発の危険性をいくら論じても理解してもらえないからといって、「やってられない。」で片付けられる問題ではない。
ヒトの多くは気分感情が行動や思考に直結しているのであろうが、こうした短絡性こそが論理検証性を失わせ、本能習性のままに組織的暴走や洗脳状態を生み出してしまう最大の原因である。
自分達の異常性、自分達の頭の悪さを認識せずに、他人の頭の悪さを指摘する権利はない。義務を放棄しておいて権利だけ主張するのは身勝手極まりない。
ドストエフスキーを読んでどんなに感動しようとも、マイケル:サンデルの講義を聞いてどんなに頭が良くなったような錯覚に陥っても、具体性のある問題解決策には到達することは構造原理的にない。
これらは全て気分的安心満足を得ているだけであって、主体性のある自律的な論理検証という「考え」を阻害することはあっても、促すことはないからである。
カラマーゾフだのサンデルがどんなに多数派から「人気」があっても、その「人気」の源が文科系観念である以上、そこから具体性のある論理的社会安全性や持続可能性が導き出せないのは当たり前の話である。
そもそも「人気」というもの自体が多数派迎合心理に由来するものであって、「人気」こそが個人の論理検証性を阻害するのである。
ヒトラーの「人気」がもたらす多数派迎合性こそが、集団組織的暴走を生み出したことを忘れるべきではない。かつてのドイツ民族だけが特別に異常だったのではなく、ヒトという種そのものに集団組織的暴走性が存在することを認識しなくては、あらゆる「人災」への具体的再発防止対策には全くならないのである。
司法制度は被害者の報復感情を満たすだけのシステムであって、これが具体的に犯罪という「人災」への再発防止対策を阻害していることに対して、ヒトの多くは認識しておらず、漫然と司法システムを放置している。
自律のない者にとって、懲罰報復だけしておけば満足であり、刑罰を用いた抑圧だけが社会秩序をもたらすものであると錯覚するのであろう。ゆえに司法システムの根源的問題点は放置されるのである。
法律による統治というのは万能ではない。機械的手続きだけで全てが解決するのであれば、どうして様々な社会問題や「人災」が減らないのであろうか。それはそもそも法律統治という機械的手続き自体がヒトに無意識性を促し、漫然と法律規範に従わせておきさえすれば安心満足であるがゆえに、具体的な対処対応能力としての論理検証性を喪失するからである。
感情や気分は、それだけでは人間としての「心」にはならない。あくまで論理検証的対策を具体的に構築してこそ、人間であり、論理検証性なくして人間とは言えないのである。
ヒトが引き起こす「人災」に対して具体性のある再発防止対策をせず、ただ漫然と気分感情的安心満足ばかりを追求しておいて、「心」もすったくれもあったものではない。
「気分が荒む。」だのと称して、自分の頭の悪さを認識しないというのは、単なる身勝手な社会的「甘え」に過ぎず、無責任であり、人間としての社会性の欠如でもある。
ヒトという種の生物である以上、自己自身の頭の悪さを認識するのは人間としての責任義務であり、これを気分感情の問題にすりかえ無視放棄して良いことの根拠には全くならない。
どうしても動物的本能習性が促す気分感情のままに生きていたいと言うのであれば、ボルネオの山中で生活すれば良いのである。論理検証性のない奴にとっては文明社会には不必要であるからだ。
Ende;
ヒステリーとは心理的拘束のことを指すものであって、心理的拘束というのは感情気分による論理的根拠のない思考バイアスであり、思考を拘束するものである。
思考が停止している相手に対し、何度も同じような説明を繰り返すのはヒステリーではなく。むしろ論理的に理解出来ない相手の思考停止/拘束の結果である。
相手がバカなら、何度も説明しなければならないのは当たり前の話であって、「理解しないから諦める。」というのも気分の問題にすり替えているに過ぎない。
文科系観念者というのは、少数意見を繰り返すことをヒステリーだと錯覚し、多数派意見に同調することはヒステリーではないと安心したがる習性があり。こうした気分的安心満足こそが観念的ヒステリーと論理検証的執着を区別出来ない状態へと陥らせるのである。
多数派同調はヒステリーである。多数派に同調することは本能気分的に安心であり、同調しないことに対して異常なまでの拒絶反応を示すのが「ヒト」という種の生物に見られる社会性という本能習性である。
現在の生物学のパラダイム上では、本能習性の全てには意味目的が予め存在し、全ては意味目的のためにあらゆる生物の機能や習性が作り出されたことになっているが。これはとんでもないペテンである。
生物の機能や習性が生存にとって有利な場合が多いのは、生存にとって有利な機能や習性を持った種への淘汰の結果であって、種自体が自ら生存などの目的行動選択をした結果ではない。
生存は生物の目的ではなく、結果的に生存していたものを生物と分類しているに過ぎないのである。
分類はあくまで思考の道具や手段であって、分類自体を目的にすり替えてしまえば科学ではなくなる。現在の生物学や文科系観念というのは、こうした分類自体を目的にすりかえてしまう身勝手な観念を論理的証明であるかの如く取り扱う習性があり。ゆえに「死んでしまう。」ことが絶対的不正義であるかのように言い張るのである。
そもそも本能習性の全てが常に生存などの目的に適し続けることの論理的証明など存在せず、あくまで偶発的な結果として生存に適した傾向性を持っているに過ぎない。習性とは傾向性を陳列しているだけであって、絶対に習性に抗うことが不可能であることの論理的証明が存在するわけではない。
サルやイヌであれば予め組み込まれた行動習性に従って行動することしか出来ないかも知れないが、ヒトにおいては自らの行動習性という無意識が作り出す機械条件反射的行動を認識し、危険性を回避することも可能である。
特に認知機能に異常でもなければ。
だが、実際には多数派の認知機能の異常に対して、気分本能的安心満足によって異常性を認識認知することを簡単に放棄してしまう習性があり、こうした多数派同調性というのは、個人が主体的に自律判断をしないという本質的意識の欠落こそが集団組織的暴走を作り出すのである。
「自分だけは大丈夫。」だと、文科系観念者の多くは思い込み、「そう思わなきゃ、やってられない。」などと具体的に何を「やってられない」のかすら論じることもせずに、結局は気分的嫌悪感だけで自らの頭の悪さを認識したがらないことを正当化しようとするための言い逃れ/取り繕いを繰り返しているだけなのである。
「やってられない。」などというのは気分の問題である。原発技術者が上司に原発の危険性をいくら論じても理解してもらえないからといって、「やってられない。」で片付けられる問題ではない。
ヒトの多くは気分感情が行動や思考に直結しているのであろうが、こうした短絡性こそが論理検証性を失わせ、本能習性のままに組織的暴走や洗脳状態を生み出してしまう最大の原因である。
自分達の異常性、自分達の頭の悪さを認識せずに、他人の頭の悪さを指摘する権利はない。義務を放棄しておいて権利だけ主張するのは身勝手極まりない。
ドストエフスキーを読んでどんなに感動しようとも、マイケル:サンデルの講義を聞いてどんなに頭が良くなったような錯覚に陥っても、具体性のある問題解決策には到達することは構造原理的にない。
これらは全て気分的安心満足を得ているだけであって、主体性のある自律的な論理検証という「考え」を阻害することはあっても、促すことはないからである。
カラマーゾフだのサンデルがどんなに多数派から「人気」があっても、その「人気」の源が文科系観念である以上、そこから具体性のある論理的社会安全性や持続可能性が導き出せないのは当たり前の話である。
そもそも「人気」というもの自体が多数派迎合心理に由来するものであって、「人気」こそが個人の論理検証性を阻害するのである。
ヒトラーの「人気」がもたらす多数派迎合性こそが、集団組織的暴走を生み出したことを忘れるべきではない。かつてのドイツ民族だけが特別に異常だったのではなく、ヒトという種そのものに集団組織的暴走性が存在することを認識しなくては、あらゆる「人災」への具体的再発防止対策には全くならないのである。
司法制度は被害者の報復感情を満たすだけのシステムであって、これが具体的に犯罪という「人災」への再発防止対策を阻害していることに対して、ヒトの多くは認識しておらず、漫然と司法システムを放置している。
自律のない者にとって、懲罰報復だけしておけば満足であり、刑罰を用いた抑圧だけが社会秩序をもたらすものであると錯覚するのであろう。ゆえに司法システムの根源的問題点は放置されるのである。
法律による統治というのは万能ではない。機械的手続きだけで全てが解決するのであれば、どうして様々な社会問題や「人災」が減らないのであろうか。それはそもそも法律統治という機械的手続き自体がヒトに無意識性を促し、漫然と法律規範に従わせておきさえすれば安心満足であるがゆえに、具体的な対処対応能力としての論理検証性を喪失するからである。
感情や気分は、それだけでは人間としての「心」にはならない。あくまで論理検証的対策を具体的に構築してこそ、人間であり、論理検証性なくして人間とは言えないのである。
ヒトが引き起こす「人災」に対して具体性のある再発防止対策をせず、ただ漫然と気分感情的安心満足ばかりを追求しておいて、「心」もすったくれもあったものではない。
「気分が荒む。」だのと称して、自分の頭の悪さを認識しないというのは、単なる身勝手な社会的「甘え」に過ぎず、無責任であり、人間としての社会性の欠如でもある。
ヒトという種の生物である以上、自己自身の頭の悪さを認識するのは人間としての責任義務であり、これを気分感情の問題にすりかえ無視放棄して良いことの根拠には全くならない。
どうしても動物的本能習性が促す気分感情のままに生きていたいと言うのであれば、ボルネオの山中で生活すれば良いのである。論理検証性のない奴にとっては文明社会には不必要であるからだ。
Ende;