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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○分別。

2018年10月02日 11時56分01秒 | 意識論関連
ストーカーとかやっている奴ってのは 自分の行動を自発的には選択出来ないのよね

自分自身で「これをやっていると楽しい」っていう行動を主体的に選択することができないので

環境から与えられる快楽の中から 快楽の強度程度だけで行動が決定してしまう

だからストーカー行為に簡単に中毒になっちゃう

もう自分では止めることも出来ない

ストーカーってのは「相手の気持ちがわからない」んだけども そもそも「自分の気持ち」すらも本当はわかってないので必然的に相手の気持ちもわからない

自分が本当には何が好きなのか 純粋に何をしている時が一番楽しいのかがわからないし 自律的な選択も出来ない

何かに熱中して夢中になって楽しむ純粋行為がわからないので 環境から与えられる快楽の中から快楽の強度程度だけで簡単に中毒症状を引き起こす

理性が働けば 環境の中から主体的に「選択」することが可能なんだけど その理性が働かないから簡単に持続可能性がない行為に中毒症状に陥る

ヒトの脳っていうのは そもそも何かに中毒になる性質があるものなので 純粋に自己完結している行為を認識して持っていれば 環境に左右されずに熱中出来るようになる

千住真理子がバイオリンに異常なまでに熱中しても 誰にも迷惑かからないでしょ まあ若干かかっているみたいだけど

尾畠春夫さんがボランティアに熱中しても 有り難いと思う人はいても迷惑にはならない ご家族は大変らしいのだけど

多少の迷惑ってのは誰でもあるものなので 重要なのは熱中出来ることがあれば それを続けられる社会の安定性や安全性もセットで求められるってこと

自分の中毒性を自己完結出来ていれば 他人に迷惑をかけずに むしろ他人の中毒(楽しみ)にも配慮出来るようにもなる

自分の主観的な好き嫌いを明確に認識出来ていれば 必然的に客観性も働くようになる

それが出来ていないと他人の迷惑に配慮することも出来なくなる

これはストーカーに限らずあらゆる犯罪者やクソDQNヘイトスピーチに共通する病理

「自分が不幸なのは誰か他人に原因があるはずだ」という観念が犯罪者には共通して見られる

仏教ではこれを「外道」と言う

釈迦って人は極論ばっかり説くので 「そんなことしたら死んじゃうよ」って話が多いため 「仏様=お亡くなりになったお方」に例えられることが多い

大衆観念的には「死んだら終わり」だと言うんだけど それを根拠に「生きるためなら何でも許される」とでも解釈するのはバカの発想にしか辿りつかない

「死んだら終わり」って言ったって 死なない奴なんかいないよ ヒトの死亡率は100%だからね

だから生物学的な生存自体は人間としての尊厳とは無関係で 生存自体は自然環境から与えられた「結果」でしかない

その「結果」に過ぎない生存というもの 「どう生きるのか」というのは「どう死ぬか、何のために命をかけるのか」という意味でもあるので そこで初めて「目的」行動選択というものが介在するようになる

結果的にわいてくる欲望のままに行動していて「自由」なんかないのよ

欲望ってのは先天的に組み込まれた行動バイアスの結果でしかないので そこに主体的選択が介在しなきゃ「自由」もへったくれもない

先天的に生じる様々な欲望というのは 社会的に利己的なものもあれば そうでないものもある

「女の子のパンツが見たい」という欲望を美術的動機に昇華させられればダイスケ・リチャードみたいに素敵なイラストを制作することに没頭出来る

たとえ背徳的で猟奇的な行動に魅力を感じても 江戸川乱歩みたいに小説なら迷惑(実害)はかからない

美術芸術というのは主観だから 好き嫌いがあって当然で 人気があっても個人的には苦手なものがあっても当然で あって良いものでもある

だけど哲学ってのは本来真理を追求するための学問なので 主観的好き嫌いは持ち込んではいけない

ところが「哲学」と世間では呼ばれている書物の大部分は 読んだ奴が主観的に満足したことを短絡的に真理か何かだと勝手に錯覚して思考停止に陥っているだけであって 本来の哲学としての社会的役割を逸脱したオカルトにしかなっていない

哲学というのは科学的探求の基礎なので 徹頭徹尾客観的論理性が必要な領域

その区別 分別が出来ていないから 科学にオカルトが混入しちゃう

優生学への論理反証も誰も出来ず ドーキンスのお伽話で満足して思考停止しちゃう

自分の主観的「感じ」が絶対的で完全なものか何かと錯覚しているから こうしたバカげたスパイラルに簡単に陥ってしまう

主観的な「感じ」とか「思い」というものが 意識の本質だと思われているのがそもそもの大間違いの素

客観的論理性に基づいた「考え」こそが人間性としての意識の本質であって 主観的「感覚」との明確な区別によってこそ論理的「考え」が成立する

例えばフェミ系クラスタの人が主観的に「気持ち悪い」ことを根拠にフェミ系クラスタ内部でそれを共有して満足したところで問題解決には一切ならない

もっと大局的な視点から分析して徹底した原因究明をしないと再発防止という問題解決には辿りつかないのよ

「満足」とか「安心」といった主観的感覚というものこそが 客観的論理性を持った「考え」を阻害してしまう要因

だからマイケル:サンデルの講義を聴いて「素晴らしい」と満足して洗脳される

哲学っていうのは科学的思考だから 文芸的な多数大衆の人気取りとは関係がない

「科学は多数決ではない。」のと同時に「哲学は人気取りではない。」のよ



Ende;

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