○短絡性。
テロだの通り魔だのに対して、やれ軍備増強だの厳罰化だの言い出すのは根源的対策にならず、行き当たり場当たりの気分的安心満足の追求にしかなっていない。
厳罰化が通り魔への具体性対策にならないのと同様、軍備増強も具体性テロ対策にはならない。
テロだの通り魔といった、「自己主張のために他人に危害を加える。」というヒトの脳の論理崩壊のメカニズムを解明しないことには、具体性のある論理的対策には構造原理的に到達することは出来ないのである。
軍備増強とか厳罰化などの威力抑圧というのは、テロリストや通り魔が行う暴力論理と同根である。威力を用いて相手に恐怖を与え、自分達にとって都合の良いように制御したり統率しようとする文科系大衆観念こそが、テロや通り魔の行動観念の源となっているのであって。国家同士が軍備増強競争をするから相互に恐怖心を抱くことに陥り、相互不信を招くことにもなるのである。
国威発揚などというのは大衆迎合に過ぎず、何ら国家としての主体性がないことの現れでもある。
ヒトの脳が持つ論理崩壊性についての認識がほとんどない現状世界においては、軍備や罰などの気分的抑圧統率というのも暫定的には必要性があろう。しかし、ただ漫然と武力権力的抑圧だけで全てを解決しようとするのは短絡的であまりにバカ丸出しである。枝番を揃えることにばかり執着し、根本的問題点を放置しているから具体的で効果的な対策が全く進まないのである。
原発事故において一人の逮捕者がいないのも、あくまで根源的原因究明による再発防止対策を優先するという合理的具体策を立てるための危険工学的見地に基づいたものであり。こうした論理的対策というものはテロや通り魔においても同様に行われなければ実効性のある具体的再発防止策にはならない。
実際のテロや通り魔の現場に対し、テロリストや通り魔本人にいちいち認知行動療法的「治療」を行うのが無駄なのはわかっている。問題なのはテロだの通り魔といった論理崩壊に陥いらないような事前的予防対策が一切なされることがないまま、実際に暴力が生じてから権力による暴力で対応するという泥縄的対応ばかりに終始してしまう文科系大衆観念的論理崩壊こそが、根源的対策を喪失させていることを認識すべきである。
現在の脳科学界というのは、こうした「ヒトという種の生物が持つ危険性。」については、文科系大衆マスコミのウケの悪さから言及することを忌避しており。極めて大衆迎合的で無責任なのである。
その場限りのウケ狙いや人気取りのために、「これが脳に良い。」などという嘘で大衆のご機嫌取りにいそしむ現在の脳科学者達からは、論理的で具体性のある対策など構造原理的に出てくる訳がない。そもそも脳トレ類で満足している大衆の頭の悪さこそが、現在の脳科学界の無責任さを助長しているのである。
文科系大衆観念というものは、ヒトの本能由来の気分的安心によって作り出されるものであり。特定の威力を持った権威体制への依存による気分的安心感こそが、ヒトを封建的な統率協調行動を生み出すのであり。こうした本能由来の社会形成習性に依存したがる先天的思考バイアスこそが、論理検証性をヒトから奪うのである。
「男は本能的に浮気をするように出来ている。」と言うことは出来るであろう。より多数の女性に種付けをした個体の遺伝情報が遺される確率が高くなった「結果」として、男は浮気をしたがる傾向習性を論ずることは可能であるが。そうした先天的本能習性に無意識的に流される以外に、主体的に自己の行動を制御する意思が存在しないなどというバカげた話は論外である。
それと同じで、本能的にバカに陥る習性、思考バイアスを現在の生物学的に「説明」しても。それが「ヒトとはバカな本能習性に抗うことが原理的に不可能である。」ことの論理的証明にはならない。
威力武力を用いて統率的封建社会を形成する習性がヒトにはあり、習性である以上その行動への気分的安心感があるのも必然的結果である。サルであれば本能習性に抗うことが出来なくても「仕方ない」とか「選択の余地はない。」と論じても致し方ないが、ヒトの場合にまでこれを拡大解釈するのは単なるバカに過ぎず、語るに足らない。
「個人が自律的に社会的責任判断を行う。」こと。これが危険工学における「肝」であり、最も根源的なあらゆる「人災」への合理的対策なのである。それは手間のかかる面倒臭い話ではあるが、面倒臭いからといってやらなくて良いことの根拠には全くならない。
ましてや「本能的/生理的に気分が悪い。」だの、「大衆にウケが悪い。」などという「理由。」で無視して良い根拠には全くならない。
茂木健一郎にせよ、川島隆太にせよ、脳トレの類による脳血流増加を短絡的に「頭が良くなる。」などという「嘘」を否定も訂正もしていないことを、大衆もマスコミも認識すべきである。現在の脳科学者というのは、現在の生物学における根源的な科学的検証方法の間違いすら指摘出来ないポンコツであって、こんな奴らを脳科学の権威として取り扱っている限り、永遠に根源的な「人災」への再発防止対策には構造原理的にならないのである。
人工的権威や威力的抑圧による封建的統率への依存性こそが、学校での体罰を容認することにもなり。またこうした暴力性こそが、生徒同士でのイジメや差別排除をなくす自律性をも奪うことになるのである。
「絆」だの「信頼」だのと言うのは簡単であるが、そこに個人の自律的責任能力がないことには話にならない。
大衆の多くは世間的に成功しさえしていれば「成功者」として崇め奉り、あたかも人間の価値そのものであるかのように取り扱いたがるが。嘘ペテンで大衆世間を丸め込んでいるだけの「成功者」こそが、社会を崩壊へと導くのだということを認識しなくてはならない。
ドストエフスキーの人気というのは、悪人が改心することによるゲイン効果(錯覚)を用いた人気取りであり、芸術という気分的な「気晴らし」以上の意味があるわけではない。
どんなにダラダラと悪人が改心するまでの過程を繁雑に描写しても、そもそも悪人がなぜ悪人なのかという根源的原因究明には全くならず、単に大衆の気分にとって都合のよいお伽話を描いているだけに過ぎず。具体的に犯罪者の更正につながるような論理的話ではないのである。
小説の中の登場人物が改心して更正したお伽話で、どんなに気分的に満足安心しても。具体的に現実の無責任な自律判断のない者に対する対策には全くならない。
どんなに気分的に感動しても、それは気分的である以上の意味などなく。理論的で具体性のある対策には全くなっていないことを、現在の文科系哲学者達は「理解」しておらず、ただ漫然と気分的満足だの感動だの勇気といった観念の世界に浸ることで、あたかも問題解決策になるような「気分」に勝手に陥っているに過ぎない。
それを平たく形容すれば「バカ」の一言に集約されるのである。
どんなに強く「思った。」としても、論理的「考え」が伴わなければ「思い込み(バカ)」以上の何でもないのである。
Ende;