大脳辺縁系を損傷した人の場合 赤ん坊の屍体を見ても食事を摂るのに支障を来さないかも知れないが
それが短絡的に人間性の反証には全くならない
大脳辺縁系を損傷した人は利己的行動を採ることも 暴力で物事を解決することもなく 決して人間としての社会性が欠けているわけではない
「赤ん坊の屍体を見ても食事を摂るのに支障を来さない」という姿を見て これに人間性を「感じられない」のは見ている方の主観的感覚や「印象」に過ぎず これだけで「人間性の反証」には全くならないのである
凶悪犯罪者であっても 「赤ん坊の屍体を見たら食事の味がわからなくなる」ことはあるかも知れないが だからといってそれが短絡的に凶悪犯罪者の人間性の論証にはならないことからも 「赤ん坊の屍体を見たら食事の味がわからなくなる」かどうかだけでは人間性や倫理の論証には全くならない
「赤ん坊の屍体を見たら食事の味がわからなくなる」性質があるからといって これを短絡的に「先天的人間としての社会性だ」と主張するバカも後を絶たないが 先天的な社会形成習性というものは統率協調的に差別排除や集団的暴力の要因にもなるのであって 単なる情動の一面だけを採り上げて「人間性だ」と言い張るのは論理の飛躍も甚だしく あまりにもバカげている
フィニアス:ゲイジの事故後の写真から受ける「印象」だとか 「社会の中で日常生活を送っていた」などという話だけではゲイジの人間性の論証にもならない
なぜなら 東京電力福島第一原発の安全担当者であっても「社会の中で日常生活を送っていた」のであって それだけでは人間性や倫理の論証には全くならない
どんなに凶悪な犯罪者であろうとも 逮捕されなければ「社会の中で日常生活を送っていた」のであって 「社会の中で日常生活を送っていた」だけでは何ら人間性や倫理の論証には全くならないのである
連続殺人犯の多くというのは 「社会の中で日常生活を送る」ことができるからこそ 何度も殺人を繰り返しても捕まらずにいられるのである
フィニアス:ゲイジについては それほど詳細な知見が残されているわけではないので 実際のところ「人間性に問題があったのかどうか」については本当のところ「わからない」のであって これを論証に使うことは避けるべきであろう
そもそも大脳辺縁系を損傷した人の行動や 前頭葉を損傷した人から受ける主観的「印象」だけでは イマヌエル:カントの「純粋理性批判」が正しいことの論証には全くなっておらず バカ「哲学者」共による既得権保守のためのはぐらかしやごまかしにしかなっていないのである
凶悪犯罪者の大脳辺縁系は損傷しておらず むしろ暴力を伴う虐待によって大脳新皮質の萎縮が見られる場合の方が多いことからも 「理性は悪だ」という論理は何一つ成立しないのである
「利己的金儲け」という行動は 「利己的」であるという点において欲望が主体であり 理性が主体ではない
別に大脳辺縁系を損傷したからといってガムシャラに利己的利益追求をするようなことはしないし
利己的金儲けに邁進するのは むしろ理性を欠いた欲望まみれのヒステリックな動物的行動であって 何ら「純粋理性」でも何でもないのである
こうした「哲学者」共による論理的根拠を欠いた その場限りの取り繕いによって バカなマスコミや大衆やバカ学生共をはぐらかしたところで カントの「純粋理性批判」の内容の正当性は全く立証できていないのである
そもそも「絶対に知覚できない」叡智界は立証不能であり 「なぜ絶対に知覚できないのか」についての論理的説明も全くされていないのであって こんな話が「哲学」として成立するわけがないのである
現状の「哲学者」共は 誰一人としてイマヌエル:カントの主張を疑うことなく 「近代哲学の最高峰」などというバカげた評価を鵜呑みにしていた頭の悪さを隠蔽するために 大衆やマスコミの頭の悪さを利用してフザケたはぐらかしで既得権や体制維持をしているに過ぎない
プラトンもニーチェもカントも 論理客観的な論証としては成立していないが故に ナチスにも都合よく解釈可能なのであって こんな話を「哲学」として取り扱っていること自体「A級戦犯」に匹敵する犯罪的行為である
バカなマスコミや大衆は 断片的にしか物事を検証することができず 統合的な観点からは何が本当に正しいのかは判別できないため 既存の権威の言っていることを鵜呑みにすること以外が何もできない「デクノボウ」から脱することができないのである
同じ大学の職員として 哲学科や生物学科の組織腐敗を放置することは 生徒に対する詐欺的行為に加担しているのも同じことであり 赦されることではない
工学科や物理学科や天文学科の職員であっても 専門外であろうと組織腐敗を放置しておいて良い理由には全くならない
日大アメフト部の組織腐敗を 危機管理学部が放置していたのではギャグにもならないのである
Ende;
それが短絡的に人間性の反証には全くならない
大脳辺縁系を損傷した人は利己的行動を採ることも 暴力で物事を解決することもなく 決して人間としての社会性が欠けているわけではない
「赤ん坊の屍体を見ても食事を摂るのに支障を来さない」という姿を見て これに人間性を「感じられない」のは見ている方の主観的感覚や「印象」に過ぎず これだけで「人間性の反証」には全くならないのである
凶悪犯罪者であっても 「赤ん坊の屍体を見たら食事の味がわからなくなる」ことはあるかも知れないが だからといってそれが短絡的に凶悪犯罪者の人間性の論証にはならないことからも 「赤ん坊の屍体を見たら食事の味がわからなくなる」かどうかだけでは人間性や倫理の論証には全くならない
「赤ん坊の屍体を見たら食事の味がわからなくなる」性質があるからといって これを短絡的に「先天的人間としての社会性だ」と主張するバカも後を絶たないが 先天的な社会形成習性というものは統率協調的に差別排除や集団的暴力の要因にもなるのであって 単なる情動の一面だけを採り上げて「人間性だ」と言い張るのは論理の飛躍も甚だしく あまりにもバカげている
フィニアス:ゲイジの事故後の写真から受ける「印象」だとか 「社会の中で日常生活を送っていた」などという話だけではゲイジの人間性の論証にもならない
なぜなら 東京電力福島第一原発の安全担当者であっても「社会の中で日常生活を送っていた」のであって それだけでは人間性や倫理の論証には全くならない
どんなに凶悪な犯罪者であろうとも 逮捕されなければ「社会の中で日常生活を送っていた」のであって 「社会の中で日常生活を送っていた」だけでは何ら人間性や倫理の論証には全くならないのである
連続殺人犯の多くというのは 「社会の中で日常生活を送る」ことができるからこそ 何度も殺人を繰り返しても捕まらずにいられるのである
フィニアス:ゲイジについては それほど詳細な知見が残されているわけではないので 実際のところ「人間性に問題があったのかどうか」については本当のところ「わからない」のであって これを論証に使うことは避けるべきであろう
そもそも大脳辺縁系を損傷した人の行動や 前頭葉を損傷した人から受ける主観的「印象」だけでは イマヌエル:カントの「純粋理性批判」が正しいことの論証には全くなっておらず バカ「哲学者」共による既得権保守のためのはぐらかしやごまかしにしかなっていないのである
凶悪犯罪者の大脳辺縁系は損傷しておらず むしろ暴力を伴う虐待によって大脳新皮質の萎縮が見られる場合の方が多いことからも 「理性は悪だ」という論理は何一つ成立しないのである
「利己的金儲け」という行動は 「利己的」であるという点において欲望が主体であり 理性が主体ではない
別に大脳辺縁系を損傷したからといってガムシャラに利己的利益追求をするようなことはしないし
利己的金儲けに邁進するのは むしろ理性を欠いた欲望まみれのヒステリックな動物的行動であって 何ら「純粋理性」でも何でもないのである
こうした「哲学者」共による論理的根拠を欠いた その場限りの取り繕いによって バカなマスコミや大衆やバカ学生共をはぐらかしたところで カントの「純粋理性批判」の内容の正当性は全く立証できていないのである
そもそも「絶対に知覚できない」叡智界は立証不能であり 「なぜ絶対に知覚できないのか」についての論理的説明も全くされていないのであって こんな話が「哲学」として成立するわけがないのである
現状の「哲学者」共は 誰一人としてイマヌエル:カントの主張を疑うことなく 「近代哲学の最高峰」などというバカげた評価を鵜呑みにしていた頭の悪さを隠蔽するために 大衆やマスコミの頭の悪さを利用してフザケたはぐらかしで既得権や体制維持をしているに過ぎない
プラトンもニーチェもカントも 論理客観的な論証としては成立していないが故に ナチスにも都合よく解釈可能なのであって こんな話を「哲学」として取り扱っていること自体「A級戦犯」に匹敵する犯罪的行為である
バカなマスコミや大衆は 断片的にしか物事を検証することができず 統合的な観点からは何が本当に正しいのかは判別できないため 既存の権威の言っていることを鵜呑みにすること以外が何もできない「デクノボウ」から脱することができないのである
同じ大学の職員として 哲学科や生物学科の組織腐敗を放置することは 生徒に対する詐欺的行為に加担しているのも同じことであり 赦されることではない
工学科や物理学科や天文学科の職員であっても 専門外であろうと組織腐敗を放置しておいて良い理由には全くならない
日大アメフト部の組織腐敗を 危機管理学部が放置していたのではギャグにもならないのである
Ende;