身体というものは 時折自分の意思とは無関係に動くことがある
以前「ねとらぼ」の記事に 漫画家が墨汁を小さな瓶に移そうとして 溢れそうになった瞬間にうっかり口ですすってしまったという話があった
どう考えても漫画家は「墨汁を飲もう」と意図的に思って口に運んだわけではない
日常取り扱う液体の多くは飲み物であるため 反射的に溢れそうになった液体をいつものように口に運んでしまっただけである
夜中に眠っていて 急に手足が「ビクッ」と動くことは 多くの人が体験する事象である
肩が凝っている時に食事をすると 口や舌を噛んでしまうこともある
スマートフォンを操作しながら歩くことが出来るのは 意識して意図的に危険な行動を選択しているわけではなく スマートフォンを操作したいが移動もしたいという欲求を満たすための行為である
重大事故を引き起こす「アクセルとブレーキの踏み間違え」も 他人の女房子供を引き殺そうと意図してアクセルから足を離さなかったわけではない
日本大学の組織腐敗が長年温存放置されたのは 組織を構成する個人が腐敗組織を意図的に望んだわけではないはずである
東京電力福島第一原子力発電所において 原子炉の津波に対する脆弱性を放置したのも 原子炉が暴走しても構わないと思っていた所員はいないはずである
このように ヒトは自分の本当の意図目的とは違った行動を採ってしまうことが様々に存在するのであり これが「無意識」というものである
「つい」「うっかり」無意識にしてしまった行動を 事後正当化する形で反射的に言い逃れや言い訳や取り繕いをしてしまうことも よくあることである これは「自分が出来損ないの欠陥品である」という事実を認めたくないという認知的不協和を解消する形での やはり無意識な条件反射的な思考による言動である
「自分は絶対に間違えることのない完璧な人物であると」主観的に「思って」おけば満足感が得られ 論理客観的には「間違えることもある欠陥が存在している」と自覚することは満足感が得られないため 無意識に何も考えなければ自己過信に陥って嘘やデマでも簡単に鵜呑みにするようにもなるのである
大衆やマスコミの多くは 養老孟司やマイケル:サンデルやマルクス:ガブリエルの言っている内容に嘘や重大な間違いが混入していることには気づかず それらを説明してもなを彼らを信用し続ける人の方が大半である
「認知的不協和を解消する」とは 気分的に嫌なことを拒絶する無意識な反射行動であり カルト宗教の信者に見られる洗脳状態の原因でもある
○頭で考えるよりも先に身体が動く
弱肉強食の過酷な自然環境下においては いちいち物事を深く考えながら意識的に合理的行動選択をしていたら天敵に喰われてしまったり 配偶相手を他者に奪われてしまったりするため 欲望のままに反射的に行動をする仕組みが遺伝的に脳には組み込まれているのである
振り込め詐欺からの電話に対して 「話し方が丁寧だった」などという主観的印象だけで鵜呑みにし 家族や警察や弁護士からの電話だったと信じ込んでしまうのも 恐怖心によって促される情動が理性をマスキングしてしまうことで生ずる無意識な暴走状態である
ヒトは一度信じ込んだ物事を 既に「信じ込んだ自分」に対する過信によって 事後正当化しておいた方が気分的に楽なように先天的にできているのである これが認知上の欠陥(錯覚)を引き起こす原因である
虐待を連鎖する親が 「自分も親から殴られた」その自分の体験を事後正当化する形で 「殴られて育ったことで今の自分が存在しているのだから 殴られて育つことには正当性がある」といった自己に対する過剰な慢心によって 虐待を正当化する屁理屈をでっち上げてしまうため 虐待の連鎖というのは難治性なのである
養老孟司が 「世間が許してくれないから 大学で30年間も安月給で働いた そこには意味があったんだ そう思わなきゃやってられないじゃありませんか」などと言い出すのも 要するに認知的不協和を解消するための屁理屈である
東京大学名誉教授が自分が既に行った選択や体験に対して「やってられないじゃありませんか」などと言い逃れをしているのであれば 読者は「自分達も言い逃れをしても構わない 許されるんじゃないか」という身勝手な解釈をすることによって 気分的に「救われる(満足する)」ことで養老孟司は大衆人気を集めているのである
スマホ歩きやスマホ運転をしている人を 警察が注意すると 「急いでいるんだから仕方ないだろ」などという言い逃れをする人がいる
「仕方ない」とか「しょうがない」というのは 本来「他に一切の選択肢が存在していない」という意味であって不可避であることの論理証明が必要だが 実際に「仕方ない」と言っている人のほぼ全員は単なるワガママを正当化するための幼稚な言い逃れに使っているに過ぎない
身体のみならず 思考までもが本来の意図目的とは無関係に 無意識条件反射的に言い逃れや取り繕いをすることも 決して珍しいことではない
ヒトは一度信じ込んだ相手を疑うことをしたくないというバイアスが働き 盲目的に信奉することによって過剰な満足感を得られる仕組みが存在しているため 振り込め詐欺師に騙されている人は「いや 絶対に騙されてなどいない」と言い張り カルト宗教の信者達は教祖を一切疑わず デマに煽動されてエコーチェンバーに陥っている人はワクチン接種をしている小児科医院に集団で闖入するのである
兵隊が上官の命令に唯々諾々と服従し 戦争などというバカげた行為をするようになるのも 盲目的に上官を信頼し 服従することへの美徳(快楽)を感じる本能的習性が原因である
宗教というのは こうしたヒトの先天的な忠誠忠実性を満足させるためのファンタジー妄想として 唯一絶対的な存在として「神」を正当化するのである
「神」とは 要するに「親」を超越した絶対的盲目的服従対象であり 哺乳類としての本能習性である「甘え」が作り出したフィクションによって 多くの有神論者は主観的満足感を得られることで その快楽への中毒性が盲目的信奉を正当化しようとするのである
神は科学的には立証できない
神にいくら祈っても戦争も差別もイジメもなくならない
ヒトという種の生物は他人と自分との間に順位や序列を決めつけることによって 自分の存在を正当化できているという感覚(錯覚)があるため 気分の悪くなる話は全部嘘だと決めつけ 都合の悪い話には一切耳を貸さなくなり 一度信じ込んだ相手に対しては盲目的信奉によって疑うことも一切しなくなるのである
「滅私奉公」と称してなにがしかに対して盲目的な忠誠忠実性を発揮することに対しての美徳(快楽)が生ずるのも 哺乳類としての盲目的な「親」に対する服従性(甘え)による行動バイアスである
物事を深く検証しない無意識なヒトが導き出す結論は 「死刑にしちまえ」「刑法判決で解決だ」「死ね」というものである
私も主観的に「死ねよ」と主観的に思うことは珍しくもないが それは社会的には合理性や意味がなく 論理客観的には迷惑な奴の行動原因を徹底究明し 再発防止につなげることの方が重要であると「考える」のである
私も情動自体は違法な「私刑」執行官達と何ら違いはない 迷惑な奴は殴りたいし 嫌がらせで脅迫的に服従させてしまった方が気分的には満足感が得られるだろう
だが 主体性のない迷惑者というのは誰かが常に抑圧し続けなければ簡単に再犯するものであって 合法的な懲役刑も含めて根本的解決には全くならない
ましてや通り魔を何人死刑にしても 通り魔事件自体の原因もわからなければ 再発防止にも全くならない
警察のポスターに「テロは許さない」などというフレーズがあるが 「許さなかった」らテロがなくなる合理的根拠は何もないのである
テロも通り魔も 彼らなりの社会に対する方向性のない「懲罰」感情を満たすための行動(正義)であって 刑罰という合法的社会正義だと錯覚することによって恐怖で市民の行動を抑圧する刑法そのものの存在が「懲罰」感情を正当化してしまっているのであり 本来であれば市民が自主的主体的に社会安全性を求めるというのがスジというものである
「それでも犯罪はなくならない」かも知れないが 減らすことは可能である 完全撲滅は不可能かも知れないが 減らせる可能性があるものを「撲滅できないなら やらないほうが良い」と言い出すのはバカの発想である
フリードリヒ:ニーチェは「できそうにないことは やらない方が良い」と言ったが これは大衆がやりたがらない面倒なことを全部放棄するためにこじつけられる都合の良い「迷言」であり 主観的気分が良くなるよう都合良くこじつけることで得られる満足感(快楽)による思考バイアスによって促される錯覚によって ニーチェは大衆やバカな大衆迎合を目的とした「哲学者」には人気があるのだ
一度ニーチェを読んで満足した者は もはやニーチェを疑うことを一切しなくなる
それはイマヌエル:カントでも マルクス:ガブリエルでも 養老孟司でも 麻原彰晃でも同じであり 宗教的な盲目性によって洗脳されることで ヒトは簡単にバカになるのである
論理的根拠を一切すっ飛ばした「叡智界」の妄想に満足してしまえば それが本当は哲学でも何でもないことには誰も気づかなくなる
哲学というのは 本来妖怪悪霊といった論理的根拠のない感覚的恐怖心が作り出した妄想といった嘘やデマに煽動されないために 真実を見極めるためのものであって 論理的根拠を「超越」してしまったら もはや真実もヘッタクレもあったものではない
○科学や哲学は宗教を弾圧はしない
宗教を弾圧したがるのはイデオロギーや「別の宗派」であって 科学や哲学は「ヒトはなぜ実証不能の神を信じ込みたがるのか」を客観的に検証するだけである
他人が大切にしているものであれば それを奪う権利は誰にもない
子供が一生懸命作った泥団子であっても それを「価値がない」と称して意図的に破壊することは器物損壊罪に該当するのである
神にいくらお祈りしても戦争がなくならない上に 宗教が原因で紛争が起きることもあるからといって 宗教を弾圧することは科学や哲学の仕事ではない
神だか変質者だかが日がな一日中監視しているからといって 行動が抑圧されることで倫理的行動に結びつくなどという屁理屈のために宗教を正当化することはできない
神などの他者が見ていなくても 自分自身で善悪を判断して自律的に行動を選択するという本質的な意識があってこその「自由意志」というものである
クレプトマニア(窃盗症)のような中毒があっても 意識的に行動を抑制して万引をやらないように行動選択すること「も」可能である
痴漢や盗撮といったものも 自分の欲望の大きさや強度程度だけが行動原理になっているから「無意識」なのであって 他人が嫌う理不尽な行動も 「自分がどのような人間で在りたいか(本当の目的・人間の真理)」という主体的選択によって自律的に行動抑制すること「も」可能である
人によって難易度は異なり 個人差もあるだろうが 「できそうにないことは やらない方が良い」という幼稚な屁理屈をこじつけて満足する方が気分的には楽なのである
ヒトとはそういう先天的な認知上の重大な欠陥が存在しているのである
別に私のことを主観的に好きになって頂く必要性は一切ない
そういう個人的な好き嫌いに依らず 内容を論理客観的に理解することを求めているに過ぎず 科学や哲学というのは大衆の人気取りのためにあるわけではなく 嘘やデマと真実を見極めるためのものであって どんなに大衆人気を集めていても真実であることの論理証明には全くならないのである
多数のヒトが信じている話であれば 「多数の中には内容を論理客観的に検証してくれている人も多いはずだ」と主観的に「思う」かも知れないが そうした「思い」にも論理客観的根拠は何もないのである
多数派に同調しておいた方が気分的に安心満足感が得られるという先天的な思考バイアスの存在を理解していれば 多数が何の保証にもならないことを認識すること「も」可能である
バカではできない
できればバカではない
やろうともしないからバカが治らない
○主体的意思の存在
主体的意思が存在しないというのであれば あらゆる犯罪や過失の全ても正当化可能となるのである
「俺の行動は 俺には選択できねぇ」と言っているのと同義だからである
ある暴走族がこう述べた「誰にも俺たちを止めることはできない」と
自分でも自分が止められないのに 一体何を自慢しているのか訳がわからない
バカが酷いと 自分が何を言っているのかすら自覚認識できないのである
社会的存在価値を失ってまで迷惑行為をしたがるのは 他人に迷惑をかけている間だけは他人との比較において優越感を主観的に感じることができるからであって 「誰にも俺たちを止めることができない」ことが「自由」だと倒錯しているからである
自分でも自分が止められない上に 実際には警察に捕まっているにも関わらず バカはバカげた言動に何の羞恥心も持たないのである
振り込め詐欺に騙されて金を振り込んでしまった被害者の行動は無意識である どんなに強い情動を伴っているとしても むしろ情動ゆえに騙されているのであって 情動の強度程度は意識や意思の本質ではない
気分が良くなる話を信じて満足しても その内容に論理客観的根拠が伴う真実であることの論証にはならないし
気分が悪くなる話を拒絶しても 内容に対する論理客観的反証が出来ないにも関わらず ヒトの大半は主観的拒絶反応こそが自分の意識だと勘違い錯覚するのである
生物学界や哲学界が公然と嘘を言っているにも関わらず それをどんなに説明しても嘘を嘘だと認識できないのは 既に嘘を信じ込んだ自分を事後正当化して認知的不協和を解消するための思考バイアスが働くためである
振り込め詐欺師に騙されている人に対して「それは詐欺師に騙されているんじゃないですか?」と問いかけても 「いや 絶対に騙されてなどいない」と言い張るように 「養老孟司やマルクス:ガブリエルや読書猿に騙されているんじゃないですか?」と問いかけても大衆の大半は誰も「そんなことはないだろう」と主観的に「思う」のである
こうした情動によって促される脳の反射的思考バイアスというものは 必ずしも論理客観的根拠に基づいた真実を認識できるとは限らないのである
思考ですらその大半は根拠のない「常識」に基づいているにも関わらず 自分の「常識」に論理客観的根拠や証拠が存在していないことには考えが及ばない人は多いものである
「お茶くみは女子社員の仕事だ」などという何の合理性もない決めつけと同様に 「東京大学名誉教授の言うことなら絶対に正しい」と決めつけ 実際には「客観的事実などない」などと言い出し科学を全面否定するようなオカルトジジイであっても何の疑いも持たずに信頼し続けるのがヒトというものである
誰も嘘やデマを信じ込むことを目的意識にしているわけでもなかろうが 実際には嘘やデマの方が人気があって信頼されやすいものなのである
100年以上もの間 イマヌエル:カントの「純粋理性批判」などというオカルトファンタジー妄想が まるで論理客観的根拠に基づいた真理としての「哲学」であるかのように信じ込まれてきたのも ヒトという種の生物の先天的な頭の悪さ 認知的欠陥による倒錯によるものである
生物学界においても 「○○(目的)のために進化を選んだ」といった間違った説明を散々してきたことに対し 生物学権威はことごとく論理整合性のない言い逃れやはぐらかしやごまかしで大衆やマスコミを煙に巻いてい権威性を維持しているのであって いわば「公然の陰謀」とも言えるものである
ヒトは間違えるものである
間違えを認識したら 間違えを改め 間違えた原因を考えて間違えないように経験知識教訓として受け継ぐことで ヒトは賢くなること「も」可能である
だが 「間違えを改める」ためには自分の頭の悪さを認める必要があり これが「間違えを改める」上においての障害として作用するのである
「自分だけは絶対に間違えてなどいない」という自己に対する慢心こそが ヒトの認知上のあらゆる欠陥の根本的原因として作用しているのであり これは別に「恥ずかしい」かどうかとか 「怖い」かどうかは関係がない
もしかすると本論を読むと洗脳でもされて何か間違った判断をしてしまうようになってしまうのではないかと怖れている人もいるかも知れないが それは実は逆で カルト宗教に洗脳されている人というのはむしろ教祖や教団に対する観念的安心感によって洗脳に陥るのである
科学や哲学というものは 主観的な感覚や印象 観念的好き嫌いに基づいて促される錯覚や間違った認識に騙されないようにするためのものであって 決して安心満足感が得られるとは限らないのである
ジャン:ポール:サルトルやセーレン:キェルケゴールを読んでも満足感や安心感は全く得られない
むしろ自分の頭の悪さを徹底的に自覚させられて嫌な気分になるだけである
澤口俊之が哲学から逃げた原因は これら実存主義の気分の悪さが原因であり 実際には1%もわかっていない脳科学の論証で全てを知ったような錯覚に陥っているだけのバカに過ぎない
澤口俊之は「養老孟司先生は素晴らしい」などと形容したバカであり 科学者としてはポンコツ過ぎて話にならないが テレビでの発言がポンコツ故に「面白い」ために大衆人気を集めているに過ぎず 実際には「著書が売れた」だけで養老孟司同様に何の科学的業績もないのである
物事を論理客観的に検証できないバカである以上 科学的業績が何も出てこないのは必然的結果というものである
ヒトというのは権威に対して疑いを持つことに根拠のない罪悪感のような感覚を持ってしまうことがあるが それこそが権威に対する宗教的盲目性を促してしまう思考バイアスであり ヒトが自律的判断能力を喪失する大きな要因として作用するのである
自分の頭で「考えて」いないなら そりゃ「自由意志などない」のは当然というものである
Ende;