教えられたことを「知っている。」ことと、教えられていないことを「思い付く」ことは、脳の機能としては全く異なるはずである。
アインシュタインの相対性理論というのは、高校生程度の数学の知識があれば、誰でも理解することは可能だという。
理解することは可能ということは、理解可能な誰が思い付いてもおかしくはないのである。
しかし、現実には偏差値が高いだけの人の多くは、誰にも「教えられていないことは、何も思い付かない。」からこそ、発想力というものは珍しく、天才扱いの対象ともなる。
学力偏差値と発想力との相関関係はなく、むしろ異常に偏差値や他者からの評価を求める者の場合には、評価が充分に得られなくなると突発的に無差別殺人に暴走する傾向が見られる。
これは、いわば「与えられた課題」に対してとにかく「解答」を導き出さなければ満足出来ないという。行動学習的な強迫観念として、短絡的解答への異常執着が生じているのであろう。
脳のデフォルトモードネットワークの発見では、被験者に「課題を与えた場合」に不活性が生ずるのだが。
他者から「課題を与えた場合」にデフォルトモードネットワークの不活性が生ずるとしても。自己自身で「自発的に興味を持って課題に取り組んでいる場合」では、デフォルトモードネットワークの不活性は起きない、若しくは完全には不活性状態には陥らないのではないか。
それによって「誰にも教えられていないこと。」に気付くことが可能になるのではないだろうか。
他者から「課題」を与えられてしまうと、与えられた「課題」への解答にばかり意識が働いてしまい。それ以外の様々な「気付き」を喪失するのではないか。
脳は課題を与えられていなくて「ぼんやり」していても、眠っているとか意識不明の昏睡状態ではない以上。何らかの気付きは働くはずである。
逆に言えば、振り込め詐欺に騙されている状態や、暴動に加わっている状態では。感情的異常興奮によって、事実上「何も考えられなく。」なってしまっていると言える。
そもそも、ヒトという種の生物は先天的に権威の命令に従って他者に危害を加える可能性を充分持った生物である。だからこそ振り込め詐欺というのは集団組織的な場合にのみ高度な詐欺能力を発揮するのであろう。
彼らは詐欺集団における権威、指導者に服従することによって、安心して詐欺に加担することが可能になると考えられるのだ。
おそらく、振り込め詐欺に加担していた者であっても。一人になって冷静に社会全体を見渡せば、「騙し合いが蔓延するような殺伐とした社会。」を望んではいないのではないだろうか。
そんな社会で「配偶者を愛し、子供を育てよう。」とは思わないはずである。
「好きなことを伸ばすよりも、先に苦手を克服しろ。」だとか、「自分よりも先に他人を大切にしろ。」といった、実際には誰も実行していないバカげた妄想観念が連鎖しているというのは。ある種の「嘘」である。
ところがこうした妄想観念の連鎖状態というのは、無意識な条件反射であるため。騙している当人にも「嘘」の自覚はなく、当人的には強迫観念的に刷り込まれている一種の病気に過ぎない。
洗脳というものの暴走性は、それが無意識であるが故の「結果」でしかなく。そこには統合的に判断選択された「目的」というものがない。
オウム真理教教祖麻原の供述を見れば、それは明らかである。あれは何の考えも持っておらず、ただ多数の信者達が思い通りになることで目先の安心満足を追求していただけの「結果」である。
集団組織の首謀者には、何らかの目的が常に存在するものであるという錯覚を抱きがちであり。また、責任意識のようなものが存在するのではないかとも思い込みがちであるが。独裁的組織というのは、独裁者自身も組織においては「組織を構成する多数」への迎合服従の結果であり。結局誰にも目的意識というものがない状態なのである。
無意識だからこそ独裁というのは暴走するのである。
独裁者は、とにかく組織を構成する多数の「盲目的信奉者」のご機嫌取りばかりを強迫観念的に求めているだけであり。そのご機嫌取りによって気分良く服従する「多数」による集団心理によって、組織の中から自己検証性というものを簡単に喪失してしまうのである。
また、福島第一原発もそうだったのだが、意識を持って組織腐敗を察知した者から組織を去る(あるいは粛清される)ことによって。何の意識も持たない無意識な者だけに「淘汰」が働いてしまうのも、独裁の暴走を助長するのである。
こうした構造は子供が行うイジメでも同様であり。歯止めが効かない。
ハインリッヒの法則から考えれば、膨大な数の子供のイジメを放置した結果として、原発事故やカルト宗教の暴走へと発展したとも言えるのである。
「誰にも教えられていないことに気付く。」ことというのは、必ずしも世間的に評価報酬が得られるという短絡的なものではない。
「誰も気付いていないこと」である以上、少数派であり異端の謗(そし)りを受けるのは必然である。
ノーベル賞受賞者達の多くがそうであるように。山中伸弥教授は「邪魔中」と陰で呼ばれたり、多数の他の研究者達から無能扱いされることは珍しいことではない。
ヒトの多くは多数派意見に迎合することに安心満足する性質がある。しかし、それは「ハーメルンの笛吹」の例えにあるように、集団自滅への近道ともなりうるのである。
とある小学生が、結果的にノーベル賞を受賞した山中教授に憧れて「遺伝生物学者になりたい。」と述べていたが。憧れの根拠となる「格好良さ」というのは、あくまで社会的に評価された後の話であって、誰も踏み込んだことのない少数派異端の道のりは、実際に何らかの成果が出るまでは誰も正当に評価してくれない茨の道、泥の道である。
インスタントに数値評価が得られる偏差値競争や受験勉強等とは異なり、「誰も思い付かなかった新しい発見や発明」に辿りつくまでは評価どころか誹謗中傷しかされることはない。それでも諦めずに持続性を発揮するためには、本当の意味での自発性、主体性、純粋な好奇心による熱中が必要不可欠である。
自発性は自律を促す。これは必然である。
本質的には何ら自発性もないのに、他者からそそのかされる形で偏差値に執着させられた偏差値狂こそが、短絡的な「最終解答」へと簡単に暴走するのである。「やる気スイッチ」的に他人から意欲をそそのかせば、簡単インスタントに学力成績が上がるかも知れないが、それは極めて社会的に無責任な行為であることを認識すべきである。
とにかく早急に解答を導き出して、何らかの評価や結果が得られないと不安で仕方ないという強迫観念が働くことで、ヒトは重大な誤りを簡単に見失うようになるのである。
大衆の多くは「リーダーシップ」などと称して、指導者を求めたがるが。これは大衆が自分達自身で自律的に社会を支えるという意識が足りていない証拠であり。特定の誰かに判断責任をなすりつけて安心満足したい心理の現れである。
こうした個人の自律意識の欠如こそが、独裁や暴走といったものを導く最も無責任な社会的「甘え」に他ならない。
若者も含めた他人に判断責任をなすりつけようとするくせに、他者に感情的な命令ばかりを要求するというのは。どう考えても精神を病んでいるとしか言いようがないのだが。臨床心理医療においては、「現在の社会においては社会生活に支障がない。」ので病気としては扱われない。
だから論理的根拠の全くない精神論に異常執着していても、「言論の自由」などと称して病人扱いされないのである。
努力辛抱根性的精神論、「頑張る」だの「他人より勝つ」といった行為を強制されることで、若者の心は荒廃し、自律的な社会的責任判断能力を簡単に喪失するのである。
精神論を強要されて育った者にとっては、精神論こそが安心で満足であろう。
司法刑罰さえ与えておけば犯罪が抑止出来るという統計的に何の根拠もない妄想も、それが「いままでずっと、そうだった。」という慣習が促す気分的安心満足が放置を促すのである。
「慣れている」ことは安心である。薬物中毒が促す行動バイアスと同様、慣れてしまえばヒトは残虐なことも簡単に出来るようになるのである。
危険かどうかの判断というのは、論理的判断によって導き出されるものであって。気分感情の強度程度によって導かれるような先天的なヒトの本能習性によって自動的に下されるものではないのである。
Ende;
アインシュタインの相対性理論というのは、高校生程度の数学の知識があれば、誰でも理解することは可能だという。
理解することは可能ということは、理解可能な誰が思い付いてもおかしくはないのである。
しかし、現実には偏差値が高いだけの人の多くは、誰にも「教えられていないことは、何も思い付かない。」からこそ、発想力というものは珍しく、天才扱いの対象ともなる。
学力偏差値と発想力との相関関係はなく、むしろ異常に偏差値や他者からの評価を求める者の場合には、評価が充分に得られなくなると突発的に無差別殺人に暴走する傾向が見られる。
これは、いわば「与えられた課題」に対してとにかく「解答」を導き出さなければ満足出来ないという。行動学習的な強迫観念として、短絡的解答への異常執着が生じているのであろう。
脳のデフォルトモードネットワークの発見では、被験者に「課題を与えた場合」に不活性が生ずるのだが。
他者から「課題を与えた場合」にデフォルトモードネットワークの不活性が生ずるとしても。自己自身で「自発的に興味を持って課題に取り組んでいる場合」では、デフォルトモードネットワークの不活性は起きない、若しくは完全には不活性状態には陥らないのではないか。
それによって「誰にも教えられていないこと。」に気付くことが可能になるのではないだろうか。
他者から「課題」を与えられてしまうと、与えられた「課題」への解答にばかり意識が働いてしまい。それ以外の様々な「気付き」を喪失するのではないか。
脳は課題を与えられていなくて「ぼんやり」していても、眠っているとか意識不明の昏睡状態ではない以上。何らかの気付きは働くはずである。
逆に言えば、振り込め詐欺に騙されている状態や、暴動に加わっている状態では。感情的異常興奮によって、事実上「何も考えられなく。」なってしまっていると言える。
そもそも、ヒトという種の生物は先天的に権威の命令に従って他者に危害を加える可能性を充分持った生物である。だからこそ振り込め詐欺というのは集団組織的な場合にのみ高度な詐欺能力を発揮するのであろう。
彼らは詐欺集団における権威、指導者に服従することによって、安心して詐欺に加担することが可能になると考えられるのだ。
おそらく、振り込め詐欺に加担していた者であっても。一人になって冷静に社会全体を見渡せば、「騙し合いが蔓延するような殺伐とした社会。」を望んではいないのではないだろうか。
そんな社会で「配偶者を愛し、子供を育てよう。」とは思わないはずである。
「好きなことを伸ばすよりも、先に苦手を克服しろ。」だとか、「自分よりも先に他人を大切にしろ。」といった、実際には誰も実行していないバカげた妄想観念が連鎖しているというのは。ある種の「嘘」である。
ところがこうした妄想観念の連鎖状態というのは、無意識な条件反射であるため。騙している当人にも「嘘」の自覚はなく、当人的には強迫観念的に刷り込まれている一種の病気に過ぎない。
洗脳というものの暴走性は、それが無意識であるが故の「結果」でしかなく。そこには統合的に判断選択された「目的」というものがない。
オウム真理教教祖麻原の供述を見れば、それは明らかである。あれは何の考えも持っておらず、ただ多数の信者達が思い通りになることで目先の安心満足を追求していただけの「結果」である。
集団組織の首謀者には、何らかの目的が常に存在するものであるという錯覚を抱きがちであり。また、責任意識のようなものが存在するのではないかとも思い込みがちであるが。独裁的組織というのは、独裁者自身も組織においては「組織を構成する多数」への迎合服従の結果であり。結局誰にも目的意識というものがない状態なのである。
無意識だからこそ独裁というのは暴走するのである。
独裁者は、とにかく組織を構成する多数の「盲目的信奉者」のご機嫌取りばかりを強迫観念的に求めているだけであり。そのご機嫌取りによって気分良く服従する「多数」による集団心理によって、組織の中から自己検証性というものを簡単に喪失してしまうのである。
また、福島第一原発もそうだったのだが、意識を持って組織腐敗を察知した者から組織を去る(あるいは粛清される)ことによって。何の意識も持たない無意識な者だけに「淘汰」が働いてしまうのも、独裁の暴走を助長するのである。
こうした構造は子供が行うイジメでも同様であり。歯止めが効かない。
ハインリッヒの法則から考えれば、膨大な数の子供のイジメを放置した結果として、原発事故やカルト宗教の暴走へと発展したとも言えるのである。
「誰にも教えられていないことに気付く。」ことというのは、必ずしも世間的に評価報酬が得られるという短絡的なものではない。
「誰も気付いていないこと」である以上、少数派であり異端の謗(そし)りを受けるのは必然である。
ノーベル賞受賞者達の多くがそうであるように。山中伸弥教授は「邪魔中」と陰で呼ばれたり、多数の他の研究者達から無能扱いされることは珍しいことではない。
ヒトの多くは多数派意見に迎合することに安心満足する性質がある。しかし、それは「ハーメルンの笛吹」の例えにあるように、集団自滅への近道ともなりうるのである。
とある小学生が、結果的にノーベル賞を受賞した山中教授に憧れて「遺伝生物学者になりたい。」と述べていたが。憧れの根拠となる「格好良さ」というのは、あくまで社会的に評価された後の話であって、誰も踏み込んだことのない少数派異端の道のりは、実際に何らかの成果が出るまでは誰も正当に評価してくれない茨の道、泥の道である。
インスタントに数値評価が得られる偏差値競争や受験勉強等とは異なり、「誰も思い付かなかった新しい発見や発明」に辿りつくまでは評価どころか誹謗中傷しかされることはない。それでも諦めずに持続性を発揮するためには、本当の意味での自発性、主体性、純粋な好奇心による熱中が必要不可欠である。
自発性は自律を促す。これは必然である。
本質的には何ら自発性もないのに、他者からそそのかされる形で偏差値に執着させられた偏差値狂こそが、短絡的な「最終解答」へと簡単に暴走するのである。「やる気スイッチ」的に他人から意欲をそそのかせば、簡単インスタントに学力成績が上がるかも知れないが、それは極めて社会的に無責任な行為であることを認識すべきである。
とにかく早急に解答を導き出して、何らかの評価や結果が得られないと不安で仕方ないという強迫観念が働くことで、ヒトは重大な誤りを簡単に見失うようになるのである。
大衆の多くは「リーダーシップ」などと称して、指導者を求めたがるが。これは大衆が自分達自身で自律的に社会を支えるという意識が足りていない証拠であり。特定の誰かに判断責任をなすりつけて安心満足したい心理の現れである。
こうした個人の自律意識の欠如こそが、独裁や暴走といったものを導く最も無責任な社会的「甘え」に他ならない。
若者も含めた他人に判断責任をなすりつけようとするくせに、他者に感情的な命令ばかりを要求するというのは。どう考えても精神を病んでいるとしか言いようがないのだが。臨床心理医療においては、「現在の社会においては社会生活に支障がない。」ので病気としては扱われない。
だから論理的根拠の全くない精神論に異常執着していても、「言論の自由」などと称して病人扱いされないのである。
努力辛抱根性的精神論、「頑張る」だの「他人より勝つ」といった行為を強制されることで、若者の心は荒廃し、自律的な社会的責任判断能力を簡単に喪失するのである。
精神論を強要されて育った者にとっては、精神論こそが安心で満足であろう。
司法刑罰さえ与えておけば犯罪が抑止出来るという統計的に何の根拠もない妄想も、それが「いままでずっと、そうだった。」という慣習が促す気分的安心満足が放置を促すのである。
「慣れている」ことは安心である。薬物中毒が促す行動バイアスと同様、慣れてしまえばヒトは残虐なことも簡単に出来るようになるのである。
危険かどうかの判断というのは、論理的判断によって導き出されるものであって。気分感情の強度程度によって導かれるような先天的なヒトの本能習性によって自動的に下されるものではないのである。
Ende;