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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

論理的思考能力。

2011年10月17日 13時19分56秒 | 意識論関連
 論理的思考能力を必要とされる問題を出され、それを解くことができるとしても。解答が予め用意された「問題」を解いているだけであれば、その能力とは必ずしも常に論理的思考が働くことを証明しているわけではない。

 解答することによって評価が得られる出題された「問題」を解く「能力」とは、出題している者が規定した基準に基づくものであって、その基準自体が論理的根拠があるのかどうかにまでは言及されることは「普通は」ない。

 つまり、出題者の決めた能力基準という規定だけに基づいて解答者は評価されるのであり。本当の論理的思考能力というのは、出題された問題を解いているだけでは測ることができないのである。

 どんなに難解な問題を解くことが可能であるとしても、予め解答が用意されている問題を解いている時点で、出題者の脳を超えることはないのであり。そもそも出題者の脳がマトモかどうかに言及しても成績評価にならないから考えないのが「普通」なのである。

 学生であれば、教授が出題した問題を解いているだけで成績評価になるが。出題している教授に対して異議を唱えて「機嫌を損ねる」ことで成績が悪くなることを恐れて「考えないようにしている。」のが「普通」なのである。

 これらの「普通」とは、ありていに言って「凡人」を意味する。


 どんなに学力が高くても、与えられた環境以上の能力を発揮できないのであれば、それは結局「凡人」に過ぎない。

 あらゆる学力成績基準のほとんど全ては認知科学的に厳密な検証をされてはいない。だから学力が高いバカが少なくないのである。

 茂木健一郎は養老孟司と話を丸めていた奴である。この時点で茂木は科学者としてはポンコツであり、ただの大衆人気取りを「目的」としたペテン師に過ぎない。茂木は散々脳トレ類を推奨して、論理的根拠もなく「これが脳に良い。」などと吹聴し続け。結局与えられた問題を解く能力以外に何の能力も得られないことが実証されたにも関わらず。今度は「特定の能力が向上する問題。」などと称して相変わらずクイズ番組の監修などをしている。

 これは「言い逃れ」とか「取り繕い」でしかない。それでもマスコミは数字(視聴率)が取れる「オイシイ」話として、茂木の規定した基準を垂れ流すのである。

 基準の根拠の全てが茂木が規定しているわけではなかろう、どっか海外の大学教授が作り出した基準を鵜呑みにしているだけかも知れないが。鵜呑みにしている時点で科学者としては無能であることを認識すべきである。ハーバード大学のハワード:ガードナーのMI理論が論理的根拠が欠落していることも、私以外に誰一人として指摘していないのである。既に脳科学者、認知科学者のほとんど全ては全く役に立たないデクノボウであり。バカ同士で話を丸めて馴れ合いで同調しているだけの集団腐敗に陥っているのである。

 だからこそ私の話に誰も耳を貸さないのである。

 特定の学者が規定した論理的思考能力基準として、私よりも高い能力を発揮する者は相当数いるはずである。しかし、そのほとんど全員は養老孟司や茂木健一郎やハワード:ガードナーの言っていることの論理的検証をできないし、最初からしようともしないのである。

 その原因の一つが「権威」が作り出す盲目性、思考停止によるものである。

 「アイヒマン実験」などで立証されている権威への盲目的服従というものは、たとえ学力成績が高くてもヒトという種の生物である限り生物学的な社会形成習性として無意識的に発揮されてしまうものなのである。

 原発の暴走を許したのも、結局は権威による論理的根拠のない決め付けが最大の原因である。「絶対に安全」であることの論理的検証をマスコミも含めて誰もやらなかったからである。

 クイズ番組でどんなに高い得点を得られたしても、クイズ以外に糞の役にも立たないのは明白である。単なる他人との比較による優越感に浸っているだけなら社会的には全く無能なのである。多くの凡人はクイズの正答率が高いことを短絡的に「頭が良い。」と決め付けるであろう。こうした凡人の基準をどんなに多数抽出してきても、それが本当に「頭が良い。」ことの論理的普遍性証明にはならないのである。

 それは大学や研究機関で働いているかどうかとも無関係である。学術論文の体裁(外見)だけが整っていても、その内容が本当に論理的検証がなされているかどうかとは無関係である。実際生物学における進化に関するほとんど全ての論文は「結果」と「目的」を区別しておらず、ドーキンスのお伽話を本気にしているようなオカルト学者しかいないのである。

 遺伝子というのはDNA配列の中で偶発的に「遺った」結果であって、それ自体に「目的」などが存在することの論理的証明など原理的に不可能なのである。

 擬態や寄生が極めて高度であることを「不思議だ。」と言っても、その「不思議。」さとは生物進化の結果だけを見ている気分的な違和感を述べているだけであって、自然淘汰だけでは絶対に説明不可能証明があるというような論理的疑問ではない。

 多剤耐性菌の発現などにおいても、発現してからメカニズムを説明することはできても、予めいつ、どこで生ずるのかは誰にもわからないのである。今現在起こっている進化であっても予測不能なものを、数十億年の「結果」だけ見て全てを説明することができないのは論理的には「不思議」でも何でもない。




 巷ではニーチェの本がミリオンセラーだという。「元気」だの「勇気」といった、その場限りの「気分」さえ良ければ、多くのヒトの大脳辺縁系は「満足」するのであろう。

 それこそ原子力推進派の者であっても、ニーチェを読んで「勇気」を持って原発を存続させようとするであろう。

 かつてドイツでは「元気」に600万人以上のユダヤ人を死体に変換したのである。

 ニーチェは基本的に無能である。無能な人間が自己存在を事後正当化して気分的に満足するための屁理屈がゾロアスター教である。オカルトは、それをオカルトであると認識できなければ気分的には快楽を促すものなのである。だからオカルトは流行る。

 オカルトをオカルトであると、錯覚を錯覚であると認識するのは本質的意識であり、論理的思考である。本質的論理思考能力というものは、学校の成績で測れるようなものではないことは既に述べたはずである。

 促された考えだけをしていても、自発的に疑問を持たなければ、それは独自の「考え」ですらないのである。独自の考え以外に新しい発見は存在しえない。

 マシンの調子がおかしいので、今日は終わる。