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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ポリヴェーガル理論

2022年06月20日 18時01分42秒 | 意識論関連

 ↗ポリヴェーガル理論 -ルークス芦屋クリニック

 

性的被害を受けた時などに「怖くなって力が入らず 動けなくなる」ことがあるという

痴漢に触られている時に拒否できなくなるのは こうした神経の働きによるものだそうで

誰かが助けないと本人だけではどうにもならないらしい

 

進化の過程において 男から性交渉を強要された時に抵抗できない女性の方が結果的に繁殖しやすく そうした遺伝子の方が拡がりやすかったのかも知れない

襲う側には都合が良いが 襲われる側の都合は遺伝的要素に影響しなかったことになる

遺伝的進化というのは そういう理不尽さも伴うものであり 決して万能ではない

 

 

Ende;


共感や絆は主観に過ぎない

2022年06月19日 15時23分03秒 | 意識論関連

絆や共感性というものは 暴力団だの半グレだの暴走族や振り込め詐欺の内部でも働くものであり

日本大学田中英寿体制やプーチン政権においても その内部では絆だの共感といったものが働いているのである

イジメやヘイトスピーチに便乗する大多数のバカにおいても 共感性によって誹謗中傷が暴走を加速させているのである

 

共感される「数」だけなら SNS上の「いいね」の数欲しさに無意味な虚飾に中毒になることもある

同調圧力というものも 結局は共感性に因るものであり 共感さえしておけば人間性が発揮されるなどという短絡安易なものではない

 

多数で共感したり 「絆」を感じれば 主観的には安心満足感が得られる習性がヒトという種の生物には先天的にあるものの

それはあくまで主観的感覚に因るものであって 何に共感するかの選択に自律的な社会的責任判断選択が伴わなければ人間としての行動にはならない

衆愚迎合的に 大多数の衆愚が気分的安心満足できるような話でもしておけば それは「共感性」として働くであろうが 衆愚がいくら多数と共感共鳴して「絆」を主観的に「感じ」ても その内容が論理客観的根拠に基づいた真理であることの論拠にはならない

梅沢富美男が相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖に対して「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と主張したことに対して どんなに多数が同調共感しようが 死刑などの刑罰が無差別殺人の原因究明や再発防止にはならないのである

 

「科学は多数決ではない」のと同様に 真理もまた「数」では見極められるものではない

ナチス政権下のドイツにおいては ナチス政権こそが正義だと多数決(民主)的に選出されたのであって 主観的気分としての安心満足感は安全性の論拠にはならない

共感性だの「絆」などというのは あくまで主観的安心満足感による感覚的なものに過ぎず 普遍的な人間性の論拠にはならない

暴走族同士がどんなに共感共鳴しようとも それが人間性の論拠にはならないのであり 集団規模による多数の共感共鳴によってむしろ暴走行為を安心して出来るようにもなるのである

共感共鳴だの「絆」というのは あくまで主観的安心満足感に過ぎず 人間性の論証には全くならない

 

「自分のことを大切に思ってくれる誰か」の存在も不要である

自己が主体的に生きていないからこそ 他人からの承認のようなものを必要とするのであって 誰も自分のことを大切だとは思わないとしても 主体的に自律的な社会的責任判断選択ができれば他人は必要がないのである

日本大学田中英寿体制の中では 田中に異議を唱えて左遷されてしまえば 仲間内からは「アイツはバカだ」とバカにされていただろう

ロシアのプーチン政権下においては 国営放送で反戦を主張したアナウンサーを「アイツはバカだ」とくさした視聴者もいた

東京電力福島第一原子力発電所において 原発の津波に対する脆弱性を主張して上司から嫌われれば 「アイツはバカだ」と言われただろう 「津波の危険性を考慮に入れたら 日本のどこにも原発など作れない」と言われれば 大多数の社員はそれを鵜呑みにし 組織の利益を優先して個人が自律的な社会的責任など取ろうとはしなかった

東京電力福島第一原子力発電所の中では 無責任なバカだけが上司から「大切に思われて」いたのである

それでは 原発の津波に対する脆弱性を主張したら 社外の誰かから「大切に思って」もらえただろうか?

そんなことは絶対にない

世の中「絶対など存在しない」と言われているが ヒトが素手で宇宙空間に放り出されて生き延びることが出来ないのと同じくらい絶対である

東電社内において 誰も自律的な社会的責任判断をしないという「多数」を論拠に 社内の多数で共感共鳴する形で原発の津波に対する脆弱性は傍観放置されたのである

 

「共感性」や「絆」といった「数」に対する同調迎合性を人間性だとすり替え錯覚しておいて 無差別殺人などの犯罪を含むあらゆる無責任な「人災」の根源的原因を見極めることはできない

自分の主観的感覚を絶対的な人間性か何かだと倒錯しているからこそ 無責任な犯罪者の倒錯の温床ともなってしまうのである

「自分だけは絶対に間違えない」という倒錯をしておいて 犯罪者の倒錯を批難しても 「バカがバカをくさしている」だけにしかならない

主観的感覚そのものは 自分の遺伝子を選択不可能である時点であらゆる本能情動感情も選択不可能であり 自分が育った環境としての社会や時代から受けたあらゆる「正解データ(常識)」もまた選択不可能である

しかし ヒトは自分の頭で物事を論理客観的に検証し 考え 主観的情動に惑わされずに真理を見極めることは不可能ではない

それは必ずしも簡単ではないかも知れないが 「難しいからやらなくても良い」というものでもないのである

学生にばかり学力偏差値競争を押し付け 若い人達の労働力を買い叩き 潰し合い競争を強要しておいて 自分達だけは「難しいからやりたくない」と言い出すのは もはや犯罪レベルの身勝手なワガママである

 

 


Ende;


バイクに乗ると脳に良い?

2022年06月19日 14時19分38秒 | 意識論関連

いや それは個人的に好きなことだから認知機能が向上するんであって 「バイクだから良い」というわけではないぞ

虫採りが好きな人なら虫採りで認知機能が向上するし

お菓子作りが好きな人ならお菓子作りで認知機能が向上する

人それぞれ集中して熱中して夢中になれることは違う

 

逆に言うと 他人からの見た目ばかりに執着して 本当に自分が好きなことがわからない奴は外見的な格好良さに倒錯して暴走族になることもあるので

「バイクに乗れば認知機能が必ず向上する」というものではない

バカがいくらバイクに乗ってもバカは治らない

 

 

川島隆太って「強いて勉めるのが勉強だ」などと言ってたバカで

最新の脳科学や教育心理学では 主体性こそが脳の発達に最も良いことが証明されており 「強いて勉める」とバカになることもわかっている

社会学者の宮台真司もそうなんだが 自分が強いられたことを事後正当化しておかないと気分的に嫌なもんだから 自分が強いられたことを他人にまで強いろうとする習性がヒトにはある

虐待の連鎖なんてのは最たるもので 他人から無理強いされるとヒトはバカになって 同じことを連鎖するようになる

合理性も何もない理不尽な校則を強いてくる教師というのは 自分が理不尽で非合理な規則を強いられ それを鵜呑みにした頭の悪さ 主体性の無さを事後正当化する形で生徒に強要するようになる

 

バカとは何かというと 自分の頭で物事を考えない状態を指すのであって どんなに知識の「量」をひけらかして自慢しても 統合的に論理整合性のある結論判断ができなければバカなのである

養老孟司だの長谷川眞理子だの川島隆太だのというのは 言っている内容に論理整合性がなく 衆愚の人気を集めているだけのオカルトに過ぎない

衆愚の多数人気をいくら集めても 科学的に正しいことを言っている保証にはならないのである

 

将棋の棋士が直感で指し手を見極められるように バイクレーサーもまた直感的にバイクを操作できるようになるのであり 何よりも好きで主体性があるからこそ直感的判断まで出来るようになるのであって 好きじゃないことをいくら「頑張って」も認知機能は向上しない

学力成績評価という他人から与えらえる形の抽象化された脳への報酬に無意識につられて学力偏差値競争をいくら「頑張って」も 地下鉄に毒ガスまきちらすようなバカにしかならない

他人がでっち上げた評価基準を鵜呑みにし そこに論理客観的根拠があるのかどうかも考えずに 目先の勝ち負け競争にだけ意識を奪われているからバカになる

何度も言ってるが 学力偏差値というのは認知科学的には知能の論証にはならないのであって いくら学力学歴を自慢しても そんなもん自慢している時点でバカが確定しているのである

 

Ende


倒錯者の共感性

2022年06月19日 12時28分19秒 | 意識論関連

オウム真理教内部の「絆」や「共感性」というものが 「一線を超えない」理由になどなりません

プーチン政権内部でも ナチス政権内部でも 日本大学田中英寿体制においても 自律的な社会的責任を負わないバカの群れの内部で「絆」だの「共感性」だのが働いても 「一線を超えない歯止め」には全くならず むしろ暴走破綻への無意識な「流れ」を作ってしまう原因でもあるのです

あっちの「絆」であろうと こっちの「絆」であろうと 「絆」という主観的安心感や満足感や仲間意識そのものは人間性の論証にはなりません

「誰かに求められているかどうか」に関わらず 「社会的に認知評価されているかどうか」に関わらず 論理客観的根拠や証拠に基づいた「本当のこと」を見極めてこその人間性や倫理として機能するのであって

個人的に悪趣味であろうが 多数人気が得られなかろうが それは人間性とは無関係なのです

人畜無害な悪趣味は 社会的には人畜無害なのであって 主観的嫌悪感という個人的好き嫌いそのものは 所詮や主観に過ぎず 論理客観的な人間性や倫理の論証には全くならないのです

自分の主観的好き嫌いが絶対的基準になっているのであれば それは自分に対する過信でしかありません

自分の個人的好き嫌いが完全無欠の絶対的評価基準だと「思って」いるとすれば それこそが「倒錯」というものです

真理は主観の中にはありません あくまで論理客観的根拠に基づいて識別されなければならないのです

 

 

Ende;


Shallow Fake

2022年06月18日 23時42分10秒 | 意識論関連

ディープフェイクの危険性が提唱されているが

別にディープフェイクなんぞ使わんでも衆愚を騙すのは簡単である

読書猿による「学校の勉強は認知的ワクチン」などというデマも ディープフェイク映像なんぞ使わなくても衆愚は簡単に鵜呑みにし 何の疑問も持たない

現状の哲学界においては イマヌエル:カントの「純粋理性批判」は「近代哲学の最高峰」だと形容されているが その内容は論理的根拠をすっ飛ばした実証不能の謎の「叡智界」というファンタジー妄想であっても衆愚は簡単に鵜呑みにし 「哲学的で難しいからわからない」などと言いながら 論理的には何も理解していないにも関わらずそれを哲学だと鵜呑みにし 信用してしまう

現状の生物学においても 遺伝的進化には目的もなければ選択可能性も生存戦略も存在しないにも関わらず 相変わらず長谷川眞理子は「○○のために進化を選んだのよ」などという間違った説明を続け しかもヒトの戦争をチンパンジーの殺し合いと同列に扱い「ゲーム理論」などという損得勘定だけで説明しているにも関わらず 大衆マスコミの誰も 何の疑いも持たずに鵜呑みにしているのである

嘘やデマなのか それとも真実なのか その区別がつかないのであれば それは「区別がつかない」と判断を保留するのが論理客観的判断というものである

だが ヒトは自分が主観的に信じたい話 気分が良くなる話の方だけを信じようとする性質があり 偏った判断をするヒトというのは基本的にヒステリックで暴力的解決に走るものである

感情的な「レッテル貼り」や暴力的解決を選択していること そのものが主観的解決(錯覚)であり 論理客観性を欠いている証拠である

 

 ◇

アイデンティティは主観であり 論理客観的には存在しない

「自分は○○だ」といった決めつけに依存して 気分的に安心満足することをアイデンティティだと主観的に「思って」いるに過ぎない

ヒトという種の生物は 主観的安心感のために様々な決めつけやはぐらかしや「エピソード記憶」をでっち上げ 既存の自分のあらゆる判断選択や価値観を事後正当化しようとするものなのである

しかし 既存の自己のあらゆる判断選択や価値観は 必ずしも自己の主体的判断選択が介在している保証はない

自己の遺伝子も選択不能であれば 自分の大脳辺縁系によって促されるあらゆる行動バイアスの全てにも 生育環境によって組み込まれたあらゆる価値観にも 自己選択可能性はほとんど介在していないのである

だから「自由意志はほとんどない」と言えるのである

従って 自発的に論理客観的検証による判断選択なくして自由意志選択など存在していないのである

自由意志とは論理客観的検証による真実に基づいた判断選択の中にのみ存在しているのである

人間としての倫理的判断にはアイデンティティは必要がない 民族国籍所属肩書ジェンダーに依らず 偏りのない普遍的価値観に基づいた判断でなければ真の人間性とは言えないからである

しかしヒトは基本的には動物であるために 主観的情動に基づいた行動が優先し 論理客観的根拠に基づいた安全性よりも 主観的安心満足が得られる短絡安易な正義や解決を選択しがちなものであり

それこそが無意識であることを ヒトは自覚することができない原因でもある

 

主観的に気分を良くしてくれる「信じたい話」ばかりを求め その内容に論理客観的根拠や証拠が存在しているのかを誰も考え検証していないから バカみたいな話であっても鵜呑みにしてしまい 真実を見失うことに陥るのである

 

 

Ende;


一線を超える前の根源的原因

2022年06月18日 22時57分43秒 | 意識論関連

生きていた証を遺したかった

⇨「生きていた証を遺す」必要性とは 結局他人からの評価承認である

存在を他人からの見た目だけに依存し 主体的に自分からは生きていないのである

 

自分の事しか考えていない奴ばっかりだから

⇨結局他人の所為

世の中自己中心的な奴は少なくはないが だからといって自分までが自己中心的で身勝手な行動をしても良い理由にはならない

自己中心的な行動が良くない行動であることを知っていながら 自律的な社会的責任判断選択をしないから「自分がない」「意識がない」のである

「へずまりゅう」が主張していた「迷惑者はザラにいる」という話と同じで 「悪いのは他人」であって 自分の主体的意志では行動を選択していない

 

なぜ事件を起こすに至ったのか 本人にもわかってはいない

情動としての不満に基づく方向性や合理性のない報復感情による暴力であるから 先天的本能としての暴力性に無意識に流されているだけだからこそ 本人には理由がわからないのである

 

自分で物事を主体的に選択せず 環境に流されるままだからこそ 他人との比較に敗北感を抱き 生きる意欲を失い何もしなくなるのである

 

社会が良くなるかどうかはわからない

「わからない」というのは 「良くなる」可能性と「良くならない」可能性の両方があり 社会が良くなるために必要なのは まず自分も含めた個人が良くなる方向へと行動を選択する必要がある

 

犯罪者の共感性の乏しさ」などという意見があるが 通り魔に共感している奴もいるのであって 主観的気分としての共感性は人間性の論拠にはならない

 

どうすれば一線を超えさせないようにできたのか」というが 一線を超える前からそもそも主体性がないことが原因であって 危険性の源を絶たなければ世界中のバカの面倒を 一体誰が看ると言うのであろうか

 

自分のことを大事に思ってくれる人」が いるかいないかは関係がない

誰も大事に思っていようがいまいが 自らが安全で公平な社会を求めば 他人に迷惑にも配慮は可能となる

身勝手な奴を見ればぶん殴りたいと「思う」ことは誰しもがあるが そういう衝動や欲望そのものは自ら欲することはできないものであって それは「自分の意思(意識)」ではないのである

迷惑者を殴るのであればまだしも 無差別殺人犯が標的にする相手は「誰でも良い」のであって 主観的に「怖い」相手には向かわず 「勝てそう」な相手ばかりを標的に選ぶ卑屈さも 結局は他人と比較しての劣等感が原因だからである

幸福そうな他人も守るという社会安全性なくして 自分が個人的に楽しいと思えることにも安心して続けることができないということを「理解」しておらず 幸福そうな他人を蹴落とすことで目先の優越感を得ようとするからバカなのである

 

一線を超える以前に 一線を超える原因が存在しているのであって 原因を無視して再発防止になどならない

私から見れば オガクズの山に埋もれてタバコを吸いながら「どうして火事が起きるんだろう?」と言っているようなものである

それはもうバカという以外なかろう

主観的気分 欲望や感情の強度程度だけが意識の本質だと錯覚しているから 論理客観的真理が全く区別できていないのである

たとえ境遇がどんなに豊かであろうとも 身勝手な独裁者は平気で他人を殺すものである

「絆」だの「仲間」だのも 腐敗組織の内部でも発揮される主観的気分に過ぎず 評価承認欲求中毒患者である以上は自分で自分を抑制することはできず 結果的にヒトラーやプーチンやらルカシェンコや習近平やミャンマー政府軍のように身勝手な独裁政権にも簡単に陥るものなのである

日本大学の田中英寿理事長らによる組織腐敗や振り込め詐欺師集団に「絆」もスッタクレも関係はない

どんなに物質的な富や権力を掌握しても 「人間としての本当の目的」を忘れ 何も考えていないバカなら無差別殺人でも戦争でも何でもやらかすものなのである

こうした性質は ヒトという種の生物であれば普遍的に見られるものでもある

ヒトの先天的な頭の悪さ 認知上の欠陥を理解認識しない限りは 同じ様な過ちは何度でも繰り返すことになるのである

 

一線を超えるか超えないかは「結果」である

結果的に起きた無差別殺人だけを論じても 一線を超える可能性としての無差別殺人の原因の究明にはならず 必然的に再発防止にもならない

実際に起きてしまった事象だけを注目し 起きる根源的原因を別物に扱うから根源的原因を見失うのである

 

 

 

Ende;


本当のこと

2022年06月17日 21時21分54秒 | 意識論関連

ヒトという種の生物には 先天的本能習性としての「社会性」がある

だが 先天的本能習性として社会を形成する習性というものは あくまで封建的序列に基づいた統率協調性であって 差別や組織腐敗の原因としても働く無意識な行動バイアスに過ぎず 「人間としての社会性」とは全く別のものである

先天的本能習性としての封建的統率協調性というものは イヌにもみられる習性であって イヌはそもそも平等が嫌いなのである

平等を嫌う本能的習性に人間性が伴うわけもなく これは人間としての社会性とは逆行するものでもある

 

ヒトは 主観的に嫌なことはしたくないものである

当たり前の話だが 怖い相手に逆らうことも嫌いである

暴力的な集団には 誰もが逆らいたくはない

だからイジメは学級内の8割が傍観者となるのである

これは日本大学における組織腐敗でも同じであり 怖い権力者に逆らいたくないという恐怖心によって 組織腐敗は長年温存放置され続けてきたのである

やっていることはヤクザ暴力団と同じである

一方的な暴力によって他人を抑圧すれば 多くのヒトは逆らうことができずに唯々諾々と腐敗組織の温存に加担してしまうものなのである

ロシア人の多くがプーチン政権に逆らわずに傍観しているのも

第二次世界大戦時にドイツ人の多くがナチス政権に逆らわなかったのも

東京電力福島第一原子力発電所において原発の津波に対する脆弱性について誰も批判しなくなったのも

組織を構成している個人が 組織の中での保身感情によって たとえ腐敗した組織であろうとも唯々諾々と服従迎合することによって 個人は自律的な社会的責任判断選択を放棄するようになるのである

 

「戦争は女の顔をしていない」の著者であるアレクシェービチ氏は

「個人に本当のことを言う勇気が試されている」と述べている

しかし 残念ながら ヒトの多くは「本当のこと」が何なのかすらも自覚認識してはおらず

主観的に安心なものを短絡的に安全性と錯覚し 自分が安心だと「感じて」いる自分の感覚を あたかも絶対的なものであると過信していることこそが安心であり 論理客観的安全性になど誰も興味はないのである

腐敗した組織集団の中における個人は 「世の中そういうものだ」という「安易な絶望」によって問題意識を失い 腐敗組織への同調迎合や忖度服従こそが「生きるため」には最優先であると称して腐敗組織の温存に加担するようになるのである

東京電力社内において 原発の津波に対する脆弱性なんぞ放置しておいてでも 社内における自分の地位権益を保守維持することの方が優先し それこそが安心満足なのであって それが「本当のこと」かどうかなど 利己的には何の興味もなかったからこそ 自律的な社会的責任判断選択などしなくなったのである

日大でも同じで 腐敗した組織に迎合しておくことこそが 組織内部での利己的地位権益において有利であることを優先したからこそ 組織腐敗は長期において温存放置され続けてきたのである

「生きるためには」という利己的利益を最優先にすれば 社会安全性や公平性といった「人間としての判断(本当のこと)」など どうでもよくなるのである

生存そのものをいくら求めても 生存にとっていくら有利な行動を選択したとしても ヒトはいつか必ず死ぬ運命にある

ヒトの死亡率は100%であることからは逃れられない

それでも生き続ける理由とは 生き続けるに価する社会の姿としての理想(本当に求めている社会)に基づいた行動選択をすることである

腐敗組織の温存に加担してまで自己の延命を望んでも それは生物としては生存に適しているとは言えても 人間としてしては死んでいるのである

生物の生存とは あくまで「結果」であって 人間としての「目的」ではない

生き続ける上において人間としての「目的」を忘れて ただ漫然と無意識に「生きている」だけなら それはヒトであっても人間とは言えないのである

「生きるためには」と称して あらゆる屁理屈をでっち上げることは可能であるが 単なる遺伝的進化の結果に過ぎない「生存」そのものは自分では選択していないのである

選択していない生存に「自由」などない

本当の「自由」とは 選択可能性の中に存在するのであって 生き続ける「理由」もなしにただ本能のままに「死にたくない」といくら主観的に「思って」も それは自由意志でも何でもないのである

 

ヒトは絶望する

未成年が自殺するのも 絶望するからである

絶望するからこそ人間でもあるのだが 絶望するからには「本当の望み」があるからである

何の望みも持たぬイヌやサルは自殺をしない

養育放棄による多頭飼育崩壊環境においても イヌが絶望して自殺することはない

イヌには欲望はあるが それは目先の情動バイアスとしての欲望であって 人間としての「本当の望み」に基づいた選択ではなく 野犬の群れに混ざれば野犬となり ヒトに訓練されれば介助犬や救助犬にもなる環境依存的な結果以上何も選択はできない

育て方を間違えれば飼い主の手を噛むようにもなるのであり イヌにあるのは自己選択不可能な先天的情動バイアスだけであって イヌには「本当の望み」など存在していないのである

 

セーレン:キェルケゴールは「死に至る病」において 絶望の様々な形態を挙げ それらの全ての絶望に「本当の望み」が伴っていないことを論証している

通り魔が「俺のような人間は死刑になったら良いんじゃ!」などと言い張るのは 「世間的評価が主観的に思ったように得られない」という利己的欲求を満たしてくれない社会に対する方向性や合理性のない報復感情を満たすための無差別殺人であって 人間としての「本当の望み」に基づいた絶望ではないのである

自分の脳を満足させるのは 自分である

何に満足を「感じ」るのかは 自分にしかわからないからだ

脳内麻薬を自給自足できるからこそ 他人への理不尽な要求や迷惑行為をしなくなるのであって 他人からの評価や報酬だけしか見ようとしないからこそ 利己的で身勝手な実証不能の観念を振り回し 他人に多大な迷惑をかけるようになるのである

オウム真理教幹部達が毒ガステロを実行したのは 教祖からの評価が目的である

ナチスのユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンが600万のユダヤ人殺害計画書を作成したのも ナチス政権からの評価が目的である

ロシア人の大半がプーチン政権に異議を唱えないのも ロシア社会における自分の評価を失いたくないという情動が働いているからである

ヒトは多数に迎合しない少数派を「バカだ」とみなす そう思っておけば多数派に同調している自己が正当化できていると錯覚できるからだ

ヒトが暴力者に対して盲目的に同調迎合服従忖度し 腐敗組織の温存放置に加担するのは ヒトの先天的な情動バイアスによる「結果」である

自分の主観的感情を 自分の意識の本質だと錯覚していれば 「本当のこと」など最初から興味を持たない だからヒトは暴力的統率者に唯々諾々と服従し 組織腐敗を傍観放置するのである

ロシア人はプーチンを信じておけば安心なのである

それは ナチス政権下のドイツ人がヒトラーを信じようとしたのも 日大の職員達が日大組織を信じようとしたのも 東京電力福島第一原子力発電所の職員達が上司や経営陣の指示に従って個人が自律的な社会的責任判断をしなくなったもの ヒトという種の生物に普遍的に見られる先天的習性の「結果」である

ヒトは権威とみなした相手の命令に逆らうことが嫌いで たとえ他人に危害が及ぶような指示命令であったとしても ヒトは権威が全部責任を取ってくれるものだという錯覚によって ヒトは盲目的に無責任性を発揮するようになるのである

スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験は そうしたヒトの盲目性や無意識性を科学的に「立証」しているのである

ヒトが権威の指示命令を安心して鵜呑みにするのと同時に 権威肩書のない個人が多数や権威を批判しても耳を貸そうとはしなくなる

主観的に「嫌な話」は 主観的に「信じたくない」ために 内容を理解しようともしないし 最初から真実など何の興味もないからである

エサをちらつかせれば急に従順になるイヌのように 主観的に気分が良くなる「信じたい話」以外には何の興味もないから 盲目的無意識になり 何も自分では考えず 判断もせず 多数や権威の主張を唯々諾々と鵜呑みにしてバカになるのである

サイバネティクス(生物学)の観点からは 統率協調的に「敵」を排除できることは 「生存」価にとっては有利に働くものの テロリストや暴力団などの反社会的組織の排除以外においても ミャンマー政府軍のように民主化組織の排除にも便利に「応用」可能なものであって 決して常に人間性としての目的行動に適う「習性」とは言えないのである

長谷川眞理子のように「ゲーム理論」を持ち出してしまえば 武力的に優位な方だけが一方的に「勝つ」ことも正当化可能となるのであり そこに人間としての公平性や安全性など介在する余地はなくなる

表面的には独裁者を批判しているかのように衆愚には見えるかも知れないが 「勝てそうな戦争ならやっちまった方が得だ」というゲーム理論は むしろプーチンが戦争を始めたことを正当化しているのと同義である

長谷川眞理子のようなキチガイが大学の学長を何年も務めているというのは 文科省の判断にも著しい問題がある

一体どれだけバカが多いんだと 呆れて意欲が失せる一方である

 

 


Ende;


勝てそうな戦争ならやり得

2022年06月17日 12時45分23秒 | 意識論関連

ヒトという種の生物には 先天的本能習性としての「社会性」がある

だが 先天的本能習性として社会を形成する習性というものは あくまで封建的序列に基づいた統率協調性であって 差別や組織腐敗の原因としても働く無意識な行動バイアスに過ぎず 「人間としての社会性」とは全く別のものである

先天的本能習性としての封建的統率協調性というものは イヌにもみられる習性であって イヌはそもそも平等が嫌いなのである

平等を嫌う本能的習性に人間性が伴うわけもなく これは人間としての社会性とは逆行するものでもある

 

ヒトは 主観的に嫌なことはしたくないものである

当たり前の話だが 怖い相手に逆らうことも嫌いである

暴力的な集団には 誰もが逆らいたくはない

だからイジメは学級内の8割が傍観者となるのである

これは日本大学における組織腐敗でも同じであり 怖い権力者に逆らいたくないという恐怖心によって 組織腐敗は長年温存放置され続けてきたのである

やっていることはヤクザ暴力団と同じである

一方的な暴力によって他人を抑圧すれば 多くのヒトは逆らうことができずに唯々諾々と腐敗組織の温存に加担してしまうものなのである

ロシア人の多くがプーチン政権に逆らわずに傍観しているのも

第二次世界大戦時にドイツ人の多くがナチス政権に逆らわなかったのも

東京電力福島第一原子力発電所において原発の津波に対する脆弱性について誰も批判しなくなったのも

組織を構成している個人が 組織の中での保身感情によって たとえ腐敗した組織であろうとも唯々諾々と服従迎合することによって 個人は自律的な社会的責任判断選択を放棄するようになるのである

 

「戦争は女の顔をしていない」の著者であるアレクシェービチ氏は

「個人に本当のことを言う勇気が試されている」と述べている

しかし 残念ながら ヒトの多くは「本当のこと」が何なのかすらも自覚認識してはおらず

主観的に安心なものを短絡的に安全性と錯覚し 自分が安心だと「感じて」いる自分の感覚を あたかも絶対的なものであると過信していることこそが安心であり 論理客観的安全性になど誰も興味はないのである

腐敗した組織集団の中における個人は 「世の中そういうものだ」という「安易な絶望」によって問題意識を失い 腐敗組織への同調迎合や忖度服従こそが「生きるため」には最優先であると称して腐敗組織の温存に加担するようになるのである

東京電力社内において 原発の津波に対する脆弱性なんぞ放置しておいてでも 社内における自分の地位権益を保守維持することの方が優先し それこそが安心満足なのであって それが「本当のこと」かどうかなど 利己的には何の興味もなかったからこそ 自律的な社会的責任判断選択などしなくなったのである

日大でも同じで 腐敗した組織に迎合しておくことこそが 組織内部での利己的地位権益において有利であることを優先したからこそ 組織腐敗は長期において温存放置され続けてきたのである

「生きるためには」という利己的利益を最優先にすれば 社会安全性や公平性といった「人間としての判断(本当のこと)」など どうでもよくなるのである

生存そのものをいくら求めても 生存にとっていくら有利な行動を選択したとしても ヒトはいつか必ず死ぬ運命にある

ヒトの死亡率は100%であることからは逃れられない

それでも生き続ける理由とは 生き続けるに価する社会の姿としての理想(本当に求めている社会)に基づいた行動選択をすることである

腐敗組織の温存に加担してまで自己の延命を望んでも それは生物としては生存に適しているとは言えても 人間としてしては死んでいるのである

生物の生存とは あくまで「結果」であって 人間としての「目的」ではない

生き続ける上において人間としての「目的」を忘れて ただ漫然と無意識に「生きている」だけなら それはヒトであっても人間とは言えないのである

「生きるためには」と称して あらゆる屁理屈をでっち上げることは可能であるが 単なる遺伝的進化の結果に過ぎない「生存」そのものは自分では選択していないのである

選択していない生存に「自由」などない

本当の「自由」とは 選択可能性の中に存在するのであって 生き続ける「理由」もなしにただ本能のままに「死にたくない」といくら主観的に「思って」も それは自由意志でも何でもないのである

 

ヒトは絶望する

未成年が自殺するのも 絶望するからである

絶望するからこそ人間でもあるのだが 絶望するからには「本当の望み」があるからである

何の望みも持たぬイヌやサルは自殺をしない

養育放棄による多頭飼育崩壊環境においても イヌが絶望して自殺することはない

イヌには欲望はあるが それは目先の情動バイアスとしての欲望であって 人間としての「本当の望み」に基づいた選択ではなく 野犬の群れに混ざれば野犬となり ヒトに訓練されれば介助犬や救助犬にもなる環境依存的な結果以上何も選択はできない

育て方を間違えれば飼い主の手を噛むようにもなるのであり イヌにあるのは自己選択不可能な先天的情動バイアスだけであって イヌには「本当の望み」など存在していないのである

 

セーレン:キェルケゴールは「死に至る病」において 絶望の様々な形態を挙げ それらの全ての絶望に「本当の望み」が伴っていないことを論証している

通り魔が「俺のような人間は死刑になったら良いんじゃ!」などと言い張るのは 「世間的評価が主観的に思ったように得られない」という利己的欲求を満たしてくれない社会に対する方向性や合理性のない報復感情を満たすための無差別殺人であって 人間としての「本当の望み」に基づいた絶望ではないのである

自分の脳を満足させるのは 自分である

何に満足を「感じ」るのかは 自分にしかわからないからだ

脳内麻薬を自給自足できるからこそ 他人への理不尽な要求や迷惑行為をしなくなるのであって 他人からの評価や報酬だけしか見ようとしないからこそ 利己的で身勝手な実証不能の観念を振り回し 他人に多大な迷惑をかけるようになるのである

オウム真理教幹部達が毒ガステロを実行したのは 教祖からの評価が目的である

ナチスのユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンが600万のユダヤ人殺害計画書を作成したのも ナチス政権からの評価が目的である

ロシア人の大半がプーチン政権に異議を唱えないのも ロシア社会における自分の評価を失いたくないという情動が働いているからである

ヒトは多数に迎合しない少数派を「バカだ」とみなす そう思っておけば多数派に同調している自己が正当化できていると錯覚できるからだ

ヒトが暴力者に対して盲目的に同調迎合服従忖度し 腐敗組織の温存放置に加担するのは ヒトの先天的な情動バイアスによる「結果」である

自分の主観的感情を 自分の意識の本質だと錯覚していれば 「本当のこと」など最初から興味を持たない だからヒトは暴力的統率者に唯々諾々と服従し 組織腐敗を傍観放置するのである

ロシア人はプーチンを信じておけば安心なのである

それは ナチス政権下のドイツ人がヒトラーを信じようとしたのも 日大の職員達が日大組織を信じようとしたのも 東京電力福島第一原子力発電所の職員達が上司や経営陣の指示に従って個人が自律的な社会的責任判断をしなくなったもの ヒトという種の生物に普遍的に見られる先天的習性の「結果」である

ヒトは権威とみなした相手の命令に逆らうことが嫌いで たとえ他人に危害が及ぶような指示命令であったとしても ヒトは権威が全部責任を取ってくれるものだという錯覚によって ヒトは盲目的に無責任性を発揮するようになるのである

スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験は そうしたヒトの盲目性や無意識性を科学的に「立証」しているのである

ヒトが権威の指示命令を安心して鵜呑みにするのと同時に 権威肩書のない個人が多数や権威を批判しても耳を貸そうとはしなくなる

主観的に「嫌な話」は 主観的に「信じたくない」ために 内容を理解しようともしないし 最初から真実など何の興味もないからである

エサをちらつかせれば急に従順になるイヌのように 主観的に気分が良くなる「信じたい話」以外には何の興味もないから 盲目的無意識になり 何も自分では考えず 判断もせず 多数や権威の主張を唯々諾々と鵜呑みにしてバカになるのである

サイバネティクス(生物学)の観点からは 統率協調的に「敵」を排除できることは 「生存」価にとっては有利に働くものの テロリストや暴力団などの反社会的組織の排除以外においても ミャンマー政府軍のように民主化組織の排除にも便利に「応用」可能なものであって 決して常に人間性としての目的行動に適う「習性」とは言えないのである

長谷川眞理子のように「ゲーム理論」を持ち出してしまえば 武力的に優位な方だけが一方的に「勝つ」ことも正当化可能となるのであり そこに人間としての公平性や安全性など介在する余地はなくなる

表面的には独裁者を批判しているかのように衆愚には見えるかも知れないが 「勝てそうな戦争ならやっちまった方が得だ」というゲーム理論は むしろプーチンが戦争を始めたことを正当化しているのと同義である

長谷川眞理子のようなキチガイが大学の学長を何年も務めているというのは 文科省の判断にも著しい問題がある

一体どれだけバカが多いんだと 呆れて意欲が失せる一方である

 

 


Ende;


論理客観的に「考え」ないからバカなのである

2022年06月16日 13時36分32秒 | 意識論関連

世間体というのは 他人からの評価への執着でもある

他人と比較した序列に執着するのは 自分が世間の中で順位序列が低く見積もられていると「感じ」ることへの恐怖心が世間体としての情動行動を促してしまう

プーチンも結局は国民からの世間体を気にし過ぎることで プロパガンダで騙してでも国民からの支持を得ようとしているのであり 通り魔であろうと戦争であろうと やっているのはヒトであって規模の大小は関係がない

それこそ長谷川眞理子のように「ゲーム理論」を持ち出してしまえば 「勝てそうな相手なら殲滅しても構わない」という話になってしまうのであり そういう「サルの正義」を人間社会に適用して良いわけがない

 

他人との比較による順位序列への執着心が評価承認欲求の基であり 自分が評価されることしか頭にないから他人への迷惑に配慮が効かなくなるのである

評価承認欲求というのは 欲求という欲望が行動動機であって 主観的気分だけが行動に直結しているからこそ暴力的解決へと暴走が始まるのである

その意味において ヒトの大半は評価承認欲求中毒であると言えるだろう だからデマや嘘と真実の見分けがつかなくなる

主観的に気分が良くなる話だけを信じようとし 自分の頭で論理客観的に「考える」ことを一切しなければ 必然的にデマや嘘と真実の区別なんぞできなくなる

学術権威肩書の言っている内容は全部鵜呑みにし 言っている内容に論理整合性が抜け落ちていようがなんだろうが一切興味も批判精神も発揮されることなく 盲目的に唯々諾々と信じ込むことで ヒトはバカになるのである

寝起きで寝ぼけているわけでも 飲酒で酩酊状態でもなければ 殴られて意識が朦朧としているわけでもないのに 一切嘘やデマを見分けることができない状態を「無意識」と言っているのである

「人間として無意識」だと言っているのである

人間として無意識だからこそ 人間性も発揮されることなく無責任に嘘やデマを鵜呑みにできるのである

嘘やデマを多数が鵜呑みにしていれば 安心して鵜呑みにしていられるであろう

多数によって自分の判断責任が薄まるかのような感覚(錯覚)が働くからである

そして そうした感覚の存在も 自分の所為ではないと「思う」ことで 言い逃れができるとも「思って」いるのである

そこにあるのは全部が主観的な「思い」だけで 論理客観的な「考え」が一切介在していない

それはもう「バカ」という以外に形容詞は見つからないし 見つけようとも思わない

 

 


Ende;


誤謬

2022年06月16日 09時51分28秒 | 意識論関連

遺伝的進化の結果に対して 事後正当化する形での「意味のこじつけ」は科学的論証にはならない

ヒトが実証不能の神を求めたがるのは ヒトの祖先が順位序列に基づく封建的な統率協調行動習性が「繁殖の継続」に適した結果として 盲目的に信頼したがる対象としての神を求めているのであって ヒトの盲目的服従性を事後正当化する形で「ヒトが実証不能の神を求める意味」をどんなにこじつけても 科学的論証には全くならない

 


「○○の為に進化を選んだ」

「生存戦略」

といった説明の仕方が 一体どこから誰がし始めたのかは知らないし 興味もないが

たとえチャールズ:ダーウィンが自著の中でそう説明しているとしても 自然選択説とは論理的齟齬がある以上 こうした説明の全ては間違いである

論理的に間違っているものを 学術権威が説明しているからといって鵜呑みにしているから「バカ」だと言っているのである

 

イヌをヒトが都合良く品種改良し ヒトが好むような形質や習性を持った個体だけを選んで交配した結果に対し 織田裕二は「イヌの生存戦略ではないのか?」などという疑念を抱いていたが ヒトにとって都合の悪い個体の全てを断種してきたプロセスを無視して「イヌの戦略」などと言い出すのは錯覚も甚だしい

従来の生物学の教科書では 「○○のために進化を選んだ」「生存戦略」といった説明の仕方が平気でされてきたが これは遺伝的進化に対する「典型的な間違い」であると遠藤秀紀(東京大学総合研究博物館教授)が断言しているのである

 

科学は多数決ではない

論理客観的に整合性のある理論こそが「正しい」真理であり 従来の生物学における遺伝的進化の説明の大半では 間違った説明が蔓延しているのであって これらは全て改定訂正が必要であるにも関わらず 長谷川眞理子や山極寿一ら生物学権威の肩書を持った老害共によってはぐらかされ続けているのである

遺伝的進化が万能で 進化の全てが都合良く選べるかのような「説明」でもしておけば 衆愚マスコミの大半は主観的満足によって鵜呑みにすることができるのかも知れないが それは科学ではなく妄想ファンタジーでしかない

NHKの「ヒューマニエンスQ」では やたらと「妄想する」などと付け加えているが 科学的根拠のない話を科学番組で垂れ流しておいて良いわけがないのである

「妄想だから」と言い逃れしておけば 科学を逸脱する免罪符にでもなると思っているとしたら 倒錯も甚だしい

 

 


Ende;


イヌのはなし

2022年06月15日 23時52分37秒 | 意識論関連

イヌの生存戦略など存在しない

そもそも遺伝的進化に「戦略」が介在する余地などない

 

イヌがヒトの感情を読み取る

⇨感情を読み取ったとしても 読み取っているのは主観的感情であり ヒトの動物的側面だけである

私であっても 良く訓練されたイヌに対しては安心感を「感じ」ることができるが 主観的「感じ」をいくら抽出枚挙しても論理客観的な何か科学的立証にはならない

 

菊水健史(きくすいたけふみ) 麻布大学

ヒトとイヌが見つめ合うとオキシトシンが分泌される

⇨シロイルカと見つめ合ってもオキシトシンが分泌される可能性は充分にある

ネコ好きならネコ相手でもオキシトシンが分泌されてもおかしくはない

そもそもオキシトシンは仲間同士の絆のような感情も作り出すが 同時に差別や序列も作り出すものであって 決してオキシトシンが分泌されたからといってアニマルセラピー以外に何かの役に立つわけではない

 


⇨イヌは平等を嫌う 平等を嫌っている時点で人間性と反する

 

イヌも言葉を理解しているという

少なくとも400語は憶えるという

⇨言葉を理解したとしても 論理的に物事を考え 人間としての論理客観的判断ができるわけではないし

そもそもヒトであっても 学力偏差値がたかくても論理客観的判断が出来ている者はほとんどいないのである

イヌが理解しているのは 物の分別だけであり 新聞とは何か PETボトル飲料がどれか そういった区別だけならニューラルネットワークAIでも可能なものであり 人間の知能としての論理客観的真偽の判定ができるわけではない

AIがSNS上のヒトのヘイトスピーチを「正解データ(常識)」として学習してヘイトスピーチに便乗するのと同じように

イヌは野犬の群れの中で育てば野犬にしかならない

ヒトであっても大量の言葉を理解していたとしても 東京電力福島第一原子力発電所において原発の津波に対する脆弱性を放置しない保証があるわけではない

 

ロシア ドミトリー:ベリャーエフ ギンギツネの人工繁殖実験

野生では極めて警戒心が強い

ネオテニー 幼形成熟性

 

眼輪筋はイヌでは発達したが 原種のオオカミにはない

⇨多頭飼育崩壊をイヌが避けられないのは イヌには何の戦略もないからである

 

イヌに対して気分的安心満足感を主観的にいくら「感じ」ても それを事後正当化する形のあらゆるこじつけには意味がない

主観的感覚はいくら並べ立てても主観以上の何も論証しないのである

 

 


Ende;


意味論

2022年06月15日 18時08分21秒 | 意識論関連

生物現象には必ず意味がある」などと言っている生物学者がいたが

今まで知られていない現象を発見したからといって 生物現象の全てに必ず意味があると断言することは出来ない

ある生物現象の結果に何らかの合理的理由があるとしても 結果の全てに意味が必ずあることの科学的論拠にはならない

ヒトが生活習慣病になりがちなのは 祖先の生息環境の名残りであって 結果に至るまでの理由は説明できるとしても 結果に対して意味をこじつけることは科学的論証とは言えない

ヒトが幼児性愛性を持っている過程の理由をいくら説明しても 未成年との性交が正当化できるわけではない

「殴りたくなったから 殴った」という生物の生理現象も意味のこじつけが正当化できないのである

 

ネコがマタタビを噛むことで 蚊を寄せ付けない成分が多く発散されるからといって ネコが「蚊に刺されないようにマタタビを噛んでいる」わけではない

そうした行動が結果的に蚊を寄せ付けない結果をもたらしたとしても そうした先天的本能習性そのものはネコが意図目的のために選んだものではない

 

そんなに難しいこと言ってるか?

バカしかいないのかよ

説明していてバカらしくなるわ

 

 

Ende;


イヌの共感性

2022年06月15日 15時35分55秒 | 意識論関連

「“イヌ” ヒトの心を照らす存在」

人間という不思議な存在を問い続ける「探求の旅」シリーズ。今回は、人類との絆を深めた長年のパートナー「イヌ」。数万年前からヒトと共に生きることを選んだその訳とは?

ヒトにとって「イヌ」は長年のパートナーだ。オオカミから分化したイヌは、ヒトと共に暮らした数万年の中で、お互いに「共進化」する関係だったという。イヌの脳は、ヒトの“言葉”を理解できるようになり、イヌの表情筋は、ヒトに“感情”を感じさせるようになった。そしてイヌとヒトが共に持つホルモンは、家族の様な“絆”を作り出すまでになってきた。イヌとヒトという異なる種の共存関係から生まれた進化の意味を妄想する。

 NHK「ヒューマニエンスQ」番組予告

 

 

ヒトと共に生きることを選んだ」というが イヌが意図目的に基づいて先天的本能習性を選ぶことなど出来ない

ヒトとの共存に適した個体種への収斂進化(品種改良)の結果として共生関係に至ったのであって ヒトに都合の悪い個体の遺伝子を排除した結果である

スピッツが当初吠え癖が酷くて不評となったが その後の品種改良として吠え癖の強い個体を断種し 吠えないスピッツだけを交配することによって スピッツは無駄吠えをしずらいように品種改良したのである

 

」といった情動的共感性というものを イヌに感じたとしても 「感じ」ている時点でそれは主観であって 論理客観的にイヌが常にヒトにとって都合良く行動選択をする証拠にはならない

アニマルセラピーなどにおいて イヌに安心感を抱くことはあるとしても カルト宗教の信者が教祖に安心感を抱いたり ロシア人がプーチン政権に安心感を抱いたり ナチス政権下のドイツにおいてドイツ人がヒトラーに安心感を抱くことと同じであって 主観的に安心なら安全性の論拠になるわけではない

 

 

進化の意味を妄想する」などと言っているが 「進化の意味」など存在しないし 「妄想」だと言張れば論理的根拠のない話でも垂れ流して良い理由にもならない

遺伝的進化は全て「結果」であって 「進化の意味」などというのは根拠のないこじつけに過ぎず 科学的には何も論証されない

ヒトの生活習慣病が進化の過程において 過去の生息環境の影響によるものであるという「結果に対する理由」の説明はできても その「結果に対して意味をこじつける」ことは科学ではない

「オノレはカブトムシと一緒で先天的本能習性には逆らえないんだ」と言っているのと同じで 本能習性などの遺伝的進化の結果に対して無理矢理「意味」をこじつけるのは科学を逸脱した身勝手な「妄想」の範疇である

身勝手な「妄想」を大多数の衆愚が主観的に面白がって視聴率が稼げたとしても 科学的事実を逸脱しておりNHKの「業績」としては不適切である

養老孟司による「脳化社会」云々の屁理屈が 衆愚にどんなに人気を集めようとも 養老孟司の言っている内容の論理客観的正当性の論拠にはならないのと同じである

出版各社は養老の著作で金儲けに成功しているため 今更養老がオカルトだとは言いたくないだけであって 組織の利益を優先し個人が自律的な社会的責任を負わないことによって 真実は黙殺されるのである

 

イヌとヒトには共通する情動があり 順位序列による差別や統率的協調性の素となるホルモン(オキシトシン)が絆のようなものを主観的に「感じ」させる仕組みが脳内に共通して存在しているため ヒトはイヌに対して主観的安心感を抱くようにもなるのである

しかし イヌは所詮イヌであり ヒトがヒトにとって都合のよい訓練や養育をせずに野犬の群れに混ざってしまえば 所詮は野犬にしかならず 統率協調性も獲物を捕らえるために発揮され ヒトを襲うこともある

ヒトであっても幼少期から暴力虐待を受けて育つことによって野獣のような凶暴性を発揮することもあり 軍隊というのはそういったヒトの凶暴性を イヌにも見られる先天的盲目統率服従性を利用して引き出すための集団組織であり 戦争などの糞くだらない行為にも便利に利用することが可能となるのである

イヌは 訓練次第ではヒトに忠誠忠実に服従するようにもなるが イヌが率先してヒトに服従しているわけではなく あくまで訓練ありきの結果的性質であって イヌでありさえすればヒトと共存できるわけではない

ましてや「ヒトと共に生きることを選ぶ」ことなど不可能なのである

遺伝的進化というものを論理的に理解していなければ 遺伝的進化の結果に対してあらゆる都合の良いこじつけが可能となり 科学を逸脱した曲解によって「ヒトには先天的に人間性が組み込まれている(山極寿一)」などという荒唐無稽なデマであっても衆愚人気を集めることは簡単である

優生学に対する論理反証を誰もしてこなかった原因も 遺伝的進化が常に正しい結果以外をもたらさない完全万能なものであるかのような錯覚を持ってしまっているからである

遺伝的進化に対する正しい理解をせず 優生学の何が間違いなのかを認識しないというのは ナチスの何が問題なのかを理解していないのと同じことであり バカであることにおいてナチス政権と同罪なのである

そんなバカがプーチン政権をどんなに批判しても プーチン政権の何が問題なのかを理解していないのであって どんなにウクライナ人に共感共鳴して主観的に満足しても何の問題解決にもつながらないのである

それがどんなに社会的に無責任だとしても 主観的安心満足でさえあれば 誰も問題意識は働かないものである

それは「バカの群れ」としか言いようがない

 

 


Ende;


組織腐敗の構造

2022年06月15日 14時17分23秒 | 意識論関連

「良かれと思って進化した」などという説明をしているが

遺伝的進化というものは個体の後天的な「思い」だの「考え」だの「願い」「祈り」「呪い」は遺伝的要素に影響を及ぼさない

既に絶滅している動物種が 現在において適応的ではない進化をしたのは その当時の生息環境において適応的であったために促された進化であって 「良かれと思って」進化することはできない

ダンクルオステウスのような巨大魚類や 恐竜 恐竜絶滅後にも哺乳類は巨大化したことがあり 身体が大きくないと生き残ることができないような生息環境においては先天的に身体の小さな個体種が淘汰され巨大化が起きるのであって これは個体には選択不可能な「結果」でしかなく 遺伝的進化の全ては自然現象の「結果」でしかない

しかし 環境が激変して巨大化が繁殖の継続にとって不利になれば巨大生物は絶滅し 巨大化しなかった生物だけへと収斂進化が促される ただそれだけのことである

環境資源が豊富で生物密度が高い環境下においては動物は凶暴化傾向が見られ 逆に環境資源の乏しく生物密度が低い環境下においては暴力性が低くなる傾向があるが 凶暴になろとして凶暴になったのではなく 凶暴でなければ繁殖の継続に適さない環境だから凶暴になっただけであって 意図目的は遺伝的進化には介在しない

また 極めて珍しい環境に適応した生物の場合には それを獲物として永続的に「繁殖を継続」できる程の獲物の数が充分ではなければ その生物種は天敵がいなくなり どんなに貧弱であろうと環境適応になることもある

ナマカフクラガエルやサンショウウオのような動きも鈍く弱い生物が現存しているのも 環境ありきの「結果」であって 「良かれ」もスッタクレもないのである

絶滅した生物を面白がって「バカだな」と思うのは勝手だが

ヒトもまた絶滅に向かっている現状においては過去の絶滅生物のことを嘲け笑っている場合ではない

絶滅に向かって一直線に起きる「進化」というもの(進化の袋小路)も存在しているのであって 進化というものが自然現象である以上は進化の全てが「成功」する保証など一切ない

 

ヒトの子供がピーマンの苦味を嫌うのは ピーマンの苦味というのが実は微量のアルカロイド系の毒であるため ヒトの祖先が肝臓の未発達な子供のうちには苦味のあるものを食べない性質を持った個体種への収斂進化が働いたためである

肝臓が未発達な時期に苦味のあるものを平気で食べてしまった個体種が生き延びることが出来ず その遺伝子を持った個体が全て死滅して子供のうちには苦味を嫌う遺伝子を持った個体への収斂進化が起きた結果である

しかし 大人になると ピーマンの微量のアルカロイドが血流改善の薬として働くため 大人になると適度に苦味のある食物も好むようになるのであり これもまた進化の結果である

それなら進化によって組み込まれた主観的好みや情動の全てが合理的かと言えば 逆に塩分や糖質脂質を過剰摂取して生活習慣病に陥る原因もまた 祖先の生息環境において塩分や糖質脂質が乏しかったために進化的に組み込まれた本能習性の結果であり 決してあらゆる環境に適応した進化が促されるわけではなく ネアンデルタール人が絶滅した原因は寒冷地適応が地球温暖化に適応できなかったことだとされている

 

かつて ヒトの祖先は過酷な自然環境下において暴力性の高い個体種への収斂進化が引き起こされ 結果的に暴力的懲罰を短絡的に「解決」だと錯覚するよう進化が促されたのである

ヒトは ヒト以外の動物との生存競争のみならず ヒト同士での環境資源の奪い合い競争にも勝ち抜いた結果 ヒトは他者を暴力によって抑圧し 順位序列による統率的協調性が本能習性として組み込まれた結果 盲目的に唯々諾々と服従し 自分の頭では何も考えなくなるバカになるよう進化的にそれが快楽として大脳辺縁系に組み込まれたのである

ナチス政権やプーチン政権 カンボジアのポルポト政権やミャンマー軍事政権のような野蛮な暴力性は 一般多数からみれば「イカれている」と感じるのであろうが

相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖に対しては「死刑にしちまえ」の一言で全てが解決するとも「感じ」るものなのであり ヒトは基本的に暴力的懲罰で物事が解決するかのような感覚(錯覚)が大脳辺縁系に組み込まれており 故にヒトはSNS上で特定個人や団体を根拠もなく誹謗中傷して満足したがるものなのである

 

単純に言って 暴力破壊や懲罰は「憂さ晴らし」になるのである

植松聖を死刑にすれば 満足するのである

しかし 植松聖のような倒錯したキチガイが出てくる原因究明や再発防止には全くならず 社会安全上は死刑などの懲罰は合理性が何もないのである

死刑以外のあらゆる懲罰においても ノルウェーの「リゾート刑務所」における再犯率の著しい低下から見ても 懲罰というものは社会安全上の合理性は極めて低いのである

女子中学生誘拐監禁事件の寺内樺風のように 完全に倒錯している犯罪者に「懲役12年」などと司法手続き上懲罰を加えたとしても それは更生する保証は何もない

寺内程に極端に倒錯していないとしても 逆にいえば犯罪がバレない程度に倒錯した変質者というのは一定数存在しており 痴漢や性被害が後を絶たないのは 「無数の倒錯者」による犯行であって 寺内のような「著しい倒錯者」の陰には「無数の倒錯者」が存在しているのである

性的傾向として異性の身体に興味を持つのは先天的習性としての欲望や行動バイアスであるが それそのものは選択不可能な進化の「結果」であって 一人の社会人としての目的行動選択とは別物である

文化系マスコミは安易にエンパシーだのシンパシーだのと情動的な共感性や感受性こそが人間性だと言い張りたがるが それは自分の情動バイアスや「常識」に一切の偏りが存在していないという正常性バイアスによる一種の倒錯(錯覚)に基づく決めつけに過ぎない

早稲田大学の強姦サークルは サークル内での共感協調性によるものであり カルト宗教を信じ込むのも共感性が働いているのであって 「共感さえすれば人間性が発揮される」という単純なものではない

ヒトの主観の中には 何らかの偏りが存在していると考えるべきであり 一切何の偏りも存在していない完全無欠の絶対人格者など存在するわけがないのである

主観的価値観の偏りを 偏りだと認識できなくなる原因は正常性バイアスであり 「自分だけは絶対に間違ってなどいない」という自己過信が働くことで ヒトはバカが治らなくなるのである

主観的価値観が偏っていることそのものは異常ではない

偏っていることを 偏っていると自覚していれば 偏った価値観に基づいた行動には陥らずに済むのであって 自分の主観的偏りを偏りとして認識するために必要なのは自己客観性である

「女性のスカートの中を見たい」と主観的に「思う」のは勝手だが それが直接行動に直結するから迷惑行為になるのであって 「見たいけど 見ないようにする」のが社会性であって 自分や身内が迷惑行為をされたくないのであれば 自分もまた迷惑行為はしないことを選択する理性によって 初めて「自由意志」だと言うことができるのである

客観性とは 必ず理性に基づくものであり 寺内樺風やプーチンがどんなに「理性的」であるかのように見えるとしても それは大衆観念上の錯覚であり 寺内やプーチンの倒錯と同じ錯覚によって それを「理性」だと勘違い錯覚しているからである

寺内が女子中学生を誘拐監禁したのは 自己客観的に社会安全性や公平性に基づいた行動選択ではなく 結局は主観的欲望の強度程度が行動の動機に過ぎない

プーチンの戦争も同じで 政治体制を維持温存する保身感情の強度程度が動機であって 本質的には理性は働いていないのである

ロシアに限らず 国威発揚的に軍事力の誇示を国家や民族の優秀さの基準であるかのように倒錯している者は少なくない だからこそ多くの政府は軍拡競争を安全保障と倒錯しているのである

これらに共通するのは 全て主観的安心満足が優先していることであり 社会安全性や公平性に基づいた本質的な理性(人間としての意識)が働いていないのが原因である

NATOにせよ ロシアやベラルーシや中国や北朝鮮にせよ 「敵」など本当はいないのである

「誰一人として取り残さない」という人道的見地から行動を選択すれば 国益よりも世界全体の利益を優先すべきなのは当然の帰結である

戦争と痴漢は別物だと主観的には「思う」かも知れないが 論理客観的にはヒトの主観的情動が行動に直結しているが故の迷惑行為であることに違いはない

ロシア軍兵士を何人殺害しても 痴漢を何人刑務所にブチ込んでも 根源的「解決」としての原因究明や再発防止にはならない点において 全く同じことなのである

 

ヒトは順位序列による差別をしたがる本能的習性があり 「敵」という差別対象を規定しておけば組織内部の不公平や差別をごまかすことが可能となる

「イジメられる方にも問題がある」としておけば イジメが正当化できると錯覚させられるのと同じで 暴力的懲罰こそが「正義」だと錯覚するヒトの認知上の欠陥こそが ヒトが最もバカになる根源的原因なのである

東京電力福島第一原子力発電所において 原発の津波に対する脆弱性を主張することを「バカだ」としておけば 安心して原発の津波に対する脆弱性を放置できたのも 順位序列による差別を都合良くこじつけたバカの多数による無意識性が原因である

長谷川眞理子や山極寿一や更科功などの生物学者共によるデマや嘘を傍観放置しておいても 多数がバカならデマだとも嘘だとも思わず鵜呑みにして満足する

こうした大多数の衆愚によって 学術界がバカの巣窟へと腐敗してゆくのである

 

 

 

Ende;


正常性バイアスによる過信

2022年06月12日 14時43分20秒 | 意識論関連

ヒトの多くが実証不能の神を信じたがるからといって 実証不能の神を信じたがることの効用をこじつけても それは「ヒトという種の生物の習性」を事後正当化しているだけであって 「人間性」の論証にはならない

遺伝的進化に対しても 結果的にバクテリアからヒトにまで進化したからといって進化の全てに意味をこじつけるのも合理性はない

ありもしない「目的」を 後からこじつけてしまうから優生学のようなオカルトが科学的真理であるかのような倒錯に陥ってしまうのである

 

ヒトは 間違いを犯した者に対して暴力的懲罰を加えると 「正義の鉄槌を下した」などと称して正当化するが 如何なる理由があれ暴力が解決であることの合理的根拠は何もない

ヒトは 気に入らない相手を殴ると満足する

進化の過程において 暴力性は自然界における弱肉強食の生存競争において 生存価や「繁殖の継続」において有利に働いたため 暴力性の強い遺伝子が拡がったという遺伝的進化の結果である

DV男が女房子供を殴るのも 通り魔やテロリストが暴力破壊をするのも 司法裁判による刑法判決も 全てヒトの主観的安心満足によって促される先天的な行動バイアスに過ぎず

先天的行動習性である以上は全てが「結果」であって 合理的「目的」に則った選択の論証にはならない

ノルウェーの「リゾート刑務所」における再犯率の大幅な低下からも 懲罰的処分は自律更生においての有効性が低いことを立証しているのであって 罰も含めて暴力威圧というものは自律的な社会的責任判断選択能力(人間性)の獲得にはならないのである

先天的な暴力性の強さは 個人差もあるのだが たとえ先天的に暴力性が強いからといって何でも暴力で解決することしかできないわけではなく 逆に暴力性が低いからといって理性的であることの論証にもならない

実際に暴力的行動を採るかどうかは その大部分が「育ち」という後天的要因に依存するものであり だからこそノルウェーの「リゾート刑務所」の再犯率が著しく低く抑えられているのである

酒鬼薔薇事件の少年Aも 未成年であったことから施設での再教育によって更生できたのであり 未成年かどうかに関わらず懲罰的な行動抑圧をしても「自律」には結びつかず 他律的な行動抑圧によって一時的には従順に社会規範に盲目的服従はするようになったとしても 釈放されて誰からも監視されなければ欲望や身勝手な「常識」に基づいた行動を採るようになってしまうのである

「へずまりゅう」の発言にも見られるように 裁判法廷審理の時だけ反省しているかのような演技をして判事のご機嫌取りに成功しても むしろ「判事を丸め込むなんぞチョロいもんだ」とばかりに釈放後に「俺の涙はヨダレと一緒」などと平然と言い出すのである

他人を騙すためには それなりの認知能力は必要で 振り込め詐欺師達による集団統率的協調行動にもそれなりの認知能力は必要ではある

だが それが「人間としての知能」として働いているかと言えば 全く逆に働いているのである

人間性を伴わぬあらゆる特定能力の高さというものは 学力偏差値や将棋やスポーツの成績も含めて「人間としての知能」とは無関係である

実際にスポーツ成績が高くても薬物依存に陥ることもあれば 将棋の成績が良くても科学的真理と嘘やデマの区別がつかないものである

 


国家間の戦争というものが個人単位の暴力とは無関係であると見なす論理客観的根拠や証拠はなにもなく 単に規模の大きさだけで勝手に分類しているに過ぎない

にも関わらず 戦争の話になった途端に「チンパンジーの殺し合い」だの「ゲーム理論」などといった話を持ち出し まるで先天的本能習性というものが合理的結果しかもたらさない万能のものであるかのように言い張るのは 長谷川眞理子などの進化生物学者共による「こじつけ」であって 科学的には何の根拠も証拠も提示されていないのである

チンパンジーや振り込め詐欺師達は 目先の利益 目先の快楽しか意識の俎上にはない

同族同士で殺し合おうが何だろうが 先天的情動行動の結果として殺し合うのであって その行動に合理性が伴う必要性も何も存在していないのである

「殴りたかったから 殴った」それ以上の「理由」は何もない

ヒトの祖先が「殴りたくなったから 殴った」ことで それが生存価は「繁殖の継続」にとって有利に働いたことで そういう遺伝的性質が拡がりやすかったという「結果」だけであって 先天的本能習性それ自体には合理性が伴う根拠は何もないのである

 

先天的本能習性の中には 社会安全性や持続可能性に適う情動というものもある

「親」としての母性には 子供の未来の平穏と安寧を願う気持ち(情動)が伴うため 仏教では菩薩界は仏界に準ずる価値を認めているのである

しかし 先天的親性というものは 自分の子供と他人の子供を差別する面が否めないため 本当の仏界とは他の全ての境地が伴って始めて仏(人間性)の悟りとなるのである

もし 自分の子供が社会の中で窮地に陥った時に 助け合う他人の子供がいなければ 自分の子供は不幸に陥るのであり

「情けは他人の為ならず」とは 他人の不幸と自らの不幸を同列に扱う人道的見地が仏(人間性)として必要だと説いているのである

 

自らが生き続けるに価する社会の姿に近づけるための行動選択をしないのであれば それは「既存の社会の奴隷」でしかない

世の中には間違った行動選択をするバカは多いものだが バカをいくら抽出枚挙してきても 自分がバカげた行動をしても構わないことの理由にして良いわけではない

「へずまりゅう」的に「迷惑者はザラにいる」ことをいくら抽出枚挙しても 自分の迷惑行為が正当化できないのと同じことである

社会は決して完璧ではなく 間違いや欠陥は存在するし バカも多いものである それら欠陥やバカをいくら抽出してきても 「バカのままで構わない」ことの正当性の論拠にはならないのである

ヒトは社会という多数他人に紛動され 間違った「常識」を鵜呑みにして受け入れ その「常識」に合理的根拠が伴うのかどうかは自分の頭では考え判断しなくなる習性がある

宮台真司による「自分の頭で考えるのは10年早い 教えたことは丸暗記しろ」などと言い出したのも 「自分が学生時代に教授からそう言われた」ことを鵜呑みにした過去の自分を事後正当化する形 「認知的不協和を解消する形」で頑なに言い張るようになったのである

ヒトという種の生物は ことほど左様に簡単にバカになるものなのである

バカにならないために必要なのは 自分の頭で物事を考え判断することであり 教えられたことを鵜呑みにしているからバカになるのである

養老孟司だのマルクス:ガブリエルだのフリードリヒ:ニーチェを読めば 大多数の衆愚は内容の根拠や基準に合理性があるかどうかは何も考えず 自分にとって都合の良い勝手な解釈をこじつけることで主観的に満足し その満足によって彼らを主観的に「好き」になり 主観的に「信じたい」と思うことによって盲目的に信用することでヒトは自分の頭で物事を考えなくなり バカになるのである

読書猿は 「学校の勉強を認知的ワクチン」だと仮定した上で まるで学校の勉強さえしておけばデマや嘘には騙されなくなるかのように言い張ったが この話には論理客観的根拠も証拠もなく 単なる読書猿による勝手な決めつけに過ぎない

それでも 大衆観念上の「学力成績=知能」という方程式を正当化できることによって 大衆は気分的満足感を感じることにより その満足感によって何の疑いも持たずに鵜呑みにし 本当の話なのかどうかを一切自分の頭では考えなくなることで 大衆は簡単にバカになり 読書猿の衆愚人気を支えてしまうのである

嘘やデマを鵜呑みしている頭の悪さを自覚せずに 一体どうして「デマや嘘に騙されなくなる」と言えるのであろうか

衆愚はこう言い逃れをするであろう 「だって 誰もデマだと教えてくれなかったからだ」と

いちいち何がデマで 何が真実なのかを他人から教えられなければわからないのは 自分の頭で考え検証していないからである

世の中の大卒者のほぼ全員は イマヌエル:カントの「純粋理性批判」における「絶対に知覚することのできない叡智界」を鵜呑みにしたバカである

こんなバカげた話を鵜呑みにしておいて 「教えてくれなかったから」などと言い逃れができると思っている時点で バカが酷すぎて話にならない

養老孟司の「脳化社会」云々の屁理屈の全ても 論理整合性すらない支離滅裂なこじつけであって 衆愚観念に寄り添った「衆愚のご機嫌取り」に過ぎず 論理客観的には何一つ論証していないのである

「約束を守るのは 脳化しているからだ(養老孟司)」

意味が全くわからない

一体何を「わかった」つもりになったのであろうか

頭が悪いと理論的には何も理解していなくても 「わかった」ような感覚に陥って満足して思考停止に陥るのがヒトという種の生物の普遍的な認知上の欠陥なのである

養老孟司はこう言い逃れするであろう 「言葉の一部だけを切り取って批判されても 前後の文脈に基づいて全体を理解して頂かないと困る」と そう諭されて鵜呑みにするバカは多いだろう だが 「前後の文脈」をいくら読んでも養老の言説は何一つ論理客観的根拠も証拠も論理整合性も成立してはいないのである

「わらないなら わからないなりに わかったとする そういうわかり方もあるのかと 思っていただければ幸いです(養老孟司)」

こういうバカげた話を鵜呑みにして 「養老孟司を読んだから 頭が良くなった」と勝手に勘違いしているバカが世の中の大半である

9割以上はバカだと言って差し支えない

「バカのままで構わない」と「思う」か

それとも「バカのままでは嫌だ」と「考える」かは 私の判断ではない

私はキリスト様でもお釈迦様でもないので この世のバカのいちいちを面倒看るつもりはない

私はバカが大嫌いである

だが バカが大半のままだと私も困ることになるので 仕方なく説明を尽くしているのである

 

 

Ende;