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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

高夏五道

2022年08月03日 10時19分37秒 | 意識論関連

バンゼル氏によれは、DNAは決して進化論的な偶然の重なり合いから取捨選択されたものでも、無秩序に並べられた化学的コードでもなく、意思のチカラが働いているというのである。

 彼はこの力の「マインド」と称して「私が持っている心とは別の、はるかに強力な意思や精神の存在が否定することのできない現実である」としている。WindowsのOSを記述したり、Photoshopのプログラムを構成するために、プログラマやコーダーが、知力と技術と時間をかけてソフトウェアを開発にしたように、「マインド」の力が働かなければ、DNAというソフトウェアは、偶発的に書きあがるものではないということである。

高夏五道

 ↗出典:DNAコードは意思を持って記述されたプログラムだった!? 専門家が断言「偶発的に書き上がるものではない」 -TOCANA

 

⇨ヒトが人力で考えるプログラミング能力と 数億年に渡る遺伝的進化を比べること自体がバカげている

バイオミメティクスのように ヒトが人力で考えるよりもはるかにエレガントで効率的な構造というものが遺伝的進化によって存在しているのであって

これはニューラルネットワークAIが 人智を超えた新しい物理変数を見つけ出すのと同じで 機械的に膨大な計算をするAIが特定の能力においてヒトよりもはるかに高度な能力を発揮することは何ら不思議なことではない

ヒトがハエに勝てないことや 瞬間記憶においてはチンパンジーにすら勝てないことからも ヒトという種の生物の脳の知能というものをかいかぶり過ぎているからこそ たかがMicrosoft社のITドカタによる人力プログラミングよりも遺伝的進化の方が優れていることに主観的に「凄い」と「思って」必要以上に根拠のない力学をでっち上げているだけであって ヒトよりも遺伝的進化の方が優れていることなど珍しくもないのである

ヒトは その現状の科学的知見というものを あたかも「全てが解明されている」かのように錯覚しているフシがあるが 科学で理解可能なものも存在してはいるが わからないものもたくさんあり 天文学や量子物理学においては無尽蔵にわからない謎が新しく発見され続けているのである

科学というものは あくまで世界のごく断片的一部を理解しているに過ぎず 決して万能で全知全能なものではない 

 

トム:バンゼルはチャールズ:ダーウィンによる遺伝的進化のアルゴリズムのような論理客観的にプロセス過程やメカニズム構造の説明を一切しておらず ただ主観的感覚として「意志の力が働いている」ように見えると主張しているに過ぎない

それはまるでグーグルの研究者が「AIに意志がある」と言い出すのと同じで 論理客観的根拠や証拠に基づかずに主観的感覚だけで断言しているのと同じであり 倒錯しているに過ぎない

バンゼルの話を鵜呑みにしている高夏五道や その記事を掲載している編集部もまた倒錯している

こうした荒唐無稽な非科学的オカルトの方が衆愚人気を得やすいものでもある

バカ過ぎて話にならない

 

 

Ende;


根拠のない根性論

2022年07月24日 10時27分51秒 | 意識論関連

 ↗どんな困難も努力で克服できるという根性論の弊害 -PresidentOnLine

 

疾患というものは精神論だけでどうにかなるようなものではない

しかし 毎夜泥酔して不健康な生活を続けることで生活習慣病になるのは精神が病んでいるからである

しかし アルコール中毒のようなものは精神論でどうにかなるものですらない

アルコール中毒であれ ニコチン中毒や薬物中毒の類いも その治療に精神論は必要なく あらゆる中毒は「頑張って」治るようなものではないのである

精神の病というものは 精神論では治らない

「精神論で何かが解決する」と「思って」いることそのものが 精神の病の元凶だからである

論理客観的な根拠を伴わぬ「常識(正解データ)」というものは 自分の知らぬ間に 生育環境によって刷り込まれているものであって 自分では選択していないものがほとんどである

「同性同士で愛し合うなどというのは人間として間違いだ」とか 「お茶くみは女子社員の仕事だ」とか 「学力偏差値が高ければ頭が良い」とか 「刑法判決で解決だ」といった世間の大衆観念的「常識」は 論理客観的に考えれば何の根拠も伴っていない偏見でしかないのだが ヒトという種の生物の脳というものは論理客観的根拠よりも主観的感覚や印象の方が優先してしまう性質があるために どうしても自分の偏見を偏見だと認識することが難しくなってしまうのである

そのために根拠のない世間的観念としての「常識」に囚われてしまい 理不尽で不条理な精神論を他人に押し付けるようにもなってしまうのである

自分に精神論を押しつければ自殺にもつながる

「頑張れない自分は生きている価値がない」と「思って」しまう

加藤英明とか千住真理子は 外見上とんでもなく「頑張って」いるのだが 決して本人はそれを「辛い」とは思っていないのである

一日中灼熱の砂漠でトカゲを探すことや 毎日ストラディヴァリウスの音色に酔うことは 本人にとっては至極の楽しみであって 楽しくて仕方ないのであって 当人的には何も「頑張って」などいないのである

私は写真を撮るのが好きなので 真冬の極寒の中 強風が吹き荒れる橋の上で写真を撮り続けることもある

寒さで指が動かなくなろうが何だろうが 気に入った写真が撮れるまで何時間でも粘ったりすることもある

炎天下に汗だくで地面に這いつくばってミツバチを追いかけることもある

結局気に入った写真が撮れなかったとしても 何度も繰り返し撮ることで たまに撮れる気に入った写真のためには労力を惜しむことはない

人によって 頑張れる事柄は全員違う

他人と比べて特定の能力が低い場合に「他人との比較を人間の価値だ」という偏見的「常識」によって ヒトの多くは根拠のない劣等感や自己否定に陥り 世間に対する無駄な不満を募らせ 誰かを誹謗中傷したり 無差別に迷惑な行為によって世間に対する報復感情を満たそうとするようにもなるのである

何が選択可能で 何が選択不可能なのか それは論理客観的に考えればわかるものである

選択可能なものは自由があるが 選択不可能なものには自由はない

当たり前の話である

いちいち言わなくても自分の頭で考えられるにも関わらず 自分の先天的本能欲求に踊らされることを「自由」だと勘違いしているバカがあまりに多すぎるからこそ 根拠のない世間的「常識」に囚われ 意味のない精神論的努力を「頑張って」しまい 自殺や迷惑行為といった「間違い」へとヒトは陥るのである

ヒトは 多くのヒトが間違っているとしても 自分の周囲の多くのヒトが信じている話は正しいと錯覚する

ロシア国民がプーチン政権を支持するのも

ナチス政権下のドイツ人達がヒトラー政権を支持していたのも

日本大学田中英寿理事長体制下において職員の大半が迎合していたのも

彼らはそれを「正しい」と錯覚しているからである

「世の中 そういうものだ」と諦め(学習) それ以外の一切の選択可能性が存在していないと錯覚しているからこそ それを「正しい」と思い込もむために 「考えること」をやめてしまうことで根拠のない理不尽で非合理な「常識」がでっち上げられてしまうのである

 

 


Ende;


「こじつけ」「すりかえ」によって論理客観的根拠を欠いた判断をすべきではない

2022年07月13日 10時01分17秒 | 意識論関連

安倍元首相殺害の山上容疑者が 統一教会の被害を受けていたことが問題にされているんだが

統一教会の被害と安倍元首相殺害を結びつけるのは論理的飛躍がある

勘違いしないでいただきたいのだが 別に統一教会を弁護するつもりは一切ない

統一教会の被害に問題があるのは確かだが 統一教会の被害を殺人事件の原因と結びつけるのは理論的に無理がある

別に統一協会の被害者に殺人犯が多いとか そういった統計的証拠があるわけではない

どのような境遇であるかに関わらず 暴力破壊で主観的な満足を得ようとすることそのものに問題があるのであって

たとえプーチンのように権力と資産に恵まれていても暴力を実行するバカもいる以上 境遇と暴力には相関がない

統一教会の被害は それはそれで社会的問題ではあるものの それは殺人事件の根源的原因ではなく 統一教会の被害は山上容疑者個人の境遇であって 殺人事件そのものの普遍的な原因にはならない

犯罪の原因を境遇(社会的環境要因)だとしてしまえば 境遇が悪ければ犯罪が正当化できてしまうことになる

それはおかしい

境遇という社会環境に依存せず 自律的に社会的責任判断選択をすることが 人間として 社会人として必要なのであって 「境遇が悪いから」というのは言い訳にはならない

 ◇

統一教会のような詐欺に騙される原因とは 被害者が自分の主観的感覚や印象による恐怖心や安心満足感を 環境依存的に他者から操作可能であるという認知上の欠陥に起因する

自己の主観的印象や感覚 安心満足や恐怖心を 短絡的に「自分の自由意志」だと勘違い錯覚しているから 詐欺だの占い師だの養老孟司だのマルクス:ガブリエルに騙されるのである

主観的に「安心か怖いか」といった個人的感覚による印象で物事を判断するのではなく 自分の頭で物事を論理客観的に「考え」 物事の真偽を自律的に判断するという 人間としての知能 人間としての本質的意識がないから 嘘やデマを鵜呑みにしてしまうのである

別に統一教会だけが詐欺的行為を働いているわけではなく 詐欺ならそこら中にウヨウヨいるのであって だから振り込め詐欺の被害が全然減らないのである

騙す方も当然悪いのだが 騙される方にも問題はある

安倍元首相殺害に対して 「自業自得」論を言い出すバカがいるようだが 何の合理性もない殺人事件の被害者に問題なんかあるわけがないのである

それは イジメ被害者が本当は加害者にとっては「誰でも良い」のと同じであって 被害者には何の瑕疵もないのであって 嘘に騙される頭の悪さとは全く次元の異なる話である

加害者側の一方的観念に基づいた犯罪と 被害者側の頭の悪さにも原因のある詐欺とを一緒くたにすべきではない

どんなに境遇が悪かろうと 自律的な社会的責任判断をすることが 人間として重要なのであって 詐欺被害などの境遇の良し悪しを理由に理不尽な暴力の原因として結びつけるべきではない

そういう論理客観的根拠のない「こじつけ」をしてしまうから 問題解決能力を喪失してしまう大きな要因となるのである

暴力破壊によって何かを解決できるという ヒトの先天的な認知上の欠陥(錯覚)こそが 暴力破壊の最も根源的原因であって 個人的境遇などの環境要因に左右されていることこそが「自律」の欠如の根源的原因なのである

 

 

 

Ende;


格差と暴力には相関がない

2022年07月11日 10時07分34秒 | 意識論関連

テロみたいのが起きると何かと「格差を解消」などと言い出すバカが多いが

格差と暴力には相関なんかないからな

プーチンなんか権力と金にまみれているのに暴力で解決しようとしてるじゃねぇか

世間的評価が低いとか 社会的地位が低いとか そういった「他人との比較」における劣等感がテロなどの暴力事件の原因ではなく そもそも「他人との比較」における劣等感から社会への報復的懲罰感情が行動に直結するから理不尽で非合理な暴力事件が引き起こされるのであって 世間的評価や地位が低い者達がおしなべて暴力を引き起こすわけではない

格差と暴力には何の相関もなく 「暴力的懲罰で解決だ」という短絡性こそが問題なのであって それは格差とは無関係である

もちろん格差是正は社会的問題ではあるが 暴力事件とは無関係であることは明らかであり 格差と暴力を結びつけたがるのは何も考えていない衆愚マスコミにおける根拠のない「常識」(実証不能の観念)にとって都合が良く 衆愚ウケが良い「わかりやすい(論理的には何も理解などしていない)」話だから採り上げられるだけであって 論理客観的根拠が伴っていないのである

 

安倍基首相を殺害した山上容疑者(現行犯逮捕でも容疑者なのね)は 県内でも有数の進学校で偏差値も高かったという

何度も言うが学力偏差値は知能の論証にはならない

母親が宗教にのめり込んで破産したというのであれば なぜヒトが実証不能の観念を盲目的に信じ込み 非合理な行動を採るようになるのか その再発防止のための原因究明をするなどの問題解決能力が全く発揮されていない

学力偏差値というのは 教えられたことを教えられた通りに「知って」いるだけの能力基準であって 社会安全性に関わるような問題解決能力が全く働かないバカでも偏差値が高いことは珍しいことではない

暴力で物事が解決するかのような感覚は ヒトの先天的本能習性に起因するものであって 進化の過程で「拡がりやすかった」祖先の性質が遺されたという結果でしかない

それは選択不可能なものであり 論理客観的合理性がないことは 自分の頭で「考え」れば明白なことである

学力偏差値がいくら高くても 自分の頭で「考える」能力は全く働いていない頭の悪さというものは 本質的な主体性や意志というものがないことが原因であり 社会的格差は無関係である

バカだから暴力で解決しようとするのであって 格差があってもバカでなければ暴力で解決するとは「考え」ない

バカならロシア大統領になっても ドイツ総統になっても ミャンマー軍事政権においても暴力でどうにかなると「思って」いるのである

こうした暴力による短絡的解決というものは 相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖容疑者に対し 梅沢富美男が「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と感情的に怒鳴り散らして多数の衆愚の人気を集めたことからも ヒトという種の生物は社会安全性のための合理的な再発防止よりも 目先の感情的「正義」を振り回しておくことの方を優先するという 認知的欠陥を先天的に持っていることの論証である

先天的本能習性というものは 選択不可能である

先天的感情の強度程度や 生育環境によって刷り込み学習された根拠のない「常識」も 主体的には選択不可能であり 自由意志ではないのである

論理客観的な「考え」に基づいていれば 自分の個人的感情や偏見的「常識」に左右されることなく真実を見極めることができるのであって 衆愚マスコミが社会安全性にとって最も優先されるべき「真実」を優先しない原因とは 自分達の主観的印象に対する過信が働いているからである

社会安全性を優先しないことは 社会的に無責任な選択であるが 衆愚マスコミはその多数によって責任が薄まるような主観的感覚(錯覚)によって 安心して無責任な選択をし続けているのである

遠藤秀紀は「ヒトは生物として欠陥品」と述べたが ヒトは先天的には人間としても欠陥品なのであり 生物学者や哲学者共による論理客観的根拠のないデマや嘘であっても 世間的な権威としての肩書さえあれば何でも鵜呑みにするバカが大半を占めているものなのである

バカが大半なのは私の所為ではない

遺伝的進化による「結果」であり ヒトには先天的に人間としての認知的欠陥が組み込まれているのである

逆に「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などと論理客観的根拠も満足に示さず断言しておけば 衆愚マスコミから多数人気を得られるものでもある

そう「思って」おけば安心満足感が得られるからである

これが「洗脳」というものの基本原理である

洗脳されている者というのは 主観的安心満足感によって思考停止に陥り 根拠のないデマや嘘であっても一旦信じ込むことによって もはや否定的見解の全てに一切耳を貸さないバカに陥っているのである

それは 自分の主観的価値観の全てが自由意志によって選択されていると錯覚し 自己過信によって疑うことをしなくなることで自己に対する客観的論理検証性が完全に機能不全に陥っている状態であり これがバカというものの正体である

ヒトは先天的にはバカであり 何も考えなければバカになる以外に選択肢の自由はないが 自分の頭で考え 検証し 何が真実なのかを識別できればバカから脱すること「も」不可能ではない

そして それは学力偏差値とも 世間的評価や格差とも無関係である

社会の大半がバカのままなら あらゆる「人災」は絶滅するまで繰り返すことになる

それでも構わないかどうかは 個人の判断に依るものである

 

衆愚マスコミの観念上では 安心満足感が得られる優秀な天才に導かれるように問題解決が為されるかのような感覚を持っているが そうしたパターナリズムこそが多数のバカを助長する根源的原因であり ヒトの先天的な「甘え」による錯覚というものである

ロシア人の多くがプーチン政権を支持しているのも ナチス政権下のドイツ人がヒトラーを支持したのも 日本大学田中英寿理事長体制に同調した職員達も 自分の頭で物事を考えなかった頭の悪さによる盲目的「甘え」によるものであり 問題解決を他人任せにしたがるからこそ多数衆愚マスコミは自律的な社会的責任判断を放棄するのである

 

 

Ende;


安心満足そのものを欲することはできない

2022年07月09日 11時13分51秒 | 意識論関連

マスコミは殺人事件などが起きると ほとんど脊髄反射のように「動機の解明」だとか言い出すんだけど

過去に起きた殺人事件の容疑者の動機を解明して再発防止などの知見に結びついたことなんかないだろ

暴力破壊をするようなバカの動機なんか糞の役にも立たないことは明らかなのに 何で「動機の解明」だとかいつまでも言っているんだろう

「卑劣な暴力」なんていう形容詞も おかしな話で

「卑劣じゃない暴力」なんてもんがあんのか?

暴力は全て卑劣なんだよ

たとえ合法的刑罰であっても 国家権力を用いた暴力で抑えつけることは卑劣である

ノルウェーの「リゾート刑務所」のように 懲罰を廃止することで再犯率を著しく抑えることができるのであって 「懲罰で解決」だというヒトの先天的錯覚に基づく衆愚観念の多数決こそが問題解決から遠ざかる根源的原因なのである

安倍晋三元首相を撃った男は数年間海上自衛隊だったという話だが 兵隊というのは厳しい訓練によって自発的思考を抑圧されているので自律的な判断というものができなくなりがちであり

ミャンマー軍事政権にせよ プーチンにせよ 服従することを旨とした兵隊というのは自分の頭で物事を考え検証して合理的行動選択というものができないからこそ 暴力破壊による「最終解決」的懲罰に暴走するようになるのである

ヒトも含めて動物というのは暴力破壊衝動というものがあり それは祖先の生息環境において生存にとって有利に働いた結果的に大脳辺縁系に組み込まれた(遺伝的に拡がりやすかった)先天的本能習性であり これは主体的選択が不可能な「結果」以上の意味はない

遺伝的進化というものに「目的」をこじつけて事後正当化したがるバカが世の中の大半だが 先天的本能習性という遺伝的進化の「結果」をいくら都合良く「目的」をこじつけても 到底科学的論拠になどならない

遺伝的進化の全ては「結果」であって 選択可能な「目的」など存在しないからである

先天的本能習性の全ては選択不可能な遺伝的進化の「結果」でしかなく 本能習性の中から何を最も優先すべきかを論理客観的に検証して選択することにのみ「自由意志」が存在するのであり 本能欲望の強度程度で行動が決定していたのでは欲望の奴隷でしかない

殺人犯を何人死刑にしても 殺人をやらかすようなバカが出てきてしまう根源的原因究明にも再発防止にもならない

犯罪者に懲罰を与えれば 気分的には安心満足感が得られるものであろうが それはただの先天的本能による欲望(主観的感覚)であって それが論理客観的根拠を伴う本質的な「解決」であることの論証には全くならない

刑法裁判というものは ヒトの先天的な懲罰感情を満たすための形式的手続きに過ぎず 論理客観的に社会安全性にとって最も実効性が伴う根拠があるわけではない

「暴力による言論統制は許されない」などという話も多いが 許すか許さないかは暴力犯罪の原因とは無関係である

許されなかったら何だと言うのであろうか

「犯罪は許しません」といくら述べたところで それが犯罪抑止や再発防止に実効的効果をもたらす根拠など何もないのである

許す許さないは主観的なものであって 論理客観的には何の意味もない「個人の感想」の範疇である

実際には安倍晋三元首相を殺害した動機は個人的で身勝手な怨恨に過ぎず 自宅から大量の武装品が出てきたことからも 「暴力破壊が何かの解決になる」という根拠のない身勝手な倒錯の標的にされたに過ぎず 言論統制は目的ではなかった

そもそも暴力破壊を何かの解決だと倒錯しているようなバカの動機など何の意味もなく 単に考えの浅いバカが主観的に「そう思った」以上の意味などないのである

それは「刑法判決で解決だ」と思っている大多数の衆愚マスコミの主観的印象も同じであり 「動機の解明」だの「許されない」だのといった個人的感想(主観)をいくら陳列しても 論理客観的な根源的原因究明にも再発防止にもつながることはない

バカの多数決は「バカ主義」にしかならないのである

論理客観的な根拠を伴った 社会安全性にとって最も有効性や実効性のある方策や手段を選ばずに 漫然と多数や権威に迎合同調忖度服従し 自律的な社会的責任としての判断を放棄する無責任さを 大多数の衆愚マスコミは全く自覚していない

一つの重大なバカの陰には 無数の小さなバカが隠れているのであり 「自分だけは絶対に大丈夫だ」という正常性バイアスによって促される自己過信の倒錯に溺れ 自分の「頭の悪さ」を全く自覚しないから 重大なバカの発生を許してしまうことに陥るのである

 

ヒトの大半は論理整合性や論理客観性には興味がなく

その場限りに主観的な気分が安心満足することしか興味を持たないバカである

だから哲学界や生物学界の誤謬やデマであっても誰も認識できず 荒唐無稽な何の論理的根拠もない嘘でも大多数の衆愚マスコミは鵜呑みにし 満足することで真実を見失うのである

ヒトは大多数がバカなら 判断責任が多数によって薄まるという「感覚」によって無責任が許されると「思って」いるが それは錯覚であり倒錯である

気分的に安心して間違ったことを続けたり 体制を傍観放置して温存したりするからこそ あらゆる組織腐敗は進行するのである

ナチス政権下のドイツ人も プーチン政権下のロシア人も 軍事政権下の日本人も 体制に迎合同調忖度服従することに何の疑問も持たなかった原因とは 大多数や権力に逆らうことへの恐怖と 同調迎合忖度服従することへの安心によって組織腐敗を増長させたのである

凶悪犯罪者に人生の喜びを取り戻させることは 被害者感情的には不理不尽であることはわかっているが 自分の人生に価値を見いだせなかったからこそ 他人への迷惑にも配慮できないバカになったのであって 本当の贖罪とは先ず自己の人生への価値を見いださせることから始まるのである

自分の人生に意味や価値を持たないバカであれば 何十年刑務所に服役させても 自分が何をしたのかは全く自覚することはなく 何の贖罪意識も働くことはない

だから再犯率が高留まりしているのである

刑務所内で国家権力を用いた行動抑圧をしておけば その場限りにおいては従順に服従するようにはなるものの 決して自律的な社会的責任を負うような「考え」には至ることはなく 身勝手な観念情動によって釈放後に再犯を繰り返すことに陥るのである

「怖い相手に服従」しているだけであれば 必然的に「怖くなければ安心して逆らう」のである

主観的に怖いか安心かに関わらず 自律的に社会の一員としての責任ある行動選択をするためには 先ず自己を肯定できる人生の価値を見つけ出させることが必要不可欠である

ヒトの大半は 犯罪者かどうかに限らず 怖い相手には逆らわず 自律的な社会的責任としての行動判断選択もしないものである

だから日本大学のような組織腐敗も後を絶たないのである

何が正しいのかがわからないというのであれば 判断を保留して何もしなければ良いのである

しかし 実際には何も理解していないにも関わらず わかりもしないのに多数や権威に同調迎合忖度服従することで 結果的に組織腐敗に加担するのが「ヒト」という種の生物の先天的習性というものである

先天的習性は自分では選ぶことができない 「欲望そのものを欲することはできない」からである

 

 

Ende;


頭の悪さはそれを自覚すれば治せる

2022年06月24日 10時58分47秒 | 意識論関連

「人類は絶滅しない」と言われると 大衆観念的には「自分の子供達も死なずに済むんだな」的解釈をしがちなようだが

「絶滅していない」っていうのは80億人中79億9990万人死んでも10万人でも生き残れば「絶滅していない」って意味だからな

文明社会の人々が全員死んで 文明から隔絶された少数民族の人達だけが生き残ったとしても「絶滅していない」って意味だからな

「進化すれば月経の痛みがなくなる」だとか「進化すれば人間性が先天的に組み込まれる」とか 勝手に錯覚している奴は多いらしいが それは科学じゃなくて根拠のないデマだからな

医師免許持っているにも関わらず「ウイルスは必ず弱毒化する」などと断言するバカが後を絶たないくらいだから 何が真実なのかは論理客観的根拠に基づいて自分の頭で考えて判断しないとデマや嘘に簡単に騙されるぞ

ウイルスは一般的に弱毒化傾向があるのは確かですが 都合良く常に弱毒化がリニアに起きる保証があるわけではなく 強毒化したり弱毒化したり カオスな変異の中である程度長い期間を通じて結果的に弱毒化することが多いというだけであって 現存するウイルスがどのようなプロセス過程を経て弱毒共生化したのかは 本当は誰も見たことがない

ましてや「宿主が死んでは困る」などという後天的都合は遺伝的要素には影響を及ぼさないし 「毒性が強いと弱毒化しない」などというのは科学を逸脱したデマでしかない

読書猿みたいに「学校の勉強は認知的ワクチン」だとか言い出す奴に衆愚人気が集まるようだが 科学的には何の根拠もないからな

言葉巧みに読み手の気分が良くなるような話による衆愚迎合的人気の多数決は 科学的に真理であることの論証にはならないからな

 

生物学者共はおしなべて「ヒトには人間性が組み込まれている」的な解釈をこじつけて衆愚人気を集めようとする傾向が強いが

ヒト同士が環境資源の奪い合い競争においても封建的統率協調性を発揮していない証拠なんぞ全くないからな

むしろ奴隷制度だの封建制度だの ヒトの歴史は差別迫害の歴史であって 差別迫害による淘汰圧力によって促される収斂進化というものは 加害者側への収斂シフトだからな

ヒトの先天的本能習性の全てが共生的であるかのような「こじつけ」をしておいた方が衆愚人気は得られやすいが そうした都合の良い気分の良くなる話を鵜呑みにしているから犯罪とか紛争の根源的原因を見失うことになる

いくら説明しても理解しないバカなんか 懲罰的に殴って観念的に「わからせて」おいた方が簡単だと主観的には「思う」ものだが それはあくまで「現場の正義」にはなっても根本的解決にはならないからな

ヒトという種の生物は 論理客観的根拠や証拠に基づいて根源的原因究明や再発防止策を立てるよりも 短絡的に懲罰的暴力で他人の行動を抑圧する方が主観的満足感が得られるために 論理的再発防止を後回しにし続け 結局悲惨な「人災」を繰り返している「バカ」なのである

ヒトが先天的にバカなのは「結果」である

だが バカを自覚しバカげた失敗を繰り返さないようにする知能が働いてこそ バカを脱することができる

それが「人間としての目的」である

ヒトはバカのままでいた方が気分的には楽である

それこそが精神の怠慢というものである

「できそうにないことは やらない方が良い」(フリードリヒ:ニーチェ)的な話を都合良く解釈し やるべきことすらやらずに主観的(先天的)満足安心しているからこそ バカが益々酷くなる

「できそうにない」かどうかは主観的感覚や印象であって 論理客観的根拠ではないからな そのくらい自分の頭で考えて判断せぇ!

もうバカ過ぎて話にならんわ

 

 


Ende;


雪山童子の喩え

2022年06月23日 17時43分22秒 | 意識論関連

必要以上の名声だの評価 富といったものに異常執着するのは 本質的には自発性がなく 他人との比較でしか物事の価値を量ることが出来ないからである

「へずまりゅう」だのプーチンだのの欲望に際限がないのは 本質的自発性がなく 他人との比較における優越感でしか物事の価値観を量ることができないため 他人を蹴落とし 社会を破滅へと向かわせてでも物質的富や権力欲へと必要以上の執着をするようになるのである

他人との比較による優越感には際限がないのである

他人と何かを比較しても そもそも脳神経接続が他人とは存在していないため いくら比較しても本質的には何も満たされることがなく 無限に権力だの物質的富ばかりを求める無間地獄に陥ることになる

独裁者が暴力的最終解決に陥るのは いくら権力や物質的富を獲得しても本質的な自己は全く満たされない不満を 自分以外の社会の所為だと「思って」いるからである

暴走族でも暴力団でもロシア軍でもミャンマー軍事政権でも 組織の中で「生きるため」の順位序列競争が優先されれば 他人への迷惑には一切配慮が働かなくなる

「へずまりゅう」が自律的な社会的責任判断選択をしないのも 無責任な社会集団の中で「生きるため」を優先しているためである

それらは 「悪いのは自分ではなく 社会環境の所為」だと「思って(錯覚)」いるからである

 

仏教ではそれを「外道」と言う

仏教修行の説話では 基本的に全部自分から主体的に「行」を求めて実践している

利他の行を追い求めた雪山童子は 鬼に「目玉をよこせ」と要求されると自らの手で自分の目玉をえぐりだし鬼に渡すという かなりエグい話である

「死ぬだろ」と思うようなエグい修行の喩えだが 何に人生を賭けるかは本人の主体的意志によるものであり F1レースでスピードを追求して事故で死んだとしても それは本望というものであろう

加藤英明が 猛毒のパフアダーを素手で捕まえるのに失敗して死んだとしても 加藤にとっては必ずしも不幸ではないだろう

他人から見ればバカみたいな人生だが 当人が望んで死ぬ分には他人には人畜無害であり 自己責任である

セーレン:キェルケゴールが真理を追求して野垂れ死にしようとも 真理のために人生を賭けることもまた本望であろう

 

嫌な話をする相手は 人によっては鬼にも見えるかも知れない

鬼が現れ「目玉をよこせ」と言われれば 大抵の人は「そこまでは無理」だと思うであろう

それはカルト宗教の信者に対して「お前さんの信じている教祖はキチガイだぞ」と言われているようなものであり 自己過信の罠によって本当は糞の役にも立たない嘘やデマを本気で信じているとしても それが嘘やデマだとは全く「思わ」ないものなのであり 反射的に拒絶するばかりである

だが 真理を追求することを「行」として選んだからには 自らの手で「目玉のように大切にしているもの」であっても真理のためには全てを差し出さなければ 真理に辿り着くことはできないのである

本当の事を知りたいのであれば あらゆる嘘やデマや根拠のない「常識」の全てを棄てなければ 真理を見極めることはできない

嘘やデマや根拠のない「常識」の全てを棄て去れば 「前以上に見えるようになる」のである

雪山童子の喩えとは そういう意味である

理屈は簡単である 嘘やデマや根拠のない「常識」の全てを棄て去れば 後に残るのは真実のみである そんなのは必然でしかない だが ヒトはどうしても真理以外の嘘やデマや根拠のない「常識」によって視野を奪われ 目の前にあるはずの真理すらも見えなくなるものなのである

視野を奪うのは本能や欲望である それらはそもそも自分では選択不可能なものであり 自由意志でも何でもないのであって 何が本当の自由意志なのかも見極められないバカが真理なんか見えるわけがないのである

 

だが こうした修行というものは 自らが自発的に望んでやらなければ意味がない

他人から強要されていたり 評価承認欲しさのウケ狙いでは修行にはならないのである

世間的評価だの人気だの 損得勘定だの勝ち負けを基準にしていれば 結局他人との比較による価値観の罠(生物学上の「社会性」)からは逃れることができない

真理を追求するのか しないのか それは「あなた次第」だが 真理よりも目先の安心満足(実証不能の観念)を優先するというのであれば それはもはや真理について語る資格はないのである

 

 

 

Ende;


生存中毒

2022年06月23日 16時41分20秒 | 意識論関連

腐敗した組織の中で「生きる」ことを優先すれば 自律的な社会的責任判断選択は優先されなくなる

東京電力福島第一原子力発電所において 組織の中で「生きる」ためには個人は自律的な社会的責任など放棄せざるを得なかった

日本大学田中英寿体制において 組織の中で「生きる」ためには 理事長や幹部達の言いなりに同調迎合忖度服従せざるを得なかった

これらと同じで 今のロシアにおいてはプーチン政権の中で「生きる」ためには ウクライナ侵攻に反対すれば投獄される以上 人道的立場など選択する余地などないのである

 

ヴァルター:ベンヤミンは ナチス政権に反対したことで スイス山中で自決を余儀なくされた

一方 マルティン:ハイデガーはナチスに迎合して「生き」延びた

「生きるため」にはナチスに迎合することも正当化可能となるのであるが それが果たして「人間としての社会性」に適すると言えるであろうか?

 

学級内でイジメが起きた際に イジメを止めようとすればイジメの標的にされる

無意識な少数の暴力者に対し 大多数のヒトは主観的に「怖い」相手には逆らわず 傍観放置し暴力者集団の存在を温存することに加担するのである

イジメというものは 学校に行ったことがあればまず全員が経験したことがあり その8割は傍観放置しているのである

ウチの甥っ子は 小学生時代にイジメを止めに入ってイジメの標的にされたことがある

学級内での少数派に過ぎないイジメ集団に対し 大多数の傍観者の誰も助けてはくれない状況下において イジメを止めることは 学級内で「生きる」上においては不利になる

 

「生きるため」には 他人を蹴落として 差別して 資源や富を独占することは正当化されてしまうことにもなるのである

だが そうした利己的行動選択というものは 結局は社会全体の持続可能性や安全性を損ない 人類全体の存続に関わる重大な結果に至る可能性をもはらんでいるのである

 

どんなに弱者を切り捨て 利己的利益を追求したところで ヒトは必ず死ぬのであり いかなる利益も死ねば何の意味もなくなる

今 現在 生きている 生き続けていることの意味 必要性 理由とは何かと言えば 自分が生き続けていることに楽しみを持っているからである

しかし その楽しみというものは 必ずしも純粋に個人的な楽しめることを持っているわけではなく ヒトはどうしても他人を蹴落とし 誹謗中傷し 懲罰的正義を振り回して他人に多大な迷惑をかけることによって あたかも自分の優位性を「感じ」ることにしか楽しみを感じないことの方が多いものである

他人との比較に依らない 個人的で純粋な楽しみとて これもまた主観的な「感覚」であることに違いはないが 比較に依らぬ点において純粋であり 社会の公平性や安全性にも配慮が働く要因ともなる

純粋に個人的な楽しみがあるのならば それは他人との比較において優越を感じる必要性がない

順位序列にこだわる必要性がないのである

そもそも 「楽しみ」とは主観的で個人的なものであり 他人と比較して「自分の方が楽しいはずだ」という感覚は錯覚に過ぎない なぜならば他人と自分の脳とは神経接続が存在せず 他人が楽しいと思っていることが 自分が楽しいと思っていることとの楽しみの強度程度の比較など構造原理的に不可能だからである

 

他人との比較においての優位性に中毒になるのは ヒトは集団の中で優位に立たなければ「生きて」ゆく上において不利になるため 必要以上の優位性や比較による序列順位への執着が本能的に働いてしまうためである

ヒトの祖先がチンパンジーのようなサルだとすると サルはその場限りの利己的利益のことしか意識が働かないため 集団組織全体の安全性とか持続可能性とか公平性といったものには何の興味も持たないし そんなものに興味を持っても集団内部で「生きる」上においては有利にはならない

東京電力福島第一原子力発電所において 個人が自律的な社会的責任判断をしようとしても それは組織の内部において「組織の利益にならない」ために 組織の中で「生きる」上においては何の有利にもならなかったのである

それは ロシア国内において 国際社会全体における社会的責任として武力行使に反対しても ロシア国内において「生きるため」には何の有利にもならないのと同じである

 

プーチンだろうが田中英寿だろうが 本当は順位序列など存在せず 誰もネコでもネズミでもなく ヒトであることに何の違いもないのだが 権力権威という抽象化された順位序列の観念情動によって ヒトは相手が理不尽な要求をしてくるバカであっても 大多数のヒトは傍観者に徹し 何の批判精神も持たず 唯々諾々と腐敗組織の温存に加担するバカなのである

ヒトの生物学的な 本能習性としての「社会性」とは イヌ同様に順位序列に基づく封建的な統率協調性であって 「人間としての社会性」とは全く別のものである

軍隊というのは 動物的な本能習性としての「封建的統率協調性」を用いた盲目的服従性を利用した集団であり 故に戦争のようなバカげたことにも便利に利用可能であると同時に 盲目であるが故に軍隊のトップになった場合には 自分が盲目的に順位序列を受け入れたという「常識(学習データ)」に基づいて あらゆる人にまで順位序列を強要し 武力暴力によって抑圧する「正義」を振り回さなければ気分的に満足できなくなってしまうのである

軍隊に文民統制が必要なのは 軍隊というものはその内部に平等とか公平とか民主的判断というものが全くない 封建的順位序列による盲目的服従による指揮命令系統だけで構成された集団だからである

プーチンは元KGBである

つまり 兵隊だった

兵隊というのは命令に服従することが評価業績になる

イヌが飼い主の指示に従うことに喜ぶのと同じで 順位序列が上の相手との共感共鳴によって快楽を感じる習性を利用することで 介助犬や救助犬のように 飼い主に都合の良いように行動を統制することが可能となる

しかし イヌというのは 野犬の群れで育てば野獣にしかならない

KGBという野蛮な暴力組織の中で「業績評価」を得ようと「頑張って」いたが故に プーチンは順位序列への異常執着性を「学習」してしまったのである

プロパガンダという嘘をついてまで国民からの支持を得ようとするのも 国際社会の中での協調性を持たないのも 過去の「業績」評価を絶対的な「常識(正解データ)」として 価値観の全てに「学習」してしまったのが原因である

こうした構造はヒトラーでも同様である

日本大学田中英寿でも ミャンマー軍事政権でも 暴力的に権威性を振り回す相手に服従迎合した者というのは 暴力的権威に服従することが「正義」として「常識」になってしまっているため それ以外の選択可能性が著しく失われて無意識になり バカになっているのである

構造的には「虐待の連鎖」と同じである

これは決して特殊な例ではなく プーチン政権の場合は規模が大きいだけであって 宮台真司でも養老孟司でも「へずまりゅう」でも見られるヒト全般に見られる普遍的な習性傾向でもある

「私は教科書に墨を塗らされた」だの 「自分の頭で考えるのは10年早い 丸暗記しろ」だの 「迷惑者はザラにいる」といった過去の社会経験を「正解データ(常識)として「学習」することによって 行動学習的に自律的思考(人間としての意識)が抑制され 無意識なバカになるのである

過去に自分が受け入れた行動という「結果」に対し これを事後正当化する形で連鎖し続けないと 過去に自分が受け入れた選択を否定しなければならないため ヒトは簡単にバカになる仕組みが脳に普遍的に存在しているのである

こうした情動の仕組みによる無意識な状態のことを 認知的不協和を解消する形で「洗脳」と言うのである

 

人工知能AIの「学習」において 回路が単純化された状態を「蒸留」と形容する

Microsoft社のTwitterAIが SNS上の数多のヘイトスピーチを「正解データ」として「学習」した結果 ヘイトスピーチに同調するよう回路にバイアス(偏り)が生じるようになった

これも一種の「蒸留」であり 「洗脳」である

AIというのは生物の脳を模したものであり ヒトの脳の挙動と似たような結果ももたらすことが良くあり 偏った「正解データ(常識)」を「学習」することによって 簡単に洗脳(蒸留)状態にも陥るものでもあり これはヒトの脳でも基本的な仕組みは同じである

虐待が連鎖するのも 脳が洗脳的に虐待状態を「学習」してしまうためである

 

「生きるため」には 多数派に迎合することは不可欠であり イジメは傍観放置し 権威や「怖い相手」には逆らわず 多数派に同調することで安心満足して 自分からは何の考えも持たずに既存の社会に唯々諾々と迎合することが「常識」となる

「身勝手」とは 必ずしも個人的なものとは限らず 多数で身勝手な観念を共有 共感 共鳴 同調することも珍しくはない

何を持ってして「身勝手」なのかと言えば それは論理客観的根拠を伴わぬから「身勝手」なのであり 真理は数で見極めるものではない

どんなに多数でユダヤ人などの少数派を迫害しても 身勝手であることに変わりはない

聖書であれクルアーンであれ それらはヒトが書いたものであって どうしても伝言ゲーム的な間違いが混入する可能性を排除することはできない

科学も同じである

既存の科学的理論や知見の全てが「正しい」保証はなく 所詮は学術権威もヒトである以上は間違いが混入する可能性は否定できない

宗教の場合は間違いを訂正する仕組みがないが 科学の場合は常に更新できる余地があるからこそ より「正しい」理論や知見へと高めることが可能となるのである

しかし ヒトは権威に教えられたことを疑うことをしなくなる性質があり だからこそ宗教はいつまでもカースト制度などの理不尽な因習までをも「連鎖」し続けてしまうことになるのである

 

ヒトは 一度自分が既に信じた内容に 疑いを持つことを嫌う習性があり 振り込め詐欺に騙されている人が「いや、自分は絶対に騙されてなどいない」と言い張るのも 虐待が連鎖するのも 脳の基本的な「学習」システムの欠陥によって促される行動である

たとえ虐待であっても 冷静に考えれば「子供にとっても社会にとっても良くない」ことは理解可能なものである

論理客観的に「考え」れば バカを脱することは可能なのである

 

私が「バカ」と形容しているのは あくまで「考え」ることが可能でありながら「考えない」ことを指しているのであって 先天的な学習障害のようなものを指しているわけではない

自閉症と診断されて 発話言語が苦手な人であっても 文章を書けば一般人以上に理路整然とした考えを持っていることは良くあることであるが 既存の学力偏差値基準においては発話言語が苦手だと評価にはならない

書字が先天的に読み書きできない人というのもいて 文章がほとんど読めないにも関わらず 発話言語は常人以上に理解可能であるために噺家になった人もいる

これら読み書きソロバン的な特定能力基準というものは 本質的知能の基準としては全く意味を為さないものであり コンピューターで例えれば「I/O」のような入出力回路の障害であって 主処理としてのCPUやシステムソフトウェアの問題ではないのである

プーチンやヒトラーは発話言語能力に障害はなく むしろ演説なら得意である

振り込め詐欺師が言葉巧みに他人を騙せるのも 発話言語能力だけなら非常に高いからである

だが 独裁者や詐欺師は主処理としての知能に致命的な問題があり 故に社会的迷惑問題となるのである

 

 


Ende;


パブロフの「ヒト」

2022年06月23日 12時52分28秒 | 意識論関連

ヒトというのは どうしても物事を単純化して判断する傾向があり

敵と味方という単純化した二元論で「正義」を振回せば物事が解決すると錯覚しがちである

ロシア人に対する入国制限というのは あくまでプーチン政権に対する対抗措置であって ロシア人という民族国籍に対する差別排除措置ではない

その点については 日本国政府として公に周知しておくべきことでもあろう

ロシア人でもウクライナ侵略に賛同していない人なら海外に出てしまっているのであって むしろ日本などのロシア以外の国にいるロシア人は「敵」ではない

 

ヒトという種の生物は チーム分けをして優劣を決定して順位序列を作るのが先天的本能として存在しているために スポーツ競技やサバゲーや「フォートナイト」のような勝ち負け(損得)に一喜一憂してゲームとして楽しむこともできるのである

これは かつてヒトの祖先が環境資源の奪い合い競争に勝ち抜いた結果的習性であって ヒト以外の天敵や獲物の獲得以外でも統率的協調性は有利に働くものでもある

敵と味方に分かれて明確な区別が出来ないと 勝ち負け競争が成立しないため ヒトは勝ち負け競争がしたいがために物事を単純化して差別をしたがるものなのである

ゲームはあくまでゲームであって 国際秩序に「ゲーム理論(勝ち負け損得勘定)」を持ち込むというのは不謹慎極まりない無責任な発言である

イジメにおいても「イジメられる方にも問題がある」ことにしておけば イジメをする上において都合が良いからそういう嘘をこじつけるのである

本当はイジメる標的なんぞ誰でも良いのであって 無差別殺人犯の屁理屈とさしたる違いはない

 

要は 集団統率的な協調性を発揮したいことが本能的に優先していて 差別や序列というのはそのための屁理屈として無意識に事後正当化としてこじつけている「エピソード記憶」に過ぎないのである

イジメなどの暴力的差別集団の場合 イジメの標的など本当は誰でも良いため 集団の中でイジメの標的にされないためには率先してイジメをし イジメ集団の中での序列を高く保つ「必要性」が出てきてしまう

イジメ集団の中では 「どれだけ卑劣なイジメができるか」が序列の基準となり それを競争することに陥るため イジメは最終的には殺害にまで暴走的に発展してしまうこともある

まあ 要するにバカだからなんだが こうした頭の悪さというのは腐敗した組織集団の内部では逆らうことが出来ずに唯々諾々と洗脳的に傍観放置しなければならない状態に陥ることが ヒトには普遍的に見られる

本来権威肩書があろうがなかろうが ヒトであることに違いはないにも関わらず 少数の権威肩書の理不尽な横暴を 多数の無為な傍観者によって温存してしまうことに陥るのは 権威肩書という抽象化された序列順位を「常識(正解データ)」として「学習」してしまうことによって 本来民主的に決めるべき事柄ですらも独裁者に対する恐怖心によってヒトは簡単に独裁体制の横暴に逆らわなくなるのである

数の力は必ずしも合理性が伴うわけではなく 多数が理不尽な横暴を傍観放置して許してしまうことは 何ら珍しいことではないのである

真理は数では決まらない だから議論が必要になるのである

見解に間違いが混入していたとしても 論理客観的議論によって磨かれれば より高次の真理に近づくことが可能となるが ヒトはどうしても感情的に強く出てくる圧力に屈服しがちで 「怖い」相手には逆らわなくなり それが権威肩書という抽象化された順位序列によってより強く発揮されることにもなるのである

そして 同時に 自分にとって都合の悪い話をする「嫌な相手」には耳を貸さなくなり 議論そのものが成立しなくなってしまうことも珍しいことではない

 

ヒトは自分の頭で物事を考え判断するよりも 何も考えずに主観的印象や情動だけで物事を判断しておいた方が安心で満足感が得られるものなのである

それは エサをくれる都合の良い相手にだけ媚びへつらうイヌの行動習性と何ら変わりはない

 

 

Ende;


目の話

2022年06月22日 23時41分40秒 | 意識論関連

川村正二

ヒトの色覚には多様性がある

色覚多様性によって絶滅を免れた可能性

フィンセント:ファン:ゴッホは赤緑色盲だったという説がある

水の中では4色型

陸上の夜行性生活では2色型

森の中では3色型

2色型の方が狩りには向いていた

オマキザルもヒト同様に2色型と3色型がいる

4色型もザラにいるのではないか

⇨色覚型に違いがなくても 植物の多い田舎の環境で育った人と 都市で育った人では色分解能に差が出るという 脳が違う以上色覚に限らずあらゆる感覚には違いがあるのが必然

 

白目

視線がコミュニケーションに重要

霊長類88種 強膜(白目)がより白いのはヒトのみ

大脳新皮質容積と強膜面積に相関が見られる ⇨サンプル数が少な過ぎやしないかい?

生き残りのための生存戦略 ⇨また言ってる 後天的な都合は遺伝的要素に影響を及ぼさず 戦略的選択は不可能である

橋彌和秀(はしやかずひで) 九州大学

アイコンコンタクトでオキシトシンを分泌

 

結城雅樹(ゆうきまさき)北海道大学

顔文字が日本では目の違いで表現するが 欧米では口の違いで表現する

^_^ T_T ゜_゜

:D :P  :) :(

文化の違い ⇨欧米人から見ると一般的に東洋人は不機嫌そうに見えるという話を聞いたことがある 日本人から見るとインド系の人の目つきが怒っているみたいに見える傾向もある 脳内の「正解データ」の違いだろうな

 


Ende;


バカなら無尽蔵にいる

2022年06月22日 16時36分07秒 | 意識論関連

養老孟司は自身の支離滅裂な話を正当化するために

「私は教科書に墨を塗らされたんですよ どうせ世の中間違っていない本なんかないんだから 間違っていたら墨を塗れば良いんだな そう思っています」

などと主張したことがある

「間違っていない本なんかない」からといって 論理整合性のない支離滅裂な話を一切訂正しない無責任性が正当化できるわけではない

迷惑系ユーチューバーの「へずまりゅう」が「迷惑者はザラにいる」と称して自身の迷惑行為を正当化できているという身勝手な勘違いと同じものである

「社会環境が悪い」という環境依存要因を持ち出して自分の自律的な社会的責任判断選択を放棄するための言い逃れになると思っているバカは非常に多く 自分の無責任性を正当化できるかのような都合の良い話だからこそ無責任性を正当化するのに都合が良いから養老孟司や長谷川眞理子は衆愚人気があるのだ

養老孟司にせよ長谷川眞理子にせよ 何か世の中の間違いを具体的に指摘しているかのような話はしているものの 個人の自律的責任判断については全く言及しておらず 読み手は社会の問題を自分事として認識することなく 結局何が悪いのは何も理解することなく 主観的気分として安心満足して「自分は頭が良くなった」と勝手に勘違いしているだけである

 

ヒトは 世間的成功を人間の価値か何かだと勝手に勘違いし 自律的な社会的責任判断よりも問題の責任が社会の方にあると思っておけば 気分的に安心満足して「信じよう」とする

「ゲーム理論」なんぞを持ち出して まるで環境要因だけで戦争が起きるかのような話をしておけば 衆愚は何かを理解したかのように錯覚し 鵜呑みにし 具体的に何が本当の問題なのかは全く自覚しなくなるのである

 

「まちがったっていいじゃないか にんげんだもの」的に自分の頭の悪さを事後正当化できる話で満足し 自分の頭の悪さを正当化したり なかったことにしておけるような話ばかりを主観的に「好き」になることで 「信じよう」とするのである

ヒトは間違えることがある

間違えることそのものは致し方ないことだと言えるが 間違えたことを事後正当化したり はぐらかしたり なかったことにして良いわけではない

 

香港警察やミャンマー政府軍による民主化組織弾圧においても 民主化デモに乗じた暴動破壊も起きたからこそ武力による治安統治が正当化されてしまったのである

ロシア軍によるウクライナ侵攻においても ウクライナ国内における親ロシア側との対立による暴力の応酬があったからこそ ロシア軍による介入の「理由」にされてしまった

理不尽な権力に対して戦うことは必要だが 暴力破壊で戦って満足するのではなく あくまで論理客観的な根拠に基づいた合理的な「真理」を見極めることが あらゆる「人災」の再発防止において最も重要なのである

民族国籍に優位性のようなものを持ち出してしまえば ヒトは簡単に分断され 差別による懲罰的暴力の応酬によって殺し合いは激化の一途を辿るものである

そして 「味方」や「仲間」同士による一致団結した統率的協調性を発揮することによって まるでラグビー競技の勝ち負けのような「ゲーム理論」的損得勘定に基づいた紛争にまで快楽を感じ 本当の目的を忘れて間違った行動選択によって暴走破綻への泥沼へと陥るものなのである

かつてソビエト連邦はナチスを撃退したが それはあくまで「現場の正義」であり 事態の収拾において役立っただけであって

警察が暴走族を何人捕まえようとも 暴走族などという迷惑行為の根源的原因究明にも 再発防止にもならないのと同様 ナチス撃退もナチス体制という腐敗体質が形成されるメカニズム構造の分析にはつながらず 結局ナチスような侵略戦争をも引き起こすことになってしまっているのである

ヒトは「自分だけは絶対に大丈夫だ」「自分達だけは絶対に正義なんだ」と思い込みたい習性がある だからこそ自分達の何が問題なのかを見失い 意味のない暴力を振り回しておくことで安心して何も考えなくなるものなのである

梅沢富美男のように「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らして死刑を繰り返しても 通り魔のような不条理な殺人事件の原因究明にも再発防止にもならないのである

「メタ認知」などと称して「サルの正義」をこじつけておいて 「人間としての行動判断」を見失っていて 一体何が「メタ認知」だと言えるのであろうか 頭が悪いにも程がある

 

 

Ende;


論理客観性なくしてバカは治らない

2022年06月22日 13時26分57秒 | 意識論関連

「ヒトには先天的に人間性が組み込まれている」

「ヒトには強い凶暴性はない」

「極刑を持って罪を償うことこそが尊厳」

これらの話には合理的根拠は何もなく 大衆観念的な「納得感(主観)」を衆愚に与えて真理を撹乱するだけである

 

ヒトという種の生物が どのような条件下において殺人や紛争に至るような凶暴性を発揮するのかは 必ずしも全てのヒトが同じ条件で発揮されるというものではない

「本当につまらない理由」で殺人を引き起こすヒトもいれば どんなに虐げられても暴力で反撃しないヒトもいる

それは 単なる先天的な個体差だけで語れるものではなく 本人の意志 本人の主体性による自律的な社会的責任判断選択能力にも依存するものである

 

加藤英明は爬虫類が大好きで 動物全般にも興味を持っており 生態系全体が破壊されれば個体種の減少や絶滅が引き起こされることを危惧している

これは あくまで加藤個人が主体的に環境保全を望んでいるのであって 世間多数からの評価承認が欲しくて環境保全活動をしているわけではない

環境保全という公益的活動は「善い行い」であるが 公益的であるということは必然的に加藤本人にとっても「善いこと」であるが故に環境保全活動をしているのである

個人というのは あくまで社会の中の存在であり 公益的な善行も結局は「自分のため」でもある

泥まみれになって危険な生物の捕獲や駆除をすることは 決して楽なことではないが 環境が破壊されれば自分がこれからも生き続ける社会全体の損失にもつながることから環境破壊への強い危惧を抱いているのである

「どうせ世の中 自分の事しか考えていない奴ばかりだ」などと言い出すバカは多いが 「自分の事」と「社会的公益」は不可分であり 別のものだと「思って」いるからバカなのである

自分が産まれてきた社会や時代は選択不可能だが どのような時代や社会を望み どうすれば自分がこれらも生き続けるに価する社会に変えられるのかは選択可能性が残されている

80億ものヒトが存在する以上 個人の判断選択が社会に与える影響はほとんどないが 決してゼロではない

1/80億の一人としての意志を貫くか それとも既存の社会構造や制度や因習や常識といった「正解データ」を鵜呑みにして「悪いのは他人や社会だ」と責任逃れをするかで行動は大きく異なる

自律的な社会的責任判断選択をするか否かは 主体的に社会に関わる意志が存在するかどうかに依るものである

誤給付金をちょろまかそうとするバカもいれば 原発の危険性を傍観放置するバカもいれば そもそも多くのヒトは学生時代にイジメを傍観放置し 社会的責任を放棄していたバカである

個人的に「死にたくない」 「損をしたくない」 「嫌な思いをしたくない」 「怖い相手に逆らいたくない」といった利己的情動によって選択したあらゆる自分の過去の行動結果を 事後正当化する形で「世の中誰もがそういうものである」と決めつけておいた方が 自律的な社会的責任なんぞ負わずに済むと「思って」いるからこそ ヒトは簡単に無責任な行動選択をできるようになるのである

「損をしたくない」という情動は 同時に過剰な利益を求めることでもある

過酷な弱肉強食の自然環境下においては 過剰な資源(利益)を蓄財しておいた方が 有事の際には生存にとって有利に働くため ヒトは他人から奪ってでも過剰蓄財をする習性を持った個体種への収斂進化が引き起こされているのである

弱者を切り捨ててでも自分が助かることを優先するという利己性は ヒトに限らずあらゆる生物に見られる行動である

 

「ゲーム理論」とは 要するに「勝ち負け」や「損得勘定」で行動が決定することを意味する

それは同時に 「勝てそうな相手なら 暴力で抑えつけて資源を略奪した方が得」という意味でもある

それはもう「強盗の論理」でしかない

スポーツ競技や「フォートナイト」のような「ゲーム」では あくまで予め決められたルールや規制条件の中だけで勝ち負け競争を主観的に「楽しむ」ためのものである

ヒトは 統率協調的に他集団との競争に勝つことが本能的に好きであるため スポーツなどの「ゲーム」を楽しむことで 本能的欲望や快楽を満たして満足する術を発明したのである

「欲望そのものを欲することは出来ない」が 欲望をどのように「楽しむ」かは選択可能性が存在しているのである

ゲームは所詮抽象化された成績評価にしかならないが エンターテイメントとして賞金がかかればプロスポーツとして成立することもある

商売的に成功したからといっても ゲームをやるそもそもの理由とは 主観的に「楽しい」からであって 観客もまたプレイヤーに共感して「楽しい」から応援し 観戦に費用を支払うのであって これら一連のエンターテイメントというのは 主観的な「楽しみ」を目的とした芸術分野の一つである

将棋やラグビーで勝とうが 多額の賞金で世間的に成功しようが 将棋やラグビーというのは基本的には主観的な「楽しみ」が目的であって 論理客観的に直接社会に役立つ知能や能力の論拠には一切ならない

脳科学者共はやたらと将棋棋士の「直感」ばかりを採り上げて知能の論証のように言い張るのだが 将棋でいくら成績を上げても 社会的に役立つような理論や構造の発見につながることはなく 将棋が単に社会的認知度が高いことで稼ぎが大きく「世間的成功」になっているだけの話に過ぎない

ラグビーなどのチーム競技における統率協調性といったものについても それが競技の成績にどんなに影響するとしても ヒトの先天的な統率協調性という本能習性が人間性の論拠になるわけでもなく あくまで先天的本能習性を主観的に「楽しんで」いるだけであって 論理客観的な人間性の論証に使えるわけではない

ヒトは 世間的に成功している者や 多数人気を短絡的に人間としての優秀さであるかのような「解釈」をしたがるものだが これは論理客観的な根拠を伴わない大衆観念であり こうした大衆観念的「優秀さ」の錯覚を あたかも「人間としての価値」にすり替える形で脳科学者や生物学者共は大衆をはぐらかしているのである

チーム競技における統率協調性というものに対して 大衆は体育会系集団への勝手な幻想を抱き 封建的序列による忠誠忠実な服従性に「美しさ」という快楽を感じ その主観的快楽によって人間性のようなものであるかのように錯覚する習性がある

軍隊や兵隊は危険な仕事であっても逃げることなく立ち向かってくれる「尊さ」はあるものの それはあくまで結果に対する「尊さ」であって 統率協調性そのものの尊厳の論証にはならない

なぜならば 暴力団やテロ集団や暴走族 半グレ 残虐なゲリラや海賊 日本大学田中英寿体制や東京電力福島第一原子力発電所における原発の津波に対する脆弱性放置など あらゆる非人道的集団組織においてもヒトの先天的統率協調性というものは働いているものだからである

実際に香港警察やミャンマー政府軍は民主化組織の弾圧にも利用可能なものであり 警察や軍隊でありさえすれば常に正しい結果しかもたらさない保証は何もないのである

「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかった」ことこそが原発事故の最も根源的な原因であり 故に畑村洋太郎は原発事故を「人災」と認定したのである

個人が自律的な社会的責任を負わなかった屁理屈なら いくらでもこじつけることは可能であろうが それらのこじつけの全ては環境依存要因であって「組織の体質」だの「トップが悪い」だの「制度や構造の問題」ばかりであり これらは全て「個人の自律的な社会的責任判断」を介さない環境要因でしかない

長谷川眞理子がウクライナ侵攻について語った内容の全ては こうした環境依存要因を並べているだけであって 個人の自律的判断選択については何一つ論じていない

チンパンジーの殺し合いの話であれば チンパンジーに理性など存在していないから全てを環境要因だけで語っても構わないが ヒトの殺し合いにまで「サルの正義」を持ち込み こじつけるというのは不謹慎で無責任にも程がある

ヒトの多くは自分で責任を負いたくないという感情が働くため 責任放棄のあらゆるはぐらかしであっても情動的な「共感」によって容認してしまう習性があり 組織腐敗の責任の全てを組織幹部などのトップになすりつけ 組織を構成している大多数の個人には責任がなかったかのような「解釈」も簡単に鵜呑みにしてしまうものなのである

アドルフ:ヒトラー一人でナチス独裁政権の全てを作り出したわけではなく ナチス政権というのはそもそもドイツ国民によって民主的多数決によって承認されたものなのであり ヒトラー個人だけを批難しても プーチン個人だけを批難しても無駄で 体制そのものに共感共鳴同調迎合服従忖度し 媚びへつらい唯々諾々と従う大多数の組織を構成する個人の自律的な社会的責任判断の欠如こそが 腐敗した暴力組織が傍観放置され 結果的に暴走破綻にまで至ってしまう最も根源的原因なのである

 

多くのヒトは 生物学者や脳科学者共の支離滅裂なはぐらかしを論理客観的には理解しておらず 権威肩書の主張でさえあれば何の疑いも持たずに簡単に鵜呑みにし 主観的に安心して満足することで何も考えなくなる

自分の頭で何も考えず ただ権威の命令や主張を唯々諾々と鵜呑みにするバカの方が 封建的序列による統率協調性を発揮し 環境資源の奪い合い競争においては有利に働き 何も考えないバカの遺伝子の方が拡がりやすかった結果として ヒトは先天的にはバカなのである

 

だが 自分の先天的な頭の悪さ 認知的欠陥の存在を理解し自覚していれば バカにならずに済むのである

 

 

Ende;


ヒトという呪われた存在

2022年06月21日 21時59分35秒 | 意識論関連

呪いを次世代に引き継ごうとする上司と、自分の代で断ち切ってくれる上司、どちらが部下から尊敬されるでしょうか。

 ↗大人が今の若者を嘆くのは、呪いに侵されてるから -東洋経済

 

⇨呪いを断ち切ろうとすれば「裏切り者」として排除され 出世はできず 「上司」になることはできない

原発の津波に対する脆弱性を主張した東電社員は 会社に居づらくなって東電を辞め 遠く離れた四国で農業に就いているのである

従って 「尊敬される上司」そのものが構造的にあり得ないのである

日本大学田中英寿体制に共感共鳴同調迎合忖度服従するようなバカでなければ 左遷されて辞めざるを得なくなる

権威に盲目的に唯々諾々と服従し 組織にとって都合良く卑屈に権威に媚びへつらうバカでなければ組織には馴染むことができない

本来組織内部では少数派であるはずの権力者に対し 組織の大多数を構成している個人に主体的な問題意識がないから組織腐敗は進行し 長期にわたって傍観温存され続けてしまうのである

 

ヒトという種の生物は先天的には平等が嫌いで 卑屈に媚へつらう卑怯者でなければ「生きて」ゆくことができない生物なのである

先天的本能に抗うのは 主体的な論理客観性である

 

過酷な弱肉強食の自然環境下においては 過剰に利益を蓄積しておいた方が生存価においては有利に働くため ヒトは先天的本能としては利己的利益を優先し組織に阿り 唯々諾々と服従忖度して「人間のクズ」になるものなのである

組織の利益を優先しておいた方が 組織の中では有利な地位立場を得られるため ヒトは自律的な社会的責任なんぞ負わなくなり 何も考えずに不条理で非合理な因習や規則を世代間で「連鎖」してしまうものなのである

こうした「連鎖」を断ち切るのが「人間としての意識」であり「論理客観的自発検証性」なのである

 

それは決して先天的本能習性ではなく あくまで主体的な「考え」によってのみ発揮されるものである

 

 

Ende;


抑止力という錯覚

2022年06月21日 19時17分40秒 | 意識論関連

アメリカの銃乱射事件が銃では防げないのと同様に

核兵器は抑止力として機能することはなく むしろ独裁者のワガママのために利用されるだけである

「懲罰こそが唯一絶対的な犯罪抑止だ」とか「軍拡競争が安全保障だ」という倒錯を 人類は自覚すべきである

 

 

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