文庫 麦わら帽子

自作小説文庫

緑の指と 魔女の糸 「満月水と花ふきん」

2016-06-18 | 小説 緑の指と魔女の糸 シ

玄関を開けると カーテンで閉めきった薄暗い2LDK 。

そこには、まだ、あの死体の残香が残っている気がした。

嫌な汗が、首を伝って落ちる。

恐々と部屋を見渡した僕は、

「あの場所」に、黒い肉塊が転がっているのをみた。

畳の上。

それが、生首だと判るのに、時間はかからなかった。

あの日。

ぶら下がっている彼女を降ろそうとしたとき、

腐敗しきった遺体から、首がもげてしまったのだと聞いた。

それが、コロリと転がって、顔がこちらを向いた。

青い眸に、焦点が合った時、僕は悲鳴を上げて、尻餅をついた。

「どうしました?」

紫さんが、僕を押しのけて、部屋に入ろうとしていた。

一応、ハウスクリーニングは、過剰なほどにしてある。

前の住人が、全てを置いて逃げたので、

大抵の生活備品はそろっている。

スリッパも、新品だ。

それを足先に引っかけて、紫さんが一歩踏み込んだ瞬間だった。

眩い光が、炸裂したような気がした。

思わず、目を逸らす。

その光の中で、声を聞いたような気がした。

『 アナタニアイタカッタ アエナカッタ キョウモ アエナカッタ … 』

その声を、横に裂くように、また、光が走る。

『 コエガ キキタカッタ デモ キコエナカッタ … 』

何者かの意識が、僕の中に流れこんでくる。

それは、先程の恐怖をかき消し、透明な、祈りに似た『想い』に代わっていた。

『キョウモ アエナクテ デモ マダ アイタクテ 』

ドウシタライイノ … どうしたらいいの … ?

「そんな時は、誰にも、あります」

独り言のようにつぶやいて、

紫さんは、カーテンを開け、窓を開けた。

どっと、風が入ってきた。

「誰にも、起こり得ることです」

僕は、立ち上がって部屋を見渡した。

空気が違う。先程と、違う。今までと、まるで違う。

「そんな哀しみに、命までくれてやるなんて、あなたは、愚かです」

紫さん、誰に、話しかけてるの?

あの、禍々しい雰囲気が、もうこの部屋にはない。

「角部屋って素敵…お隣のお庭が見える。ガーデニングがご趣味なのかしら。

素晴らしい、ブルーガーデン!」

今、季節は、春。

隣家の庭は、蒼い花に埋もれていた。

「こっちの窓からは、季節を待つ、田んぼが一面。いい風が入ってくる!」

紫さんが、興奮して叫ぶ。

「母さん、遠くに海が見えます」

凛ちゃんも、上機嫌だった。「お日様の匂いもします!」

「素晴らしい … 」

母と子が、窓の外に見惚れているうちに、僕は畳のシミを確認した。

何度、新しいものに替えても、ここには不気味なシミが浮き上がってくるのだった。

それが、ない。これは、どういうことだ?

もちろん、生首もない。

そこは、ただの、小奇麗な小さな部屋になっていた。

「この揃っている備品は、使っていいのですか」と、聞かれ我に返る。

「はい。もし、気持ち悪くないなら」

「大丈夫。とっておきのアイテムを持っています」

紫さんは、大きなトートバッグから、ペットボトルに入った水を取り出した。

それと、手縫いだろうと思われる手ぬぐい。

「これは、昨夜のブルームーンで精製した満月水。

この手ぬぐいは、わたしが心をこめて刺した花ふきん」

白いさらし布に、紺の糸で刺繍されている。

「美しい布ですね」

「刺し子の花ふきんと云うんですよ。かわいいでしょ。

この柄は、千鳥つなぎといいます。

これで部屋のもの全てを拭いてゆきます」

「凜も手伝う!」

凛ちゃんは、満月水と花ふきんを持って、台所に走ってゆく。

「あの、ここに住むつもりですか」

僕は恐々と聞いた。

今はまだ明るいけれど、夜になって、またアレが戻ってきたら…

「まずは、使えるか試してみていいですか」と、紫さんが云う。

僕たちは、とりあえず、冷蔵庫や電球を拭きはじめた。

それら電化製品も、はじめからきれいにしてはいる。

でも、満月水で拭いたそれらは、明らかに、

眩しさを増し、新品同様のようにきれいになった。

「使える」

と、紫さんが云った。「ここに、住まわせて下さい」

もちろん、僕に断る権利はない。

結局、母子は今夜からそこで暮らしはじめることになった。

「布団は? 布団まではありませんよ」

「ベッドが欲しいな」

「じゃあ、僕が付き合いますよ。軽トラもありますし。どうせ暇ですから」

そうして、僕らは、3人で買い物に出かける事になった。

再び玄関を閉ざすとき、なんの根拠もないことだけど、

この人たちは大丈夫かも知れないと思った。

田んぼに向いた窓辺に佇む女性がいた。

この部屋で腐り落ちたひとだ。

でも、その後ろ姿から、悲壮感もなにも感じられない。

彼女は、初めてそれに気づいたように、

窓の外を、一心に見ていた。

外は、春。誰もが待っていた、春だ。

僕は静かに扉を閉める。

それから、凛ちゃんにそっと問いかけた。

「君のママは、魔女なの?」

「ママは、神様よ。やっと、ここで神様らしく暮らせる」

嬉しそうに凛ちゃんが笑う。

「素敵なお部屋をありがとう、猫のお兄さん」




続く























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