いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

韓国の賛美歌「神と心を通わせて」日本語字幕

2019-08-26 12:54:47 | 賛美の心

 

 Ⅰ

おお、神よ!あなたに言いたいことが心に溢れています
御言葉は私の心の扉を開き
あなたの声を聞いた
あなたの御言葉は真理であり、心を潤す泉のようです
あなたの言葉を思い巡らすと
私の心は明るくなり安らぎ、平和と喜びに満ちる
御言葉を実践することで、深く真理を理解する
御言葉に、あなたの義と聖さ、そして真の愛を見出す
私はますますあなたの愛らしさを感じ
あなたはほんとうに人間の愛に値する
信仰において、私は平安と喜びを味わい
あなたとより親しくなった

ああ、神よ!鋭い剣のようなあなたの言葉は、私の心をつらぬき
私の魂の中にある醜さを切り開く
私はサタンの性質でいっぱいだ
私は傲慢で理性がなく
しょっちゅう嘘をついてあなたを欺く
あまりにも堕落し、あなたと取引し
贅沢な欲望でいっぱいだ
裁きがなければ
あなたに抵抗したことで、地獄に沈み込むしかなかっただろう
私を清め、救ったのはまさにあなたの裁きと刑罰だ
あなたが表す真理がなければ
私の主への信仰は虚しいだろう
堕落した人類にとって
裁きはとても意義深いことを私は知った
私は、あなたの愛に報いるために
真理を求め、清められる決意をする
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

 

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神を信じる-聖書と神のつながりを知ることは重要である

2019-08-25 18:45:08 | 賛美の心

  私が北部に引っ越しする前、説教師は私の手をつかんでこう言いました、「今こそが世の終わりです。誰があなたに福音を伝導してきても、それが私たちの信仰と違うなら信じてはなりませんよ。私たちは、『聖書から逸脱することは主を信仰しないということで、私たちは聖書の権威を否定できない』ということを覚えておくべきです。」この言葉を胸に、私は北部に着いてからは集会に参加せず、自宅で聖書を読んでいました。

  2012年のある日、私が妹を訪ねると、彼女は嬉しそうに私にこう言いました、「主イエス様が来られて新しい働きを実行されたのよ。」私は彼女の言葉にびっくりして、こう思いました:「彼女は主を信仰していたことがないのに、どうやって主イエス様が再臨されたなんてことを知っているの?」こうして私は彼女にこう言いました、「おなたは主を信仰したことも、聖書を理解したこともないじゃない。何を分かっているっていうの?」 そして私は立ち上がって家に帰ろうとしました。私がそこを出る前に、彼女は私にこう言いました、「お姉ちゃん、主の再臨を待ち望んでいるってことは主を信仰しているってことじゃないの?今、主イエス様はお戻りになられたのだから、お姉ちゃんも喜ぶべきよ。神の羊は神の御声が聞こえるのよ。お姉ちゃんは私の言葉を信じないかもしれないけど、お姉ちゃんが神から選ばれているなら他の人がお姉ちゃんに福音を説いてくれるわ。」そして、彼女は私に「御言葉は肉として現れる」という本を渡して、家で読むように言いました。しかし、私は説教師の言葉を考慮して、その本を受け取りませんでした。

  数日後、私の隣人であるチェン・ジンが私を訪ねてきました。彼女と話をしていた最中、彼女は嬉しそうにこう言ってきました、「シスター、知ってました?主イエス様が再臨されて、聖書には書かれていない新しい範囲の働きを実行されたんですよ。」こういいながら、彼女はハンドバッグから本を取り出し、それを私に渡してきました。私はこの本を見てびっくりしました:「この本は妹が読むように言ってきたのと同じ本じゃないの?」そして私はが妹の言葉、「神の羊は神の御声が聞こえるのよ。お姉ちゃんは私の言葉を信じないかもしれないけど、お姉ちゃんが神から選ばれているなら他の人がお姉ちゃんに福音を説いてくれるわ」を思い出しました。そして今、私に福音を説いている人が本当にいるのです。チェン・ジンは本当に主から送られてきたのでしょうか?私はこの全てが主の御采配であるような気がしました。しかし、聖書から逸脱することは主から離れることだという見解を持っていた私は、聖書を読んでいなかった彼女たちの言葉を信じようとはしませんでした。私はしばらく沈黙を保ちました。チェン・ジンは私の胸中を察したかのように、熱心な口調でこう言ってきました、「シスター、この機会を見逃すわけにはいかないわ!さあ、この本を読んでください。分からないことがあったら、本の中を探してくださいね。答えはきっと見つかりますよ。彼女の誠実さを見た私はこの本を受け取りました。

  2日後、チェン・ジンがまた私を訪れてきました。彼女は笑顔でこう聞いてきました、「シスター、前回私があげた本は読んでくれましたか?」私はこう答えました、「いえ、まだ読んでません。この本は聖書とは違います。私たちの説教師が聖書の権威を不定できる人はいないし、聖書から逸脱することは主から離れることだと言っていました。」チェン・ジンはこう言いました、「シスター、じゃあ聞きますけど、主イエス様の働きと聖書の記録ではどちらが先の話しですか?それと、神と聖書ではどちらの方がより偉大ですか?私たちは神の働きを聖書の中で定義することはできないんです。聖書にはこう記されています、「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」(ヨハネによる福音書21:25)。この聖句は主イエス様が聖書に記録されなかったことが他に沢山あることを語っています。私たちはそれらを主の働きではないと言えるでしょうか?聖書は主イエス様が弟子たちと暮らされていた時に成されたことや言われた内容のいくつかを限定して記録しており、完全な記録ではないのです。私たちが主イエス様は聖書に記録されていることだけを成され、言われたと考えるなら、主の働きを容易に定義することができるでしょう。聖書は主イエス様の御言葉全てを記録していないのに、再臨された主イエス様の働きを予め記録しておくことができるでしょうか?主イエス様が恵みの時代に成された働きは神が働きを成就された後に使徒によって記録されたのではなかったでしょうか?シスター、私の言っていることは正しいですか?」彼女の言葉は突然私の心に明かりを灯しました:「その通りだわ。主イエス様の働きが先で、使徒たちによる文書が後だわ。ということは、再臨された主イエス様がどのように働きになるかを予め聖書に記録しておくなんて無理だわ。彼女の言ったことが気になるわ。私はこれを追求するべきだわ。

  チェン・ジンが帰った後、私は神の前に行って祈りを捧げました、「ああ、主なる神様、あなたは本当に再臨なされたのですか?チェン・ジンと私の妹は共にあなたが聖書には書かれていない新しい働きを成されたと言っています。私は彼女たちの言ったことは合理的だと感じています。しかし、説教師は聖書に書かれていない働きはそのいずれもあなたの働きではないと私たちに仰りました。神様、どうしてこんなことが起っているのでしょうか?私はどうすべきなのでしょうか?ああ、主なる神様、どうか私をお導きください。」こう祈りを捧げた後、私はチェン・ジンが私に言ったことを思い出しました:「分からないことがあっても、本を読めばすぐに理解できるわ。」 私はこう思いました:「この本は私が理解に苦しんでいる問題を解決してくれるのかしら?答えを見つけるために読んでみようかしら?チェン・ジンの言葉が正しかったとしても、この本を読まないことにはそれが分からないわ。しかも、主イエス様が本当に再臨されておられるのに、この本を読まないことが理由でこの機会を逃してしまったら、私は主に合わせる顔がないわよね?その場合、主イエス様がこの堕落した人類を破滅なされたら、私が『ああ、主なる神様、私はあなたが再臨されていたことを知りませんでした』と言っても、主イエス様はきっと、『私はあなたにあなたの妹とチェン・ジンを送って私が再臨していることを幾度となく伝えましたよ。でもあなたはそれを信じませんでした。あなたは誰のせいにするのつもりですか?』と仰るわ。そうなったら、私は無いも言えずただ悔い改めるだけに生きることになってしまうわ。」 こう考えながら、私は「言葉は肉において現れる」を開き、目次の中に「聖書について(1)」と称した見出しを目にしました。私はこれに驚きました:「聖書について(1)」ですって? 聖書に記されている内容は全て主イエス様の働きじゃないの?聖書の何について書くことがあるのかしら?だれが大胆にも聖書を批評するっていうの?この節は注意して読むべきだわ。」 そして私はその節を開いてその内容を読みました:「聖書とはどういう書物なのか。旧約は律法の時代の神の働きである。旧約聖書は律法の時代のヤーウェの働きと、創造の働きを記録している。そのすべてがヤーウェの行った働きを記録しており、マラキ書のヤーウェの働きの記録で終わっている。旧約は神の行った二つの働きを記録している。一つは創造の働き、もう一つは律法の布告だ。どちらの働きもヤーウェが行った。律法の時代はヤーウェという名で神の行った働きを示している。これは、主にヤーウェという名で行われた働きの総体なのだ。だから、旧約はヤーウェの働きを記録しており、新約はイエスの働き、主にイエスという名で行われた働きを記録している。」「神への信仰において、どのように聖書に接するべきであろうか。これは原則的な問題だ。…長い間、人々の伝統的な信仰の方法は『世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては』聖書を読むことであった。聖書から離れることは、主を信じることではない。聖書から離れるのは邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じると言うのなら、聖書を読まなければならないのだ。聖書を飲み食いし、聖書の外では、聖書と関わりのない本を崇めてはいけない。そういうことをするのは、神への裏切りだ。」。主なる神様、ありがとうございます。これらの御言葉は私の心の中を明らかにしてくださっと同時に全く正しい御言葉でした。説教師は確かに聖書から逸脱するということは主を信仰するということではないと言われ、私もまた主を信仰することは聖書を信じることであり、聖書から逸脱するということは主から離れることだと信じていました。加えて、私は神を信仰するにあたって聖書をどのように捉えるべきかということは一度も考えたことがありませんでした。では、聖書はどのように扱うべきでしょうか?この質問を念頭に置きながら、私は慎重に読み続けました:「聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰である。人々は主を信じるという代わりに、聖書を信じると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じるようになったと言うほうがいい。そして、主の前に帰ったというよりは、聖書の前に帰ったと言うほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように崇め、まるでそれが自分たちのいのちの源で、それを失うことはいのちを失うことであるかのようだ。… たいていの人は、なぜ神を信じなければいけないのかをまったく理解していないし、どう神を信じるべきかを知らないのに、聖書の章句を解明するために闇雲に手がかりを探す以外には何もしない。人々は聖霊の働きの方向を追究したことはない。これまで、懸命に聖書を勉強し調べる以外のことをしてこなかった。聖書の外で聖霊の新たな働きを見出した者は誰もいないし、聖書から離れた者もいないし、聖書から離れる勇気をもつ者もいない。 …人々の聖書への態度は強迫観念と信仰で、聖書の内部事情や実体について、完全に理解している人は誰もいない。その結果、現在でも人々は聖書に関して説明しようのない不思議さを感じる。それ以上に、聖書に執着し、聖書を信じている。」。私はこの御言葉を読んだ後、あまりのショックに何を言えませんでした。私はこう思いました:「その通りだわ。私は主を信仰するにあたって、どうして神を信仰すべきかを考えたことも、聖霊の働きの方向性を追い求めたこともないし、まして聖書に記載されていない新しい聖霊の働きを見つけることなんかは考えてもいなかったわ。私は聖書は神を信仰しながら読むべきだとしか思ってなくて、聖書から逸脱さえしなければ私たちは主を心から信仰できているものだと思ってたわ。」 私は、集会では牧師と長老たちが聖書の内容と説明するのを聞き、家では一人で聖書を読みました。私は万物が聖書をその基盤としているものと思っていたので、誰の言葉であろうと、それが聖書と合致していなければその人たちは間違っていると思っていたのです。このような考え方は本当に間違っているのでしょうか?


キリストの再来についての七つの預言

2019-08-24 18:18:39 | 賛美の心

  今はもう世の終わりの末期です。ヨハネの黙示録第22章12節では、主イエスは『見よ、わたしはすぐに来る』と言われました。主はわたしたちに、彼がまた来ると約束されましたが、主はすでに来られましたか。わたしたちはどうすれば主が再来したかどうかを知ることができますか。真心から主を信じて、主の到来を待ち望む兄弟姉妹たちはきっとこのような疑問を抱いているでしょう。

1.信徒の愛が冷えた
  マタイによる福音書第24章12節でこう書かれています。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」。今、各宗派の信徒たちはおしなべて世をむさぼります。ある者は商売をし、ある者は工場を開設して、金を稼ぐのに忙しく、主のために働く気持ちがなくなります。牧師、長老たちも互いに腹を探り合って暗闘し、互いにねたみ、争います。中には、徒党を組み、いけにえを盗み食いし、ふしだらな行いをする者さえもいます。人の信仰がますます薄くなり、人の愛がますます冷えてきます。今、教会の荒廃状態がますますひどくなります。

2.戦争、飢饉、地震が現れた
  マタイによる福音書第24章6節から8節でこう書かれています。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて生みの苦しみの始まりである」。ここ数年来、世界各地の災難はますます大きくなります。地震、水害、干害、火災、飢饉、疫病はしばしば発生し、しかもますます多くの地域が被災します。被災地区の悲惨な光景は人の心を痛めます。国際情勢は不安定で複雑でその変化が甚しいです。戦争や暴力事件やテロ襲撃はしばしば起き、しかもどんどんとエスカレートします。例えば、2016年4月、インドが40年来の最もひどい旱害に見舞われました。そのため、3億人以上の人の飲料水が不足してしまいました。2015年から2016年までに、ヨーロッパ、アフリカ、中東などに多くのテロ襲撃が起き、数えきれない死傷者が出ました。2008年、中国の四川省汶川県でマグニチュード8の大地震が起こり、7万人近くの死亡者が出、1.8万近くの人が行方不明になりました。本来ならば、地殻層が厚くなった後、地震がますます少なくなるはずですが、今は地震がますます多くなります。これは科学者たちを困惑させています。

3.イスラエル国家が復興した
  聖書にこう書かれています。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(マタ24:32-33)。「それから、イエスはたとえを話された。『いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない』。」(ルカ21:29-32)。1948年5月、イスラエル国家が復興しました。1948年5月15日、ベン・グリオンがテルアビブでイスラエル独立を宣言した後、ソ連はすぐそれを承認し、しかも5月26日、イスラエルに大使館を開設しました。それ以後、ソ連は多くの面でイスラエルを支持しました。1949年5月11日、米ソ両国の支持の下に、イスラエルが国連加盟国として正式に承認されました。

4.天体が変わった
  マタイによる福音第24章29節でこう書かれています。「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」。天文学者たちは頻繁に天文情報を公表します。天文学者たちの話によれば、多くの星がいま落ちつつあり、多くの新しい星がすでに現れたということです。隕石落下の事件がしばしば起こります。2016年5月17日の明け方、アメリカのニューイングランド地方に巨大な隕石が落下しました。隕石が落ちている時に発する強い光によって、夜は昼間のようになりました。2013年2月15日午前9時15分、ロシアのウラル連邦管区のチェリアビンスク市は小惑星に衝突されました。その強力な衝撃波と爆発によって、1491人の負傷者が出、数えきれないほど多くのガラスが割れました。科学者の話によれば、その小惑星は直径が約15メートルで、質量が約7千トンだったそうです。これらは、「星は空から落ちる」という預言を成就しました。

5.福音は地の果てまで宣べ伝えられた
  マタイによる福音書第24章14節で「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」と書かれています。ここの「福音は……全世界に宣べ伝えられる」は、世界各地の人が主の福音を聞いた後、キリストが再来することを示しています (これは、あらゆる人が福音を聞くこと、或いはあらゆる人がキリストを信じることを指すのではない)。主イエスが十字架につけられて贖いの仕事を成し遂げた後、聖霊は神の選民が主イエスを証しするのを導き始めました。ラジオ放送局、インターネット、書籍、福音の宣伝ビラ、宣教などによって、主の福音がますます広く宣べ伝えられてきました。今はクリスチャンは世界の至る所にいて、主イエスの福音はもう全人類に行き渡りました。無神論の政党によって統治されている中国でも、主イエスの福音を受け入れた人がたくさんいます。だから、主イエスが人類を贖ったという福音は世界の果てまで宣べ伝えられました。愛する兄弟姉妹たちよ、考えてみましょう。世界のどの国や地域の人がイエスの福音を聞いたことがないのですか。

6.異端者の出現
  マタイによる福音書第24章4節から5節でこう書かれています。「イエスはお答えになった。『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがメシアだ」と言って、多くの人を惑わすだろう』」。今、世界各国の宗教界にも、多くの異端者、邪教が現れました。これらの異端者、邪教は少しの真理も持たず、また人に真理、命を供給できず、全然人を築き上げ、人に益を得させることができません。

7.偽キリスト、反キリストの出現
  マタイによる福音書第24章23節から26節でこう書かれています。「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない」。今、どの国の宗教界にも、偽キリストが人を惑わすようなことが起こりました。韓国では、多くの人は弁別力がないので、偽キリストに惑わされて、偽キリストの追従者になりました。偽キリストはいくらかの簡単なしるしや奇跡を行い、もっともらしい謬論を話して人を惑わすことしかできず、全然真理を発表して、人類が絶えず罪を犯すという問題を解決することができず、また人類を腐敗から救い出すことができません。聖書の預言から分かるように、主イエスが再来して働かれる時、きっと多くの偽キリストや人を惑わす者は現れて神の働きを妨げます。だから、偽キリストが現れる時、神はすでにひそかに来られました。ただ人がそれを知らないだけです。このような時、わたしたちは進んで神の世の終わりの働きを探求し、調べるべきです。兄弟姉妹たちよ、主イエスの再来を迎える上で最も重要なのは、真のキリストと偽キリストを見分けることです。これは、わたしたちが神の御座に携え上げられることができるかどうかにかかわります。だから、どのように真のキリストと偽キリストを見分けるかについての真理を装備することは、わたしたちの当面の急務です。今、あなたは真のキリストと偽キリストを見分けることができますか。

  以上の事実からは、主の再来についての預言がすでに成就したことがうかがえます。これらの預言の成就から見て、主がすでに戻られました。しかし多くの人はきっと「主が戻られたなら、なぜわたしたちが主を見ていないのですか」と聞きます。彼らは考えたことがないでしょう。自分たちが主を迎える上で間違いを犯したかを。今、多くの人は主の再来についての知らせを聞く時、偽キリストを警戒することを最も重要なことだと見なして、どのように賢い乙女のように神の声を聞くべきか、どのように主の再来を迎えるべきかを重視せず、自分の観念、想像を固守して、主イエスの再来を証しする者たちの証しがすべて偽りのものだと思っています。そのため、彼らは探求し、調べることはしません。こうして、彼らは主の再来を見る機会を逸しました。


どのように預言を扱うべきか

2019-08-23 14:40:10 | 賛美の心

  聖書に記されている、主の再来に関する預言がたくさんあります。どのクリスチャンもこれらの預言をよく知っています。特に主の再臨を切に待ち望んでいるわたしたちは、主の再来に関する預言を正確に理解し、認識したいと強く思っています。主の再来を見られるように。天の国に入りたいという望みを実現できるように。こういうわけで、どのように預言を扱うかは非常に重要です。これは、わたしたちが主の再来を見られるかどうかにかかわります。

 

  主イエスが来て働かれた時、イスラエル人は旧約聖書の預言を根拠としていて、メシアの到来をしきりに待ち望んでいました。彼らは聖書にこう預言されているのを見ました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザ9:6-7)。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(ミカ5:2)。彼らは聖書の預言の文字どおりの意味、およびメシアの到来に対する想像、推理に基づいて断定的判断を下しました。「主は来られる時、きっとメシアと呼ばれる。彼はきっと王宮や、貴族の家や、権勢のある富貴の家や、或いは地位の高い家に生まれる。その容貌はきっと立派で人並み優れていて、堂々としていて、非凡だ。彼はダビデのようにイスラエルの王となり、しかもイスラエル人を導いてローマ政府の支配から脱する」と。

  しかし、事実はどうでしょうか。神は彼らの観念、想像によってこれらの預言を成就しませんでした。主が来られた時、メシアと呼ばれず、イエスと呼ばれました。彼は王宮や貴族の家、王の家に生まれたのではなく、飼い葉桶の中に生まれました。彼は高い地位を持つどころか、かえってヘロデ王に追跡されました。イエスの容貌は彼らが想像しているように人並み優れていて、非凡であるのではありません。イエスの容貌はとても普通で正常でした。

  しかも主イエスの働きは彼らの観念に反撃しました。主イエスは彼らの想像するようには彼らをローマ政府の支配から救い出しませんでした。むしろ逆に、人に罪を告白し、悔い改めるように要求し、人に寛容で我慢し、敵を愛し、人を七十七回赦すように教えられました。彼は神殿の中で働かず、かえって神殿から出て来ました。彼は安息日を守らないだけでなく、また安息日に人のために病気をいやし、悪霊を追い出しました。彼の弟子たちは空腹になった時、麦の穂を摘んで食べました。……実現した預言はいずれもイスラエル人の想像に合致しません。主イエスの仕事は律法の時代でなされたことがないものです。それは律法の基礎の上でなされた新しい仕事です。

  実は、当時主イエスは多くの真理を発表し、多くのしるしや奇跡を行い、完全に神の権威と力を明らかにされました。しかし、当時のパリサイ人は彼らの観念、想像と合致しないこれらの働きに直面している時、全然真理を求める心を持たず、かえって至る所で主イエスを訴える口実を探しました。最終的に、彼らは主イエスを十字架につけて、この上なく大きな罪を犯し、そのため国の滅亡のつらさを味わいました。

  この残酷な事実はわたしたちに次のことを教えています。パリサイ人はメシアの到来を切に待ち望んでいるが、到来したメシアを捨て、到来したメシアに逆らいました。彼らの頭の中はメシアに関する預言に対する幻想、観念、想像でいっぱいになりました。彼らは聖書の預言の文字どおりの意味に基づく認識を頑なに守り、自分の推理、想像によって神の働きに対して断定的判断を下しました。だから、預言が成就する時、それが彼らの観念、想像に合致しないので、彼らは極力主イエスに逆らい、主イエスを罪定めしました。彼らの愚かさと無知は彼らを葬り去りました。最終的に、彼らは神に逆らう人になってしまい、神に淘汰され、捨てられました。だが、自分の観念と想像を捨てられて、主イエスの働きと言葉を探求し、調べる人たちは、主イエスが来たるべきメシアだと確信しました。だから、彼らはすべてを捨てて主イエスに従うことができました。そのため、彼らは主に良しとされました。

  聖書にこう書かれています。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽せよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか』」(ロマ11:33-34)。神は造物主であり、わたしたちは被造物、土の塵です。神の知恵、全能、霊妙さは、わたしたちが永遠に計り知ることができません。預言の中に、神の霊妙さと知恵があり、奥義もあります。預言がどのように成就して事実になるかは、わたしたちが計り知ることができません。それでは、わたしたちはどうして神の働きを計り知り、神の相談相手になることができるでしょうか。コリントの信徒への手紙二第3章6節で「文字は殺しますが、霊は生かします」と書いてあります。聖書のこれらの言葉とパリサイ人の失敗の事実から見れば、預言の成就はわたしたちが想像しているように簡単ではなく、預言は聖書の文字どおりの意味によって成就するはずがありません。実は、主イエスの到来はすでに預言を成就しました。しかし、預言は人の想像、観念によって成就したのではありません。主はすでに降誕しました。彼は処女マリアから生まれ、ベツレヘムに生まれ、そしてヘロデ王に追跡されました……。これらは預言が成就したことを証明しています。しかし、パリサイ人はメシアを迎える上では、自分の考え、想像を信じ、聖書の字句の表面上の意味によって理解し、推理するのでした。そういうわけで、彼らは必然的に、永遠にメシアの到来を見られません。

  今、世の終わりがもう来ました。わたしたちはどのように主の再来に関する預言を扱うべきですか。もし主がわたしたちが望み、想像するようには再来しないなら、わたしたちはどのようにこの現実に直面すべきですか。この問題は私たちが深く考えに値します。


聖書の預言について、どう扱われば主の御心に適うのか

2019-08-22 11:35:49 | 賛美の心

  聖書にはこう書かれています:「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。」(ペテロの第二の手紙1:20-21)。「彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。」(ペテロの第二の手紙3:16)。「それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」(コリント人への第二の手紙3:6)。 私たちは自分たちの観念と想像に頼って預言を文字通りに解釈してはならない、なぜなら預言は神から来るものであり、私たちは聖霊の御啓示を通じてのみそれを理解することができるということをこれらの聖句は語っています。しかし、預言が成就されるまで、私たちは自分たちの観念に頼り、文字通りの解釈をしてしまいがちです。これにより、預言を誤解しやすくなってしまいます。そして、私たちの不条理な解釈が他人を誤って導いてしまいます。例えば、パリサイ人はメシア来臨の預言について、自分たちの考えに頼ってしまいました。主イエス様がお生まれになる前、彼らはイザヤ書7:14と9:6-7、そしてミカ書5:2の預言の文字通りの意味を基に、「メシアはベツレヘムの処女に生まれ、インマヌエルと名づけられる。そしてメシアは宮殿で育ち、王位につきながらイスラエルを統治される」、という内容でメシアの来臨を想像しました。しかし、これらの預言が成就された時、彼らが想像していたメシアは現実とは違いました。「主は結婚していたマリアから、大工の家庭に生まれ、イエスと名付けられた。イエスはナザレの出身で、最後は十字架に釘付けにされる」というのが彼らが実際に見た内容だったのです。これは預言の文字通りの意味とは非常に異なる内容でした。これ故に、パリサイ人は主イエス様の働きと宣教に権威と力があることを目撃していたにもかかわらず、主イエス様が約束されたメシアであられたことに気付かなかったのです。代わりに、彼らは主イエス様が悪霊の頭の力で悪霊を追い出していると言って、主イエス様を冒涜したのです。こうして、彼らは聖霊を冒涜するという罪を犯し、神を怒らせてしまったので、主の許しを得ることは決してありません。そして、見識を持たずパリサイ人の言葉を信じていた庶民も神の救いを失ってしまいました。この例より、パリサイ人は自分たちの想像と預言の文字通りの意味にこだわったがために、自分たちだけに限らず、他人まで滅ぼしてしまったということが分かります。

  2000年が経過した今、主の来臨をお迎えする大切な時期が到来しました。聖書には、主の来臨に関する様々な預言が多く存在し、私たちは頻繁にそれらを文字通りに解釈してしまうため、それらに関する観念をたくさん持っています。例えば、主の来臨に関する聖句の中に「夜中」や「盗人」という言葉を目にすると、(見てヨハネの黙示録16:15; マタイによる福音書 25:6)、私たちはその文字通りの意味から、主は夜中に来られる、と確信してしまいます。この結果、夜になると、クリスチャンの中には服を着た状態で携挙されることを期待しながらコートとズボンを身にまとって寝る人がいるといった有り様です。しかし、私たちは聖書に「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。」(ヨハネの黙示録1:7)、と書いてあるのを見ると、文字通りに主が日中に雲に乗って再臨されて、人類の前にその御姿をお見せになり、皆がそれを目にすることを意味しているとみなすのです。この結果として、主が突然雲に乗って降臨される日を切望しながら、頻繁に空を仰ぎ見る人たちがいます。つまり、私たちはこのトピックについて多くの誤解を抱いているのです。神はこう仰っておられます:「人が信じているものはすべて観念であって、人が受け入れているものは全て文字通りの意味や、また人の想像力に沿ったものである。それは聖霊の働きの原則とは一致せず、神の意図に沿っていない。…神の奥義は人間には理解できないことをあなたがたは知っているのだろうか。神の言葉は人間には説明できないということをあなたがたは知っているのだろうか。あなたは聖霊の啓示を受け、聖霊の光に照らされたとでも確信しているのか。聖霊があなたにそのように直接的に示したのであろうか。これらは聖霊の指示であるのか、それともあなた自身の観念なのか。」神の御言葉は神の奥義を理解できる人はいないということを私たちに伝えておられます。私たちの想像にまかせて預言をその文字通りに解釈するのは神の御旨に沿っていません。従って、私たちは主が再臨される光景を想像するのを止めるべきなのです。なぜなら、預言がどのようにして実現するのかは神御自身がそれを成就しに来られるまで、私たちには全く分からないからです。私たちは皆、神の創造物であるため、神がどのように働きをなさるかは分かりません。神の御啓示を受けた後に預言を告げた預言者が何人かいましたが、彼らもその真義やそれがどのようにして成就されるかは知りませんでした。

  従って、主の再臨に関する預言について、私たちはもっと祈り、神を恐れる心と謙遜して探求する姿勢を持たなければなりません。このようにしてのみ、私たちは聖霊の御啓示を受け、主をお迎えすることができます。ペテロ、ヨハネ、ナタナエルといった主イエス様の最初の弟子たちは預言の文字通りの意味にはこだわらず、それを神がなさったことに照らし合わせもせず、そして神がどのように来臨されるかを決めつけもせず、代わりに主イエス様が仰せられた真理に耳を傾けることに集中し、主の働きは権威と力にあふれ、他のいかなる者でも成し遂げられることではないということを知りました。このため、彼らは主イエス様がメシアの来臨であると判断し、主イエス様をお迎えして、最後には神の救いを受けたのです。彼らがメシアをお迎えした方法こそが正しい方法なのです。従って、主の再臨をどのように扱うかという疑問については、私たちは虚心に真理を求める人にならなければなりません。主の再臨を証言する人がいたら、私たちは自分たちの想像と観念、そして預言の文字通りの意味に依拠してその証言をむやみに拒むというパリサイ人と同じ過ちを犯すのではなく、代わりに自ら探求、そして調査しなくてはなりません。このように神を畏れる心を持つ場合に限り、私たちは主をお迎えする機会を手にすることができ、ほぼ無意識のうちに預言がどのようにして実現するのかを理解できるようになるのです。

 

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