いのちの源

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うわべから物事を判断するには正確さがあるのか ——1つの絵によって改めて考えさせられる

2019-08-16 13:33:04 | 賛美の心

  この絵の中に二羽のウサギがあります。一羽のウサギは自分のダイコンの葉が外見上大きいのを見て、非常に喜んでいます。もう一羽のウサギは自分のダイコンの葉が小さいのを見て、ダイコンが小さいと思ってしまい、つらい気持ちになりました。傍観者としてのわたしたちは、この絵の中の二羽のウサギがばかげていると感じるでしょう。だが、それを一笑に付した後、わたしたちは改めて考えさせられます。「うわべから物事を判断するには正確さがあるのか」と。

うわべから物事を判断することによってもたらされる結果

  聖書を開いて、「ヨブ記」にこういうことがあるのを見ました。ヨブが試練を受ける時、彼の三人の友達は観念、想像によってうわべから物事を判断し、ヨブがきっとヤーウェ神を怒らせたから、こんなに大きな災いに襲われたと思っていました。例えば、テマン人エリファズは「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たされたことがあるかどうか」(ヨブ4:7)と言いました。しかし実際には、ヨブが試練を受けたのは、神を怒らせたからではなく、霊界における神とサタンとの一回の戦いのためでした。神がサタンにヨブを試みることを許されたのは、ヨブの信仰を完全にされるためでした。神が人の心とはらわたを探るので、神から見れば、ヨブは地上の唯一の、「無垢で正しくて、神を畏れ、悪を避けて生きている」人でした。しかし、当時の人々はただうわべから物事を判断するのでした。彼らは、ヨブが家産を奪われたり、子女が命を失ったり、しもべたちが殺されたりといった知らせを聞いた後、うろたえず、激しく泣かず、知らせに来てくれたしもべを責めず、現場を実地調査し、ことのいきさつを調査し、確かめることもせず、しもべたちや友達を集めて家産を奪い返すこともせず、かえって「衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏す」(ヨブ1:20)のを見ました。当時の人はみな、ヨブのこの行為は理解に苦しむものだと感じました。多くの人はヨブが「冷血」な人だと叱責しました。家産が失われても、ヨブが平然とそれに直面することができたのは、ヨブがこんな大きなことに会う時、全然うわべから物事を判断しなくて、彼が彼の一生の経験と、神の創造された天地万物を通して、神が万物を主宰し、管理し、万物に供給するという事実を認識し、自分のすべてのものが神の祝福から来たもので、あくせく苦労することによって得られるものではないことを見たからです。このことを、当時の人々がどうして知ることができただろう。そういうわけで、ヨブはすべてが失われたという試練に直面する時、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名がほめたたえられよ」(ヨブ1:21)という言葉を言い出せました。うわべからは、わたしたちはヨブがこれらの証しをした後、ヤーウェ神が彼に現れるのを全然見ていません。聖書にこう書かれています。「主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。『わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう』。」(ヨブ42:7-8)。ヤーウェ神のこのくだりの言葉から、わたしたちはこのことを知りました。ヨブの三人の友達はうわべから物事を判断するので、ヨブが災いに遭ったのは、神に懲罰されたからだと思って、ひたすら裁き、罪定めし、その結果神に嫌われました。だが、ヨブはうわべから物事を判断しなくて、神の主宰を信じ、神の主宰に従い、そのためヤーウェ神の祝福を得ました。それは聖書に書かれているとおりです。「主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった」(ヨブ42:12)。「ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ」(ヨブ42:17)。

  旧約のイザヤ書にこう預言されています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザ9:6-7) 。ローマ人の奴隷としてこき使われるユダヤ人は観念、想像によってこの箇所の言葉を理解していました。彼らはこう思っていました。メシヤがきっと王宮に生まれ、しかも非凡な外見を持ち、堂々たる風采をしていて、勇ましく非凡だ、彼が来る時、彼らを導いてローマ政府の支配を覆す、こうして彼らが奴隷のようにこき使われることはなくなる、と。しかし主イエスが働くとき、彼らはうわべで主イエスを判断するのでした。彼らの見た主イエスは普通の容貌をしていて、非凡な外見を持たず、博学ではなく、貧しい大工の家に生まれただけでなく、しかも飼い葉おけの中に生まれ、彼らを導いてローマ政府の支配を翻すどころか、かえって枕する所もないほどに迫害されました。このようなイエスがどうしてメシヤであり得るでしょう、とユダヤ人が思っていました。こういうわけで、ユダヤ人はうわべから判断して、主イエスがメシヤではないと断定し、主の贖いを受け入れず、神の救いを拒絶しました。そのため、彼らは神に逆らい、神を裁き、罪定めし、冒涜し、最終的に受肉した神を十字架につけてしまって、取り返しのつかない、この上なく大きな罪を犯しました。

  以上の二つの例から、わたしたちはこのことを知りました。観念、想像によってうわべから物事を判断すれば、真相が分からず、間違った判断をするため深刻な結果を招くことはいとも容易に起こります。これで分かりますが、うわべから物事を判断するには、本当に正確さがありません。

  主イエスが働く時、多くの人は主イエスの外見を見て、主イエスを見捨てました。でも一部の人は主イエスの働きの歩調についていけました。これらの人は、主イエスの外見によってではなく、主イエスの働き、言葉によって主イエスがメシヤであるかどうかを判断するのでした。彼らは主イエスの働きという事実、主イエスの声、言葉、主イエスの働きの効果を通して調べ、そうすることによって、主イエスが神のしたい仕事をもたらされたこと、また、主イエスが神の所有しているもの、神であるものを発表されただけでなく、人に真理、道、命をももたらされたことを見ました。彼らは本質から主の働きを調べることを重んじるのであって、簡単にうわべから判断するのではありません。そのため、彼らは神の足跡を見つけ、主イエスの働きの歩調についていけ、神の救いを得ました。

これによって改めて考えさせられる!
  メシヤを待つことにおけるユダヤ人たちの全く異なる、物事を見る観点によって、世の終わりのわたしたちは改めて考えさせられました。今はもう末世の最後の時です。主の再来に関する預言はもう次々と実現しました。聖書に「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」(黙2:7)と書かれています。わたしたちはペテロ、ヨハネ、ナタナエルたちのように神の働き、言葉を調べることを重んじて、神の声を聞き分け、神の足跡についていくことができるでしょうか、それともユダヤの民のように、主イエスの外見だけ見て主の働き、言葉を注意深く調べず、主の働きを拒絶し、神の新しい時代の働きに淘汰されるでしょうか。これは世の終わりの人の最も重要な選択だと言わざると得ません!



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