いつもブログをご覧いただきありがとうございます。
今回のブログは、7月17日にフリーアナウンサーの大和田新さんと巡った、「福島県須賀川市・藤沼湖決壊」についてお伝えします。
長いブログになっていますが、最後まで見ていただきたいです。
2011年3月11日の東日本大震災、福島県は地震・津波・原発事故だけではありませんでした。
須賀川市の農業用のため池「藤沼湖」が決壊し、150万tという想像を絶する水が地域を襲いました。
7名が亡くなり、1名は今も行方が分かっていません。
亡くなった方の1人、林萌子さんは当時14歳で中学2年生でした。
私たちは「もえちゃん」に焦点を当て、もえちゃんの人生があった場所を巡っていきました。
最初に訪れたのが、藤沼湖決壊による慰霊碑がある滝地区です。
慰霊碑に手を合わせ、実際に水が押し寄せてきた場所に立ちました。
今はきれいな公園ができていましたが、ここには震災前家があり、地域の方たちの人生があったことを教えていただきました。
もえちゃんが流されてしまった場所に立ちながら、13年前のあの日、150万tの水が押し寄せる中、お母さんと必死に手をつなぎ、そして離れてしまった…最後に「お母さん!お母さん!」と2回叫んだことを聞きました。
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濁流が押し寄せた土地は木が生えておらずひらけていて、ここを流れてきたんだなと実感しました。
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必死に叫んだもえちゃんの気持ち、あまりの濁流に手が離れてしまったお母さん、どちらの気持ちもあまりに辛く、言葉にならなかったです。
次に私たちは藤沼湖に向かいました。
決壊した堰堤の場所に立ち、濁流が流れていった場所を見ると、そこも木が生えておらず、濁流が流れた跡がよくわかりました。
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現在の藤沼湖は温泉や食事処、パークゴルフ場があり、地元の方たちがたくさん訪れていました。
13年前、8人もの命を奪った藤沼湖が、この地域の農業には欠かせない存在であること、地域の賑わいを創出する大切な場所になっていることが、不思議な感覚になりました。
その次に、もえちゃんのお墓参りに行きました。かわいいキャラクターがもえちゃんの隣にいました。
どんな思いで天国へいったのか、あまりの辛さに何をもえちゃんにお祈りしたらいいのか分かりませんでした。
ただただ、天国で幸せに暮らしていることを祈るばかりでした。
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もえちゃんは濁流に流された後、今も見つかっていない1名の方を除けば、最後に見つかった方でした。
震災から49日が経った日、流された場所からなんと45キロも離れた二本松の阿武隈川で見つかりました。
木、岩、一緒に流されてきた様々な物にぶつかり、その姿は、表現できるような状態ではなかったそうです。
もえちゃんのお墓参りのあと、阿武隈川のもえちゃんが見つかった場所に行きました。
その場所は流れがとても急で、近くにはカヌーの練習場があるそうです。
もえちゃんはその岸の方、流れが突然穏やかになっているところで浮かんでいたそうです。
震災からちょうど49日、もえちゃんはふるさとに戻ることができました。
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藤沼湖決壊を記録した証言誌をいただき、震災当時藤沼湖周辺に住んでいた住民の方の証言を読むと、「水が鉄砲のようだった」、「猪苗代湖の水が来ているのかと思った」、「町が沈んだようだった」という表現が多く用いられていました。
水の勢いと水量が想像できないほどのものだったと推察されます。
濁流の中、絶対に自分の娘の手を放すまいともえちゃんの手を握っていたお母さんの気持ちを考えると、簡単に「復興した」という言葉を使ってはいけないと思います。
1日かけて、もえちゃんに関連する場所を巡りながら、もえちゃんの気持ち、ご家族の気持ちを考え続けました。
藤沼湖決壊により命を奪われた8名すべての方に、それぞれの人生があり、ご家族がいて、一生癒えることのない苦しみがあります。
ニュースで「7名死亡、1名行方不明」と書かれている字面を見ているだけだった自分が、実際に命が奪われた場所を巡ることで、それを理解することができました。
そして今も藤沼湖決壊という災害は終わっていないと感じました。
慰霊碑には6名の方のお名前しか載っていません。
1名はまだ見つかっていない方、もう1名はご遺族のお考えで、名前の掲載をしていません。
慰霊碑に名前を書いて、手を合わせて、それで終わり、ではないのです。
生活のそばに決壊してしまうようなため池を作ってはいけませんし、東日本大震災を上回る地震が来た時にどう対処すべきか、考え続けなければいけません。
さらに、藤沼湖をもう一度作る決断をしたことも、私は意外に思いました。
私が震災当時、藤沼湖周辺に住んでいたとしたら、再建に反対していたと思います。藤沼湖があることで、決壊の恐怖におびえながらこれからも生活しなくてはいけないと考えてしまうからです。
しかし、藤沼湖はその地域での農業には欠かせない存在であり、藤沼湖周辺の地域で生活していくには、なくてはならない存在だったのです。
藤沼湖再建に賛成した住民、反対した住民、どちらもいらっしゃったのではないかと推測します。その対立は、住民同士の心の分断にはならなかったのか、というのが新たに出た疑問です。
今回聞いたお話し、実際に見た場所を通じて、私はこのブログを見ている皆さんに、震災で犠牲になった1名1名にそれぞれの人生があり、ご家族の苦しみがあること、「○○名死亡」という文字だけでは伝わらない思いがあることを伝えたいです。
改めて、藤沼湖決壊で亡くなった7名の方のご冥福をお祈り申し上げるとともに、行方不明の1名の方がご家族の元に帰れることを祈っております。
そして、藤沼湖決壊について教えて下さった大和田さんに心より感謝申し上げます。