信州ななめよみ

長野県政をはじめ長野県に関することを思いつくままにつづるもの

道路維持課主査の自殺問題

2006-11-29 00:11:02 | Weblog
昨年10月のこと、当時の長野県庁道路維持課管理ユニットの当時37歳の主査が自らの命を絶った。ここでは仮にN氏としておくが、その悲劇から約1年が過ぎたこの11月にN氏の遺族が労災申請をしたことで、この件が改めてクローズアップされるようになった。
当初、道路維持課ではN氏の自殺を県庁内部にも伏せていたらしく、かなり後でN氏の自殺を知った県職員が自殺したとされる日の数日後にN氏あてに電話をしたところ、同僚と思われる職員からN氏は出張中であるとの返答を受けたので、後になって驚いたという話がある。また土木部現地機関ではN氏自殺の数日後に緊急連絡先の変更通知が回り、組織改編や人事異動があった訳でもないのになんでこんな時期にと訝っていたら、後でN氏の自殺を知って合点したという話もあった。
N氏の自殺と相当に因果関係のありそうな話として、自殺の前日に道路の損賠決裁文書のことで当時の経営戦略局長に呼び出されて衆目の中で罵倒され、最後には決裁文書を投げ返されたとするものが県庁内に広まっている。他にも幾つかの噂話が出回っているが、それらは確証が得られるものでないためここでは割愛しておく。

N氏が道路維持課管理ユニットに配属されたのは昨年の4月で、管理係の係長ポストが無くなって(組織上は企画幹が係長兼務になった)係員への仕事の負荷が大きくなった直後であった。国道県道の管理全般のうちN氏が担当していたのは、道路上事故の損害賠償事務が主であった他、交通事故・倒木・通行止めクレームなど道路管理上で何か問題が発生した時の夜間休日の第一連絡先でもあり、24時間体制で私用携帯に電話がかかってきて、しかもその内容を上司や関係機関に連絡・報告する義務があった。
先に出ていた当時の経営戦略局長である松林氏との関わりもここにあり、N氏にとっての悲劇は、目下の相手には重箱の隅をつつくようにネチネチと攻撃をすることで知られている松林氏が10数年前に道路維持課管理係長を務めていて、恐らくはN氏以上にN氏の担当する業務内容に精通していたことにあった。局長当時の松林氏は県庁内で権力絶頂期にあり、部課長を呼びつけては平気で何時間も待たせることも珍しくなかった。他にたくさん仕事を抱える部長が午前中に呼び出されたものの数時間待たされても反応が無いので「呼ばれたら駆けつけるから」と部下を局長の前に残して部屋へ戻って、最初に呼ばれてから半日が過ぎようかという終電の頃になってようやく呼び出された部長があわてて駆けつけると局長が「何分も待たせるな」と頭ごなしに怒鳴りつけたとする逸話が残されている。かつてはタクシー代を一人で専ら使用していたことが問題になったが、松林氏は局長時代に深夜まで県庁に残り、丑三つ時になると書類の入った紙袋を両手に抱えてタクシーで帰宅するという姿が珍しくなかったようだ。風呂敷残業という言葉どおりに松林氏が自宅でそれらの書類にどこまで目を通していたのかは不明だが、少なくてもN氏一人で太刀打ちできる相手ではないことは間違いない。

N氏の自殺に関して、慢性的な超過勤務が新聞等で報じられているが、携帯電話のことは触れられることがない。超過勤務にしても、新聞報道では100時間以上を数ヶ月としか出ておらず、月150~200時間の超勤が珍しくもなく不夜城であることが多い県庁の常識では「何でたったそれだけの超勤で」という程度の数字しか表に出ていない。しかし実際には土日出勤を含め上司を憚って正規に申請をしていない超過勤務、いわゆるサービス残業がかなりあったらしく、それが家族への「帰るコール」の時間帯や県庁受付での帰宅時の時刻記入で立証されて、このたび遺族が労災認定申請にこぎつけた。
先に述べた緊急連絡先の変更というのはまさにこれであり、N氏自殺の後は、第一通報受信者は道路維持課内で持ち回りの当番制に代わった。N氏は、損害賠償にしろこの携帯通報受信にしろ、質的にしんどい仕事を一人で担わされていたのである。当時の課長と係長(企画幹)はそれを知ってか知らずか放置しており、結果的に責任を取らされる形で、今年の4月に事実上の左遷ともいえるような異動をした。なお10月にN氏が自殺をした後、定期異動を待たずに異動があったが、後任となったのは現在も同係の係長を務めている課長補佐級のベテラン職員であった。
当時、道路維持課長だったのは山浦氏で、数ある土木部の技術職員の中でも指折りの玄人技術者であるが、それまでは能力実績の割に人事面でやや冷遇されていた。癖のある性格と特定政党に所属していたことが原因だとされている。技術管理室の在籍が長く、4年半ほど前の技術管理室在籍時に業務委託の同額落札騒動が起こって、信毎に名指し同然で虚偽捏造の記事を書かれたことで却って土木部内の同情を集めたことがある。この騒動がきっかけで当時知事だった田中康夫氏の知己を得たのではとする説もあるのだから奇妙なものだ。

土木部関係の損害賠償の委員会は土木部長が委員長になり、土木部監理課長(現在は土木政策課長)と財政担当課長が委員として加わるので、本来であれば経営戦略局長が実質的にそれに関わってくることはなく、財政担当課長の上司として形式的に関わるかどうかという程度でしかない。しかし田中県政の後半は読売新聞による情報公開請求やはるさめ騒動などで表面化したように、県庁内の事務決裁が大いに乱れ、従来であれば課長・部長が決裁して執行していたものまで事実上の知事決裁になっていた案件がたくさんあった。
決裁権は従来どおりであっても、知事の了解が得られないと執行できず、知事の了解を得るには事前に経営戦略局長の了解を得る必要があるという中で、どうしても決裁が滞りやすくなり、事務の停滞が日常茶飯事となる。これには経営戦略局へ知事あてメールが届くようになったこととも無関係でなく、経営戦略局が懸案事項処理で知事の判断を仰ぎつつ決定していくために、事務処理の担当はそのままに所轄部局の決裁権だけを事実上奪い取ってしまったのだ。簡単に言えば文書の決裁が課長までで済んでいたものを局長、知事まで回すことになったも同然であるのに、責任者はあくまで課長のままという状態だ。決裁権がどこにあるかというのは県庁内だけの話であるが、それによって事務処理が滞るというのでは外部への影響も生じてくる。
ただでさえ上司の顔色を伺う傾向のある県職員が、田中県政の後期はその傾向がかなり顕著に表面化し、課長であっても知事や局長に反論すればただちに飛ばされてしまう中で誰も異論を言えなくなり、N氏の直属上司がN氏を庇えなかったのもそうしたことが伏線にある。また、県の事業費は減っているのに事業部門を引き続き重視する一方で旧道路維持課のような維持管理や総務の部門の人員規模を縮小するという田中県政時代の人事施策面での問題もここにはある。N氏の自殺は、単純に勤務形態や松林局長との関係だけでなく、こうした田中県政後期の体制・体質がもたらした悲劇であるともいえよう。