信州ななめよみ

長野県政をはじめ長野県に関することを思いつくままにつづるもの

先の土日の話題

2005-11-29 07:32:28 | Weblog
五輪招致疑惑の委員会報告が出された。報告書はまだ見ていないので新聞報道でしか知らず、はっきり言えば最初から全く期待をしていなかったが、そうした期待に違わずに成果が事実上見られない報告が出されたようだ。田中康夫知事がこの問題のキーマンである「ミスターナガノ」吉田總一郎氏を庇って表舞台に立たせないようにしていることは一目瞭然であったし、内部調査もかなりずさんだった。五輪招致が確定したのは1991年の初夏、それから既に14年が経過して、調査が困難になりつつあるとはいえ、真剣に調査を行った形跡があまり見られない。既に世に出ている関連本や週刊誌記事をしのぐ成果も見られず、そもそも田中康夫知事が事実関係の解明について非常に消極的であり、県職員への調査協力要請も通知を流すだけのものでしかなかった。
田中康夫知事と吉田總一郎氏、あるいは茅野實氏との関係は周知のものであり、この調査をもって五輪招致疑惑をフェードアウトさせようとする狙いがあるであろうことは十分に推察できる。つまり疑惑の幕引きのための言い訳に使われたということだろう。
これからおいおいと読んでみたい。

浅川の治水計画は60年確率という。そんな確率年での治水計画はこれまでに聞いたことがない。だいたいは10年、30年、50年、80年、100年などである。
単純に連想したのは基本高水の数値ありきでの逆算による数値合わせだった。しかしそれであれば50年確率とすればよいわけで、この60年確率というものがどこから出てきたのか、非常に訝るところだ。流出解析の手法は全国共通だが、算出に用いる係数等は地域性がある。長野県では県内を幾つかにブロック割りしてそれぞれの観測値より県庁河川課が算出した降雨強度の算出式があり、現在は平成8年版が使用されている。
織田信長の時代であれば人生60年、一生に一回あるかどうかの確率となるが、現代は人生80年の時代で、百歳を超えて健在な人も多い。その中で今まで100年確率だったものを60年確率にするということは、単にお金が無いからとの理由で済まされるものではない。
単純に治水だけで終わることではない。市町村には地域防災計画を立て、ハザードマップ等により危険な場所を住民に知らせる義務がある。

11月24日付け東京新聞の筆洗というコーナーで、キムチの寄生虫騒動に関して「なあに、かえって免疫力がつく」と綴られていたことが物議をかもしている。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/hissen/20051124/col_____hissen__000.shtml
東京新聞といえば中日新聞のグループであり、中日新聞の論調からみるに特定アジアに媚びる傾向が強いことから、そうした意図を込めての記載だったのかもしれない。
この記事の文章は先に挙げた点など奇異なところが多いが、読んでいて個人的に印象に残ったのは、源平合戦での富士川の戦いを取り上げていた記述だ。
「鳥の羽音に驚くような、最近の鳥インフルエンザ騒ぎ」とのくだりで源平合戦を持ち出したのはNHK大河ドラマの影響だろうが、鳥の羽音という記述で連想するのはむしろ源頼朝らの祖父の祖父にあたる名将、源義家の故事である。
前9年の役を終えて懸案だった奥州の騒乱をひとまず鎮め、都に凱旋した源頼義らは功績目覚しく、中でも源頼義の嫡子で活躍をした源義家は都の寵児的な存在になった。そんな源義家に苦言を呈したのが大江匡房という白川院の側近貴族で、「源義家は優れた武将だが惜しむらくは兵法を知らない」と言ってのけた。源義家の家臣らは高くしていた鼻をへし折られたため怒号にあふれたが、当の源義家はそれを聞くと家臣を抑え、自ら大江匡房のもとを訪れ弟子入りして兵法を学んだ。そして後3年の役、今度は源義家が総大将で奥州平定に向かった。戦の最中、進軍の先で鳥が草むらから羽ばたくのを見て、源義家は学んだ兵法の知識から「あそこに伏兵がいる」と指示し、最終的に戦いを勝利に導いた。当然この故事は源氏一門の語り草となり、源義経らも知っていて、それを逆用したのが富士川の戦いであった。
そして大江匡房の曾孫の大江広元は朝廷を去って源頼朝の参謀として活躍し、その子孫からは戦国大名の毛利元就が出る。毛利元就は息子たちにかの有名な3本の矢の教訓を残す。3本の矢の故事は毛利元就ではないとする見方もあるが、ともあれ歴史の面白さだ。

構造計算偽造問題に関する雑感

2005-11-29 07:16:53 | Weblog
千葉県の建築士が建築物の構造計算を偽造したことが問題になっている。長野県でも3つのホテルが該当になり、営業の一時停止などに追い込まれた。建築士や建築会社が盛んにマスコミ披露をしている一方で早々と自殺者が出たあたり、事件の根深さを感じざるを得ないが、そうした詮索はここでは避けておく。

普通に建築物を建てるときには行政による審査がある。審査を行う行政の担当者を「建築主事」といい、長野県では地方事務所の建築課長がそれを行うことが多く、該当する建築物件の所在する市町村の役所・役場で建築主事を置いているところでは県ではなくそちらで行うことになっている。建築主事は役職肩書き名ではなく資格である。
多くのコンクリート構造物にとって鉄筋は欠かせない。鉄筋を組むことを配筋と呼ぶことがあるが、配筋の設計が適切かどうかは構造計算で簡単に出来るようになっている。専門家であれば設計時点での構造チェックはさほど難しくなく、現場での手抜き防止がむしろ重要になっている。設計図に則って建築許可を受けても、設計図どおりに建築物が完成されるとは限らない。建築物の場合、単純な構造の問題だけでなく、立地条件に伴い都市計画法、建築基準法、河川法など関係法令による制約が生じることがあり、建築部門だけで判断ができない場合は関係機関に審査の合議が回される。
一昔ならぬ二昔前であれば、鉄筋の間引きを行い、それを売って酒代に充てたなどという話もちらほらと聞いた。手抜き工事を行ってもチェックが働かないので、問題が生じない限りは明るみにならない。そうした手抜き工事の噂が絶えない会社もあり、そうした会社には県内業界大手とされる所もあるので、会社の名前が通っているから施工がきちんとしてるとは言えない。そうした噂の出所は現場を共にする生コン打設業者や下請け会社等の現場の仲間であることが多く、程度はともあれ手抜きの有無に関しては概ね信憑性が低くない。図面しか見ない役所やコンサルタントや施主は騙せても、実物の配筋を見る業者仲間を欺くことは難しい。
そうした手抜きを防ぐため、道路や橋梁などの現場打ちコンクリート構造物の場合、軽微なものを除いて配筋の段階で必ず検査が行われる。

長野県内ホテルの構造計算偽造発覚に関して県の住宅部長が釈明を行い、国のシステムでチェックを行っており、建築確認だけでは改ざんを発見できなかったとしている。その言葉面におそらく嘘は無いだろうが、釈然としないものを感じる。ここでも出てくるのがプロ意識。
建築主事はプロの技術職であると同時に行政マンでもある。技術的な部分だけでなく、行政上立場上のしがらみにより判断が変わることもありうるだろう。本来であれば建築主事は地方事務所建築課(県の場合)という行政の縦列とは切り離して専門職として別室を設けて行政によるしがらみをできるだけ排除するか、あるいは行政ではなく民間委託にするかというところだが、橋本内閣以降民間へ検査を任せるという流れになっていて、民間にした場合のマイナスケースとして今回が出てしまった側面がある。
公共構造物であれば官公庁の技術職員が責任を持って監督を行うことができようが、民間建築の場合は施主のほとんどは技術的に素人であり、専門家による検査監督をどのようにすべきなのか、難しいところだ。施主が業者とは縁のない専門家を監督代理人に立てるのがいちばん筋が良い結論だろうと思うが、こんどは専門家の人件費の問題が生じてくる。自民党幹事長は国がお金を出してもと言うものの、全部そうする訳にもいかないだろう。倫理観の問題、お金の問題、その他色々と要素が交じり合い、あちらを立てればこちらが立たず。

女系天皇?(2)

2005-11-29 07:03:42 | Weblog
飛鳥~奈良時代に女帝が頻発した理由は、簡単に言えば皇統保守の意識が強かったことにある。天武天皇以降は、天武天皇の子孫であると同時にすべて天智天皇の血を引いていた。天武天皇から文武天皇までの系譜を見れば分かるように近親婚の繰り返しで、ここ数十年、天武天皇の出自の謎が話題に出ることがあるが、近親婚を繰り返してまでのこの皇統保守の意識はそれとも無関係ではないと思う。そして持統天皇直系が絶えたとたんに皇統は天智天皇系へと戻り、光仁天皇の息子の50代桓武天皇(母親は渡来系の高野新笠)から平安時代が始まる。そして皇族に男子が増えると同時に皇太子の存在が確立すると、つなぎ目的の女帝は登場しなくなる。
それから後、平安時代から鎌倉・室町・戦国時代と女帝は出ていないが、つなぎ目的で天皇代行を行ったのが南北朝時代の皇后で、この人は唯一、歴代天皇および天皇代行の中で皇族出身ではなく、貴族の西園寺家の出身である。西園寺家は藤原氏の一門で鎌倉時代には幕府と親しく代々の天皇の外戚として摂関家をしのぐ権勢を誇っており、明治~昭和期には西園寺公望を輩出している。皇后が天皇代行を行ったのには理由があり、南北朝紛争の最中に北朝側の天皇上皇らがすべて南朝側の捕虜となったことがあり、北朝側が大義名分を保つためにとった緊急の措置であった。
江戸時代には2人の女帝が出ている。うち109代の明正天皇即位は紫衣事件という江戸幕府と朝廷との紛争がきっかけで、明正天皇の外祖父は徳川2代将軍秀忠である。つまり9世紀ぶりの女帝は朝幕間の融和のために誕生した。
父親が天皇でない天皇は何代かある。例えば86代の後堀河天皇は80代高倉天皇の孫であるが、伯父に当たる後鳥羽院が承久の乱で失脚流罪となったのを受けて幕府の意向で即位した。南北朝時代が終わった後に伏見宮家から102代後伏見天皇が出たのは、本家が絶えたためとされているが、後小松天皇が足利義満の落胤でありその系統を排除しようとしたせいではないかという説もある。江戸時代に119代光格天皇(明治天皇の曽祖父)が閑院宮家から即位した時には、光格天皇の実父の閑院宮の扱いをどうするかということで、時の老中松平定信と朝廷とで揉めたことがある。宮家から皇統を継いだ後伏見天皇と光格天皇はそれぞれ天皇の曾孫に当たる。

宮内庁が8年をかけて暖めてきたという案を皇室典範会議にかけて追認させたいというのが、昨今の女系の議論である。そこには現皇室の意見も皇室から分岐した元皇室の意見もなく、旧華族も参加していない。委員の顔ぶれを見る限りどういった趣旨で参集された有識者なのかも不明瞭だ。つまり広い意味での当事者の事情は全く無視される中で事務的に進められている。三笠宮寛仁親王や埼玉県知事が批判的な意見を出しているのも無理はない。
天皇家はその存在の中に宗教的意味合いを多分に持っており、男系女系の議論はその根幹に関わる問題である。宗教的な存在を宗教色ぬきで語ろうとするのであればそれこそ埼玉県知事が言うようにすべきだ。
これは宮内庁というある意味で主なき官僚組織、そして政治勢力がそれに加担したことによる一種の御用委員会と言ってもいいだろう。結論云々ではなく結論ありきな点、参集された委員の役割特性、意見反映を図るべきところが軽視されているという点など、長野で行われた治水利水の検討委員会と同列の愚劣な御用組織だ。

女系天皇?(1)

2005-11-29 06:33:06 | Weblog
皇位継承をめぐって会議が行われ、やれ男系だ女系だと騒がれているが、その多くが皇室の歴史を知らないまま語られている。そもそも女帝と女系の区別すらできてない意見が目に付く。そこでおさらいを兼ねて、これまでの女帝についてうろ覚えの中で簡単に整理しておきたい。文献等を見ながら書いているのではないので、細かい誤謬があるかもしれないが、わかった時点で修正する。

日本史上の代々の女帝出現にはそれぞれの事情がある。現在認定されている女帝は10代、そのほかに即位したとはみなされないものの実質的に天皇の地位にあったとされる女性として神功皇后、飯豊皇女、間皇女がいる。以下、その実在・業績云々や「天皇」の呼称の議論はさておいて、あくまで現在伝えられている形をもとに述べたい。
女帝10代の内訳は天武天皇以前が3代2名と実質即位の前述の3名、天武~奈良時代が5代4名、江戸時代に2代となっている。この分布に、日本史における女帝の持つ性格が見えている。

神功皇后は皇族の一族である息長氏一族の出で14代仲哀天皇の后であり、夫帝亡き後に伝説となった朝鮮征伐を行ったとされている。飯豊皇女は17代履中天皇の娘で、神に仕える巫女であり、22代の清寧天皇に子が無かったことから中継ぎで即位し、甥に当たる23代顕宗天皇の出現まで皇統を守る。
最初の女帝とされる33代推古天皇は29代欽明天皇の娘で、異母兄の30代敏達天皇の2番目の后(最初の后は亡くなっている)であり、異母弟の32代崇峻天皇が暗殺された後に即位した。当時は蘇我・物部の争いなど内紛が続き、推古天皇にとっては甥にあたる聖徳太子ほか複数の男性候補者があり、誰を立てても問題があったが故の措置である。ただ予定以上に長期政権となってしまい、聖徳太子を含め次世代の有力者がすべて推古天皇よりも先に亡くなり、34代の舒明天皇は30代敏達天皇の孫である。
35代の皇極天皇は舒明天皇の后で、父親は舒明天皇の異母兄であり、敏達天皇の曾孫で舒明天皇にとっては姪にあたる。この時も、舒明天皇亡き後に男性の有力候補者が複数いたために中継ぎで即位した。36代孝徳天皇は皇極天皇の実の弟で、西暦645年の乙史の変で蘇我氏本家滅亡クーデターの主役となったことから自ら即位した。37代斉明天皇は皇極天皇と同一人物であり、この時もまた有力候補者が複数いたことから再登板となった。白村江の戦いの中で斉明天皇が亡くなると、その娘で孝徳天皇の后だった間皇女が天皇代行となったが、即位したとはみなされていない。
ここまでの女帝出現の多くは、有力候補者が複数の時に争いを避けるために立てる御輿のような存在で、候補者の誰が即位しても問題がありそうな時に皇族出身の后が登板した形になっている。それは、このときまで皇太子という制度が無かったためだ。

38代天智天皇の時に皇太子という存在(制度ではない)がある程度確立したとされている。
41代持統天皇は天智天皇の娘であり、40代天武天皇の皇后でもあった。天武天皇には成人の子供がたくさんいたが、それゆえに持統天皇が立つようになり、同時に持統天皇は自分が産んだ草壁皇子の成長を待って皇位を譲ろうと他の天武天皇の息子たちを相手に宮廷闘争に明け暮れた。その経過で台頭してきたのが後の藤原氏の始祖である藤原不比等である。しかしその草壁皇子は若くして亡くなり、持統天皇は年老いてから草壁皇子の子(つまり持統天皇の孫)に譲位した。これが42代の文武天皇であるが、この文武天皇も若くして亡くなる。この文武天皇、母親はやはり天智天皇の娘であり、その母親つまり草壁皇子の妃が即位したのが43代の元明天皇である。元明天皇は異母姉であり姑でもある持統天皇と共に草壁皇子の系統への皇統継承を目指し、文武天皇の子が成長するまでの中継ぎとして即位するが志半ばで亡くなり、文武天皇の姉が即位して44代元正天皇となる。その後に即位したのが文武天皇の子にあたる45代聖武天皇である。聖武天皇は皇子に恵まれず、仏教に帰依して長女に譲位して引退するが、この長女が46代孝謙天皇である。孝謙天皇の時代は藤原仲麻呂が権勢を握り、天武天皇の孫、ひ孫に当たる男子皇族の間で後継争いがあり、藤原仲麻呂に気に入られたのが天武天皇の孫に当たる47代淳仁天皇。父親は舎人親王で、この舎人親王は母親が天智天皇の娘である。しかし藤原仲麻呂と孝謙上皇とが仲違いし、藤原仲麻呂が粛清されると淳仁天皇は廃され、孝謙上皇が再登板する。これが48代称徳天皇である。44代元正天皇と孝謙天皇(=称徳天皇)は独身で子供がいない。称徳天皇の後継者をどうするかという中で、和気清麻呂による別府での宣託が問題になったのがこの時だ。称徳天皇が亡くなると天智天皇の孫にあたる大納言白壁王が即位して49代光仁天皇となる。光仁天皇の后は称徳天皇の異母妹、つまり聖武天皇の娘である。