五輪招致疑惑の委員会報告が出された。報告書はまだ見ていないので新聞報道でしか知らず、はっきり言えば最初から全く期待をしていなかったが、そうした期待に違わずに成果が事実上見られない報告が出されたようだ。田中康夫知事がこの問題のキーマンである「ミスターナガノ」吉田總一郎氏を庇って表舞台に立たせないようにしていることは一目瞭然であったし、内部調査もかなりずさんだった。五輪招致が確定したのは1991年の初夏、それから既に14年が経過して、調査が困難になりつつあるとはいえ、真剣に調査を行った形跡があまり見られない。既に世に出ている関連本や週刊誌記事をしのぐ成果も見られず、そもそも田中康夫知事が事実関係の解明について非常に消極的であり、県職員への調査協力要請も通知を流すだけのものでしかなかった。
田中康夫知事と吉田總一郎氏、あるいは茅野實氏との関係は周知のものであり、この調査をもって五輪招致疑惑をフェードアウトさせようとする狙いがあるであろうことは十分に推察できる。つまり疑惑の幕引きのための言い訳に使われたということだろう。
これからおいおいと読んでみたい。
浅川の治水計画は60年確率という。そんな確率年での治水計画はこれまでに聞いたことがない。だいたいは10年、30年、50年、80年、100年などである。
単純に連想したのは基本高水の数値ありきでの逆算による数値合わせだった。しかしそれであれば50年確率とすればよいわけで、この60年確率というものがどこから出てきたのか、非常に訝るところだ。流出解析の手法は全国共通だが、算出に用いる係数等は地域性がある。長野県では県内を幾つかにブロック割りしてそれぞれの観測値より県庁河川課が算出した降雨強度の算出式があり、現在は平成8年版が使用されている。
織田信長の時代であれば人生60年、一生に一回あるかどうかの確率となるが、現代は人生80年の時代で、百歳を超えて健在な人も多い。その中で今まで100年確率だったものを60年確率にするということは、単にお金が無いからとの理由で済まされるものではない。
単純に治水だけで終わることではない。市町村には地域防災計画を立て、ハザードマップ等により危険な場所を住民に知らせる義務がある。
11月24日付け東京新聞の筆洗というコーナーで、キムチの寄生虫騒動に関して「なあに、かえって免疫力がつく」と綴られていたことが物議をかもしている。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/hissen/20051124/col_____hissen__000.shtml
東京新聞といえば中日新聞のグループであり、中日新聞の論調からみるに特定アジアに媚びる傾向が強いことから、そうした意図を込めての記載だったのかもしれない。
この記事の文章は先に挙げた点など奇異なところが多いが、読んでいて個人的に印象に残ったのは、源平合戦での富士川の戦いを取り上げていた記述だ。
「鳥の羽音に驚くような、最近の鳥インフルエンザ騒ぎ」とのくだりで源平合戦を持ち出したのはNHK大河ドラマの影響だろうが、鳥の羽音という記述で連想するのはむしろ源頼朝らの祖父の祖父にあたる名将、源義家の故事である。
前9年の役を終えて懸案だった奥州の騒乱をひとまず鎮め、都に凱旋した源頼義らは功績目覚しく、中でも源頼義の嫡子で活躍をした源義家は都の寵児的な存在になった。そんな源義家に苦言を呈したのが大江匡房という白川院の側近貴族で、「源義家は優れた武将だが惜しむらくは兵法を知らない」と言ってのけた。源義家の家臣らは高くしていた鼻をへし折られたため怒号にあふれたが、当の源義家はそれを聞くと家臣を抑え、自ら大江匡房のもとを訪れ弟子入りして兵法を学んだ。そして後3年の役、今度は源義家が総大将で奥州平定に向かった。戦の最中、進軍の先で鳥が草むらから羽ばたくのを見て、源義家は学んだ兵法の知識から「あそこに伏兵がいる」と指示し、最終的に戦いを勝利に導いた。当然この故事は源氏一門の語り草となり、源義経らも知っていて、それを逆用したのが富士川の戦いであった。
そして大江匡房の曾孫の大江広元は朝廷を去って源頼朝の参謀として活躍し、その子孫からは戦国大名の毛利元就が出る。毛利元就は息子たちにかの有名な3本の矢の教訓を残す。3本の矢の故事は毛利元就ではないとする見方もあるが、ともあれ歴史の面白さだ。
田中康夫知事と吉田總一郎氏、あるいは茅野實氏との関係は周知のものであり、この調査をもって五輪招致疑惑をフェードアウトさせようとする狙いがあるであろうことは十分に推察できる。つまり疑惑の幕引きのための言い訳に使われたということだろう。
これからおいおいと読んでみたい。
浅川の治水計画は60年確率という。そんな確率年での治水計画はこれまでに聞いたことがない。だいたいは10年、30年、50年、80年、100年などである。
単純に連想したのは基本高水の数値ありきでの逆算による数値合わせだった。しかしそれであれば50年確率とすればよいわけで、この60年確率というものがどこから出てきたのか、非常に訝るところだ。流出解析の手法は全国共通だが、算出に用いる係数等は地域性がある。長野県では県内を幾つかにブロック割りしてそれぞれの観測値より県庁河川課が算出した降雨強度の算出式があり、現在は平成8年版が使用されている。
織田信長の時代であれば人生60年、一生に一回あるかどうかの確率となるが、現代は人生80年の時代で、百歳を超えて健在な人も多い。その中で今まで100年確率だったものを60年確率にするということは、単にお金が無いからとの理由で済まされるものではない。
単純に治水だけで終わることではない。市町村には地域防災計画を立て、ハザードマップ等により危険な場所を住民に知らせる義務がある。
11月24日付け東京新聞の筆洗というコーナーで、キムチの寄生虫騒動に関して「なあに、かえって免疫力がつく」と綴られていたことが物議をかもしている。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/hissen/20051124/col_____hissen__000.shtml
東京新聞といえば中日新聞のグループであり、中日新聞の論調からみるに特定アジアに媚びる傾向が強いことから、そうした意図を込めての記載だったのかもしれない。
この記事の文章は先に挙げた点など奇異なところが多いが、読んでいて個人的に印象に残ったのは、源平合戦での富士川の戦いを取り上げていた記述だ。
「鳥の羽音に驚くような、最近の鳥インフルエンザ騒ぎ」とのくだりで源平合戦を持ち出したのはNHK大河ドラマの影響だろうが、鳥の羽音という記述で連想するのはむしろ源頼朝らの祖父の祖父にあたる名将、源義家の故事である。
前9年の役を終えて懸案だった奥州の騒乱をひとまず鎮め、都に凱旋した源頼義らは功績目覚しく、中でも源頼義の嫡子で活躍をした源義家は都の寵児的な存在になった。そんな源義家に苦言を呈したのが大江匡房という白川院の側近貴族で、「源義家は優れた武将だが惜しむらくは兵法を知らない」と言ってのけた。源義家の家臣らは高くしていた鼻をへし折られたため怒号にあふれたが、当の源義家はそれを聞くと家臣を抑え、自ら大江匡房のもとを訪れ弟子入りして兵法を学んだ。そして後3年の役、今度は源義家が総大将で奥州平定に向かった。戦の最中、進軍の先で鳥が草むらから羽ばたくのを見て、源義家は学んだ兵法の知識から「あそこに伏兵がいる」と指示し、最終的に戦いを勝利に導いた。当然この故事は源氏一門の語り草となり、源義経らも知っていて、それを逆用したのが富士川の戦いであった。
そして大江匡房の曾孫の大江広元は朝廷を去って源頼朝の参謀として活躍し、その子孫からは戦国大名の毛利元就が出る。毛利元就は息子たちにかの有名な3本の矢の教訓を残す。3本の矢の故事は毛利元就ではないとする見方もあるが、ともあれ歴史の面白さだ。