NPO法人 地域福祉協会

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近代の超克。-尊王の本義-

2023-08-17 | コラム

幕末維新期における

尊王攘夷、尊王斥覇の本義についての理解が

未だ一般に普及していない。

 

尊王とは

王道すなわち徳による統治を目指す思想であり

近代の絶対王権が国軍なる常備軍をもって

他国を蹂躙するような覇道、武力で事を為すことを容認する近代思想とは

真逆の平和主義である。

 

 

その意味で

戦後の平成天皇、令和天皇のあり方こそが

尊王斥覇を具現しておられる。

 

 

後醍醐天皇や後鳥羽上皇

昭和天皇の武断主義への傾斜は

やはり

人間の弱さからくる瑕疵であった。

 

王道の理想は

卑弥呼、台与、推古帝、持統帝であり

聖武天皇であろう。

 

近代は

カトリック教会の権威が弱まり

世俗的なプロテスタントが出現し

国民国家と国王が重商主義貨幣経済と国軍によって

絶対王権を成し遂げたことで

覇道を世界に広げてしまった。

 

その悪しき先例を

日本の近代政治家や識者が真似ることによって

富国強兵という誤った国家戦略と

絶対王権という覇道の近代王政が

大日本帝国において具現したのである。

 

 

おそらく

西郷隆盛をはじめとする幕府側の人士は

その近代の軍隊、王権の有り様に

直観的に違和感を抱いたに相違ない。

 

西南の役、神風連の乱、萩の乱

あるいは

黒竜会や右翼団体

新宗教、大本、天理等の草創の始原はそこにある。

 

大衆運動や横山源之助の著作が生まれた原初の動機は

近代への拒否であり違和感の表明であって

近代を発展段階として容認するエリート主義者マルクスの政治的野望とは

大いなる懸隔がある。

 

 

日本の右翼の源流には

西郷隆盛や頭山満、葦津珍彦、三島由紀夫の

思想と行動がある。

 

頭山満のアジア主義は

五族協和の文化的な概念であったろうし

葦津珍彦の神道は

神社本庁の再建に象徴される精神文化的なものであって

一貫して大東亜戦争に異を唱えていた。

 

 

三島の政治思想は

林房雄の大東亜戦争肯定論に感化されるぐらい浅はかであり

ボディビルと剣道という

近代の硬直した身体操法にとどまらず

ヨガや古武術といった前近代的身体文化に逢着すべきであった。

 

 

そのためには

戦後の堕落した社会を生き

老獪な人生行路によって文学を深め

前近代的な世界観を憧憬し賛美すべきであった。

 

 

いずれにせよ

力による文明

黒船と世界分割は

西欧諸国が神を否み逃避したなれの果てであって

剣を持つものは剣で滅ぶと

ジーザスは申されたではないか

と日本は指摘すべきであったのだ。

 

そして

今まさに同じ世界情勢である。

 

日本が歩むべきは

王道であり

世界に

令和偃武を愚直に唱え続けることが天命である。

 

 

 

高橋記

 



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