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史跡探訪@海軍航空隊明治基地跡<愛知県安城市>

2006-09-22 20:22:20 | 史跡探訪

写真(月光)と記事は無関係です。

安城市に残る、海軍航空隊明治基地の痕跡を探索
して来ました。太平洋戦争勃発以前に戦死した母方
の祖父(私から見て)が、海軍の職業軍人だった事も
有り、こう言う戦跡に非常に引き寄せられます。
ここも久々の再訪です、HI。


記念碑全景,明治航空基地之碑

神社の一角に位置してます。


碑文
太平洋戦争たけなわの一九四三年四月、横須賀海軍施設部の監理の下、
当時の愛知県碧海郡明治村大字東端、根崎、和泉の三集落に挟まれた
約二百ヘクタールの農地に、海軍の軍用飛行場の建設が始められた。
そして翌年三月下旬から終戦(一九四五年八月十五日)に至るまで、
建設工事と平行して海軍航空隊が航空基地として使用した。その間、
配属航空隊は、訓練部隊として練習航空隊の教育を終えた搭乗員に対し、
当時の各種新鋭機(「零戦」「紫電」「月光」「彗星」「天山」
「彩雲」等)の使用に完熟させるための練成訓練を行うとともに、
一九四四年十二月から翌年四月にかけては、作戦部隊として主に
名古屋地区に来襲した米陸軍長距離戦略爆撃機B-29の要撃や、
米軍沖縄攻略部隊の撃滅作戦(沖縄特攻作戦)に参加した。
また、一九四五年一月十三日早朝、この地区を襲った三河地震
(東端の被害、住宅全壊七十七、同半壊百二十一、死者二十四、
重傷五、軽傷三十六、等)の際は、近隣町村被害者の救出・救援
並びに災害の復旧に当った。大東亜戦争終結五十周年を記念し、
改めて世界恒久の平和を祈念するとともに、その歴史的事実を後世
に伝えるため、この碑を建てる。


滑走路跡

現在は、田んぼと畑が多いですが、
住宅もかなり建って来ています。


格納庫基礎部

駐車スペースが無いので、車窓ごしにパチリ。






燃料庫-1

上に登って歩いて来ました。
現存は3つで、その内の1つ。
中を覗いたら、自転車が.....。




燃料庫-2

ここは民家の直ぐ横の畑のど真ん中で、
近づくのには勇気が要ります、HI。


弾薬庫(煉瓦製)

すぐ横では、家の新築工事中でした。

明治航空基地の詳細は、
http://www1.neweb.ne.jp/wa/yamaki/sennsouisekikenngaku-aiti-a-meiji.htm
http://www48.tok2.com/home/yamabiko/sonota/meijiair.html
をご覧下さい。

概略地図は、このあたりです。


史跡探訪@海軍航空隊名古屋基地跡<愛知県豊田市>

2006-09-21 08:54:24 | 史跡探訪

写真(雷電)と記事は関係有りません。

もともと、愛知時計電機の試験飛行場として昭和十四年に
造成されたものです。名古屋基地とも言われていますし、
伊保原飛行場とも呼ばれています。愛知県豊田市浄水町に
位置して、現在は少ししか痕跡を残していません。
宅地化が進み、滑走路等の痕跡はどんどん消え行く
運命に有るものと思われます。
ここは過去何度も訪れていますが、デジカメで撮影した
のは、今回が初めてです。こう言うケースが殆どでして、
暇を見つけては再訪して、デジカメに収めて、POSTして
みたいと思います。


記念碑全景
奥(北)は、現在は少年院です。開拓記念碑も有ります。
基地の建物、プール等は、戦後暫くは少年院施設として
使用されていた様子です。


神風特別攻撃隊草薙隊之碑
此ノ地ハ昭和十七年四月一日開隊昭和二十年九月二日
解散セル名古屋海軍航空隊ノ址ナリ
昭和二十年春当地ニ於テ神風特別攻撃隊草薙隊編成
サレ四月五日十二日の両日各二十機ノ九九式艦上爆撃機
ハ鹿児島県国分基地ニ進出菊水一号二号四号作戦ニ参加 
同月六日十二日の三次ニワタリ沖縄本島西方泊地ノ米艦船
ニ突入ス 未帰還二十八機戦死五十六名
彼ラガ眠ル沖縄ノ地ガ祖国復帰ノ日ヲ迎ウルニアタリ有志
ノ協力ヲ得テ豊田市在住ノ元海軍軍人本碑ヲ建立シ草薙隊ノ
忠烈ヲ永ク後世ニ伝ヘントスルモノ也
昭和四十七年四月吉日
豊田海友会


砲弾のレプリカ
記念碑周辺には、海軍関係のゆかりの物品
も展示されています。


基地内で使用された消火栓
実際に使用されていたらしい。
良く観察すると、海軍のマーク入りですね。


隊門
民家の庭先に位置しています。現存するのは片方のみ。
この先が基地になっていたそうです。
隊門は、全体が草に覆われています。
見かけでは、何がなんだか判別不能ですね。


通信施設跡
コンクリート造りで、半地下壕みたいな構造になっています。
ここも非常に見つけにくい場所に有ります。

今回は、現地でお会いできる人が居ませんでしたねぇ。
航空機を駐機させておくスペースをエプロンと言いますが、
その痕跡は、確認出来ませんでした。少し前までは確認
出来たそうですが.....。

尚、この基地の詳細は以下のサイトをご覧下さい。
http://www1.neweb.ne.jp/wa/yamaki/sennsouisekikenngaku-aiti-a-nagoya.htm

現地は概略ですが、この辺りです。


史跡探訪@海軍航空隊岩津基地跡<愛知県岡崎市>

2006-09-18 21:43:17 | 史跡探訪

上の写真は、岩津基地とは無関係です。

TL-922のメンテ部材を調達がてら、寄り道して
岩津飛行場跡を探索して来ました。
家からだと車で15分くらいの所です。
ここも今は、知る人も少なくなっています。


滑走路跡
盛土して少し高くなってます。
現在は、一面が畑ですね。
東名高速が走っているのが見えるかな?


哨戒施設跡
竹やぶにカモフラージュさせています。


格納庫跡
竹やぶ後方に格納庫が有ったらしい。

たまたま農作業をしていた老人に色々と
話を利きました。

この基地は、不時着などの緊急のための飛行場
であったらしく、大して使用される事も無く、終戦を
迎えたとの事です。

岩津基地に関しては以下のWebをご覧下さい。
http://www1.neweb.ne.jp/wa/yamaki/sennsouisekikenngaku-aiti-a-iwatu.htm


史跡探訪@第三岡崎海軍航空隊跡<愛知県豊田市・岡崎市>

2006-09-14 20:16:33 | 史跡探訪

外出ついでの昼休みを利用して「第三岡崎海軍航空隊跡」
を探索して来ました。時間を少しオーバーしたかな?。(^^;
史跡の中でも、戦跡、その中でも太平洋戦争にゆかりの
有るものに、惹かれる性分ですねぇ。


記念碑全景、豊田市
実際に海軍航空隊が有ったQTHとは、
少し外れて位置しています。
どうでも良いけど、ナンバーが!。(^^;;;


若桜之碑、豊田市
時の首相の角栄氏の名前入り。


建立之記、豊田市
昭和五年、早期英才教育を目的に海軍飛行予科錬制度が採用された。
昭和十九年、従来の予科錬教育を改革して航空機整備技術を修得させ、
のちに飛行機操縦を習得させる新しい制度が実施されることになった。
同年五月、土浦海軍航空隊分遣隊として、安城、岡崎、豊田市が交差
する地点に第一、第二岡崎海軍航空隊が新設され、全国各地より厳選
された一万二千余名の若者が第一期生より第八期生まで入隊して
六ヵ月の短縮予科錬過程を終了して内外地の実施部隊に配属されていった。
名古屋岡崎分遣隊は、第三岡崎海軍航空隊と改編して優秀なる
飛行機搭乗員を養成しのちに沖縄特別攻撃隊を編成して出陣していった。
太平洋戦争末期岡崎海軍航空隊出身の予科錬、飛錬で尊い生命を
散華した数は意外に多い。その閃光にも似た十四歳より十九歳
に満たんとした青春を悼んで此処に碑を建て桜を植樹永くその意
を伝えるものである。

昭和四十九年十一月三日 岡空若桜会


記念碑横の柳川瀬(やながせ)公園
1992-1998まで、直ぐ近くの団地に住んで
いたせいで、良く2ndを連れて遊びに来ました。
その時に、この記念碑を知りました。

たまたま、公園を散歩していた80近くの老人に
後述の海軍航空隊跡の「痕跡」を紹介して
頂きました。

ここから車でQSYして、以下は岡崎市です。

かつての基地で、滑走路が有ったところ、岡崎市
現在は、当然跡形も無く、農地、宅地、工業用地
に変貌しています。基地司令部は現在の
豊田市立上郷中学校に存在していたらしい。



基地内防空壕入り口跡、岡崎市
先述の老人が場所を教えてくれました。みかけ
では、草が生い茂り、なんだか判別不能です。
その老人も、予科連に行く直前に終戦を迎えたとの事。
これが若しかすると唯一の「第三岡崎海軍航空隊跡」
なのかも。

尚、岡崎海軍航空隊は、以下のWeb
http://www1.neweb.ne.jp/wa/yamaki/sennsouisekikenngaku-aiti-a-okazaki.htm
http://www48.tok2.com/home/yamabiko/sonota/okazakiair.html
をご覧下さい。


史跡探訪@B29墜落跡地<愛知県豊田市>

2006-09-10 17:14:46 | 史跡探訪

地元の豊田市、それも同じ中学校区内に、太平洋戦争末期
の1945/JAN/03に、B29が墜落したと言う跡地が有るのを、
数年前に知り、先日訪問して来ました。
豊田市民でさえ、そんな史跡が有るのを知らない人も
沢山居ます。


史跡の全容
車で10分足らずに、こんな所が有ったとは!!。



農道脇の案内板
実際の墜落箇所は、広範囲に渡ったらしい。


墜落日が刻まれています。
木に是そして立で、「そだめ」と読みます。


展示看板の遠景
墜落当時は、豊田市は市制されていなく、
東加茂郡松平村と呼ばれていたそうです。


展示看板の全容
当時の新聞、地元の人の声が展示されてます。


写真入で紹介されています。
鬼畜米英たけなわのご時世、
村民達は、手厚く、介護、援助をしたそうです。



展示物のひとつ
搭乗員11名中、10名は墜落死、残りの1名は、
捕虜となり、終戦後無事帰還しています。

詳細は、豊田市在住のアマ無線家、JA2TKOさんの
Webサイトをご覧下さい。
http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/jap/jap.b29/b29.html
http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/jap/jap.b29/b29no1.html

素晴らしい出来栄えになっています。

尚、所在地は概略ですが、
愛知県豊田市坂上町の周辺地図