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史跡探訪@伊勢国府跡<鈴鹿市>

2006-11-21 08:33:50 | 史跡探訪

鈴鹿市の「伊勢国府跡地」を探索して来ました。

国府とは

古代の日本の律令国家では地方の行政組織として国(嶋)、
郡(評)、里が置かれたが、その行政官庁が国では国庁(国衙)、
郡では郡庁(郡衙)であり、その所在地を国府、郡家と呼んだ。
大化の改新以前には国や県が置かれ、その長官として国造
(くにのみやつこ)や県主(あがたぬし)があったが、
大化の改新以降、中国の律令制度を見ならい、中央と地方の
組織が改編され、701年の大宝律令によって国郡里制度に
整えられた。国府の機能は14世紀まで存続し、形式的制度
は明治維新まで続くことになる。国は奈良時代には58国3嶋、
平安時代には66国2嶋を数え、「延喜式」によれば各国は
その規模・生産性などにより大国、上国、中国、下国の
4等分された。


<パーキング内の案内板>
遺構とは、少し離れた位置です。
歩くと、2分くらい有ります。
ピンク色の箇所が史跡指定地だそうです。
 

<遺構内の案内板>
造営時期は8世紀の後半と考えられ、この時期に礎石を置き、
瓦葺きの建物を建てていたことは、伊勢が大国の中でも
特別重要な国であったことの現れであろう。


<遺構内>
特に何も有りません。全景を傍から見ると、
鎮守の森みたいですね。


<政庁の建物配置>
当然、建築物は現存していません。

 
参考Webサイト:
http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/ise.html


史跡探訪@瑞浪地下軍需工場跡<瑞浪市>

2006-11-13 13:53:27 | 史跡探訪

瑞浪市の地下軍需工場跡を探索して来ました。
中央道の瑞浪ICの近くに位置しています。
太平洋戦時中ここに三菱の軍需工場がありました。
地下壕は現在平和利用されています。
ここは、初めて訪れます。


<化石の地下壕>
イルミネーションも完備されていて、訪れやすい構造
になっています。化石資料館すぐ横に位置しています。


<化石博物館>
化石資料館
化石資料館




<地下壕出入口-1>
普段は、施錠されています。


<地下壕出入口-2>
のり面に造られています。
追悼祭の折には、一般開放されるそうです。


<日中不再戦の誓い記念碑>
ここで、大戦中に従事した中国人労働者が39人が
亡くなられています。


<断層>
ここは化石の宝庫らしく、遠巻きに見ると
コンクリート防壁に見えますが、実は化石
の断層そのままだったりします。

参考Webサイト:
http://akuroma.hp.infoseek.co.jp/senseki/chubu/gifu/mizunami.htm


史跡探訪@永徳スリップ<名古屋市港区>

2006-11-07 18:49:23 | 史跡探訪

写真と本文は、直接の関係は有りません。

名古屋市の永徳(えいとく)スリップを探索して来ました。
ポートメッセなごやの近くに位置しています。
太平洋戦時中ここに愛知航空機(株)永徳工場がありました。
敷地が少し縮小されていますが、同じ場所で愛知機械(株)
として自動車の製造を行っています。


<稲永公園側からみたスリップ>
水上機を海へ下ろすための傾斜面でスリップと
呼ばれるものの全景です。 


<スリップ真上より>
たくさんの亀裂が入っているコンクリート表面。
表面はだいぶはがれてしまっています。


<別の角度からみたスリップ>
ここは民間の施設でした。

参考Webサイト:
http://underzero.net/html/tz/tz_228_1.htm
http://gggzzz.cool.ne.jp/ikou/main/EitokuAichi1.html


史跡探訪@川中島古戦場跡<長野市>

2006-11-04 20:00:12 | 史跡探訪

長野市の川中島古戦場跡を、出張のついでに訪れて来ました。
現在、川中島合戦の八幡原は公園となっています。
沢山のお土産屋さんが、信玄・謙信グッズを販売しています。

川中島の合戦


<八幡原公園>
川中島合戦で信玄が本陣を置いた八幡原は、現在、
緑豊かな史跡公園として開放されています。
12000m2の築山状芝生広場、自然石を配した小川
のせせらぎ、古風な茅葺き屋根のあづまやなどが
ある園内は、市民の憩いの場。市立博物館や
川中島古戦場・八幡社が隣接し充実した歴史散策
を楽しめます。


<八幡神社>
全景です。


<八幡社の社殿>
境内の奥に鎮座する 八幡社の社殿 です。


<武田信玄と上杉謙信の一騎討ちの像>
馬上で太刀を振り下ろそうとしている謙信 と、それを
軍配で受け止めようとする信玄を、躍動感溢れる像
で再現しています。


<首塚>
八幡社境内の西側に祀られている「首塚」です。


<第四回川中島合戦布陣図>
案内板です。

参考Webサイト:
http://www.nobunagaou.com/hidari/siro/1h/
http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/kawanakajima.htm
http://machi.goo.ne.jp/snd/spotID_TO20011589/leisure/details.asp


史跡探訪@陸軍高射砲隊笠寺陣地跡<名古屋市南区>

2006-11-03 08:15:56 | 史跡探訪

写真はここから引用させて頂いてます。
http://www.orihime.ne.jp/~koidea/img063.jpg
写真と本文は、直接の関係は有りません。

名古屋市南区にに残る、高射砲隊跡を探索して来ました。
現在は、名古屋市立見晴台考古資料館の中に位置してます。
ここは、考古学上も重要な意味合いが有るようですね。
20年前以上に訪れて以来の2回目です。

八八式七糎センチ高射砲六門が置かれていた。
この高射砲は口径75mmで射程は13,800m、到達高度
は9,100mとのこと。軍需施設が多く、常に空襲にさらされ
ていた名古屋で南部から来る爆撃機に対応するために建造
された。しかし、高射砲で飛んでくる飛行機を打ち落とすの
はかなり難しいらしく、防空学校では1000mの高さを飛ぶ
飛行機に対して、300発撃ち、1機墜落させられればよし
とされていたらしい。




<高射砲台跡-1> 
元々は6基されていたらしく、現存は2基です。
その内の一つです。



<高射砲台跡-2>
もう一つの台座の跡です。
ぺトン床と呼ばれる砲床。
中心穴、ボルト穴が確認できます。
三方に伸びる溝は排水用だそうな。




<見晴台考古資料館>
無料です。ここは小山みたいになっていて、
山全体を笠寺公園と呼んでいるようです。
月曜日が休館らしいです。


<資料館展示室>
弥生時代の遺構が沢山展示されていますが、
一部は、高射砲関連のものも展示されています。


<発掘された遺物>
左から信管、銃剣、砲弾、ハンドル。これ以外にも
工具ややケーブル線等数多くの出土品があった。
なかには歯ブラシやタムシ液の瓶等、兵士の日常
をうかがえる出土品もあったようですよ。

参考Webサイト:
http://gggzzz.cool.ne.jp/ikou/main/Kasadera.html
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki7/kasadera/miharasi.html
http://underzero.net/html/tz/tz_101_4.htm


史跡探訪@海軍航空隊河和基地跡-3<愛知県美浜町>

2006-10-24 13:23:28 | 史跡探訪

写真はここから引用させて頂いてます。
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/photo/suitei/suitei_c.jpg
写真と本文は、直接の関係は有りません。

愛知県美浜町に残る、河和基地跡を探索して来ました。
河和基地は、第一、第二航空隊に分かれていたそうですが、
ひとまとめにして、3回に分けて記事にします。
今回は「その3」です。


<海軍道路> 
かつては、そのように呼ばれていました。




<第一航空隊本部シェルター跡>
国土交通省敷地内です。柵越しにパチリと。
当然、中には入れません、


<石炭置場のコンクリート壁残>
田圃のなかであり、少し異様な風景ですぅ。


<対空機銃陣地>
現在は、公園になってるみたいです。


<某クラブ局サイド>
から見た、W方向。素晴らしいロケですね。
残念ながら、国道からはANTは見えません。
2001年に助っ人でお邪魔しましたが、最近は
ご無沙汰しております・・・・・。

参考Webサイト:
http://kawahira.hp.infoseek.co.jp/sen12.html
http://www1.neweb.ne.jp/wa/yamaki/sennsouisekikenngaku-aiti-a-kouwa.htm
http://www.geocities.jp/takechan_mori/kowa/kokutai.html


史跡探訪@海軍航空隊河和基地跡-2<愛知県美浜町>

2006-10-21 09:15:25 | 史跡探訪

写真はここから引用させて頂いてます。
http://earth.endless.ne.jp/users/mac0115/F1M.html
写真(零式観測機)と本文は、直接の関係は有りません。

河和基地は、第一、第二航空隊に分かれていたそうですが、
ひとまとめにして、3回に分けて記事にします。
今回は「その2」です。


<第ニ航空隊の部品倉庫>
パッと見は、通り過ぎてしまいそう・・・・・。
今は納屋として使用しているみたいです。


<軍港跡>
石垣の下段が軍港当時のもの。


<連絡用陸橋の橋脚>
水上機を高台にある第一河和地区の整備場まで運ぶための
誘導路にかかっていた橋の橋台。
国道沿いに位置してますね。
車の往来が、結構激しいです。


<修理工場の土台>
田圃のまんまん中です。
8個の基礎が2列に並んで残っています。


<国土交通省大阪航空局名古屋無線標識所>
おっ、こんな所に立派なタワーが・・・・・。
よくよく確認すると、プロ局でした、HI。
名古屋無線標識所は練兵場などの跡だそうです。
本部のすぐ西隣には第一航空隊病院があり、また、
名古屋無線標識所の西側には、第一航空隊兵舎があったそうな。



参考Webサイト:
http://kawahira.hp.infoseek.co.jp/sen12.html
http://www1.neweb.ne.jp/wa/yamaki/sennsouisekikenngaku-aiti-a-kouwa.htm
http://www.geocities.jp/takechan_mori/kowa/kokutai.html


史跡探訪@海軍航空隊河和基地跡-1<愛知県美浜町>

2006-10-20 20:08:25 | 史跡探訪

写真はここから引用させて頂いてます。
http://military.sakura.ne.jp/ac/pete.htm
写真(零式観測機)と本文は、直接の関係は有りません。

愛知県美浜町に残る、河和基地跡を探索して来ました。
ここは、某クラブ局から車で10分程度南下したところ
に点在しています。ここは、初めて探索して来ました。
河和基地は、第一、第二航空隊に分かれていたそうですが、
ひとまとめにして、3回に分けて記事にします。
今回は「その1」です。


<第ニ航空隊本部正門の基部>
河和中の南に位置してます。


<第ニ航空隊の水タンク基部>
河和中の敷地内に位置してます。


<河和海軍航空隊跡記念碑>
第二次世界大戦中 河和の地に海軍航空隊が設立され全国より集結した
隊員の青春の広場となったことをここにとどめ この碑を建立する。

昭和五三年八月吉日
河和会


<北側スリップ>
滑走台の構造は板状のコンクリートを組合わせてあり、
両端は石垣のようになっています。
所々大きな亀裂が入っているが、これは爆撃の跡
であるという事です。


<東第一スリップ>
スリップとは、日本語で「滑り」とも言うが、水上機を海に下ろす、
あるいは海に着水した水上機を海から引揚げるために、必要な斜面
であり、その勾配は14分の1、角度で言えば4度ということになるそうです。


<東第二スリップ>
実践用では無く、練習機用だったらしいです。

参考Webサイト:
http://kawahira.hp.infoseek.co.jp/sen12.html
http://www1.neweb.ne.jp/wa/yamaki/sennsouisekikenngaku-aiti-a-kouwa.htm
http://www.geocities.jp/takechan_mori/kowa/kokutai.html


史跡探訪@変電所防空壕<愛知県日進市>

2006-10-19 08:35:52 | 史跡探訪

日進市に残る、防空壕を探索して来ました。


全容
市の文化財に指定されています。
以前は柵は有りませんでしたが、現在は
柵が設置されているようですね。


案内板
日進変電所は、天竜川(静岡県)方面で発電された電気を名古屋港周辺
の軍需工場等へ送電する重要な中継施設として昭和11年1月に建設され
ました。その後、名古屋初空襲(昭和17年4月18日)があったことから、
配電盤を死守する職員に何かあった場合、すぐに代われるよう予備要員
が待機するために防空壕がつくられ、当時は変電所本館に隣接して同様
のものがもう1基ありました。その構造は、長さ8.5メートルの半地下式で、
入口は4箇所あり、屋根は爆風を避けやすいようにアーチ状になっています。
また、鉄筋コンクリート製の強固なつくりは名古屋市近郊では、非常に
珍しいものです。


入り口
中には入れないように塞がれています。
半地下式の構造になっています。


変電所
道を挟んだすぐの南側には、中電日進北山変電所があります。

参考Webサイト:
http://www.city.nisshin.lg.jp/profile/bunkazai.html
http://gggzzz.cool.ne.jp/ikou/main/Nisshin.html


史跡探訪@海軍第一岡崎航空隊跡<愛知県安城市、岡崎市>

2006-10-09 10:42:07 | 史跡探訪

岡崎航空隊には、かつて3つの航空エリアが存在し、
以前は、第三エリア第二エリアを探索しましたが、
今回は第一エリアを探索して来ました。 




山王神社の手洗い鉢
卒業記念 昭和19年12月9日 第二期甲飛飛行機整備練習生
と刻まれています。


滑走路排水溝の掩蓋
滑走路の解体と共に掩蓋は各所に散らばり、
そのため数箇所の場所で見ることが出来ます。
山王神社にて。


防空監視塔
コンクリート製の円柱で、上部には外部を
覗くスリットがあけられています。
現在は、開拓記念塔になってます。
橋目霊園内に位置してます。


予科練之碑
碑文
此処は第一岡崎海軍航空隊跡にて予科練習生揺籃の地なり
自らの若き命を楯として祖国を守らんと全国より志願して
選ばれた若人が六ヶ月間の猛訓練に耐え
海軍航空機搭乗員としての精神を培いたる地なり
生涯を祖国に捧げんとこの地に集い実戦航空隊へ巣立つも
戦局に利なく大空をはばたく間もなく血涙をのんだ終戦
爾来二十八年吾等相寄り相語り既に亡き戦友の慰霊を兼ねた
『予科錬の碑』を建立するものである



予科練之碑の案内板
当時の建物の位置などが記してあります。
熊野神社にて。



神社西側の鎌倉街道遺構と一里塚

参考Webサイト:
http://www48.tok2.com/home/yamabiko/sonota/okazakiair.html


史跡探訪@海軍第二岡崎航空隊跡<愛知県豊田市>

2006-10-07 10:10:08 | 史跡探訪

写真(橘花)と記事は無関係です、HI。

岡崎航空隊には、かつて3つの航空エリアが存在し、
以前は、
第三エリアを探索しましたが、今回は
第二エリアを探索して来ました。痕跡は殆ど残されて
いないようです・・・・・。


海軍用地の石柱
豊田市上郷町の天道院に基地の境界
を示すための石柱が8基集められています。


海軍用地の石柱
文字の上にあるMは、波を表しているのかな?。

参考Webサイト:
http://www48.tok2.com/home/yamabiko/sonota/okazakiair.html


史跡探訪@奥殿陣屋跡 <愛知県岡崎市>

2006-10-05 08:34:19 | 史跡探訪

陣屋の置かれた場所は、天領の代官所・一般的に3万石以下
の城を持たない小藩・天領及び藩の郡代官所・大藩の家老
の所領地・旗本の所領地の事です。

徳川秀忠に仕え、大坂の陣の戦功により3千石を与えられた
真次が大給(豊田市)に陣屋を構えたことから奥殿松平家は
始まる。第2代乗次のとき1万6千石の大名となり、宝永4年
(1707年)に奥殿に陣屋が完成したため第4代乗真が移った。
以後、文久3年(1863年)に田野口に移転するまで奥殿藩の
中心となった。当時は御殿、役所、書院、学問所などが
あったが廃藩置県後、移築、取り壊しされた。しかし、
昭和59年(1984年)桑原町竜渓院の庫裏になっていた書院
が移築復元された。そのほかに歴代藩主の墓もある。

最後の藩主乗謨(後に大給恒 1839年~1910年)は博愛社
(日本赤十字社の前身)の設立に尽力した人物として
知られているそうです。


陣屋全容

山間の小村の色合いが濃いですね。
「ジンヤ」の刈り込みがインパクト有ります。


陣屋書院入り口

資料館等は、全て無料です。


陣屋書院外観

かなり改装されているようです。


花火資料館

ここも無料です。


奥殿松平家の歴代の廟所

少し山手に位置しています。
整備も行き届いているようです。
岡崎市の指定文化財だそうです。


RADIO局

ここもついついパチリと。(^^;
奥殿陣屋のすぐ北側に聳え立っています。
何ていうCALLなのかな?。
視線がつい行ってしまうところが・・・・・。


参考Webサイト:
http://www.city.okazaki.aichi.jp/guide/cgi-bin/clickinf.asp?class=1&serialno=114&eda_no=0


史跡探訪@依佐美送信所跡<愛知県刈谷市>

2006-10-04 08:21:09 | 史跡探訪

刈谷市に残る、依佐美送信所跡を探索して来ました。
軍事施設では有りませんが、太平洋戦争中に海軍が
使用していた時期も有り、戦後は米国海軍が使用して
いましたので、取り上げてみます。
「ニイタカヤマノボレ」の暗号文を送信した場所として、
余りにも有名ですね。
20年前に、送信所に所要で行った事が有り、星条旗
が翻っていたのを思い出します。「治外法権」の
様相を呈していたものの、別に普通に入れましたが。
 
このあたりは、平日でも仕事の途中で頻繁に行く所です。
目印になるものが無くなって、非常に寂しく感じます。


全景

現在は、タワーの一部が残るのみ。
新しく展示館が建設中です。まだ完成して
いないので、中には入れませんでした。


公園

現在、辺り一帯は公園を整備中みたいです。


記念碑

トラ柵越にパチリっと。
裏には碑文が刻まれています。


タワーの一部

既設の場所のままなのか、移設した後かは不明ですが、
展示館のすぐ横に建っています。
タワー根元とTOP部を繋ぎ合わせてドッキングさせているみたい。
快晴の日は、豊田市からでもその威容を見る
事が可能でした。見られなくなって10年の年月が
経過しましたが、その光景はいまだに脳裏に
焼き付いています。


展示館

建物は完成していますが、現在は電気工事
の作業を行っていました。
建物から突き出る形の、高圧碍子が印象的ですね。
若しかすると、この碍子は実際に使用されていた
ものかも知れません。


敷地跡

以前は、250mクラスのタワーが8本そびえ立っていました。
過去、仕事の中途に何度と無く寄り道しましたが、このタワー
にフルサイズのANTを上げたら、さそがし飛ぶだろうなぁ、
なんてお馬鹿な事を考えたものです、HI。
新幹線の下り方向の左手にかつて、その威容を垣間見た
人も多かった事でしょうね。

依佐美送信所の詳細は、
「依佐美送信所」、「依佐美送信所跡」、「依佐美」、「依佐美 鉄塔」などで
検索エンジンでチェックしてみて下さい。

概略地図は、このあたりです。


史跡探訪@陸軍第三師団跡<名古屋市東区>

2006-09-30 10:21:51 | 史跡探訪

金曜に名古屋城近くまで行ったついでに、またまた探索して来ました。
一帯は、現在でこそ官公庁オフィス街ですが、その昔は陸軍第三師団
が置かれていました。現在では、痕跡は殆ど有りませんね。

最終所属部隊

歩兵第6連隊
歩兵第34連隊
歩兵第68連隊
騎兵第3連隊
野砲兵第3連隊
工兵第3連隊
輜重兵第3連隊
師団通信隊
師団兵器勤務隊
師団衛生隊


野砲兵第3連隊記念碑

合同庁舎2号館のすぐ西です。


軍用馬犬慰霊碑

騎兵第3連隊も置かれていたので、軍用馬犬も
多かったんでしょうね。判り辛いとこに建ってます。


軍用馬犬慰霊碑(ウラ)

昭和14年6月建立との事。
施主は、畜産関係者のようですよ。
本町橋すぐ横に位置してます。


名古屋城外堀

潅水はされてません。鬱蒼としています。
本町橋からパチリ。

第三師は、こちらからどうぞ。


史跡探訪@鶴舞公園<名古屋市昭和区>

2006-09-27 18:43:01 | 史跡探訪

お勉強会参加の前とお昼を利用して鶴舞公園(つるまこうえん)
を散歩して来ました。公園内の「とある建物」は、実は戦跡と少し
ゆかりが有ったりします。


奏楽堂

http://www.geocities.jp/urbanivjp/sisetu.html

シャッター押す時、おばちゃんが・・・・・。


噴水塔

http://www.geocities.jp/urbanivjp/sisetu.html


普選記念壇

http://www.geocities.jp/urbanivjp/sisetu.html


名古屋市公会堂

http://www7.ocn.ne.jp/~urban/kenzoubutu.html

実は、公会堂の4階部を陸軍名古屋高射第2師団司令部が使用
していた時期が、太平洋戦争中の一時期ありました。
屋上には、高射砲数基、指令所、機関砲数機が配備されていたそうです。
愛知県の支部大会でも使用されるフロアーですね。
大ホールは、9分割されて、兵室、下士官室などに区切られていました。


司令官室跡?

司令官は、連隊長つまり大佐が就任してたそうです。
現在は特別室。原会長も入った事でしょうね。
公会堂の4隅に、同じ形状の部屋が4部屋
有りますが、当時4階だけ司令部が使用。
他の3部屋は、将校用の部屋。
終戦時には、司令部は他の場所にQSY
していました。
もともとは、公共の建物ですね。

4基あるエレベーターの内の1基は、
1930年竣工のままのものですが、
現在は休止しています。
竣工当時のままのものも、数多く
残されています。