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いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

十日町市貝野小学校閉校

2021-04-01 22:16:09 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
147年の歴史に幕 十日町市の貝野小学校で“最後の卒業式” 2021.03.24 19:16
この春、147年の歴史に幕を降ろす十日町市の小学校で最後の卒業式が開かれました。
十日町市にある貝野小学校。卒業生8人が最後の卒業式に臨みました。
貝野小学校は明治7年に創立されました。昭和8年には495人いた児童も現在は最も少ない27人。児童数の減少により来年度からここ旧中里村唯一となる田沢小学校に統合されます。

最後の卒業生を送り出した貝野小学校。3月25日、閉校式が開かれ、その歴史に幕を閉じます。



https://www.teny.co.jp/nnn/news114nkejcqrdrxtikl45.html 


今回紹介した記事は、ある地方の小学校の閉校を伝えるニュースであり、多くの人にとって特に気に留めるニュースではないだろう。私も鉄道省信濃川発電所工事を調べている中で、たまたま見つけた記事だ。にも拘らず敢えて何かを書こうと思ったのは、昭和8年495人(最多)という文言が目に留まったからだ。なぜなら昭和八年は、宮中取水堰堤の工事、水路隧道第一隧道工事と、当地の発電所関連の工事が最盛期を迎えていた時期だからである。しかし、それだけで貝野小学校の話を話題に出そうなどとは思わなかっただろう。

貝野小学校について、信濃川発電所工事当時のエピソードを紹介する。私は信濃川発電所工事を調べる上で、当時の十日町新聞を一日毎どころか出来るだけ一つ一つの記事を流し読んで関係する記述を追っている。その中で、信濃川発電所工事に伴う貝野小学校の児童数の急増問題が取り沙汰されている記事を度々見てきた。貝野小学校の児童数が急増した理由は、宮中ダムや水路隧道の工事のために多くの工事関係者が当地に流入して来たからである。それら工事関係者の中には一家で当地に移住してきた家庭も多かった。また、その中には学校に通う年齢の児童もいたため、貝野小学校の児童数は急増したのである。その結果、学校としてのキャパシティを超え、貝野小学校はパンク状態に陥った。この状態を打破するためには、学校の増級、増築が必要となる。しかし、その金を誰が出すのかという問題に発展していく。貝野村の財政は潤沢でないにも関わらず、どのように児童急増問題を解決したのか。以下、4点の十日町新聞の記事を引用する。


十日町新聞 昭和八年二月廿五日
工事のお蔭で児童が大増加 増級、増築に迫られ 貝野村悲鳴



十日町新聞 昭和八年十二月五日
児童増加 村の悩み 工事の中心地貝野



十日町新聞 昭和九年三月廿五日
児童益々増加 今年も亦増級? 八十余名の組もある 貝野村の悩み



十日町新聞 昭和九年八月廿五日
鐵道の新例! 校舎建築費寄附 困り抜く貝野村へ



このように、貝野小学校は開校から閉校までの歴史の中で、信濃川発電所工事により児童数が急増し、最大の児童数を抱えた。私は貝野小学校について調べているわけではないので、実際の児童数の推移は承知していない。それでも先の報道によると昭和8年495人(最多)とあり、まさに工事の真っ只中に最大の児童数を抱えることとなったことは推測される。そこから更に当時の十日町新聞の記事を見ることで、当時の児童数が最大となったのも納得できるものとなった。特に児童数の増加について、先に紹介した記事の一部を引用する。"十日町新聞 昭和八年二月廿五日 工事のお蔭で児童が大増加 増級、増築に迫られ 貝野村悲鳴”では、「同小学校は尋常科七学級、高等科一学級の編成で児童四百二十餘名の處工事着手後百三十名の児童が急増したため」とされている。更に”十日町新聞 昭和九年三月廿五日 児童益々増加 今年も亦増級?” には「同村小学校の児童数は現在外来児童百四十餘名を入れて五百六十三名」とある。これらのことから、学校の増築は必至であった。しかし、貝野小学校は昭和三年に校舎の新築があったばかりであり、貝野村は更なる増築のための資金を出せる程に裕福な村ではない。一方、鉄道省は工事による農地や灌漑用水の補償は行っていたものの、付近の工事は請負工事であり児童の多くが請負会社社員の子息であるとして、学校の増築費用を補填するスキームを持っていない。結局、同省としては学校増築の資金(税金)を出すことが出来ないため、省、請負会社と申し合わせて寄附金として金を出すことで問題の解決を図ったのだろうか。私は経緯は分からない。以上が、貝野小学校の児童数が最大となった時代の話である。


なお、貝野小学校は宮中ダムで鮭の稚魚の放流参加しており、その様子を貝野小だよりとして発行している。

貝野小だより 第 24 号  令和3年 3 月 19日
<サケの稚魚放流>
3月 10 日(水)、宮中ダムの取水口でサケの稚魚の放流を行いました。JR東日本にお勤めの羽鳥 隆さん(新屋敷)のお取り計らいで中魚沼漁協様のご協力により実現したものです。今まで学校行事は晴れ続きだったのですが、閉校がいよいよ近づいてきたためか涙雨が少し降る中行いました。全校で約2万匹の稚魚を放流させていただきました。4年後に戻ってくるとのお話から、「帰ってきてね」と思いを込めて放したのですが、ふるさとの川に無事戻ってくるサケは0.5%程度と言われているそうで、2万匹だと、100匹ほどになります。それでも石の間に挟まったりせずにちゃんと川の流れに乗ったか確かめながらバケツから放す子どもたちの姿がありました。
最後に感想発表の場を設けていただきました。JR、漁協、市建設課・広報広聴課、さらに多くの報道陣と、大勢の皆様が見つめる中発表した6名の子どもたちは立派でした。また、「一生の思い出になりました。」などの感想に対し、卒業生でもあり、民生委員としても教育活動に御協力いただいてきた羽鳥様は「泣けてくるよ。いい思い出にしてね。」とお話しくださいました。「ふるさと」への思いを深め、宮中ダムの偉大さに「♪科学の力をさとるのだ♪」の校歌の意味を再認識する日となりました。


最後に私個人の感想ではあるが、数十年の時を経た令和期でも”宮中ダムの偉大さに「♪科学の力をさとるのだ♪」”と記事にしていることに感動した。宮中取水堰堤についてはどうしてもJR東日本信濃川発電所の不正取水問題が頭によぎるため、地元では不正取水された悪い施設として教育されているのかと勝手に想像していた。それでも、「宮中ダムの偉大さ」という言葉が出て来るというのは、学校なり地元の教育方針だろう。宮中取水堰堤や発電所建設の歴史や意義を教えているのかもしれない。私は、地元において信濃川発電所は不正取水により疎ましく思われているのだろうと後ろめたく思っていた。それだけに、まさに地元の貝野小学校に「宮中ダムの偉大さ」と表現されたことに感動している。


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