◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

飯山線になるまでのはなし

2018-10-16 18:10:16 | 飯山鉄道関連

「人あり曰く、信州の地従来天然の恩恵に浴すること少なく、千曲川の如きは時に洪水氾濫するを以って、むしろこれを恐れたりと。然るに今や禍福その地を変え、千曲川はその巨大な水勢を以って、わが信越電力会社の経営によりて、東洋一の電力を起こさんとし、また河川改良のため岩石を破壊し、今や百そうの運送船はちく艫相衡みて、信越電力の材料運漕に供し、昔は徳川時代において、千曲川の舟運の便を図らんと当時の水利土木の学者がたびたび計画して、ついに失敗したる事跡を完成するに至れり。しかして我が飯山鉄道はその流域を走り、水陸相待って時勢はついによく天与の恩恵を獲得せしめたる也


大正六年二月五日  発起人山本幸吉ら12人が豊野ー飯山間の軽便鉄道敷設の免許申請
  同年五月五日  豊野ー飯山間の敷設免許。軌間1067ミリ。動力は蒸気
  同年八月三十日 飯山鉄道株式会社創立総会開催。資本金50万円。山本幸吉(水内銀行取締役)社長、牧野長蔵(鴻商銀行頭取)副社長、高橋幸作(水内銀行頭取)副社長。
  同年九月十一日 飯山鐡道株式會社成立登記完了

大正七年九月四日  豊野ー飯山間工事施工の認可申請

大正八年五月一日  中津川第三発電所着工
  同年十月十八日 豊野ー飯山間の工事着工(着工となっているが工事費用高騰と資金不足でほとんど工事は行われなかった模様)

大正九年三月二十日 飯山ー西大滝間鉄道敷設免許交付
  同年四月十八日 飯山ー豊野間工事延滞のため請負制とし指名入札するも、工事費高騰による予算不足で不調
  同年四月二十九日飯山ー西大滝間線路延長実測及び設計を東京工務所と契約締結
  同年五月二日  臨時株主総会で信越電力の資本参加により資本金を三00万円に増資。同時に西大滝までの延伸を決定
  同年六月十二日 豊野ー飯山間起工式挙行  
  同年十二月十五日臨時株主総会で信越電力より社長神戸挙一、専務取締役青地雄太郎、取締役牧野長蔵、取締役高橋幸作

大正十年五月    中津川第三発電所竣功(下流の第三発電所から建設して行ったため、第三→第二→第一の順に建設された)
  同年八月    中津川第二発電所着工
  同年十月二十日 豊野ー飯山間営業開始

大正十一年五月   信越電力信濃川本線発電所工事認可申請
   同年八月   中津川第一発電所着工
  同年十一月   中津川第二発電所竣功

大正十二年七月五日 飯山ー桑名川間営業開始
  同年九月一日  関東大震災
  同年十二月一日 桑名川ー西大滝間営業開始

大正十三年九月   中津川第一発電所竣工

大正十四年十一月十九日 西大滝ー森宮野原間営業開始

昭和二年八月一日  森宮野原ー越後外丸間営業開始
  同年十一月六日 越後外丸ー越後田沢間営業開始

昭和三年十月    株主総会において東京電燈・信越電力・飯山鐡道の社長を兼任していた若尾璋八が「発電所工事が終われば買収してもらう」旨の発言

昭和四年九月一日  越後田沢ー十日町営業開始。省線十日町線と接続し、飯山鉄道全線開通


昭和六年四月一日  信越電力が東京電燈と合併。  鉄道省信濃川発電所(千手発電所)着工
  同年九月    柳条湖事件(満州事変)    飯山鉄道はガソリンカー運転開始

昭和七年四月十二日 越後田沢駅ー宮内取水ダム間専用工事材料運搬線運転開始
  同年五月四日  飯山鉄道株式会社、飯山鉄道の政府買い上げを請願(元社長の若尾璋八は鉄道政務次官となっており国有化のために動いた模様)
  
昭和十一年九月   長野県下水内郡岡山村西大滝にて西大滝ダム着工
   同年十月   越後鹿渡ー発電所用地構内までの構外貨物専用側線認可

昭和十二年七月   盧溝橋事件(支那事変)

昭和十三年五月   新潟県外丸村鹿渡新田にて信濃川発電所着工

昭和十四年十一月  西大滝ダム・信濃川発電所第一期工事完成

昭和十五年十一月  西大滝ダム・信濃川発電所第二期工事完成

昭和十六年四月十九日東京電燈信濃川発電所関連工事竣功届出
  同年十二月   太平洋戦争勃発

昭和十七年六月   ミッドウェー海戦

昭和十九年二月十五日飯山鉄道の政府買収決定
   同年六月一日 政府移管し飯山線(豊野ー越後川口間)となる
   同年十月   レイテ沖海戦



十日町新聞

昭和四年九月一日付

宿願愈達して今日の喜び 想起される多難の経過
飯山鐵道會社専務 高橋幸作


飯山鉄道開鑿の動機は、大正の初年長野縣で各郡に鐵道網を敷き補助金を交附して鐵道敷設を慫慂した結果各所に私設鐵道會社起り鐵路は蔓布されたがひとり下水内郡のみになかったので郡は挙げて鐵道欲に駆られていた時、偶々北信軽便鐵道の計画なり川を挟んで飯山の対岸まで鐵路を布くからと株式の応募を申し込んで来た。
しかし、町まで来るでなければと我々が主謀となり大正六年の春、省線豊野駅を起点に飯山までの開鑿を計画し飯山町の有志の熱烈なる賛仰をうけ取り敢えず發企者の一人で鐵道の知識を有する島津喜之助氏が書類を作成し同年二月鐵道院へ出願
牧野長蔵氏と島津氏が出京安宿に泊り込み居催促で許可を急ぎ県の方は当時県議だった私が取りなり遂に五月初旬には許可をとった。
この間僅か三ヶ月、おそらく三ヶ月の短時日で許可になった鐵道はこれまでにあるまい。
一方、北信軽便鉄道は我々に機先を制されて有耶無耶になってしまった。今の河東鐵道はその後設計を変更して出来たものである。


豊野から飯山まで十二哩、当初の見積工費は四十萬圓でまづ會社設立のことに決し飯山の有力者総出で株式の募集にかかり六十三萬圓出来た。
そこで三万圓は切り捨て六十万圓の資本金で十一月いよいよ会社は孤々の聲を挙げ、そして社長には町の素封家山本幸吉氏を挙げ副社長には牧野氏と私がなり翌年は測量にかかった。
處が測量も済んで工事を起こそうとしたその頃はもう戦後の影響をうけて物価は向ふ見ずに高騰し四十万圓の工事は六十万圓ー八十萬圓遂には三倍強の百三十萬圓にせり上ってしまった。
こうなってはとても工事は始むべくもない。
しかし第一回の払込(一株五圓)を了し工事に取り掛らないのであるから牧野氏と私が銀行に関係している處から誑かして銀行の資金を作ったなどなどあらゆる悪罵を浴びせられ、牧野氏などすんでに焼打に逢ふとしたこともあった。


外部はすでに斯くの如し。
私共は全く進退谷まっている頃信越會社が出来発電計画が始まった。
偶々同社の専務の青地勇太郎氏が関係町村の諒解を受くべく来県していることを知り青地氏を尋ね工事材料運搬の為の利便を説き出費を懇願した。
しかし却々聞き入れないので河東鐵道に合併してやらうと正に握手する處へ突如青地氏からの飛電で漸く信越と手を握ることにした。
その際の私共の心事は到底云ひ表し得ない


我々は青地氏の紹介で信越の社長神戸挙一氏に逢った。
氏の希望としては出費の条件として発電工事の取入口西大瀧までの延長を提唱し資本金は一躍三百萬圓とし會社が絶対権を得るために三分の二即ち二百萬圓を持ち組織を変更して社長に神戸氏を専務に青地氏を推し、私が常務となって直に豊野、飯山間の工事にとりかかり年内に第一工区の開通を見た。大正九年のことである。


さていよいよ信濃川発電計画はすすんだ。そして西大瀧から外丸までの工事材料の運搬は一体如何にすべきやが重大な問題となった。
川はあれど早瀬で舟楫もきかないため、結局土工レールの假設といひ鐵延長が重点となった。
我々は土工レールは工事完了後の処置に不利益があるからと飯鐵の延長を主張した。
折しも上越線の中魚沼郡経由の運動が旺盛の時であったからこれと連絡せしむることの有意義を東京重役も説き結局鐵道延長に決し会社の資本金も一千万圓に増し今日の成果を見た。


工事着手して茲に十年、計画成ってから実に十有三ヶ年、顧みれば種々の回想に万感犇々と胸に迫る。
しかし経験に乏しい私共に地方の方も東京の事業家も委せ切りで仕事をさせてくれたと云ふことは深謝せずには居られない。
只現在は會社の経営不得手のため株主殊に地方の株主には迷惑をかけて相済まないがしかしこの會社の八割迄の出資を中央から持って来て我地方の開発に当てている事を思い、そして株主各位はその出資が鐵道開通を助成し、一面地方への貢献であると覚って呉れるならせめての諦めとならうと思ふ。


さて會社の今後の方針は東京発電の信濃川開発に働きこの間出願中の豊野ー長野間十日町ー長岡間の乗り入れを実現させ東京発電工事の終了と共に国有に移したいと思うのである。
国有になった場合は東京行きの上越線、名古屋行きの中央線、長岡行きの北陸線等と併せて本線は国家有数の幹線の一部をなし我が交通界に重要性をやがうへにも備ひることであらう。(談)














飯山鉄道が全通したその日の十日町新聞である

そこのトップには、飯山鉄道株式会社創設時から自身が亡くなるまで尽力してきた高橋氏の挨拶が載せられていた

多少、新聞に載せるに当たって脚色があるかもしれないが、それにしても飯山鉄道全通までの苦難の道のりが滲み出ている挨拶だと感動した

会社創設から全通までの十数年、高橋氏はそれこそ奔走した

飯山鐡道の計画を推し進めていく中心人物だったであろう高橋氏も、国有化に向けて動き出していたのだろうと思う

とにかく、当時の当事者の貴重な挨拶である


飯山、高田間鉄道敷設ノ件(長野県下水内郡飯山町高橋幸作呈出)


国立公文書館のデジタルアーカイブから、高橋氏は飯山鐡道に限らず飯山から直江津方面に抜ける鐵道も請願している



飯山市史より

(飯山鉄道)会社の収支とすれば、創業当初は多少の益金が出て、わずかながら配当金を出したが、もともと日本でも有数の豪雪地帯を走る鉄道であったため、冬季になると何十日も運休したり多額の除雪費がかかり、東京電燈会社の支援を受けながらも経営は容易でなかった。
なお、政府の補助金も年を追うごとに減少し、また借入金の返済もあるので会計はいつも窮迫していた。
飯山鉄道は昭和七年五月四日鉄道の政府買い上げの請願を行った。
さらに同年五月十三日、沿線町村民二九七二人の署名を集めて「飯山鉄道国営に関する陳情書」を提出した。
次いで同年九月二十二日には飯山鉄道の河西取締役社長をはじめ地元沿線町村長、株主総代の連名で再度政府買い上げの陳情を行ったが、政府からは何の返答もなかった。
九年九月二十六日にも会社が陳情し、十一月には新潟県知事と新潟県側沿線町村長が、同十一年にも会社が買い上げを国に請願した。
しかし、政府は買い上げの検討さえしなかった。
その後戦争が拡大して日本軍は東南アジアまで進出し、軍隊や物資の輸送は船舶によったので、船舶は非常に貴重なものとなった。
そこで国内の運搬には船はなるべく使用しないで、陸上輸送に切り替えようとした。
昭和十九年一月十日の第二六回鉄道会議に、飯山鉄道は上越線と信越本線をつなぐ重要な鉄道であるとして、買収問題がようやく取り上げられた。
その後第八四回帝国議会で、「昭和十九年度一般会計歳出の財源に充つる為の公債発行に関する法律」案が可決され、二月十五日法律第八号として公布され、飯山鉄道の買収が決定した。



津南町史より

飯山鉄道は昭和十九年六月、主として国防上の問題から信越本線の迂回路としての使命を有するとして政府に買収、国有化された。
当時の地方鉄道は赤字経営に陥った場合、株主救済や経営者保身のため国に買収を求めるのが一般的で、それをめぐって多くの疑獄事件もおきている。
特に大正末期から昭和初期にかけては国有化運動が最も激しく、鉄道収賄では政友会も民政党もすねに傷をもつような状態であった。
新潟県内でも久須美東馬が猛運動の末、昭和二年に越後鉄道の国有化に成功している。
このほか長岡鉄道、栃尾鉄道にも国有化の声はあったが実現していない。
新潟県内ではその後、新潟臨港鉄道が昭和十六年に国有化されている。
これも長期の運動が実を結んだ結果だが、この時代になると港湾輸送の一元化ということで十分大義名分が通っていた。
昭和三年十月、株主総会出席のため十日町を訪れた東京電燈社長若尾璋八は、記者団の質問に答え、「まだまだ政府買収は考えていない、全線が開通し、かつ信濃川本線の発電所工事が終われば、附加価値もつき、また東電としても意味のない資産になる。そうなったら買収をしてもらう」という意味の応答をしている。
しかし全線開通後、昭和七年には早くも公有化運動が表面化した。本線工事の資材輸送は国有鉄道になってもできるということだろうか。
昭和七年五月十日付「十日町新聞」に「飯鉄国営運動愈々具体化 本部も調印を纏め鉄道省へ陳情」という見出しで報道されているのがそれである。
これによると昭和七年四月末に開かれた株主総会で株主側から国有化を主張する声が出、飯山鉄道側もこれと同調することとなった。
昭和五年に東京電燈・信越電力・飯山鉄道の各社長を兼任した若尾璋八が、当時鉄道政務次官であったのを幸い、一挙に政府買収を実現させようと、五月十二日には長野県、新潟県の陳情委員が上京している。
その後昭和九年十月に鉄道大臣内田信也に出された陳情書は「本鉄道の御買上を得ば、運賃の低減、施設の完備、運転系統の円滑、経済的の影響並に交通上の便益実に絶大なるものと存せられ地方民は挙て之が買収を熱望するものに有之候。」と述べ、昭和恐慌に追い打ちをかけた同年の大冷害を反映した「せめて飯山鉄道でも国有化されれば」との地元民の願望をにじませている。
昭和六年に鉄道省信濃川発電所第一期工事が本格化し、また昭和十一年から東京電燈信濃川発電所工事が開始されて資材輸送がかなりの量に上ったときは、会社側主導の国有化運動はそれほぼ顕著ではなかった。
しかしこれらが一段落した昭和十五年ころから会社の運動は次第に具体化していった。
「国有化請願について飯山鉄道の礼状」は、取締役の牧野長蔵と支配人の吉田次雄から、昭和十六年三月一日に沿線各町村長に送られたもので、電源開発工事が終了し、無用の長物と化した飯山鉄道を一日も早く処分してしまおうとする親会社東京電燈の動きと重なっている。
一方、地元の国有化運動も、外丸村の高橋藤一郎などが中心になり、長野県下水内郡の小野塚英吉と手を結び、あらゆる手を尽くして続けられた。
これらの運動が功を奏し、昭和十九年一月十日の第二十六回鉄道会議で上越線と信越本線の短絡線になるという理由で飯山鉄道の買収諮詢は可決された。



最後に、題目は長岡鉄道とあるが飯山鉄道の国有化請願の文書も含んでいるので紹介する

国立公文書館デジタルアーカイブ 長岡鉄道買収ノ請願ノ件外三件 [年月日]昭和19年02月01日[マイクロフィルム]



再三の話であるが、飯山鉄道は当初豊野ー飯山間の計画であった。

しかし、実際には豊野ー飯山間の着工こそすれど、物価高騰と資金不足の影響で工事がままならなかったのである。

飯山から先の戸狩前の延長も目論み、補助金も出ているがそれでもこの状況を打開できるものではなかった。

その頃、信濃川水系での水力発電工事を計画していた信越電力が資材輸送に有用と認め、その資本が投入され、一気に工事計画が前進した。

それは飯山より先、戸狩を経て、西大滝、津南、そして十日町まで繋げるものとなり、水力発電所建設のための資材物資輸送貨物線としての色合いが濃いものとして建設がすすめられた。

飯山鉄道の当初の目的はさておき、飯山鉄道会社の経営権は電力会社が掌握し続けたわけで、資材輸送のため一辺倒で線路の位置も決まって行った。

いよいよ、信濃川発電所が完成し、電力会社から見れば貨物輸送線としての飯山鉄道をそのまま持っている意味が無くなるのも当然のことだった。

そうして、水力発電所完成後は飯山鉄道の話題も国有化が主となる。

陸運統制令も出ていた戦時体制真っただ中の昭和十九年、ついに飯山鉄道は十日町線と共に戦時買収され、飯山線となった。

飯山鉄道会社・電力会社・沿線町村による飯山鉄道国有化運動がこの買収にどれほど影響したのか分からないが、とにかく飯山鉄道は飯山線として国有化されたのである。



大正六年に飯山鉄道株式会社が誕生してから百年以上たった平成三十年の現在も、飯山線の歴史は続いている。

今では、「いいかわ、いいそら、いいやません」のキャッチコピーを背負った観光列車も走り、沿線の田舎ののどかさを売りにしている路線でもある。

私もつい数か月前まで、そんなのどかな非電化ローカル線としての飯山線というイメージしか持っていなかった。

しかし、その路線の背景にはこういう歴史もあったということを知り、私はとてつもなく感動したのだった。

西大滝を通る時、鹿渡で信濃川の鉄橋を渡る時、この路線が作られる目的となったその施設の紹介がどこかであるだろうか。

ただのどかなだけじゃない、そんな飯山線とその沿線の歴史の一面が広がっている。

私は自分の興味が赴くままに着地点も不明なままここまで書いてきただけ。

まぁ、マニアですから。

飯山鉄道と西大滝ダム建設

2018-10-09 18:19:21 | 飯山鉄道関連

あくまで、調査当時の解釈であることをご容赦頂きたく思いながら、西大滝について纏めていきたい

発端が、西大滝ダム建設の資材輸送に飯山鉄道(後の国鉄飯山線であり、現在のJR東日本飯山線)が大活躍したという本を読んでから始まった素人の夏休みの自由研究である

「西大滝ダムの建設には飯山鉄道が大いに活躍した」

非常に曖昧な表現であるものの、それを見た瞬間に「こんなに大きなダムや発電所の建造のための資材輸送をしていたのだから、現在はあんな辺鄙な西大滝駅がかつては大ターミナルだったんじゃないか。それこそ、荷物を取り卸す設備も完備、現場までの専用側線もあっただろう。」という予想が先行して行った。

しかし、どこまでも文言は「飯山鉄道が大いに活躍した」に留まる

それは、沿線各地の郷土史における飯山鉄道なり水力発電開発の頁で一貫しているのだ

まず、飯山市史の飯山鉄道と西大滝に関する記述を引用する


信越電力が設立されて間もない大正八年、この地方を視察した同社の青地雄太郎は、飯山鉄道の完成が自社の発電所開発ににとってきわめて好都合であることを、同社社長神戸挙一に報告した。
飯山鉄道株式会社は大正六年に設立されていたが、同八年になっても、鉄道建設工事は着手されていなかった。
翌九年になって信越電力では、飯山鉄道に対し豊野ー飯山間の鉄道敷設を西大滝まで延長することを条件に、増資分の三分の二を同社で引き受けることにした。
同時に資本金も三00万円にし、飯山鉄道社長に同社社長の神戸挙一が就任して、豊野ー飯山間の工事を開始した。
(中略)
信越電力では、信濃川発電所に着手する以前、中津川第一・第二発電所建設に当たっても、当時西大滝まで開通していた飯山鉄道を効率よく利用した。
西大滝ダムの工事は、戦時体制がいよいよ強化されだした昭和十一年九月着工された。
このダム工事は当時東洋第一の大水力発電所である信濃川発電所の堰堤および取水口工事であって、このほかに直径7.5メートル、長さ二十二キロメートルの二本の水路と発電所本体工事をもって完成するものであった。
総工費七八00万円、長野県の西大滝駅から新潟県の越後鹿渡駅の区間に渡る大工事であったが、昭和十四年十一月二十九日には完成して東京へ送電が開始されている。
極めて順調に工事が進行したのは、飯山鉄道が、この長大な工事区間に並走しており、建設資材・労働力の大量迅速な輸送が出来たからである。
このことについて東電社史で「当社が巨費を投じたこの運輸施設によること実に多大なるものである」と認めている。

飯山鉄道の建設に大きく貢献した信越電力株式会社は昭和初期に東京電燈会社に吸収合併された。東京電燈会社は、昭和十一年、信濃川発電所工事に着手することになった。
飯山鉄道ではその工事用機材を輸送するため、越後鹿渡駅に構外貨物車用の線路を設置することを申請し、十月認可を得た。
この工事は飯山鉄道で施工し、建設費は東京電燈会社が負担した。
翌十二年この発電所工事の資材運搬のために鉄道省から貨物一0両を譲り受け、翌十三年には機関車一両を借り入れることになった。
こうして、信濃川発電所工事の材料一切の運搬は飯山鉄道が引き受け、昭和十六年五月三十日の発電所工事の完了まで、莫大な工事材料を運搬して、発電所建設に大きな役割を果たした。
同時にこの事業は飯山鉄道の経営にも大きく貢献した。
飯山鉄道の総株数二0万株のうち十五万株を東京電燈会社の子会社東電証券会社が所有していた経緯もあり、飯山鉄道は東京電燈会社の経済力によって支えられていた。



つづいて、津南町史である。飯山市史と被る部分は省略する
飯山鉄道が延伸するに従って終点である飯山駅、桑名川駅と西大滝駅が、津南の中津川水系の発電所群の建設資材運搬にも活躍したということも踏まえて読んで欲しい
また、津南町史は飯山鉄道の工事に関する工事用側線の記述に鉄道省文書を参照している節があるので、この点を強く留意したい
信濃川発電所については、鉄道省(現JR東日本)のものと東京電燈(現東京電力)のものとそれぞれがあるので、その点も混同しないで欲しい
鉄道省のものは千手発電所、宮内取水口という記述にもなる

信越電力の発電工事は、東京の本社とは別に支部事務所を下船戸村大割野に置き、大正十二年には、長野県下水内郡岡山村西大滝と新潟県中魚沼郡秋成村前倉に出張所を置いて各工事区事務所の指揮・監督にあたった。
西大滝は当時すでに信濃川本流を利用した信濃川発電所工事の測量調査を進めていたし、また、鉄道と千曲川を利用して運ばれてきた資材の中継地点でもあった。
(中略)
飯山鉄道は豊野ー飯山間を大正十年十月二十日に開通させ、続いて飯山ー桑名川間を大正十二年七月五日、桑名川ー西大滝間を同年十二月一日に開通させている。
中津川第一・第二発電所は大正十三年八月五日に竣功祝賀会を挙行しているので、まさに鉄道建設と発電所建設は並行状態にあった。
水管、水車、発電機などの特大貨物は西大滝(開通以前は飯山や桑名川)の鉄道終点から舟運で森地内や芦ヶ崎まで運び、そこから専用軌道で奥地に運んでいた。
(中略)
大正十年に着手された鉄道省の信濃川発電所工事は、小千谷から貝野村宮内の取水口まで軽便鉄道の工事を完了したところで関東大震災のため中止、七年もの間放置されていた。
大震災前に設置された当初の軽便線は魚沼線の平沢駅を起点とするもので、塩殿、真人、橘、上野、千手、吉田を経由して取入口の宮内に達するまで距離も長く、一部の荒廃化もあり、十日町を起点とする軽便線と、すでに全通していた飯山鉄道とを資材輸送線として利用することになった。
とくに越後田沢駅から宮内の取水口までは二キロメートル足らずの距離であるから、取水口工事のため、信濃川電軌事務所はここにも全額鉄道省負担で資材輸送線を建設することになった。
昭和六年十一月十日、越後田沢駅から一・四キロメートルの専用工事材料運搬線の敷設認可を申請、七年二月十二日認可、直ちに工事に着手し、四月十二日から運転を開始した。
この線は昭和十六年五月三十日、千手発電所関係の工事終了により撤去されている。(「鉄道省文書」飯山鉄道)
(中略)
昭和十一年六月十六日、越後鹿渡駅から発電所用地構内までの構外貨物専用側線の敷設を申請、十月十九日に許可を得た。
工事は飯山鉄道で実施し費用は東京電燈で負担している。また、飯山鉄道は鉄道省から昭和十二年二月には貨車一0両の払い下げを受け、十三年六月には機関車一両を借り入れている(「鉄道省文書」飯山鉄道)
(中略)
また足滝駅は信濃川発電所水路工事の第三工区と第四工区の間に大正十一年十二月に設置された。北外丸駅も大正十二年五月に開業した。いずれも仮停車場であるが、認可申請の理由には「信濃川発電所工事材料運搬及び旅客の便宜のため」とあり、当然工事優先の駅設置であった。


これは特に飯山鉄道と電力開発に関する記述の引用であるが、その他の記述においても津南町史の該当記事の執筆者はがかなり入念に鉄道省文書に当たった上でこれらの記述をまとめたというのが見て取れる。
鉄道省文書とは、乱暴な言い方かもしれないが、当時、私鉄が各種工事や車両の購入に至るまで鉄道省に申請したり、鉄道省が許可した文書をまとめたものである。
これは現在においても鉄道史研究において一次資料として参照されるものである。
詳しく知りたい方は、鉄道省文書で検索すると、その意義について書いてあるものがすぐに出てくる。


更に、手元にある長野県内の各駅を案内した本を敢えて引用したい。
資料名を記録してないという素人っぷりであるが、こういう記述がある。

桑名川駅
飯山まで通じた飯山鉄道が桑名川まで伸びたのは、西大滝に建設されていた発電所工事用資材輸送のためだった。
当初は飯山まで輸送された資材を舟で西大滝まで運んでいたが、輸送上の必要から第二期工事として桑名川までの建設が急がれた。
大正十二年完成、下手川原へ工事用引込線で資材運搬、舟で西大滝まで送ったことで、発電所工事は推進された。
発電所工事用資材輸送という目的で建設されたこの駅は、上下数本の線路、それに引込線、機関車庫線をもった大駅だった。



西大滝駅
飯山まで通じた飯山鉄道が戸狩まで伸び、発電所の建設計画に合わせて桑名川まで、さらに大正十二年十二月西大滝まで延長された。西大滝に建設の東京電力ダム工事関係資材輸送で、西大滝駅は大きな役割を果たした。
(中略)
駅所在地は旧西大滝村、現在は飯山市でその北端に当る。
港として栄えていたこの村がダム建設で活況を呈していたものの、完成後は水が引いたようになった。
西大滝駅も、ダム建設でその使命を終わったようなものだった。
戦争中、戦後の混乱期を過ぎ、昭和三十九年には業務委託駅、四十五年貨物扱いは廃止され業務委託も解かれた。
今は希望により地元の人が留守番のように駅に詰め、一部区間の切符だけ売っている。
雪の深いところ、駅は雪囲いですっぽり囲まれ、ひっそりとしている。


桑名川の西大滝に建設されていたの記述は、おそらく、中津川水系のことだと思われる。
大正十二年頃に建設中の発電所は中津川の発電所であって、信濃川本線ではないからだ。
大正十二年頃に西大滝でダム建設工事が行われていた事実があるなら、教えて欲しい。
その事実があるなら、私も調査結果を覆さないとならない。
それでも、桑名川駅まで工事用引込線があった可能性はある。


桑名川は余談だけど、一応、現地に行って来たので紹介したい。
またしても戦後の米軍撮影の航空写真を持ち出そう。



桑名川周辺である
確かに、駅から本線に並行して下流側に少しだけ線路が伸びていそうな雰囲気を感じる



緑色が本線、茶色が側線の推定、ピンク色の線は対岸の七ヶ巻との渡舟である。

実際に現地に行ってみる



桑名川駅前のJA倉庫裏から下流方を見る

なんか、単線にしては確かに広い平場と、石垣が残ってるぞ



下流側に移動して、桑名川駅方面、上流方を見る

こっちに向かって石垣が下りてきてる?



まぁ、堤防工事の終端になってて、痕跡も何も無いのだけど

以上、余談。



ともかく、西大滝に関して、飯山鉄道が資材輸送に大活躍したという記述は多いが、それが貨物側線なりというような記述は一切見られない。

これだけ鉄道省文書を引用している津南町史も、西大滝に関するものは無い。

更に追い打ちをかけるように、先日の記事で鹿渡の集落の古老の発言だ。

「西大滝に関してはここみたいに飯山線が駅から現場まで繋がっていたというのは聞いたことがない。当時は今みたいにトラック輸送もなかったから、軌道みたいなのはあったかもしれない」

それでも、私にはまだ希望があった。

あの組織がダムや発電所工事の時に記録していた写真である。

建設当時の写真に、何かしら写っているのではないかと。

建設当時の写真を見せてもらい、入念に軌道の痕跡を探す。

唯一、現在の西大滝ダムさくら広場の辺りに工事軌道というには立派にバラストが詰められた線路が二本並んでいる写真があった。

それは、西大滝ダム建設当初の写真である。背景にはまだダムの姿はなく、辺りは更地が広がっていた。

その線路の周りには、まるで森林鉄道の貯木場のごとく丸太が積みあがっていた。

この丸太が貯木場のごとく集められていたのは、当時の工事現場で工事用の足場なりを組むのに相当な本数の丸太を使うので、その準備段階ということなのだろう。

ダム工事から約10年後、昭和23年の西大滝、米軍撮影の航空写真におおよそのその地点を示したい。

背景の山の位置などから写真に黒丸で示したあたりがその辺りで、川(谷に沿って)に並行して二本の線路が確認出来た。



しかし、一向に飯山鉄道の西大滝駅から伸びる貨物用側線の記述や写真は見つからなかったのが結論だ。

鉄道省文書にも無いとすれば、それは西大滝駅から飯山鉄道の側線として認められている線路の存在自体に疑いを持ち始める。

鉄道省文書に無いとしても、例えば鉄道と並行するように建設が進んでいた中津川水系への資材輸送を睨んで、西大滝駅設置の時点で側線も盛り込んであったそういうこともあるのかもしれない。

それでも構外貨物専用側線の様相であるならば、何かしらの記述があってしかるべきなんじゃないかと素人は考えを巡らせるしか無いのである。

もしくは、いわゆる工事軌道しかなかったということが浮かび上がる。

電力会社が自前の土地で、駅の近くまで工事軌道を引っ張ってきて、川原まで軌道を敷いて輸送していたようなイメージだ。

それなら、鉄道省に免許を申請するものではないと推測されるので、鉄道省文書にも載らない。

なにしろ中津川発電所工事から信濃川本線の発電所工事まで膨大な資材を輸送する起点となった西大滝駅は川からは近くはなく、やはり輸送上、川原まで軌道があったとする推測は捨てきれないと考えている。





ふたたび、ダム工事から約10年後、昭和23年の西大滝、米軍撮影の航空写真である

西大滝駅から現場まで通じる怪しいカーブを描くラインがある



西大滝の工事の資材運搬がどうだったのかを推測していきたい



まず、駅の様子はどうだったのか、岡山村史の写真である





航空写真にも写る、駅舎の桑名川方にある建物

現在の線路を本線とすると手前に側線、本線の奥にも貨物ホームに沿って線路が見える


そして、とある方から教えていただいた長野鉄道管理局の資料から



既に線路は剥がされている頃の写真だが、貨物ホームがはっきりと分かる


そして、年代ごとの西大滝ダム工事現場





工事初期と現在の同アングル

古い写真は更地の右奥の方に見える杉林が、大瀧神社の辺りであろう

河原から見る大瀧神社=駅方向であるが、ダム工事開始当初は、このように更地だった

現在の桜広場の辺りには土砂のようなものが積み上げられているのが見て取れるが、その土砂の手前から櫓と天幕が張られたような小屋の間辺りが、線路が写されていた辺りだ

大瀧神社の杉林から向こうは更地の様子で、西大滝駅周辺はダム工事が始まるまで耕作地だったりして、集落の中心ではなかったのだろう

駅が出来るまでは大瀧神社が集落の端っこくらいの感じだったのかもしれない



それから工事が進むにつれて、集落の際まで長屋や工事関係の建物が埋め尽くす様相となる



簡単なクレーンのようなものが長屋の前に見えたり、索道の滑車から降りるワイヤと被っているこっちに開口している建物は索道の施設だろう

長屋と工事に関する建物の間に少しばかりスペースがあるように見える

その辺りが、先ほどの、丸太が積み上げられていた場所と一致する

いっそ、航空写真のそれっぽい白線を伸ばすと、駅からの軌道はこれくらいの感じだったんじゃないかって



赤いのが索道の基点

桜広場付近から伸ばした部分については、取水堰堤と、索道基点の裏を通りつつ、沈砂池に向かわせた
(取水堰堤完成後は堰堤上にも軌道が通り、ダム本体に至るまで軌道が来ているのは確認済み。沈砂池方向も、沈砂池に沿ってずっと軌道があるのも確認済み。いずれも写真はピンポイントでその部分が撮影されており、桜広場方面がどうなっていたのかは分からないものだった)


ある組織の工事当時の写真を見ていて、工事用軌道だったと言いたくなる理由も述べておきたい

ここに引用した写真は、当時にしては贅沢過ぎるくらいに膨大で贅沢な写真による記録を残していた信濃川本線の発電所開発の一部に過ぎない

また、ここで引用した写真は、いずれも図書館等で閲覧できるものに限られていることを断っておく

確かに、工事当初は林鉄の貯木場の様相であったり、更地の西大滝であった

それが、実際に水路や堰堤の工事になると、とにかく軌道が張り巡らされるようになる

例えば、現代の写真で言うと



この部分を掘削時に軌道がどのように張り巡らされていたかと落書きすると



このようになる。

空中の部分は、丸太で組んだ櫓の上を軌道が通っていた

掘削してできた斜面もお構いなしに軌道は斜面に張り付く

それこそ、工事に伴う地形の変化に合わせて軌道は張り巡らされ、高度差を越えるにはロープや人力でトロッコを押し上げるような様子が写真に広がっていたのである

堰堤工事などが本格化する頃は、それこそ天空の城ラピュタの光景そのままに、丸太で組まれた木橋が縦横無尽に軌道を張り巡らしていた



これらを見た私は、工事用の軌道は強いなと感じた

斜面だろうが何だろうが、どうにかして軌道は張り巡らせている光景

西大滝の駅から川原までの間の多少の高度差も、全てにおいて20‰を越えないで建設されている飯山鉄道に対して、工事用軌道の類なら高度差も克服できるんじゃないのかなと



西大滝~越後鹿渡に至るまでの発電所水路工事のために掘られた斜坑の写真である



あいにく、その坑口の写真しか引用できない

斜坑付近全体を写した写真では、このように複線で丸太の支保工が支える坑口が開いており、土砂搬出は鉱山のようにトロッコとバッテリーロコが担っていた

バッテリーロコは請負工事業者の大林組の名前が記されている写真が残る

まんま、光景としては鉱山だ

どこかの鉱山の写真と言われても普通に信じるくらいに

鉱山軌道よろしくといったような軌道でもって駅からの輸送を行っていたということもありうるという気になってくるのだ



更に、信濃川本線の発電所工事の前から、西大滝は中津川水系の発電所工事物資輸送の拠点だったという記述である

飯山鉄道で西大滝までやってきた資材は、西大滝からは舟運で川を下り、下流の船着き場で中津川発電所工事の現場へ通じる専用軌道へと資材を積み替えていた

その時、飯山鉄道で運んできたものを西大滝で一旦はプールするような資材置き場なり倉庫があったはずだ

冬だろうがなんだろうが関係なく工事は突貫されたことも考慮すれば、雪深い西大滝駅の桑名川方の二棟の大きな建屋がそれを担っていたとしても、おかしくない話のはずだ、推測だけど



現在の西大滝駅である










駅周辺は、山側に側線があった敷地も残している

桑名川方にも、貨物ホームそれを含めたような敷地が残り





貨物ホームの石垣も残る

そして、工事軌道の始端と思われる辺りにある、西大滝駅の桑名川方に写る建屋付近



西大滝駅の桑名川方に大きな建屋の屋根が二棟見える

建屋があったろう付近





石垣が残っているのだ

コンクリートなどの基礎はないが、ほぼその位置に石垣は残る

米軍航空写真のそれと合せると、緑色が飯山鉄道の推定、茶色が軌道の推定、灰色が石垣、赤色の四角は建屋である



ちなみに、西大滝の停車場の境界はクワ方は野々海川の鉄橋の向こう、モミ方は築堤のS字の中ほどであったようである

更に、軌道が川に向かってカーブしていくと推定した場所付近を、川に向かって見た光景



更地というか荒れ地で地形も何も分からない!




西大滝でも、現地住民の聞き取り調査を行った

しかし、当時を知っているほどの古老は既に存命ではなかった

当時を知る記憶は既に失われたも同然である

それでも、ずっとここに住んでいるとおっしゃるお婆ちゃんが、その方の両親から聞いたという話がある

「当時はこの集落も人があふれてて、駅前から商店が並んでて病院や映画館、パチンコ屋みたいな娯楽施設、当時でいうカフェー、喫茶店じゃなくてそういう女の子と遊べるお店もあって。とにかく人がいっぱいいたらしいですよ」

西大滝の集落にわずか数年ながらも空前の好景気をもたらした西大滝ダム建設工事に思いを馳せる

それは、当時としては奥信濃の寒村に過ぎない西大滝が連綿と繋いできた文化を一変させるほどのインパクトがあったと聞いている



しかし、結局は、西大滝ダム建設で大活躍した飯山鉄道なり西大滝駅の具体的な結論は見いだせなかった

推測に推測を重ねる形になってしまった

それでも、ここまで調べてそれが見出せなくても諦められると思った自分もいる

西大滝ダムや信濃川発電所の工事軌道の写真を見て、これは相当なものだぞ、ここまでやるなら駅から現場まで軌道を張っててもおかしくないとは感じられたし

もし、真実を知ってる人は、教えてください。すぐにでもお話を伺わせて欲しいです。

ここまでの内容を見て、私と異なる解釈が見えた方もお話をお聞かせください。


何にせよ、かつて飯山鉄道がそういう使命を帯びて建設された事実を知ることが出来て楽しかった

飯山鉄道の歴史を調べるのは充実した日々でした



飯山市史より

西大滝ダムの建設 信濃川発電所が建設されるまで

信濃川発電所の水利権は、幾多の曲折を経て大正7年10月、長野・新潟両県から許可され「信越電力株式会社」が設立された。同社は中津川第一・第二発電所を建設しながら信濃川本流の電力開発について準備を進めていたが、時あたかも昭和大恐慌のさなかであって、電力需要は不振を極め、信越電力は経営上の理由から「東京電燈株式会社」(現東京電力)に吸収合併となった。
昭和6年、満州事変が起こり、翌7年満州国が建国されると日中関係は一気に緊迫し、軍需産業を中心に産業界は活況を呈するようになった。
将来の電力需要の増大を見越して、東京電燈株式会社では信濃川発電所の第一期工事に着手することにした。
石炭・石油等の資源が不足するわが国では、東洋第一の規模をめざす水力発電所の建設は国家の要請にこたえるものとして、熱い期待をもって迎えられたのである。
これより先、信越電力が設立されて間もない大正8年、この地方を視察した同社の青地雄太郎は、飯山鉄道の完成が自社の発電所建設にとってきわめて好都合であることを、同社社長神戸挙一に報告した。
飯山鉄道株式会社は大正6年に設立されていたが、同8年になっても、鉄道建設工事は着手されていなかった。
翌9年になって信越電力では、飯山鉄道に対し豊野ー飯山間の鉄道敷設を西大滝まで延長することを条件に、増資分の3分の2を同社で引き受けることにした。
同時に資本金も300万円にし、飯山鉄道社長に同社社長の神戸挙一が就任して、飯山ー豊野間の工事を開始した。
こうして、飯山鉄道は飯山町と信越本線とを結ぶ地方私鉄として設立されたが、信越電力が大株主となることにより信濃川水系の発電所建設の目的も帯びることになった。
飯山以北の鉄道建設に消極的だった一部株主の反対を押し切って次々と路線延長が強行され、昭和4年には越後田沢ー十日町が開通し、豊野ー越後川口間全通となった。


西大滝ダム工事完成

信越電力では、信濃川発電所建設に着手する以前、中津川第一・第二発電所建設に当たっても、当時西大滝まで開通していた飯山鉄道を効率よく利用した。
西大滝ダムの工事は、戦時体制がいよいよ強化され出した昭和十一年九月着工された。
このダム工事は当時東洋第一の大水力発電所である信濃川発電所の堰堤および取水口工事であって、このほかに直径七・五㍍、長さ二二㌖の二本の水路と発電所本体工事をもって完成するものであった。
総工費七八〇〇万円、長野県の西大滝駅から新潟県の越後鹿渡駅の区間にわたる大工事であったが、昭和十四年十一月二十九日には完成して東京へ送電が開始されている。
きわめて順調に工事が進行したのは、飯山鉄道が、この長大な工事区間に並走しており、建設資材・労働力等の大量迅速な輸送ができたからである。
このことについて東電社史で「当社が巨費を投じたこの運輸施設によること実に多大なるものである」と認めている。
信濃川発電所は、日中戦争の最中、諸物価騰貴して、資材も入手困難な時期にもかかわらず、戦争勃発前の全国水力発電所建設費平均単価よりも安く、しかも短期間に建設されたことは電力開発史上特記されるべきことであった。
こうした好条件の元に第一期工事が完成し、続いて一年後の昭和十五年十一月には第四・第五発電機も完成し、全工事が完了した。


信濃川発電所工事と飯山鉄道

飯山鉄道の建設に大きく貢献した信越電力株式会社は昭和初期に東京電燈株式会社に吸収合併された。
東京電燈株式会社は昭和十一年、信濃川発電所工事に着手することになった。
飯山鉄道ではその工事用機材を輸送するため、越後鹿渡駅に構外貨物車用の線路を設置することを申請し、十月認可を受けた。
この工事は飯山鉄道で施工し、建設費は東京電燈株式会社が負担した。
翌十二年この発電所工事の資材運搬のために鉄道省から貨物一〇両を譲り受け、翌一三年には機関車一両を借り入れることになった。
こうして、信濃川発電所工事の材料一切の運搬は飯山鉄道が引き受け、昭和十六年五月三十日の発電所工事の完了まで、莫大な工事材料を運搬して、発電所建設に大きな役割を果たした。
同時に、この事業は飯山鉄道の経営にも大きく貢献した。
飯山鉄道の総株数二〇万株のうち十五万株を東京電燈会社の子会社東電証券会社所有していた経緯もあり、飯山鉄道は東京電燈会社の経済力によって支えられていた。

(飯山鉄道)会社の収支とすれば、創業当初は多少の益金が出て、わずかながら配当金を出したが、もともと日本でも有数の豪雪地帯を走る鉄道であったため、冬季になると何十日も運休したり多額の除雪費がかかり、東京電燈会社の支援を受けながらも経営は容易でなかった。
なお、政府の補助金も年を追うごとに減少し、また借入金の返済もあるので会計はいつも窮迫していた。


飯山鉄道と東電信濃川発電所 続続・鹿渡

2018-10-06 16:40:42 | 飯山鉄道関連

昨日は飯山鉄道の越後鹿渡駅にかつて存在した本線と側線に関連する線路・軌道跡についての考察を書いた

続いては、これは工事現場の軌道に関するものであくまで余談としてとらえて欲しい内容になる

一部、昨日分の記事の補足というか訂正を含むものである

当時、トラック輸送はまだまだ一般的ではないから、現場での輸送の多くは軌道や索道、馬、人が担っていた時代だ

本工事においても、工事の行程に合わせてめまぐるしく軌道の位置が変わっているような状況であった

昨日までの話は、現地調査時点での推定であり、今回からは建設当時の写真を見た上での記述になる

それらの写真を見た上で、当たり前かもしれないが工事の行程にあわせて工事軌道はフレキシブルに使われていたことが分かった

年度ごとにまったく違う現場の様相がそこには写し込まれていた

とはいえ、飯山鉄道や軌道の全体像を写した写真があるわけではないことは再三述べている通りである

更に、それらを詳細に記録した工事誌なども存在していない

そのため、そもそも私の書いていることが完全なものではないことや、また、とはいえ写真がこれまでの私の調査や推定を一部覆すような推測も出来る材料にもなったことを了承した上で読んで欲しい

なお、写真については一切の複写が許可されなかったので、あくまで私が写真を見た上でしたためたメモからの記述となることをご容赦願いたい



まずは水路鉄管工事について、これは当時の写真によると、かなり手押し軌道に近いものだと分かる写真が残っていた

路盤均して簡単に砂利を敷いて、その上に枕木をポンとおいてレールを載せたような、それこそ小規模な鉱山などで見られる簡単な軌道の様子だった

写真には、三脚の要領で三本の鉄骨で組んだ櫓と、その下でトロッコに滑車で釣られた鉄管の輪切りが載っているという様子が見られた

トロッコも、現在でも鉄道現場の工事で使われる手押しトロの少し大きいくらいものである

発電所の鉄管が厚さ1m前後くらいの輪切りになってるものを載せて少しはみ出るくらいの大きさと考えてもらっていい

その写真では奥に鹿渡新田の集落が見られ、軌道は集落をまっすぐ貫いていた

あくまで撮影当時のものではある

お爺さんの話では上線は線路が繋がったまま社宅跡のある広場にあった鉄管工場を経て、水路鉄管の現場に通じていたと述べていたから、その後に上線と接続したのかもしれない

私も「上線と鉄管を現場に運んでいた線路は別なものだったのではないですか?」と食い下がって聞き返しているが、「いやいや、線路は繋がってそのまま行ってた」ということだった


更に昨日は上線が水路鉄管の手前付近、この辺りまで来ていたと書いた



この水路鉄管であるが、見ての通り、もともとの地盤を掘削して埋め込まれたものである

他の写真を見ても、現場で土砂等を運び出すために軌道を這わせていた様子が見られるから、掘削時や工事当初はこの辺りまでという時代はあったかもしれない

さて、この部分を掘削して水路鉄管が埋め込まれた後には、この鉄管を超えるように橋が作られ、現在は国道の一部となっている



これだ

そして、この橋の上にも軌道は通っている写真が見つかった

この軌道の先の広場には建屋がいくつも見られ、断定はできないが巻揚げ機のようなものがあったようである



ピンク色の線が上線で、紫色が軌道として、このような形態だったことが伺える写真が残っている

鉄骨櫓が輪切り鉄管を吊ってる写真が撮影された位置が、上線と軌道を切った辺りである

更に、鉄管上を跨ぐ橋の上に通じていた軌道も、軌道と言うような作りであったのが写真から分かった

これが、上線が社宅の広場までは来ていたにしろ、そこから現場までは単なる軌道だった説の可能性も提示したくなった次第である



続いて、下線である

肝心のスイッチバック構造の写真は残っていなかった

下線はどこまで来ていたのかを確認したい

その前に、現場の工事軌道についても少し紹介したい

まず、水力発電所の水車は地下に埋められるので掘削が必要らしい

発電所建屋が建てられる前に、その水車を据え付けるために掘削を行う

その掘削時の写真が残っていた

アングルはこの位置に近いイメージで



そこに写っていた工事軌道の様子を航空写真に合わせたい



その当時、下線が何処まで来ていたのかはその写真には写っていなかったから確認できていない

掘削時はまだ発電所工事の初期であるはずだから、ひょっとしたらまだ現場直近まで来ていなかったのかもしれない

とにもかくにも、工事軌道は現在の建屋のある辺りに張り巡らされていた

掘削しているから周りは斜面になるが、おおよそ鉄道ではありえない角度の斜面にまで軌道は伸びていた

更に、現在は変電設備のある辺りになるが、掘削現場から立ち上がるように大規模な櫓が組まれて、4本ほどの工事軌道が並行してインクラインのように櫓の上まで引き込まれていた

櫓は背景に写る飯山鉄道の鉄橋くらいの高さもあるのが写真から確認できた

おそらく、掘削して出た土砂をトロッコで運び持ち上げ、櫓の上から落とし現場内で土砂を再利用することで、河原の嵩上げなり敷地の拡大を行っていたと思われる

こんな大規模な設備まであったのかと感動したので、飯山鉄道とは繋がりのない工事軌道ではあるが紹介させてもらった


そして、下線であるが、発電所建屋の辺りの様子である

写真のアングルはこの様子



航空写真に合わせる



下線は建屋の前で分岐し、2本となっているのが確認出来た

その横の更に川側には工事軌道と思しき軌道が川に向かって伸びている

えぇ、現在の写真に写ってる柵の内側の舗装道路なんて、ほぼその工事軌道トレースしてそうです

発電所工事では水車や発電機などの大型重量物も貨物列車で飯山鉄道を経て運ばれてきた

それは信濃川電力開発の前から、飯山鉄道が十日町まで全通する前に行われた中津川水系の発電所工事は桑名川や西大滝まで鉄道で発電機や水車を運んできて、そこから舟で運んでいた

更に、飯山線内の駅で撮影されたと思しき(線路が少なくともは3線確認出来て、山側に貨物ホームがありそうな構造の駅。山側に駅舎なのか、建物がある。)、鉄道省と書かれたシキ5形らしい貨車が大型の貨物を運んでいる写真も残っている

大型の貨物は特に移動に苦労するものであったので、極力現場の近くまで鉄道で運んでいたようだから、下線が発電所建屋の直近まで来ていたことは納得がいくものであった


以上、これらが越後鹿渡駅の東電信濃川発電所の工事用貨物側線の調査結果である。

何かまた新たな発見があれば随時書きたいとは思うが、現状の調査結果として締めさせていただく。

飯山鉄道と東電信濃川発電所 続・鹿渡

2018-10-05 10:05:55 | 飯山鉄道関連
飯山線越後鹿渡駅の物語の続きを書いていきたいと思う

何処まで書いたか筆者の記憶も怪しいので、前回の引用からはじめよう



停車場の位置について、特に辰ノ口と鹿渡で激しい誘致合戦が展開されたのは事実なようである。

もっとも、停車場の位置についても、これまでの経緯を見てると電力会社が発電所工事の資材運搬に最も都合の良い位置で決定されそうだし、実際に辰ノ口より発電所寄りの鹿渡に停車場が設けられている。

東京電燈信濃川発電所は昭和11年春に着工が決定し、9月に工事着手している。

それに呼応し、昭和11年6月、越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線の敷設を申請、10月に認可される。(鉄道省文書)

越後鹿渡駅の構外貨物専用側線工事は飯山鉄道で実施し、費用は東京電燈で負担したとある。



これも、アメリカ軍が戦後に撮影した航空写真である。

写真からは断定できないが、「越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線の敷設」というヒントから、軌道が通ってそうな怪しい平場くらいは推測できそうだ。

昭和4年7月20日の十日町新聞報道では 東京発電会社の信濃発電工事に備える鹿渡駅拡張その他二ヶ所のの仮設駅工事は新線の出来上がり次第係員をそちらに廻し とある。

それなりの規模の工事で駅から発電所工事現場への側線が建設されたことが読み取れる。

しかし、またしても肝心の、実際にどのような線路や設備があり、輸送形態がどうだったかまでは記述や報道を見つけることが出来なかった。



津南町史に燦然と輝く、「越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線の敷設」に色めきだったのだ

と言うのも、飯山鉄道がダム建設や水力発電所建設の資材輸送で活躍したという記述は多く見る

沿線各地の郷土史の飯山鉄道に関する記述では必ず出てくる

しかし、駅そのものや工事に関して駅から現場まで通じる軌道についてのより具体的な記述が出てきたのだから興奮しないわけがない

これまで数か月に渡って調査を進めていても、現状の調査段階で貨物専用側線に関する記述は西大滝駅では一切見られず、この越後鹿渡駅に関するものが唯一であり初めてである

これらと並行して、随時、十日町新聞記事の飯山鉄道と東電信濃川発電所に関する記事を抜粋しているのだが、数年分を抜粋するだけでバカみたいに時間が進んでいく作業であるから遅々として進まない

以下に、飯山鉄道が十日町まで開通した昭和4年ごろの、関連する記事を引用する

前提として、この頃は飯山鉄道の開通により資材輸送体制が整ったと同時に発電所工事の着工が計画されていた

用地買収問題だったり電力需要の落ち込みだったりと様々な事情により、結局は発電所の着工も越後鹿渡の拡張工事も昭和11年に持ち越されるのだが、当時の雰囲気なりを少しでも感じられると思うので新聞記事を紹介したい

ちなみに、工事着工当時になると、そもそも旅客営業で稼げる構造ではない飯山鉄道は経営困難に陥っていることや、工事の開始に伴う輸送量の増加による収益改善での株価の高騰などが報じられている

余談に過ぎないが、飯山鉄道開通から旅客営業では地元の十日町自動車(十日町バス)と競合して運賃や輸送力の競争をしていたし、飯山鉄道も開通の翌年に自動車事業を始めることを株主総会で決めたり、発電所工事輸送で大儲けになれば十日町バスを買収したり、しかし大株主の電力会社が発電所工事が終われば鉄道は用済みとなったので鉄道事業は国有化を推進され飯山線となり、飯山鉄道株式会社も最後はバス事業者になり、それも越後交通に吸収されたらしい。



昭和4年6月10日
愈々今度こそ本線工事開始か 来年は準備工事だけ 東京發電動く
信濃川本線工事が今度こそ始まる この工事を生命の親のやうに思つてゐる関係地方民がまたさわぎ出した。
曰く飯鐡が工事用假設驛を作るから、曰く大林組が待ち切れなくて自費で七八月頃からはじめる。
曰く先般大割野出張所の用地係が更迭したのはその前提だ
などゝまるで正体を見届けたやうなことを云い、氣の早い信州商人はもう狼狽て飛んで廻つてゐる。

昭和4年7月15日
十日町接續 飯鐵時刻表 地方客のためを図り中間列車もある
飯山鐵道會社は信濃川發電工事始工の関係から殆ど全力を挙げて當街までの工事を急ぎ来る九月一日より開通と定め、十日町接続時間表も先の通り内定したがこれは鐵道省の時間改正後のそれと連絡するもので経由客よりもむしろ地方の単距離の乗客を標準に編成されていることは中間列車のあるのに依ってもわかる

九月から着工するが工事景気をあおらずに 佐野東電重役来郡 従業員一万五千人
本秋九月から信濃川発電所工事着の手東京電力会社佐野取締役はその材料輸送の重大関係を有する飯山鐵道田沢駅十日町間の工事状況視察としてさきに来郡し当町役場をおとずれ「飯山鐵道工事は順調にすすみ九月一日開通の可能性は十分あるから鐵道開通と共に電気工事は開始したいと思うが該事務所の位置は別としても従業員一万五千人のうち土工等は現地付近の飯場にとどまるより他ないがその他のものは子弟教育等の都合もあり大割野と飯山と十日町に分宿させるやうにするから徒らに電気景気を煽らず相応の便宜を計って欲しい」と希望を述べ当局も亦これを諒とした。

昭和4年7月20日
機関車水澤まで 飯鐵工事八分は竣成 九月一日の開通は可能 視察した高橋専務談
九月一日から田澤ー十日町間の開通することになった飯山鐵道會社では去る十八日高橋専務が稲垣運輸区長、他に保線課長を従い開業準備を兼ねて来郡視察した
目下仝工事は土工も八分通りすすみ只大黒澤の切り取りの箇所、馬場の附近及び十日町地内だけが未完成で、レールの引延ばしは既に土市まで終わり、来月十日頃までには全部の配線を終わる予定で土市驛までは毎日工事用の機関車が往来し汽笛の響きは沿道民を喜ばせている
一方駅舎その他の建築も凡そ五分通り進捗し、特殊の支障ない限り予定の九月一日の開通はさまで困難ではなく、高橋氏も必ずやると言い切っている
なほ東京發電會社の信濃發電工事に備ひる鹿渡驛拡張その他二ヶ所の仮設驛工事は新線の出来上がり次第係員をそちらへ廻し来年六月頃までに完成させ、そして七月頃から全幅を拡仝工事に備える



飯山鉄道越後鹿渡駅については、飯山鉄道名勝案内という昭和2年に津南町大割野のある辺りの下船渡村で出版された本には、未来予想が書かれている

三箇驛
外丸村地内の字名なり、三箇と聞いて異様なる口調だが、辰ノ口、鹿渡新田の三部落を合したる名にして、元は一ヶ村なりし。
(中略)
猶一層此驛の大務と云ふは、信濃川水力電気工事あるからである。驛名無粋でも、将来は發電所驛とか、松之山口驛と人は云ふなるべし。



三箇驛と言っているのは、まだ鹿渡の駅名が決定していない時期に執筆したからだろうか

90年後の未来人たる我々からすれば、「90年後も越後鹿渡駅だけどな」って言えちゃうんだけど、当時の期待と言うか感覚が垣間見れると思ったので紹介までに



そんなこんなで前回は、「越後鹿渡の拡張工事や専用側線があったらしい」で終わったわけだ

前回の記事を公開して僅か1時間後くらいのことだったと思う、携帯が震える

LINEの通知だ

相手は、泣く子も黙る顧問であった。 それを見て、今度は私が震えた

郷土史と並んで重要な証言として、顧問からのLINEを引用させてもらう

「鹿渡の東電側線は橋梁手前の築堤を潜っていたはず」
「進駐軍撮影の空中写真でわかる」
「図番 UAS-R1338-74だとよくわかる」



早速、その写真を引用しよう





飯山線の築堤の下にぶっ刺さって抜けてる、いかにもって感じの曲線を描いたラインが見える

私もこの年代の航空写真を見ていて、(写真左下が鹿渡の駅で)鹿渡を田沢方に出てすぐのカーブを抜けた先から、山側と川側のそれぞれに本線(仮に営業線を本線とする)から分岐しているように見えるラインは認めていた

しかし、私の手元にはそれを示す資料が一切ない状態であるから、それが軌道っぽいと思っても、どこか自信が無い状態である

そこに来て、顧問が言うなら何かしら引っ掛かる根拠があるのだろうというのは、思った以上に大きな後押しというか、背中を押された状態になったのだろう

流石は知見が広いなと

顧問の言う東電側線なる川側のラインを見に行ってみるかと思い立ち、私は翌朝鹿渡に向かった

思い付きで行動していたのだけど、仁義は切っておくかと朝の6時だが顧問にラインを送って9時からの現地調査開始を打診したものの、同行は叶わなかった。残念



鹿渡駅である







誰がどう見てもかつて交換駅だったなと言う名残が色濃いが、ただの交換駅には興味ありません、専用側線、軌道跡、構造物があるなら私のところに来なさいって感じだ。


善は急げで飯山線の築堤に行く

発電所側から築堤下のトンネルである



そして、川の上流、鹿渡駅側から



完全に、農道の様子である


農道を歩きながら、鹿渡駅の方向へ向かって歩いて行く

航空写真でも飯山鉄道の築堤を潜った軌道跡はまっすぐ鹿渡駅の方向に向かっていたからね





写真右手の斜面の上の方が飯山線である

かなり高度あるけど、ここから本線に取り付けるの?って疑問が浮かぶ

しかも、農地改良があったのか完全なトレースは叶わない

どう見比べても、発電所からのレベルは当時の路盤が消失している様子だ

それでも、農地の終端まで行ってみる



完全に、薮。

平地は続いているけど、薮

入りたくない

しかし、航空写真とグーグルマップの現在の位置を比較して、この辺りまで軌道跡らしきラインが見て取れる

この時点で、本線との高度差がありすぎるし、ここから薮の中に入って行っても鹿渡の駅に取り付くような角度じゃないのは確信できる様子だった

何より、薮に入りたくない

しかし、私は薮に入って行った

まぁ、慣れっこだけど、嫌なだけで。本当に嫌だけど。覚悟して長靴に厚手の長袖長ズボンで来たけど

少し戻って登れそうなところから、本線に向かって登っていく、直登だぞ☆汗

汗と草の混ざった臭いと、頭にクモの巣と葉っぱを引っ掛けて歩く私が出来上がるのに時間はかからなかった

本線の脇から下流方向、田沢方、発電所方面を向いたものだ



いや、なんか、本線の数メートル下に並行した平場がある気がするんですよね

なんでここに平場?

ここで、さっきの農地のどん詰まりまで続いていただろう軌道跡からは高度もあるし、接続できなそうな平場が出てきてしまったのだ



しかし、この平場も鉄道っぽい

こんな感じで線路があった?って疑問と推測を落書きするとこんな感じ

ここから更に鹿渡の駅に向かって薮漕ぎを続ける

どうせあと数時間は列車が来ないんだからと飯山線をスタンドバイミーすればそりゃ楽なんですけど、なんか意地でもこの平場を歩きますよね、、、まぁ、そういう趣味ですから。

上流方、鹿渡方を向くとこんな感じ

丁度、下り列車で駅を出て400くらいのカーブを抜けて下り20‰の勾配にかかって600~500くらいのカーブを曲がった先



この先も、凄い薮ですね。進みますが。当時の軌道跡らしき平場を意地でも踏破することに喜びを感じる程度の性癖だからね

本線も20‰で信濃川に向かって下っているので、平場との高度差はそこまで開かない

むしろ、川側に並行する平場の方が勾配が緩いんじゃないかと思うくらいに、本線と微妙な高度差をもって並行している

鹿渡駅方面へとだいぶ薮を漕いできて、本線脇にスペースがある場所があったので、そこに登って撮った写真がこれだ



確かな平地と、本線との微妙な高度差を保ったまま、ここまで続いてきている

余りに高度差が変わらないので、本線と同じくらいの勾配でこの平場も続いていると考えられよう

ちなみに、山側も薮だが、少し登っていく感じで平場が伸びている

山側も分岐していたのかなぁなんて悩んでいた平場

山側も同じような位置で本線と同じ高さになって吸い込まれていくような雰囲気を感じる


上流方、鹿渡駅の方を向き直ると



駅の接近標の目の前だ

このカーブが前述の400のカーブで、このカーブの先が駅である

それにしても、ここ、今迄歩いてきた平場がかなりそれっぽく本線の高さに吸い込まれていくように感じる



すごく、それっぽい

接近標の辺りまでが越後鹿渡駅であるから、この先が構内であると誰かに言われれば私は諸手を挙げて賛成したくなるほどの光景だ

しかし、この本線と並行する平場が側線の跡だという資料は無いので、まだ疑っている

雪が多い地域だから、下に雪を捨てるための敷地とかだったりしない?ってな感じに

ここで、更に薮を漕いで、川側の平場の縁を見に行ったんだ

そしたら



こんな立派な石垣が続いていたんだ

そう、側線跡らしき平場の下はこのような石垣が立ってるのだ

ただの平場にしては立派すぎませんか?って感じだ

実は今まで歩いてきた平場の数百メートル下流方に渡って、平場はこんな立派な石垣の上に立っていた

本線の更に下の平場が石垣の上に立ってることで、これはかなり軌道跡っぽいんじゃないか?と興奮した

しかし、ここが軌道跡だったとすると、どうにも発電所の高度(発電所のレベル)まで高度を落とせない

ここから、また薮を漕いで下流方に戻る

平場をトレースすればどこかでキッカケが見つかるんじゃないかと期待してだ

そして、再三の薮漕ぎを経て、平場は終焉を迎えた



本線がスノーシェッドに入る辺りの真下

この先は沢になっていて、急激に落ち込んでいる。平場の終端だ

そして、振り返り、上流方を見る



右手上が本線、真ん中の杉林を境に右手が平場

ここは微妙な広場になっている

航空写真にもこの広場がごちゃごちゃした感じで残ってる



ちょうど矢印の辺りで写真を撮っている

そして、杉林を境に左手側にも平場が伸びている

ちょっと待て、広場を挟んで、平場が行違っている

この鉄道の高度を稼ぐ構造は私もよく見ている

姨捨駅とか、桑ノ原のそれに似ていないか?

高度を克服するために、鉄道がとりうる手段は限られている

左手側の平場を進んでいく



上流に向かってちゃんちゃんと高度を下げている

下流方に振り向く



っぽいな、っぽい平場が続いている

そして、このまま、さっきの広場から降りてきた平場は発電所のレベルと接続していった

少し離れて見てみよう

下流方を見た感じだが



最も上の雪覆いがあるのが本線で、その少し下に薮漕ぎで苦労した平場がある



これ、どう考えてもスイッチバックじゃないか!

スイッチバックだ!

越後鹿渡の発電所への側線はスイッチバックで高度を克服していたのだろう!



そういう見方をし始めると、いよいよスイッチバックらしく見えてくる

さっきの広場を下から離れて見てみると





真横から





この水路っぽいのは、当時の航空写真にも写っている

軌道跡が農地改良か何かで消えているのは前述のとおりだ




ここから、軌道跡は下流にむかって飯山鉄道を潜って発電所まで伸びていた



多少、線形は変わっているものの、それらしい雰囲気だ

更に上に回って、観察してみる

丁度、薮を漕いで直登してきた辺り



上流方



登ってきた辺り



下流方

更に、広場の辺り



かなりそれっぽいぞ


航空写真や現地調査で高度差がありモヤッとしていた部分だが、スイッチバック構造だとしたら全てが合点行く


あくまで予想図ではあるが



緑色の本線に対して、茶色がスイッチバックを含めた工事用側線らしい軌道跡である

おおよそ、こういう感じだったと推測される

飯山鉄道の越後鹿渡駅から発電所構内までの工事用側線はスイッチバックだったかもしれないという事実を目の当たりにして、興奮し始める


しかし、実地調査をしたからと言って、直ちに越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線はスイッチバック構造だったと言い切ってしまって良いものか

あいにく、資料的なものは皆無なのである

そこで、私は現地住人に聞き取り調査を開始した

しかし、当時を知ってる人は少なくとも80歳以上なんだ

なかなかに厳しそうだ

それでも、ひょっとしたら親世代などから話を聞いたという方もいるかもしれないという淡い期待を抱きながら、鹿渡の集落の人影を見掛けては、この調査の目的を説明しながら声をかけ始める

すると、意外にすぐに知ってる人がいた

その方は60代くらい、親からも話を聞いていた

鹿渡の駅から発電所まで工事のために線路を敷いていたと思うという話をしたところ、「親からあったと聞いてます。その頃は上線・下線といってたみたいですよ。下線のところには石垣もあるでしょ」と返ってきた

余りに出来過ぎな、テレビだったら仕込みのインタビューになってしまいそうな回答だが、これはリアルだ

下線、上線と現地では言われているらしい

「上線とはこの飯山線の線路のことですか?」と聞けば

「いえいえ、あなたの立ってる場所にも線路があって、ここが上線。今でも東京電力の土地で、震災の頃から草刈りやらなくなっちゃったけど、それまでは駅までの道だったの」

は!?

このやり取りはこの場所でやっていた



丁度、右手奥の線路と並行して伸びている平場からその人は現れた(山菜でも採ってたっぽい)

いやいや、まさに山側に分岐してそうだと航空写真で当たりを付けて悩んでいた平場じゃないですか、こっちも軌道だったの?

「当時、どういう様子だったかご存知ですか?」

「私も親から聞いた話だから分からないけど、隣に当時からここに住んでいるお婆ちゃんがいるから、その方に聞けば何か分かるかもしれない。あそこの家ね」

そう、指さされた鹿渡の集落の一角にある民家

謝辞を述べて、その家に伺うことにする

そのお婆ちゃんの家に着くと、さっきの方が先回りしててくれて、当たり前のように玄関を開けて、お婆ちゃんに聞きたいことを先に紹介していただいてしまった

しかし、お婆ちゃんは発電所工事の当時のことは知らなかった

工事の後に、ここに嫁で来たからねぇと

しかし、当時の鹿渡の集落の様子をたっぷりと聞くことが出来た

これまた貴重な当時の話なので簡単に紹介したい

・当時は独身寮や社宅が一群~四群まであった

・社宅は発電所から近い場所から一群、二群と続き、駅前の四群まで

・独身寮には地域のお母さんたちが交代で飯を炊きに行って、手間賃で現金収入を得ていた。寮生はすぐに覚えたし、向こうも覚えててくれて、未だに遊びに来てくれる人もいる

・電気もガスも無かったから、集落の家々も寮も炊事から何まで薪で炊くのが当たり前だった。 地元の人は薪は薪で取れば取るだけ売れたから、これまた貴重な現金収入だった

・東電の社宅の奥様方は都会から来た専業主婦だったから、農作業で田植えや稲刈り、稲架掛けとか手際よくやるのを珍しそうに見ていた。集落の住民とは仲は良かった

・社宅に家族ごと来たので、ご子息も多く、小学校のクラスが増えて、いつも子供の声が聞こえる賑やかな集落になった。子供が自然と集まって日が暮れるまで遊んでいた

・今の国道も、後年はトラックが多く通るようになって、東電に言って広くしてもらった


当時のことを聞きつつも、飯山鉄道について水を向ける

すると、さっきのように、私はお嫁に来たので知らないけど、同じ集落のお爺さんなら知ってるだろうと、紹介してくださった

御年93歳、生まれも育ちも鹿渡の方だそうだ

そして、この方によって、様々なことが判明していく

突然のお邪魔にも関わらず、お話を聞かせていただくことが出来た

何を聞きたい?といった感じだったが、とにもかくにも駅から側線の存在について話を聞き始めた

「工事に際して、鹿渡の駅から発電所に向かって線路が伸びていたと思うのですが、何かご存知のことありますでしょうか?」

・駅から川側に別れた線路は、何回かスイッチバックして、飯山線の下のアーチを通って、発電所の建屋の前まで行っていた

・下のところに沢があったろう。そこで折り返して、駅の方まで下に降りながらかなり戻ってた

・列車は毎日、ずっと行ったり来たりしていた。鹿渡駅まで飯山線で運んできた貨物は駅前に荷物置場があって、そこに貯めて、そこから短い2両くらい引っ張って発電所に持って行っていた

・発電機や水車、制御盤などの重量物も貨物で運んだ

・ここでは飯場と呼んでいたけど、そこの平場に鉄管工場があって、駅から貨車で部品を運んできて、そこで鉄管を組み立てて、今の鉄管のあるところまで線路で持って行って、巻揚げ機で上まで上げていた

・飯場のところから鉄管までの線路は、集落の中を通ってまっすぐ鉄管のあたりまで来ていた

・鉄管のある辺りが鹿渡新田のもともとの集落で、あそこに集落があった。工事で集団移転した

・鉄管とか重量物は、丸太とか鉄骨を三本組み合わせて、貨車から滑車で持ち上げていた。クレーンは一般的ではなかった

・荷物は長野方面から運ばれてきた

・そこの鉄橋の工事の時は川の中で潜水夫が工事してて、潜水服が珍しくて見に行った

・鹿渡の駅に初めて機関車が来た時は集落みんなで見に行って、出店でオモチャを買ってもらって嬉しかった

・工事の線路は発電所が完成したらすぐに剥がされたけど、水車や発電機の改修の時には夜中に飯山線で運んできて、鉄橋手前の線路と道路が一番近い場所で降ろした

・列車に人はあまり乗ってなかったけど、貨物はたくさん走っていた

・西大滝に関してはここみたいに飯山線が駅から現場まで繋がっていたというのは聞いたことがない。当時は今みたいにトラック輸送もなかったから、軌道みたいなのはあったかもしれない


予想以上に詳しくいろいろとご存知であった

自分の現地での答え合わせもあったが、上線の存在も明確になった



ここ、上線だ。

ここをパーツ化された鉄管を載せた貨車が行き交っていたというのだから、驚きだ

飯場から鉄管までの線路跡は農地改良等や住宅建て替えで地形変化があり追いにくいが、集落内にはその上を通っていたという石垣が残る



民家のすぐそばを抜けて



この付近に軌道は来ていたという



以上の事柄をまとめると、工事用側線はこのような感じで張り巡らされていたことになる



思いもよらぬくらいに、越後鹿渡は広大な規模を持って発電所工事の物資輸送の大役を担っていたのだ

資料が無いから断定できないと言いながら、航空写真と現地調査、そしてなにより当時からここに住んでいる現地住民の証言と、顧問のLINEでおおよそそうらしいという推測の域を出ないながらも、かなり近づけたのではないかという感触はある



ここまで現地で調べた上で、まとめようとしていたところ、更に関係組織から建設工事当時に撮影された写真の閲覧のアポイントが取れた

同時並行で追っていた、西大滝ダムや信濃川発電所に関する工事誌は無いそうだ

結論から言うと、鹿渡のスイッチバックも西大滝の駅から伸びていたかもしれない軌道についても、クリティカルな写真は撮影されてないのか、残っていなかった

それでも、発電所や鉄管まで来ていた線路、西大滝の工事現場に軌道というには立派な線路が見られる写真が残されていた

これらについてはまたおいおい書いていきたいということで、今回はここで終わりにする。

飯山鉄道と東電信濃川発電所 鹿渡

2018-09-23 18:03:07 | 飯山鉄道関連

後で自分が見返した時に、「飯山鉄道について書いた記事はどこだー!何で分かりやすくしてないんだ!!俺はバカかー!!!」ってなりそうなので、カテゴリー自体を「飯山線」から分離して「飯山鉄道関連」にしました。

飯山鉄道(飯山線)と千曲川・信濃川の電源開発の関係性を知りたいから始まったのがそもそもの発端でありますが、飯山鉄道の敷設に関するあれこれについても、こちらのカテゴリーでまとめます。

本日は、西大滝駅が西大滝ダム建設の資材運搬に大活躍したと同時に、発電所本体工事で資材運搬に大活躍した越後鹿渡駅について、少し書いていきたいと思います。

そのためにも、色々な経緯をすっ飛ばすことは出来ないと考えているので、経緯もまとめていきます。

なので、結果としての越後鹿渡駅についての記述は少ないです。結果なんてそんなものです。





現在、津南町鹿渡で操業中の東京電力信濃川発電所の建設は、もとをたどれば信越電力創立時からの課題であった。

信越電力は、設立の当初から信濃川発電所工事の準備に取り組み、大正8年9月には水路の実測を開始した。

また大正9年11月、技師長らをアメリカに派遣し、大規模発電事業の研究視察を行っている。

なにしろ、この発電所は、当時かつての日本が経験したことがない大容量の発電計画だったからである。

この同時期、大正8年に工事用資材の運搬に鉄道利用を考え飯山鉄道に対して飯山からの西大滝への延長を条件に信越電力との交渉がなされ、大正9年臨時株主総会で資本金を300万円に増資することを決定し、その内200万円を信越電力が出資したことはこれまでの紹介の通りである。

飯山鉄道は設立後も建設費の捻出で苦慮し、鉄道敷設工事の着工が遅れていたのだが、発電所工事用の資材輸送ルート確保を目指す信越電力の出資協力によって、ようやく鉄道建設を軌道に乗せることがかなったのである。

大正9年12月、東京電燈および信越電力の社長である神戸挙一を飯山鉄道の社長、そして専務取締役に先の資材ルートとして有用と主張した信越電力の青地雄太郎が選出され、以後、飯山鉄道は信越電力系の役員が経営の主導権を握ることになり、電源開発工事の資材運搬路線としての性格が強くなる。

飯山鉄道という会社の設立や計画は飯山までを目的としていたことは先にも紹介しているが、そもそも豊野ー飯山間の着工すら電力会社の資金協力なくして成しえなかったかもしれない状況であったわけで、飯山鉄道が電源開発のために通じた路線であったと言えてしまうのはこのことからだ。

大正10年2月には、水利使用計画の許可が下り、取水口は藤沢(西大滝のちょっと上流の集落)、放水口を鹿渡新田として工事の設計と工事費の概算書の作成に取り掛かった。

この頃、飯山鉄道用地と信濃川発電所用地買収も進められていた。

地元としては中津川水系の発電所用地の買収とも重なり、用地買収価格、土地使用料の協定のための委員会を設置し、折衝していた。

昭和元年には、飯山鉄道と並行して進めていた発電所用地買取価格について協定を成立させている。

昭和2年2月、信越電力は申請していた水利使用と工事実施の許可が下り、同年4月に一旦は発電所工事に着手した。

しかし、時代はちょうど世界恐慌真っ只中とういう経済状況であり、首都圏の電力需要の落ち込みから信濃川発電所の建設はその時点で必要ないとされ、また向こう10年は現在の発電能力で十分と判断され、工事は中止となった。

一方で、飯山鉄道の建設は着実に進められていた。

昭和4年9月、飯山鉄道は長野県の豊野から、新潟県の十日町まで全通する。

これを機に、地元では用地買収に協力し発電所工事による経済活動への期待もあってか、信濃川発電所工事の本格的な実施を目指して「信濃川発電所工事促進助成会」を結成する。

それこそ大正時代から、谷あいの少ない田畑や山林を飯山鉄道と発電所用地に提供し、地域振興をこの事業完成に結び付けていた地元の機運も推測される。

しかし、中には電力会社の提示する用地買収に対して関係地主がそんな安値では応じられないとし、一方で東電副社長が「そんなわけなら予定地は視察の必要がない」と言って帰ったという報道もある。

そして、昭和10年ころ、日本は満州事変を経て軍需工業、重化学工業の進展目覚ましく、景気が上向き、それに伴って電力需要も日ごとに増加していた。

これに応えるべく、昭和10年4月18日、信濃川発電所工事竣工期限変更の許可を受け(前の申請の期限が同年4月19日まで残っていた)、その実現に取り組むことになった。

同年4月20日の地元新聞報道では、飯山鐵道の株価が高騰し、そもそも飯山鉄道は一般運輸よりむしろ発電所工事を目論んで敷設されたものだから、発電所工事開始で業績が良くなることを見込んでのものだと報道する程である。

なお、工事申請からかなりの年月を要していることからか、この時の申請時には新潟県知事から「昭和16年10月31日までに工事竣功すべし」との但し書きがあり、これ以上の延期は認めないという県の姿勢が示された。

そして、信越電力から東京発電(信越電力が主体で信濃川水系・阿賀野川水系・只見川水系の電力会社が合併したもの)、そして東京電燈となって、昭和10年以降は、工事に関係する村との用地買収、漁業補償、農地・用水路の補償、工事関係者の受け入れ問題等々について本格的な折衝に入り、地元もこれに対して村ぐるみで対応する態勢をとったのである。

そして、昭和11年9月、本着工の運びとなったのだ。



ここまでは電力会社側の経緯となる。

一方の、鉄道側の経緯を見てみよう。


大正8年4月に飯山までの工事施工認可を受け、同年10月には工事着手届を提出。

この時点で、会社設立時の資本金50万円から資本金60万円に増額されていたとはいえ、建設費135万円には到底届かず、鉄道院からは疑義が出されるに至っている。

そこで現れた電力会社、発電所開発のために西大滝までの延長を条件に、資本金60万円を一気に300万円まで増資し、その内200万円もを信越電力が出資したのだ。

この資本投下の結果、豊野ー飯山の着工、飯山ー西大滝までの延伸も決定した。

西大滝までの延伸を決定しつつも、電力会社は信濃川発電所工事に備えて、新潟県内へ、鉄道院線十日町への接続までを目論んでいた。

飯山鉄道は大正12年4月、従来の資本金300万円を一挙に1000万円に増額することを臨時株主総会で承認、新潟県内の工事を進めることにした。

増資分の700万円の内、信越電力は572万2500円を出資、旧株を合わせて76%強を一社で保有する状態であるから、飯山鉄道に対する信越電力の独占的支配態勢は揺るがない。

ここで、増資分の700万円から572万2500円を引いた分の残りの増資分について、これに先駆け大正12年1月から飯山鉄道は地元の中魚沼郡へ出資の勧誘に出たのだ。

この勧誘については、津南郷の各村では住民の数株単位の出資を含めてかなり地元の協力的な動きがみられ、割当株を超過してまでの申し込みが盛況だったと当時の新聞が伝えているほどだ。

ようやく中魚沼郡を通る鉄道敷設に現実味が帯びてきた地元であったが(上越線のルート選定で外れたのも、鉄道を呼び込みたい機運に拍車をかけたのだろう)、9月1日に関東大震災が発生。

新株募集に応じた直後でもあったし、関東大震災の被害が与える影響で、計画されている西大滝ー十日町までの延伸工事が中止されてしまってはたまらないということで、10月30日の株主総会では中魚沼郡・東頚城郡の町村長が連名で工事推進の陳情書まで出している。

逆に、この工事中止の噂に乗じたのか、外丸本村付近から河東地区に渡り、下船渡地区に経由させようという運動も起こったほどだ(集落間の路線誘致は熾烈だ)。

特にこの運動に熱が入ったのは、当時、中津川の発電所群の建設などで賑わいを見せていた大割野の有力者たちである。

大割野は、現在の津南町の中心、役場があり、国道が通っている方の集落だ。

当時から、この辺りの中心は大割野であったから、鉄道を誘致したいという主張も大いに理解できる。

歴史のifだが、そっちに飯山線が行っていれば、河東地区の発展も違ったのだろうと思う。

なので、現代に続くまで津南駅のある外丸の辺りが鉄道が通っているにも関わらず(鉄道ってのは周辺の中心的な集落を通るものが多い)、国道沿いより寂れている感じがあるのは、当時から中心は大割野にあったからなのだ。

現代のイメージとすると、この辺りから、信濃川の東岸へ渡る感じだ



しかし、どう転んでも7割以上の株を保有する信越電力の、その信濃川発電所工事への資材運搬という大義名分があるから、飯山鉄道側は大割野を通る、つまり河東経由について一顧だにしていない。

こうして飯山鉄道は信濃川の西岸、放水口・発電所建設の予定地である辰ノ口・鹿渡を目指して進んでいくのだった。

この時点で、津南には三駅、田中(停留所)・外丸(停車場)・辰ノ口(停車場)がそれぞれ計画されている。

駅名の決定や場所では「越後田中」はすんなり行き、外丸については「戸狩」と紛らわしいとかいう諸々の物言いがあり、現在の津南駅の近くにある久昌寺で催された寄り合いで「越後外丸」(現在の津南)にと決まって行った。

しかし、辰ノ口近辺については、集落間の飯山鉄道への地元寄附金問題があり、「信越」「三箇」「東外丸」「辰ノ口」「鹿渡」ともめたようだが、結局は「鹿渡」とされ、秋田の「鹿渡(かど)」に配慮して「越後鹿渡」となったのである。

この、飯山鉄道への地元寄附金問題についてだ。

飯山鉄道が信越電力の出資により着工に至ったのは再三述べているが、一方での地域の温度差も広がっていった。

長野県側の工事には、県や郡から補助金が支給され、地元から駅用地の寄附もあり、少なくとも、豊野ー飯山間では地元の鉄道としての意識が強かった。

ところが、信越電力の資本参加後、工事が電源開発に向かって進むにつれ、地元住民の考え方も変わってきていたのである。

先の株式募集に応じ、用地買収に協力するなどの経済活動は見られるものの、用地の寄附や、新潟県も中魚沼郡も補助金は支給していないのである。

そこで、飯山鉄道は、今日の新幹線駅などの設置において取り沙汰されるような、受益者負担を推し進めたのだ。

駅用地などを寄附した地元とそうでないところとの間に公平に期するという理由で、停車場(駅)を設定する地域の地元からの寄附金を徴収することにした。

例えば、飯山鉄道は当初、平滝に停車場を作る予定で計画したが、平滝の地元が寄附に前向きでないと見るや、停車場を横倉とし、平滝は停留所としたという記録もある。

つまり、津南の場合においても、会社の寄附要求への対応いかんで停車場とされるか停留所とされるかがかかっていたと考えられるのだ。

その中でも辰ノ口については、発電所本工事の資材運搬で重要な役割を果たす停車場であるから、その位置について集落間での攻防がなかり熾烈であったことは容易に想像できる。

寄附問題で例として停車場か停留所かという問題もあったが、当時の辰ノ口周辺の東外丸地区は、停車場は確定しているものの駅の位置について揉めていたのだ。

この辺りについて、詳しい資料が地元に存在しないと津南町史は伝えている。

しかし、停車場の位置について、特に辰ノ口と鹿渡で激しい誘致合戦が展開されたのは事実なようである。

もっとも、停車場の位置についても、これまでの経緯を見てると電力会社が発電所工事の資材運搬に最も都合の良い位置で決定されそうだし、実際に辰ノ口より発電所寄りの鹿渡に停車場が設けられている。

東京電燈信濃川発電所は昭和11年春に着工が決定し、9月に工事着手している。

それに呼応し、昭和11年6月、越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線の敷設を申請、10月に認可される。

越後鹿渡駅の構外貨物専用側線工事は飯山鉄道で実施し、費用は東京電燈で負担したとある。



これも、アメリカ軍が戦後に撮影した航空写真である。

写真からは断定できないが、「越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線の敷設」というヒントから、軌道が通ってそうな怪しい平場くらいは推測できそうだ。

昭和4年7月20日の十日町新聞報道では 東京発電会社の信濃発電工事に備える鹿渡駅拡張その他二ヶ所のの仮設駅工事は新線の出来上がり次第係員をそちらに廻し とある。

それなりの規模の工事で駅から発電所工事現場への側線が建設されたことが読み取れる。

しかし、またしても肝心の、実際にどのような線路や設備があり、輸送形態がどうだったかまでは記述や報道を見つけることが出来なかった。






越後鹿渡の駅である。

構内の敷地は広く取られ、停車場だった痕跡は十分だ。



発電所方面は停車場の線路分岐関係のための敷地だと思っていたけど、そうとは言い切れない。側線が伸びていた?





なんにせよ、この発電所と飯山線は切っても切れない関係なのは間違いのない風景だ。

だまだま調査が足りないと痛感する日々である。