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幸せの青い鳥

誰かが死んだら涙が出る、心の綺麗な人間になりたい。(3月26日)

さいしょのひ

2005-11-17 23:24:41 | 父と私
ハイ、パパ無事入所。はいりました。

昨日の話。9時半ごろ病院にいきました。休みなんで、もっとマッタリ寝ていたかったが、父のリハビリが9時半からなので見学しに行った。
父は、毎日通院して外来でリハビリを受けたいらしいが、特養の内情を知っている私としては多分それは無理であろう。病院~特養を送迎してくれる看護員がいないからだ。
本人は「一人でもいける」といっているが、微妙。段差多いし。
んで、せめて特養でリハビリが出来るよう、最後に父のリハビリをみて参考にしようと思ったのだ。
麻痺側のマッサージと、四点杖を使用した歩行訓練。それだけ。
毎日理学療法士が関わっているのに、装具のネジの緩みを違う病院(浜リハ)で直してもらってるぐらいだから・・・・
でも、どう頑張っても私は午前中父に関われないので、私としても外来リハは、できることならやってほしい。体を動かすことは、父にとってかなりストレス発散になっている。
リハビリ終了。装具用の靴を2足頼んでおいた。人生の中ではける靴が1足きりなんて、かわいそすぎる。
なんだかだるくて、頭が重くて一回うちに帰った。生協の中古ビデオコーナーで、780円で買った「ピンポン」のクライマックスを見て、水道代を近所のおじさんちに払いに行って、12時前に特養へ車椅子を取りに行った。
今の車椅子は、病院の車椅子である。今日からは、特養の車椅子に変えなければならない。実は、前日に相談員から「車椅子がない」という話をされていた。ショートステイがいっぱいいるので、今はないとのこと。おいおい、明日必要なんですけど。事前に父の担当君に聞いたら、「いっぱいありますよ~」とのんきな返事が返ってきたので、ならいいか、と安易に信じていた私。失敗した。
で、昨日からどうしようかなあ、最悪社協から借りようかなと思いながら特養に向かった。やっぱりというか、社協は施設入所者には車椅子を貸してくれないそうな。介護保険の方針は、特養も在宅復帰を目指してといってるくせに、特養入所していると自宅の改修費用はでない。言ってる事逆じゃん。家も直せないのに、どうやって帰るんだよ。余談だが。
結局、入居している個人の車椅子をショートに使用し、ショートの人が乗っている車椅子を父に貸してくれることになった。これも問題だと思うが。そもそも、新館のオープンにあたり、新しい車椅子はティルト型しか入らなかったと言うのだ。相変わらず偏ってるな。
父は170cm以上あるので、小さいかわいいお年寄り用の、ほとんどの車椅子は父にとって小さい。
特養の中で1番大きな車椅子を持ってきてくれたが、それでも小さい。身障手帳でオーダーすることになった。相談員はしきりに失敗したなあ~と言っていた。私も全く同じ気持ちです、ハイ。
でもまあ、うんと小さいわけでもないので、とりあえずよかった。これくらいなら父もこげるだろう。
 車椅子をもって、病院へ戻ると父は昼食を終えた所だった。一緒に食事しようと思って、うどんをかっていったのだが間に合わなかった。お世話になった看護婦さんに挨拶。補助さんに挨拶。病院の皆さんありがとう。父は退院します。約1年の入院だった。なんとなく涙が出そうになった。何度も忘れ物を確認して病室を後にした。もう病院に入院することがないで欲しい。ずっと家と特養で、元気に暮らして欲しい。

さいごのひ

2005-11-17 23:22:47 | 父と私
今日は最後の日である。明日父は病院を退院して、特養に移る。

昨年8月1日から入院して以来、ほぼ1年。
4月に一ヶ月間浜松リハビリ病院に転院したけど、ほぼ1年間ずっと病院にいた。悪かったと思う。
1年間、知らない人と4人部屋で暮らすのってどうだろうか。
どこまで「自分は病気だから」で割り切れるだろうか。もう病院で治すところなんかないのに。
でもうちに連れてくることは出来なかった。
仕事に行って、家でお父さんと一緒に過ごして、そんな生活が続けれられなかった。
無理だと思ったのでやめた。

特養は個室だ。でも、どんな所でもいい所もあれば、悪い所もある。
犬がいる。新しい人間関係も、作っていかなければならない。
どうなるか分からんが、まあ、そのつど考えていこう。

父はとりあえず住所変更はしないことにしたので、本当にただ病院から、隣の特養に移るだけだ。

あわなかったひ

2005-11-17 23:20:22 | 父と私
今日は休み。お休み。用事で休みとったんだけど。昼からヒマー。
父には休みだといってなかったので、朝のうちはあたかも仕事帰りのような格好で夕方病院にいこうと思っていたのだが、父が特養にもっていく家具を買っているうちに遅くなってしまったので、「まあ、たまにはいいや、一日遊んでも」と思って、今日は父の所にいかなかった。
実は、今日父のベッドの向かいのAさんが退院する。正確には転院だが。
まあそういう理由もあり、今日は機嫌がいいだろうということでいかなかった。
電話すると、「ハイ、ハイいいよ、ありがとね」と機嫌は上々。ヨカッタワ。
散々遊んで帰ってきました。

特養の父の部屋には、ベッドしかない。たんすがあると思ったのだが、自分でもって来てくださいとのこと。特養にいたころは、空間つくりとして家具を持ってきてください、と呼びかけていたけれど、自分が当事者になってみれば結構面倒くさいものだ。父のためにはよいのだけれど。
カラーボックス、テレビの回転盤、3段のたんす、リモコンラック、ペーパーラック、滑り止め、ガラスのテーブル購入。ガラスのテーブルが大きすぎないか心配だ。車椅子がちゃんとはいるか判らないし。どこでも行き当たりばったりなのは悪い癖だなあ。時計は家から持っていくことにした。後は、観葉植物と
ポスター、スタンドを置きたいなあ。
・・・・・・私の部屋じゃん。

なつのひ(2)

2005-11-17 23:19:38 | 父と私
もうすぐ夏になる。昔の話。

中学の頃は、叔父がうちにいた。今はいない。また何処かに行った。
叔父は、高校を2年で中退した後、私が中1になるまで全く消息のなかった人だ。
いわゆる寅さんで、いろいろな所を転々としながらその日暮らしを続けていたらしい。
叔父は、普段はとてもいい叔父だったのだが、大変気性の荒い人で、怒ると炊飯器をひっくり返したり、部屋に閉じこもったり、手のつけられない暴れようだった。泥酔して帰ってきて、庭で寝ていたこともあった。父ともよく喧嘩をしていた。何がそんなに二人の感情を駆り立てているか、中学生の私には全く分からなかった。
祖母がおかしくなった。夜10時からやっていた『三枝の愛ラブ爆笑クリニック』(すごいタイトルだよな)をだんだん見なくなり、毎日欠かさずやっていた、寝る前の体操をやらなくなっていた。そのうち、布団にうずくまって動かなくなり、放心した目で「おばあちゃんはもう駄目だ」と言い出した。なんでうちの大人はだれも祖母の異変に気づかず、ほったらかしなのだろう。なぜ、中学生の私が、祖母の心配をしなくちゃならないんだろう。お父さん、叔父さん、どっちでもいいから、早く病院に連れてってあげてよ。
祖母は検査入院。心臓の検査をしたその晩に心筋梗塞で倒れ、街の病院に運ばれた。
面会にいったのは3回。それなりに元気そうだった。
祖母は家に帰ってきた。
入院前よりかなりやせていて、ピンクのネグリジェを着て真上を向いてぴくりとも動かなかった。
「この人をずっと一人でみていかなくてはいけない」と直感的に思ったとき、ぞっとした。できないと思った。
しかし、その後祖母はだんだん回復していった。どういう過程で元気になったかは覚えていない。私が高校に上がる頃には、歩けるようになっていた。
高校3年生の2月28日、叔父は父と大喧嘩をして出て行った後、帰ってこなくなった。

病気の父、祖母。私。高校の頃の楽しい思い出などほとんどない。
ヘルパーサービスが買い物代行できなくなってしまい、高校からの帰宅時にはかばんから葱がはみ出していた。弁当の時間も、部活の時間も、極力一人で過ごした。『高校を卒業した後を期待してキラキラしている同級生』の中にいるのは耐えられなかった。保健室に入り浸っていた。何とか高校を卒業できたのは、保健室があったからだ。
小さい頃、高校を卒業したら、なんとなく父の後をついで縫製工場をやるのかな、と思っていた。
中学生になったら、栄養士になりたくて大学にいきたいなと思っていた。
舌先三寸で金儲けができるなら、弁護士もいいと思っていた。
でも、もうその頃には分かっていた。今の家から外に出られないこと。
父も、祖母も、介護が必要で、ずーーーーーーーーーーーーーーーっとこの家に居なきゃいけないこと。
この街の就職先は部品工場、介護施設、そして役場の3つ。
迷わず役場を選んだ。建物がきれいだったからだ。町内で唯一『都会』を感じる場所だった。
ついでに、税務の試験も受けた。合格すれば名古屋へいける。給料もらいながら税務学校へ通わせてもらえる。おいしい話だ。違う土地に就職して、『しかたなく』うちを離れられるなんて素敵だ。近所からもいろいろ言われないだろうし。
両方落ちたけど。
介護が仕事なんて嫌だ。毎日あんなにうちで、介護に苦しめられているのに。
でも部品工場は潰れそうだ。現在は、潰れかけている。仕事があったり、なかったりだ。
介護施設では事務員の募集もしているというので、喜んで試験を受けた。私以外は、皆リクルートスーツに身を固めた青年ばかりだった。落ちた。
嫌だったけど介護職の試験を受けた。嫌だったけど面接を受けた。嫌だったけど作文を書いて提出した。
受かった。事務職にあった筆記の試験なんてなかった。
嬉しくなかった。

うちを離れて高校で勉強している時、考えていたのは『おばあちゃんどうしているかな』。
お父さんに怒鳴られてないかな。父は行動の遅い祖母をよく怒鳴った。背中をたたいていたのを何回か見たこともある。父から祖母を守ってあげられるのは、祖母の幸せを考えて挙げられるのは世界中で私だけだった。外出しても、学校にいても、心の休まる瞬間なんてなかった。

毎日、奥歯をぎりぎりとかみ締めて過ごした。『どうして私だけ、こんな目に遭うんだろう、あと一人元気な人がいたら、父が元気だったら、祖母が元気だったら、母がいたら、その人に全部押し付けて私は自由になれるのに。なんで高校生で家事をしなきゃいけないんだろう。どうしてだろう』よくそう思っていた。本当に本当に毎日が重油の中で過ごしているような重さで、息苦しくてたまらなかった。

評定平均9.1。進路を決めるとき、なんの役にも立たなかった。

なつのひ(1)

2005-11-17 23:18:50 | 父と私
もうすぐ夏になる。昔の話。

私は父がだいっ嫌いだった。本当に嫌いだった。
一緒に呼吸するのも嫌だった。家に居るのがつらくてたまらなかった。
休みの日は、何かと理由をつけてふらふら外出していた。
外食が好きだった。父へ「遅くなります」という電話をするのがたまらなく嫌だった。
でも、電話をしないともっと機嫌が悪くなるので、仕方なく電話した。

私は、父に育てられた。と思う。
父は家におらず、私は祖母と、工場に勤めているおばさんたちに育てられた。
父は仕事人間で、いつも自営の縫製工場にいた。普通、日をまたいで寝ることはなかった。
父と一緒に遊んだとか、楽しい記憶はあまりない。
あるのは、怒鳴られたとか、ひっぱたかれたとか、そういうネガティブな思い出ばかりだ。
とにかく怖かった。いつもびくびくしていた。
父は、頭ごなしに怒鳴ればなんでも解決すると思っていたようだ。
笑顔で和解を図るなど、皆無の人間だった。
祖母と、父と3人暮らしだったが、祖母も父よりは弱く、父からのかくれみのは家の中に
なかった。なんとなく、祖母と父はけっこうよく喧嘩していたかなあと思う。
実は小さい頃の記憶はあまりない。なんだかよくわからんけど。
つまらない細かいことなら覚えているんだけど。こども会で動物園にいったこととか。

嫌いだった父は、小学校6年生の残暑厳しい9月4日に橋(脳幹の一部)の出血で倒れた。
服の納品に車で出かけた後、夜になっても帰ってこない。
連絡があったのは夜8時半。たまたま親戚の警察官の管轄だったので、
偶然父ということが分かったのだ。
服を納品した後、パチンコを打っていて気持ちが悪くなり、カウンターで水をいっぱいもらって
店から出ようとした所で倒れたらしい。パチンコをせずそのまま車を運転していたらおそらく
死んでいた。ギャンブラーでよかった。
「父が倒れて運ばれた」という電話を聞き、私はなんとも思わなかった。
しばらくいなくなっていいな、と安易に考えた。
遠方の病院にそのまま入院してしまったので、面会にいけたのは3日位後だったか。
つくまでは、車に乗る前に読んだ漫画を思い出して、笑いをこらえていた。
「いまからお見舞いにいくんだから」と怪訝そうな顔で見られたことを覚えている。
愕然とした。脳外科って書いてあった。私は、いつもの狭心症で倒れたんだと思っていた。
びっくりして、直視できなかった。たいして病室にもいられなかった。
口の中が血だらけだった。暴れるので縛られている。何か言っているが、昏睡状態なので
いっても伝わらない。父が目を覚ましたのは1ヵ月後だった。
父が目を覚まして、最初に面会に言った時、「おまえは工場に勤めていたおばさんのところへ
養子にいけ」といわれた。父もいろいろかんがえたのだと思う。
だが、私は「ずっと自分のうちにいるよ」と父に答えた。
あんなに嫌いな父だったのに。不思議とそう答えた。
自分のうちにいたかったんじゃなく、子供としてこう答えるのが正しい解答だったと思ったからだ。
父には斜視、音が大きく聞こえる、手足のしびれ、平衡感覚が崩れるなど様々な後遺症を抱えて
半年後退院。
工場は閉めた。父は無職になった。その日から、食事中にテレビはつけなくなった。がんがんするから。
毎日、家の前の坂道を歩く練習。しびれた手でテニスボールを握る練習。眼帯を貼って斜視の訓練。
私も歩くのに付き合ったり、父の横で寝たりした。元気になって欲しかった。

不思議なものだ。あんなに嫌いでも、子供心に、父の日のプレゼントをつき返されたり、横暴に怒られたりしても、親を思う気持ちが私にはなぜかあった。その時は、ただ『いい子』を演じていただけだと思ったけれど、それでも、私が喘息発作の時、一晩中車に乗せて連れて回ってくれたり、参観会に多くの母親に混じって、恥ずかしそうに廊下から教室を見に来てくれたり、こども会に参加したり、という思い出があるからだと思う。父はやり方は上手ではなかったもしれないけど、私を思ってくれていたことは事実だ。私達父子は「母親」というクッションがない分、父親とは真正面から向き合わなければならなかった。父の「ばっかやろう」というのが照れ隠しだと分かるのに、私は22年かかった。本気で「バカにされてるんだ」と思っていた。怒ったし、愛されてないと思って悩んだ。
これが、中学校に入るまでの話。これからどんどんハードになる。

なつび

2005-11-17 23:18:09 | 父と私
便りのないのは元気な証拠。今週、父はずっと機嫌がよかった。気持ち悪いくらいに。後ででかい反動があるのではないか、と思わせるほどに。いやいやしかし、日常とは一瞬のきらめきなのだ。今日という瞬間を一生懸命生きよう。心配は杞憂に終わり、父は今週ずっとご機嫌だった。幸せだなあ。
6月にありえぬ無駄晴れのせいか?
お願いだから、6月ずっと晴れで、7月8月ずっと雨なんてよしてくれよ。天気病みなんだから。

んで、明日日曜は用事があるため、今週は金・土曜の一泊外泊。
「日曜は用事があるから、土曜だけでごめんね」というと、快く「いいよ」といってくれる。
わあ、優しい。
 父が帰宅するときはちょっと大変だ。いや、普段きちんと掃除とか自炊とかやってれば全く問題ないのですが。朝のうちに夕飯を作っておいて冷蔵庫へ。最近は喫茶店で夕飯を食べてきたりしたが、毎回続くのもアレなんで、今回は自炊にした。
焼きそばと、焼きなすとシュウマイ。麺類はフォークですくいやすい様、キッチンバサミでカットしている。
デイのファイル書きが終わり、今週の勤務も終了。病院の廊下で歩行訓練してうちに帰った。
土曜日は何の問題もなく一日が過ぎた。

朝、私は6時15分に起床。あんまりこんなに早く起きないので、寝ぼけた頭でご飯を洗う。
昨日は寝たのが1時過ぎだったので、ねむいねむい。だがそんなこといってられん。
「ああ、そうだ、炊き込みご飯の素があったんだった・・・・」というわけで今日は炊き込みごはん。
ちなみにまだ残っている。今も食べた。ゲプ
朝食は、炊き込みご飯、味噌汁、あじの開き、めかぶ、とうもろこし。とうもろこしをみて「これ、どこでもらったの・・・」いや、買ってきたんだよ。がっかりしていた。父はもらい物が好きだ。
朝から量が多かったかな。ちなみに、前述した栄養士さんとの話し合いの件は、「パンなどの高カロリーな間食を控えて、ヨーグルトや果物などにする」という方向で決まりました。よかった、間食前面禁止でなくて。

 午前中は松井の応援。ありがとう松井。父が見て面白い試合をしてくれて。いつも午前のテレビはあまり集中して見ていないが、今日はじっと見ていた。アイスコーヒーを飲みながら。
10時半ごろより、外を散歩。うわぁ~あっちい~!アリエネエ。なんだこれ。夏日?なにそれ。
せっかく父の日に帽子を買ったのに、病院に置いてくるし。
庭の柿の木を観察。今年は生り年なのか、柿の花は乱れ咲きである。大体落ちてしまうが。「柿の実はあるかな・・・」3本の柿の木を観察。裏にある栗の木も観察。いい感じらしい。私にはさっぱりわからない、ごめん。家の前の道路はずーっと1キロくらい坂道なので、どっこいしょーと坂道を押してお散歩。
ちなみに父+車椅子で70キロ近くあります。痩せたかしら、私。近所の叔母さんにミツヤサイダーを頂く。父と二人で柿の木の下で飲む。
はてさて、もう11時だ。今日も温泉を予約しているが、いつもより30分早い予約にしてあるの。
いっつもついて時間をもてあましているので。さ、昼飯つくんなきゃ。遅刻したらあんまり意味ないし。
昼食は、炊き込みご飯、味噌汁、鳥のガーリック焼き、冷奴、にらとシメジの卵とじ。ありきたりになってきたが、ま、こんなもんかしら。
慌てて洗濯を取り込んで、病院にもっていく荷造りをして、13時に車へ。13時35分到着。
まあいいか。
今日の温泉は対して混んでいなかった。ありがたいことだ。(私達的には)おみやげ物を見て、甘納豆を
試食したりして飲むヨーグルトと柏餅を買った。
帰りに、衣料品店によって、1995円の短パン&半そでを購入。安いなあ。
温泉に入った時間が早いので、もちろん出てくる時間も早い。衣料品店を出たのはまだ2時半だ。
今日は近くの運動公園によって、歩行訓練して帰る事にした。
運動公園にいくと、3人のお年寄りがゲートボール中。ここも使ってる人いるんだねえ・・・・
日陰にいって、二人で柏餅を食べていたら、ゲートボールのおじいさん3人が片づけをして帰る途中
「若い二人はアイラブユーだよ」とこっちを見て言っていた。夫婦に間違われたみたい。
いや、私娘だから。
ねえ、父が若いんだよね?私がフケ顔じゃないよね!?ねえ、教えて。(笑)
その後、3人のお年よりは1台の車で乗りあわせで帰ったのだが、少ししてその一人が公園に帰ってきた。んで、私達のほうにツツっと来て、
『俺ね、障害者の相談員やってるの、あんたらも会に入らない?健康ランドいったりするよ。あんたらふたりっきりで家の中でこもってるんじゃないかと思って。仲間と一緒にいろいろできるよ』
おじさんありがとう。在宅じゃなくなるから会には入れないけど。
ゲートボールも、明日行われる障害者大会の練習だといっていた。

17時丁度に病院到着。着替えたりトイレにいったりして、17時半になった。
んで、またAさんの言動(欠伸なんだけど・・・・)が気になったらしく、ちょっとキレ気味だったので
屋上へいって涼みながら爪を切った。

父の夕食が始まって、私は今日ここで帰宅。
とてもいい一週間だった。父も落ち込んだり怒ったりすることはなかった。
明日は父に会えない。大丈夫かな。

いきがいとびょうき

2005-11-17 23:15:54 | 父と私
さて、昨日からご機嫌が微妙だった父ですが。
遅番の昼休み、13時ごろ恐る恐る父の病室にいってみた。ちなみに自分の職場の特養と、父が入院している病院は歩いて5分もかからない。ありがたいことだ。
 いってみると、しょっぱな看護師さんに呼び止めれられ、下痢をしたとのこと。土日外泊していろいろ食べ、病院に帰ってきてからもカレーパンとメロンパンを半分ずつ食べた。糖尿なので間食はあまりよくないのだが、気分転換にと少し食べさせていた。病院側も黙認してくれていたが、下痢になってしまったので(糖尿とは関係ないのだが)後日栄養士さんと話し合うことになった。ま、いつかは話さねばいけないことだったかもしれない。父にとって間食がよくないことは事実だ。食べさせれば簡単に気を紛らわせることが出来るけど、これから違う方法を考えなければだな。
 機嫌は非常によかった。ただ調子は悪いようだ。おなかが変だ、とずっと言っていた。今日は眼帯もしておらず、髭もそっていなかった。やっぱり具合が悪いらしい。天候のせいかな?
 今日は野球はないが、「大岡越前」の放送があったので、気がまぎれるだろう。「もう帰っていいよ」というので、今日は早めに帰ってきた。

父の日

2005-11-17 23:15:03 | 父と私
今日は父の日です、ハイ。
しかし、私は毎日父の日をやっているので、あんまり関係ありません。
むしろ、私の誕生日は「娘の日」と設定して欲しいくらいです。笑
今年は帽子をプレゼント。6月前半に買ったのだが、出し惜しみをするのもナンなので、さっさとあげてしまった。昔、中学生の頃パジャマを挙げたら突き返されたことがあるので、(そう、昔は超仲が悪かった。父が倒れるまで。)ちょっとトラウマだったが素直に喜んでくれて嬉しい。

 土曜から家に帰ってきていた父。朝7時半に起床。私もそのくらいに起床。大分遅かったなあ。
朝食はパンと、目玉焼き、付け合せにアスパラとチキンナゲット。即席のフカヒレスープ、ヨーグルト。
アスパラのゆで方知ってますか?アスパラはどんな時でも横に寝かせてはいけないのだよ。手に取った瞬間から、鍋に入れるまでずっと立てておかないといけないのだ。ヨーロッパには、アスパラを立てたままゆでられる専用の鍋があるくらい。アスパラが売り場で先端があっちこっちを向いているのは、寝かせて運搬しているから。もったねー!ゆで方は、沸騰したお湯にサラダ油を少し入れて、(沸点を高めるため)90秒ゆでる。後は余熱で加熱。さくさくとおいしい!お試しアレ。
 さて、今日は今から父と遠出して特養に持ってくテレビを買いにいくのだが、一番の問題はアレだ、アレ。食事。昼食をどこで取ろうかということなのだ。以前書いたが、父の耳は難聴の逆で、いろんな音が大きく聞こえてしまい、音の方向性がない。騒音や、ざわめきが一番嫌いなのだ。どんな所へ行っても、軽やかなBGMが流れている。トイレの中にさえだ。あーあ。
ハンバーグ屋に入ろうか、ショッピングセンターで食べようか・・・・お父さん、何が食べたい?
聞いてみるが、ヤハリ「なんでもいいよ~」。うーん。どうしよう。
 昼食の込んでいる時間は避けたいので、遅く出発しようとしたのだが、あまりにやることがないので結局10時には出発。これじゃ一番メシ時の11時~12時に着いちゃうよ。なので、行きがけに知り合いの家に寄り道して時間をつぶす。昔、父が経営していた会社で働いていた人。元気そうでよかった。
 空はどんより曇り空。父は天気病みなので、体調は天候に左右される。土曜よりはマシみたいだったが、本調子ではない様子。父には斜視があるため、毎日交代で眼帯を付けているが、土日は両目で見る訓練をしている。当然だけど、両目で見た方が見にくい。だから余計にね。
途中でコーヒー買って、道の駅でトイレによる。道の駅は本当にありがたい。障害者用トイレもありがたい。フツーにトイレにいけるのって素敵だ。
んで、ショッピングモール『カインズモール』に到着。ここは、カインズホーム、ベイシア、ベイシア電器が一箇所に入っていて結構大きい。ベイシア電器にいって、テレビを物色。家にあるテレビと全く同じテレビデオがあったので、これに決定。操作に迷うこともないし。取り寄せということなので、配送手続きをしてきた。
 さて。仕事も終わった。んで食事だ。ショッピングモールのイートスペースは予想以上にざわざわしている。屋内で食べるのはやはりよくないだろうなあ・・・「お父さん、弁当を買って静かな所で食べようか・・・」ということでベイシアで、おろしハンバーグ弁当と焼きたてパンを購入。
弁当を買ったはいいけど、どこで食べよう。ああ、これだから地元じゃないのは面倒くさい。
父は片手だから、食事するにはテーブルがあったほうがいいのだ。テーブルがあって、静かで都合のいい公園、ないかなあ・・・・と思ったら、ショッピングモールの隣が公園だった(笑)
がしかし、「雨が降りそうだよ。車の中でいいよ」というので、結局公園の駐車場で、車の中で食べた。
車中じゃ食べにくいと思ったけど、別になんともなく食事できた。
あーあ、取り越し苦労。これから外出しても車の中でもいいな。ガタガタ五月蝿い店内より、静かな方がよっぽどご馳走だわ。
 まったり公園で昼食をとって、雨も降ってきたので病院へ向かうことに。途中、トイレに行きたくなってしまった。近くにトイレはないので、車を停めて、陰部に失禁パットを当てて対応。神経因性膀胱なので、行きたくなったら我慢が出来ないのだ。以前、これで車の中で失禁してしまい、学習してからは必ずパットをもって外出するようにしている。途中で大便もしたくなったらしいが、無事道の駅まで間に合った。ラッキー。よかったよかった、さすが父の日。

が、しかし一日楽しかったねーでは終わらなかった。無事病院に着いたのだが、そっからが大変でした。
話は変わるが、父の病室の向かい人は、父と同じ脳梗塞。父と違い、失語症は軽いので軽快にしゃべるしゃべる。また、地声がデカイデカイ。廊下中に響く。家族は孫まで連れて大多数で4時間以上面会しばしば。騒音が苦手な父にとっては大迷惑。父は食堂に逃げて半日過ごしている。
で、無事病室についた後、その向かいの方(Aさんとしよう)が、リハビリをやっていた音が気に食わなかったらしく、父の機嫌はみるみる最悪に。「頭がガンガンする!!」「目が痛い!」「本当におかしくなってきた!」
 分かってるよ。あっという間に機嫌がころころ変わってしまうのは、脳梗塞の後遺症、感情失禁のせいなのだ。一度きになりだすと止まらない。 
Aさんは、そんなに大きな音も出していない。普通に生活して、出してしまう音のレベルだ。テレビだってイヤホンで聞いている。Aさんは別に悪くない。それ以上小さくしてください、というのはAさんにとってもつらいだろう。大部屋は共同生活の場なので、仕方ない。(面会の件は別だが)
 でも、父も悪くない。感情失禁は病気なのだから。「もうちょっと我慢してよ、ここは共同生活の場なんだよ、お互い様だよ」などといっても、無駄である。父だって分かってるのだ。そんなこと。
Aさんも、父も別に悪くない。悪くないのに、父は苦虫を噛み潰したような不機嫌さだ。
あーあ、誰も悪くないのになんで嫌な思いをする人間がいるんだろう。つらいなあ。
こうなると、父を入院させていて悪いな、もっと頑張らなきゃな、と追い詰められてくる。
父があんまり「本当に俺おかしい」というので、「それじゃ、今日もうちへ帰ろうか」と外泊届けを取り出すと「いいよ、仕方ないよ」と私に気を使ってくれた。ありがとう、お父さん。
 些細な事で機嫌がコロコロ変わってしまうのは悲しい。せっかくいい父の日だったのに、台無しになった感じだ。んでもそうではない。ちゃんとわかってる。買い物にいっていた時も、車で弁当を食べた時間も、その瞬間瞬間が楽しかったのだ。楽しいのは瞬間で、明日や明後日や、下手をすれば一時間後までももたない。毎日毎日、父と向き合ってキラキラした瞬間を作り続けていくしかない。楽はできないなあ。
明日の機嫌はどうだろう。

けっきょくやってないし。

2005-11-17 23:13:53 | 父と私
ごきげんよう。
結局、昨日日記に書いた「テレビを買いに行く」というのと、「住所を変える」というのは両方できなかった。トホホ。
なんでできなかったかっつーと、「テレビを買いに行く」は、雨が沢山降って父が嫌がったから。
「これじゃ~、むこうへ着いても大変だろう」うむ、ごもっとも。ちなみにテレビを買いに行くはずだったカインズホームまで、車で1時間かかります。ド田舎だから。
「住所を変える」は、役場へいってみたのだが「特養に転居してから、2週間以内に行ってください」とのこと。入居前にはできなかったのだ。ずっといかにゃあと思ってたのに、な~んだ、拍子抜け。
まあ、せっかく役場にいったので身障手帳でできる住宅改修の改修費返還の申請手続きについて聞いてきた。先月、車椅子が入れるように茶の間をフローリングにしたのだ。施工前後の写真と、請求書、領収書、ケアマネが書いた理由書をもってくればOKらしい。9割帰ってくるらしいので、ラッキー。実は
申請するのやめようかと思ってたのだが、ヤハリこの貧乏の時期に約13万はありがたい。(父が倒れた時、ちゃんと面倒みたくてパートになったので、月収8万しかないのだ)むしろ、なぜ自分が申請をやめようとしていたか疑問なぐらいだ。(面倒くさかったからだけど。)

 朝3時ごろ、父が起きていた。「俺って、段々くるっていくのかなあ」
「くるっていく」という表現が、失語症のせいで本当の「くるっていく」と表現されたかは定かでないがふとそんな風に考えて眠れなくなったりするんだなあと思う。
「大丈夫だよ~」と励ましておいた。父は狂ったりしない。中身はなにも変わってない。

夕食後、父と屋上へ登って、そこで土曜日のために温泉の個室を予約しておいた。
日曜日こそは、テレビを買いに行く予定。


やっぱうちにつれてきた

2005-11-17 23:10:28 | 父と私
ごきげんよう。父を家に連れて帰ってくるか超悩みました。
明日休みなんですよ、私。
生活のサイクルが、月~金は8:30~17:30まで仕事、
その後入院している父の所にいって、夕飯に付き合ったり、一緒に歩行訓練したりして20時くらいまで病院にいて、近所の知り合いの所で夕飯&お風呂をゴチになって(毎日)21時には帰ってきます。土日は用事がなければ一泊ないし二泊で父を自宅に連れて帰ってきます。
こーいう生活をしばらく続けているので、たまには自分の時間が欲しいなと常に思ってます。
「ラーメン食べにいって~、ネカフェいって~、健康ランドいって~、レイトショーいって~」
などと、散々楽しい妄想を膨らますのですが、病院でなーんにもやることなく退屈そう~な(今日リハビリなかったし。)父を見ていると、
「病院てつまんねえだろうな、できることはしてあげたいナア」などと思い、結局はうちに連れて来ます。大体。ここ父の家だし。

というわけで、今日父は帰ってきました。夕食は一緒に働いている看護婦さんのだんなさんがやってる喫茶店で。「6時くらいにいくから、なんか作っといてください」といっといたら、すぐ料理を出してくれました。父は難聴の逆で、いろんな音が大きく聞こえてしまうのと、音の方向性がない(聞きたい音だけを集中して聞けない)ので、大型冷蔵庫がブンブンいう店内には長く居られないのだ。でも、今日はなかなか調子がよかったようで、食事の後コーヒーを飲んでくる余裕もありました。よかった。看護婦さんもだんなさんもとってもいい人で、テレビやラジオの音に配慮してくれたり、コーヒーミルの音に気を使ってくれたり、ありがたい。

明日は、特養の居室にいれるテレビをふたりで買いに行く。
その前に、父の住所を特養へ変更しに役場へいく。