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幸せの青い鳥

誰かが死んだら涙が出る、心の綺麗な人間になりたい。(3月26日)

なつのひ(1)

2005-11-17 23:18:50 | 父と私
もうすぐ夏になる。昔の話。

私は父がだいっ嫌いだった。本当に嫌いだった。
一緒に呼吸するのも嫌だった。家に居るのがつらくてたまらなかった。
休みの日は、何かと理由をつけてふらふら外出していた。
外食が好きだった。父へ「遅くなります」という電話をするのがたまらなく嫌だった。
でも、電話をしないともっと機嫌が悪くなるので、仕方なく電話した。

私は、父に育てられた。と思う。
父は家におらず、私は祖母と、工場に勤めているおばさんたちに育てられた。
父は仕事人間で、いつも自営の縫製工場にいた。普通、日をまたいで寝ることはなかった。
父と一緒に遊んだとか、楽しい記憶はあまりない。
あるのは、怒鳴られたとか、ひっぱたかれたとか、そういうネガティブな思い出ばかりだ。
とにかく怖かった。いつもびくびくしていた。
父は、頭ごなしに怒鳴ればなんでも解決すると思っていたようだ。
笑顔で和解を図るなど、皆無の人間だった。
祖母と、父と3人暮らしだったが、祖母も父よりは弱く、父からのかくれみのは家の中に
なかった。なんとなく、祖母と父はけっこうよく喧嘩していたかなあと思う。
実は小さい頃の記憶はあまりない。なんだかよくわからんけど。
つまらない細かいことなら覚えているんだけど。こども会で動物園にいったこととか。

嫌いだった父は、小学校6年生の残暑厳しい9月4日に橋(脳幹の一部)の出血で倒れた。
服の納品に車で出かけた後、夜になっても帰ってこない。
連絡があったのは夜8時半。たまたま親戚の警察官の管轄だったので、
偶然父ということが分かったのだ。
服を納品した後、パチンコを打っていて気持ちが悪くなり、カウンターで水をいっぱいもらって
店から出ようとした所で倒れたらしい。パチンコをせずそのまま車を運転していたらおそらく
死んでいた。ギャンブラーでよかった。
「父が倒れて運ばれた」という電話を聞き、私はなんとも思わなかった。
しばらくいなくなっていいな、と安易に考えた。
遠方の病院にそのまま入院してしまったので、面会にいけたのは3日位後だったか。
つくまでは、車に乗る前に読んだ漫画を思い出して、笑いをこらえていた。
「いまからお見舞いにいくんだから」と怪訝そうな顔で見られたことを覚えている。
愕然とした。脳外科って書いてあった。私は、いつもの狭心症で倒れたんだと思っていた。
びっくりして、直視できなかった。たいして病室にもいられなかった。
口の中が血だらけだった。暴れるので縛られている。何か言っているが、昏睡状態なので
いっても伝わらない。父が目を覚ましたのは1ヵ月後だった。
父が目を覚まして、最初に面会に言った時、「おまえは工場に勤めていたおばさんのところへ
養子にいけ」といわれた。父もいろいろかんがえたのだと思う。
だが、私は「ずっと自分のうちにいるよ」と父に答えた。
あんなに嫌いな父だったのに。不思議とそう答えた。
自分のうちにいたかったんじゃなく、子供としてこう答えるのが正しい解答だったと思ったからだ。
父には斜視、音が大きく聞こえる、手足のしびれ、平衡感覚が崩れるなど様々な後遺症を抱えて
半年後退院。
工場は閉めた。父は無職になった。その日から、食事中にテレビはつけなくなった。がんがんするから。
毎日、家の前の坂道を歩く練習。しびれた手でテニスボールを握る練習。眼帯を貼って斜視の訓練。
私も歩くのに付き合ったり、父の横で寝たりした。元気になって欲しかった。

不思議なものだ。あんなに嫌いでも、子供心に、父の日のプレゼントをつき返されたり、横暴に怒られたりしても、親を思う気持ちが私にはなぜかあった。その時は、ただ『いい子』を演じていただけだと思ったけれど、それでも、私が喘息発作の時、一晩中車に乗せて連れて回ってくれたり、参観会に多くの母親に混じって、恥ずかしそうに廊下から教室を見に来てくれたり、こども会に参加したり、という思い出があるからだと思う。父はやり方は上手ではなかったもしれないけど、私を思ってくれていたことは事実だ。私達父子は「母親」というクッションがない分、父親とは真正面から向き合わなければならなかった。父の「ばっかやろう」というのが照れ隠しだと分かるのに、私は22年かかった。本気で「バカにされてるんだ」と思っていた。怒ったし、愛されてないと思って悩んだ。
これが、中学校に入るまでの話。これからどんどんハードになる。