カメラを片手に

アミガサユリが増えて困る

今朝は-0.8℃迄冷え込んだ奈良、曇り時々晴の天候ですが、日差しは少なく
日中は10℃には到達せずに8.2℃と、寒の戻りの寒い一日になりました。
      10時、5.5℃、55%
        👆
あれっ若草山頂上付近に白いものが・・・
昨日の雨は標高300m以上では雪になっていたようですね。
 
  若草山頂上342m(一重目)        二重目

連れ合いを送っていった折の、9時半頃の奈良市内からの若草山頂上付近
      

東大寺大仏殿の鴟尾を背景に、若草山一重目の頂上下まで雪が積もっており、
標高150mまでは雪だったようですね。
      
      
さて150年前1874年のこの日、築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で日本初の
運動会「競闘遊技会」を開催された日になる。

運動会は19世紀中頃、オックスフォード大学で最初にスポーツ競技会として
行われたようで、明治時代初期の海軍兵学校へ赴任したイギリス人英語教師
フレデリック・ウィリアム・ストレンジの指導で開催されたと伝わる。
一説には1868年に、幕府の横須賀製鉄所で技術者・職工らで行われたとも。

その後、日本では一定のプログラムに従い順次全体としてまとまりながら競
技・演技を行う形式へと独自に進化し、「国威」「富国強兵」「健康増進」を
目的として明治末期から社会的に広く普及し、「近代日本独特の体育行事」と
なり、現在も形を変えながら続いている。

小庭ではバイモ・貝母」が半日陰の場所、3か所で咲いている。
種が飛んだらしく数m以上離れた場所で増え、これ以上は困ったことに。
現在日本では、一部地域で栽培から逸出したものが野生化しているのが現状。

中国が原産の半蔓性多年草で、中国では700年前から薬用植物、鱗片を乾燥さ
せた咳止めや痰きりに有効な生薬名「貝母」として栽培されている。
日本には約300年前(享保年間)に薬用植物として渡来した。
江戸後期の 岩崎灌園 「本草図譜」に載る (国会図書館デジタルより)     


だが春日大社の万葉植物園に万葉植物として万葉名『はは』と呼ばれている。
  *これだと奈良時代には中国から渡来していたことになるのだが・・・

ははの由来は、球根が2枚の貝殻のようなカタチの鱗茎で母と子が寄り合わさ
った姿に似ていることから。

万葉集 巻20 4323 丈部真麻呂(はせべのままろ)、
        755年2月に交代要員として派遣された筑紫の防人
等伎騰吉乃 波奈波佐家登母 奈尓須礼曽 波々登布波奈乃 佐吉泥己受祁牟』 
詠)『時々の 花は咲けども 何すれそ 母とふ花の 咲き出来ずけむ』

訳)季節ごとに花は咲くのに、どうして母という花は咲かないのだろうか
      

茎の上部の葉の付け根に、花径3~4㎝程度の花を下向きに咲かせ、1~6個の
花が付く。 
この花は鐘形で花被片は6個、淡い緑色をしており、花被片の内側には独特の
網目模様がある。
このことから和名「アミガサユリ・編笠百合」の由来に。

現在3カ所に分散しており、これ以上は必要もなく、連れ合いと相談して
駆除しようと言い渡そうと思っている。

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