カメラを片手に

白村江の戦いで敗れ、古代の通信手段「烽」の成り立ちを学ぶ

今朝も23.6℃と二日続けて熱帯夜を免れ、秋が忍び寄ってきているようです。
日中もギラギラの太陽で、午後2時前に最高気温は34.8℃迄上がる。
南に黒雲が見え、田原本から生駒にかけ雷雨となっているようだが・・・
西へ移動しており、昨日一昨日同様に大阪府下に急豪雨を降らしそう。
      14時、34.2℃、49%

この天候の最中、重い腰を上げて4畳半ほどの小畑に、秋・冬野菜用の畝作り
を昨日は耕し、今朝からは有機石灰、昼から牛糞入り堆肥を漉き込んだ。
小一時間の作業でも汗が吹き出し、そして腰が言うことを聞かなくなる前には
なんとか終わることができた。
このところ手抜きをしているので、野菜の育ちがもう一つ・・・
もう一度有機肥料を漉き込めば来週にはダイコンなどの種蒔きが出来るかな。

NHKラジオ深夜便・今日の誕生日の花はウリ科の「ユウガオ・夕顔
アフリカ原産、現在は大きく育った実を薄く剥いで乾燥させて「かんぴょう」
になり、また繁殖力が強いことからスイカの台木として重宝されている。

和名の由来は夏の夕暮れから翌朝迄白いラッパ型の花を咲かせることからで、
その姿は古くから美しい女性のたとえにされ、源氏物語や枕草子にも登場する
ことから、平安時代には渡来しており、花言葉は「魅惑の人」 と。
      

今日は1360年前、天智2年8月27日(663年10月4日)百済の遺民と支援する日本
軍、百済を滅ぼした唐・新羅連合軍との間の戦い「白村江(はくそんこう)の戦い
があり、日本側が敗北した日です。
660年に連合軍に滅ぼされた百済、支援を約束した斉明天皇、自ら兵を率いて
筑紫迄出向かれたが、この地で崩御された。
後を受けた「中大兄皇子」、後の天智天皇は663年に大敗することとなった。

日本侵攻を懸念した大和朝廷、大宰府政庁を防衛するために「水城」を造り、
大野城と基肄城(きいじょう)、菊池の鞠智城(きくちじょう) 、瀬戸内海沿岸には屋島
城、鬼ノ城、そして生駒山系の高安城を築城して防人を配置して防御を固め
た。さらに通信設備として北部九州から瀬戸内海沿岸を経由して首都飛鳥まで
古代の情報設備として「」を設置することになる。
 
但し歴史寄れば一度も使用されていない。

先日この烽に関して奈良大学の「相原嘉之」さんの『飛鳥烽群の再検討』と
いう講座を聴く機会があった。
1.飛鳥地域の防御体制を検討する中で「ヒフリ」地名に注目
2.佐田タカヤマ遺跡(高取町)で烽遺跡を発見
3.王寺町・明神山で実証実験

古代律令期の烽(律令烽)
 烽の訓読  古代には「とぶひ」「すすみ」
       中世以降に「狼煙」(のろし)と呼ばれたと
  烽(すすみ)・・・・天智天皇3年(664)是歳条
        
  
  烽(とぶひ)・・・・『風土記』
  狼煙・・・・・・・・『曽我物語』『太平記』には漢字で狼煙
  狼煙(ろうえん)・・14世紀には「ろうえん」と読んでいる
  狼煙(のろし)・・・『祇園執行日記』1532年

『養老軍防令』巻五での規定は
【烽の設置】間隔は、66条で規定され、40里(約21㎞)間隔で、
 山岳地帯では必ずしもこれによらない。 

【烽の運用】67条で規定され、昼は烟火(けむりび)で一刻(30分)、
 夜は火を放ち一炬(一束の火炬)の間に伝達すると。
 次の烽が反応しなければ、脚力に寄って伝達することになる。

 75条では烟や火を放つ際、筒裏を見て通信方向を確認し、烽を放つこと。
 雲や霧で烟が望めない時は、脚力で次の烽に連絡すると記されている。
 さらに烽の周囲2里以内では、みだりに烟火を放ってはいけないと。

 68条では、賊の越境侵入を知らせる方法を記す。

 軍勢のランクにて、別式『延喜式』で規定されている。
 国家の使節船であれば・・・一炬、
 賊であれば・・・・・・・・二炬
 船が200艘以上であれば・・ 三炬

 【烽の組織】69条に烽長二人が三つ以下の烽を管理する。
 ただし国境を越えての烽を管轄できない。
 烽長は、国司が国内の有力者から選任し、任期は3年である。
 交換時には任務の引継ぎを行い、修理の必要な時、烽子の労役を用いる
 また公務以外で、烽を離れることは禁じられている。

 70条にて烽子は烽ごとに四人の烽子が配置され、交代で任務にあたると

【烽の構造】71条にて、火炬は25歩(約45m間隔)で配置することになるが
 山間部の険しいところでは、火炬が識別できればよいと。

 72条にて火炬の構造として、乾燥させた葦を心にして、その上に乾草を
 用いて節を縛り、その節の周囲に肥えた松明を差し込んだものを火炬と。
 これらの火炬を10具以上、建物の下に積んで雨に濡れないように蓄える。

 73条にて、烟はヨモギ・藁・生柴を混ぜて薪とし、その貯蔵場所では
 烽火や野火(自然発火)に気を付けると記す。

 74条では、火炬の方向は、進行(通信)方向の反対側に筒口を開くと記す

*日本の『養老軍防令』と中国の『唐兵部式』の規定は文言も含めて類似する
 相違点は日本の40里が30里・・・など

烽の基本構造を整理すれば
 見晴らしの良い高台に設置し、烽は官道の近隣に設置し40里以内、通信不調
 の折は、脚力で伝令を出す。
 構造として、25歩(約45m)間隔で炬火を三基設けることから火炬施設が
 必要となり、烽子が常駐することで建物や火炬材料保管の使節も必要となる

但し烽の遺跡はほぼ見つかっていなかったが・・・・・
近年、二つの『烽』の遺跡が飛鳥近辺で見つかったと考えられている。

A. 佐田タカヤマ遺跡、標高152.5mの丘陵上
          眺望は北東(飛鳥方面)から南にかけ開ける
          遺構は尾根上に直径20m程度
   7世紀中頃の径10mの円墳が確認され、7世紀後半以降の遺跡か


B.森カシ谷遺跡 紀路に面した標高127.0mの丘陵上
        眺望は北東(飛鳥方面)から南にかけ開ける
  丘陵南斜面を削って終末期古墳が築造されることから、これ以前の遺跡か


歴史は面白いですね。

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