とりあえず書けている所だけアップするorz
最終回でした。
治承4(1180)年6月に福原遷都、同年8月に頼朝が伊豆で挙兵、同年10月富士川の合戦で平氏大敗。
11月末に神戸福原より還都、12月末に南都攻撃(奈良の大仏延焼…)。
治承5(1181)年1月8日平宗盛が畿内惣管職に(東国の源氏と戦うための準備に入る)、14日に高倉院没。
と、ここまでが前回。
で、今回。
閏2月4日平清盛が死去。
閏月については何度か触れていますが、要するに治承5年は暦の関係で2月が2回あり、その2回目の2月初旬に清盛が亡くなった。
平氏にとっては高倉院と清盛、権力を支える大きな基盤を一度に失ったわけです。
●清盛の死
清盛が熱病で苦しんだ事はよく知られています。
発病から1週間ほどで亡くなっているのですが、どうも急速に悪くなったようですな。
「あつち死に」と言われていて、読みは「あっちじに」でいいんだろうけど、昔読んだ本では熱さでのたうちまわって死んだと注釈があった。
とにかく熱病に苛まれたらしい。
体を冷やすために水風呂に入るも水が沸騰し、比叡山で汲んで来た水でもダメとか雪を頭に乗せると蒸発したとか、そういう話を小学生の時に学研のマンガで読んだなあ…
ドラマの表現の仕方にちょっと笑ってしまった^^; 笑うシーンじゃないのに…
こうした表現は元々平家物語に描かれているもの。
物語とはいうものの、清盛の死の前年に平氏は故意ではないにしろ奈良の大仏を焼いてますし、それまでも寺院権門と対立・攻撃したりしていたので、当時の貴族たちは清盛に仏罰が当たったと思ったらしい。
実際のところ病状から見て瘧(マラリア)だったとか髄膜炎だったとか言われてますな。
平清盛像@兵庫
享年64。
現在の感覚だとまだまだ若いけれど、当時からするとそこそこ長寿じゃね?
ただ清盛本人としては、さぞ無念であっただろう。
福原から京都に帰ってきて新体制で政権を立て直している最中であったし、源頼朝ら反平氏勢力を鎮圧する途中でもあったし…
自分が死んだ後一門がどうなるのかというのは、清盛の一番の悩みだったでしょう。
棟梁宗盛は頼りにならないし、平氏の権力の基盤になる安徳天皇はまだ4歳。
院政を復した後白河に太刀打ちできるのか。
平氏政権の根幹を揺さぶっている東国の頼朝を抑圧できるのか。
清盛はその死に際して「頼朝の首を墓に供えよ」と遺言したと平家物語にはあるけれど、史料にもそれと似たような言葉が伝わっている。
「我が子孫、一人生き残る者といへども、骸を頼朝の前に曝すべし」(玉葉)
一門がただひとりになっても頼朝の首を持ってこんかい、という何とも激しい口調。
それだけに無念と言うか、恨みと言うか、そんなものがひしひしと伝わってきますな…
清盛の遺体は愛宕(おたぎ)で荼毘にふされます。
愛宕は六波羅蜜寺の近くにある六道珍皇寺辺りと言われている。
この辺り、「六道の辻」と言ってこの世とあの世のはざかいだと言われる場所でもあります。
私の好きな小野篁(おののたかむら)に所縁があるお寺で、境内にはあの世とのこの世を繋ぐ井戸があったり、篁像があります(お盆に公開)。
写真があればいいんだけどなー
あの辺りは自分にとって日常過ぎて写真撮るような所じゃなかったのよ^^;
ハッピー六波羅略してハピ六(スーパーね)によく買いものに行ってた…。どうでもいいですかそうですかすいません。
ついでに言えば子育て幽霊が子供の為に毎晩飴を買い求めた幽霊飴のお店も近くにある。
東山安井の辺りだから、維新志士のお墓がある霊山からも近いんだよね。
更についでに言えば崇徳天皇御廟も近くにあります。
清盛の遺骨は神戸・兵庫にある能福寺の円実法眼が持ちかえり、経島に埋葬したと平家物語にはあります。
そんな事もあって、兵庫にあるこの清盛塚が墓所だろうと長らく考えられてきたのだけれども、大正12年の移転時に行われた発掘調査では人骨は発見されなかったそうで。
『吾妻鑑』では明石山田の法華堂に葬られたとも言われますが、現在ではこの清盛塚の側にお墓があります。
清盛墓所@能福寺(兵庫)
まあ…うん。滅亡の話はいいですか。
最後に書いておこうかと思っていた平頼盛や伊藤忠清が都落ちには同道せず、独自の動きを採ったという事も言われていたし。
頼盛が頼朝を頼ったのは実母池禅尼が平治の乱の際に頼朝の命を救った事が縁になっています。
伊藤忠清は三日平氏の乱といって、伊勢伊賀の辺りで大規模な反乱を起こしており、その為に義経の屋島出陣が遅れた程でした。
(三日とはいうものの三日どころではない大規模な反乱でした。確か鎌倉時代辺りで資料編集者が違う反乱と間違えて名をつけたらしい)
一門の人々の最期にも触れられていたし。
壇の浦古戦場跡@下関
清盛の構想は室町時代に実現したという事も言われていたし。
サイトの壇ノ浦の戦いに関する史跡紹介の所で、源平合戦の大まかな流れも書いています。
興味のある方はそちらをどうぞ~ (サイト>works>歴史話>史跡巡り>日本史全般>山口県)
下関
「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかむとするぞ」
「浪のしたにも都のさぶらうぞ」
この件は涙が出るわ…
壇ノ浦の戦いで平氏は歴史の波間へと消えていきました。
治承4(1180)年 以仁王の令旨。福原遷都。源頼朝、木曽義仲等反平氏勢力が挙兵
養和1(1181)年 平清盛死去
寿永2(1183)年 倶利伽羅峠の戦い→平氏都落ち(3種の神器を持って大宰府へ)
寿永二年十月宣旨
元暦1(1184)年 木曽義仲、征夷大将軍に→後追討。頼朝に平氏追討の宣旨が下る。
2月 一の谷の戦い
文治1(1185)年 2月 屋島の戦い 3月 壇ノ浦の戦い
大雑把に書くとこんな感じ。
平氏の滅亡は頼朝挙兵から5年、清盛死去から僅か4年後の事でした。
続く!^^;
Popular Entries
最新の画像[もっと見る]
私はより好みが激しい方なので見たり見なかったりですが、来年の大河も面白いと言えるクオリティを保った歴史ドラマであって欲しいと思います。
コメントありがとうございました!
清盛が何に失敗したかと言うと子弟の教育だったのかなあと思わん事もない…^^;
篁も昔から好きなんです。
妙なエピソードがありますよね~^^
今年も沢山のコメントありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします!
次のNHK大河ドラマも今からたのしみにしてるんです↑↑
そんなことはなかったかも知れませんが、あまりにあっさり滅んでるように見えてしまうんですよね。
篁、かっこいいですよね。
閻魔大王とのやり取りとか、ちょっと有り得ない逸話が大好きです。
『篁がいうなら…』って、ちょっと閻魔さん(笑)
みたいのが最高です。