聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

恵みにより万事が益となる

2024-06-28 11:14:50 | 日記

 30年という月日は遠い昔のように感じます。その頃のことは断片的にしか覚えていませんが、最近、30年前も神様が私をどんなに憐み、恵みを注いで下さっていたことを思い出す機会が与えられました。先日、新しく教会に赴任した教師のための、新任教師オリエンテーションに参加する恵みに預かりました。研修は非常に盛沢山の内容でしたが、何よりも同期の仲間が与えられ、お互いの召命や今に至るまでの証し、神様の恵みを分かち合うことができ、このプログラムを準備してくださった先生方に主にあって感謝しております。

 講師の一人である神学校の教授の方と夕食の席でご一緒し、ある共通の話題で盛り上りました。私が約30年前に米国に国際関係論を学ぶため留学していた時、お世話になっていたカリフォルニアにある日本人教会に、その方もほぼ同時期(私が引っ越した直後と入れ違いですが)に関わっておられたのです。実はその頃、私は信仰的にスランプに陥っていた時で、教会に行っても喜びがなく、神様は私を見放しているだろうと思って心の底に深い絶望感を持っていました。卒業後、就職もうまくいかずと、様々な面で人生のどん底時代と重なり、暗い思い出ばかり。しかし、その日本人教会(シカモア教会)の牧師さんのメッセージを通して神様が、「お前は大丈夫だよ、赦されているよ」と語られているように不思議と受け取れ、それ以来行く先々の地域の教会に参加し続けている間に、信仰が徐々に回復されていったことを改めて思い出したのです。神様はこんな前からだめな、弱い私を支え、導くために、多くの方々との出会いを与えて下さったこと、そして、今に至るのかと思うと神様のなさる恵みの業に驚きと感謝でいっぱいになりました。

 困難な時、苦しい時、悲しかった時は、実は神様の恵みが一番注がれている時であり、それに気づくか気づかないかの違いで、同じ状況でもどん底が喜びと感謝に変えられると思わされました。この世に生きている限りおこりうる(それが自分の失敗に起因するもの、不可抗力的なものも含め)困難、辛いことを通して、その困難に神様は恵みを加え、困難の意味を変え益に変えて下さる方であることを多くのことを振り返り、気が付かされ、感謝しています。この神様の恵の御言葉をいつも心に蓄え、何度も読んで味わい、神様によって万事が益になるように共に働くという上記の御言葉あって希望を持ちつつ、キリストによる救いの喜びで、日々祈って聖霊の導きに従って歩んでいこうと思わされました。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」 ローマの信徒への手紙 8:28

 

(引用 新共同訳聖書)


私の羊を飼いなさい

2024-06-23 13:31:34 | 日記

2024年6月16日、益子教会にて、伝道師の就任式を関東教区議長の熊江牧師により司式をしていただきました。当日は小さい益子教会の礼拝堂は席がないほど、玄関にまで溢れてしまうほど大勢の方々が参加下さり、多くの方々から励ましの言葉を頂き、神様の祝福をたくさん頂くことができた式でした。熊江先生の「わたしの羊を飼いなさい」と題する説教にて、ご自身が若い頃伝道師として就任した時、先輩の牧師からアドバイスを受けたことを分かち合って下さいました。「神学的な知識も大事であるが、一番大事なのは信徒一人一人を愛することだよ」と言われたそうです。私もこのことを忘れずにいたいと思わされました。

 今までは、信徒として、牧師の妻として足りないながらも神様と教会に仕えてきました。今後は、主任牧師と共に、神様が召して下さった益子教会にて、主イエス様の羊を任されるという重大な責務となります。このような責任を背負いきれるのか、私のような者に務まるのかと、自信はありません。しかし、召命して下さった主が必ず助けてくださるという確信を与えられ、また幸い今は主任牧師と二人体制なので、その大きな恵みに感謝し、信徒の方々の祈りにも援護して頂き、先輩先生方にも助けられて一歩踏み出していこうと思わされました。

 そうこうしていると、早速、困難なことがおきました。私は出だしから、「ほら、おまえはダメだ!」と言われているかのようで、落胆させられ、就任式の喜びや感謝を奪い去られそうになりました。そんな時、下記の「すると主は、わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」が私に与えられ、立ち直ることができました。これからも主イエスの羊に愛を持って仕える上で、うまくいかないことがたくさんあると予想されます。私はうまく対応できない、ダメな者であっても、主イエス・キリストにますます頼り、たとえ困難な状況が変わらなくとも、困難な状況自体を恵みに変えてくだるという、弱さの中に働かれる主の力に希望を持っていこうと励まされました。そして、神様の御言葉を語り続け、御言葉で主の羊を養うことを徹底していきたいと思います。神様は真実な方ですから、御言葉の約束通りに、このような弱い僕をもいつも御言葉によってタイムリーに励まし、強めて奉仕にあたらせて下さることを信じ、神様の御心にそって、牧会していけるように、絶えず祈っていきたいと思います。

「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリントの信徒への手紙2 12:9-10)

(引用 新共同訳聖書)

 


礼拝メッセージ「キリストはわたしたちの平和」

2024-06-13 13:35:55 | 日記

 聖書箇所 エフェソの信徒への手紙2章11-18節

 本日はエフェソの信徒への手紙2章より、「キリストはわたしたちの平和」と題してメッセージをさせていただきます。エフェソという町は古代ギリシャの商業都市で、使徒パウロが伝道旅行にて開拓した教会の一つです。この手紙は冒頭(1:1)で「エフェソにいる聖なるものたち」へと書かれていますが、続いて「キリスト・イエスを信じる人たちへ」とあるように、エフェソの町の教会だけでなく、その周辺の教会にも宛てて書かれた内容で、手紙は回覧されていたであろうと言われています。ですから、全ての教会に共通する問題に触れながら、キリストを頭とする「一つの教会」であることを述べている手紙です。先ほど使徒信条を読みましたが、その中の「公同の教会」とは時代や国、民族を超えた普遍的な性格を持つ、唯一の一つの教会であるという意味で、それを私たちは信じますと告白しています。
 
 「キリストがわたしたちの平和」という表現は意味深いものです。まず、平和とは何かと考えますと、例えば戦争や争いがない状態と思いつくのではないでしょうか。聖書でいう平和(シャローム、平安があるように、とイスラエルの国では挨拶の言葉)とは、元来何かが欠如したりそこなわれたりしていない充たされた状態を指し、無事、安否、平安、健康、繁栄、安心、和解など、人間の全ての領域にわたっての神様の意志に基づいた、真の望ましい状態を指しているそうです。この意味でのわたしたちの平和がキリストであると、今日の箇所が記しています。
 
 平和とは敵対していた関係が和解にいたる状態であります。ここでは二つの和解、2段階の和解について記されています。一つ目の和解は神様と人間の和解です。神様はそもそも人間を愛するために創造されたのですが、人間が罪ゆえにほんとうの神様の存在を否定し、自分の思うままに生き、神様に敵対し、人間同士でも敵対関係を作りだしてしまい、今の世の中に至っているといえます。神様は人間が争ったり、分断したりすることを望まれていませんし、そのような人の罪に対して怒りと悲しみを持たれます。しかし、神様はご自分の造った人間を愛し、かわいそうに思ってなんとか、人間を救おうとされました。そして神様から離れてしまった人間を救うために、イエス・キリストをこの世に送られました。その働きの目的は、キリストが仲介者となり、十字架によって神様と人々が和解することであります。
 
 使徒パウロはローマ信徒への手紙5:8-10にこのことを記しています。
 「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたので、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」

 また コリント信徒への手紙Ⅱ5:17-20にもこう記しています。
 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 」
 
 神様が私たちを愛して下さっていることは、わたしたちの罪を赦すためにかわりにキリストが十字架で死なれ、よみがえられたことに示されています。この救いを信じた者は死から新しい命へと移されます。この肉体で生きている限り見た目はかわらないかもしれませんが、内側(魂、心)が新しく創造されているという意味です。イエス・キリストのゆえに、私たちはすべての罪が赦されて救いにあずかっています。そして、この神様からの和解の言葉、キリストの平和の良い知らせを、知らない人々へ伝える奉仕を信じた者たちに委ねておられます。
 
 二つ目の和解は、一つ目の神様と人間との和解を前提とした、人間同士の和解についてです。エフェソの信徒への手紙2:15に、「規則と戒律づくめの律法を廃棄」とあります。ここでの律法は特定的で厳格で外側のことを規定する律法、ユダヤ人と異邦人を区別されるためにあった規則で、例えば外国人との交際禁止の律法(使徒10:28参照)のことであり、神様がモーセに与えた律法ではなく人間が付け加えた様々な規則のことといえます。なぜなら、イエスは律法を廃棄するためにではなく成就するために、完成するために来られた(マタイによる福音書5:17)と言われていますし、使徒パウロはガラテヤ信徒への手紙3:24で「律法はわたしたちをキリストもとに導く養育係だ」と言っています。
 
 どんなに平和を人間が求めても、お互いの利害が一致しないため、伝統や文化が異なるため敵対してしまいます。和平交渉はキリスト抜きでは行き詰まり、希望を失います。しかし、信仰に生きる者はキリストの体に生き、聖霊の助けによって共同体の仲間(つまり神の家族、エフェソ2:19)を愛して生きようと導かれます。キリストによって神の家族となり、一つになることは、イエス様が十字架にかかる直前に、弟子たちの前で父なる神様に祈って、お願いしてくださっています。ヨハネ17:21に

 「父よ、あなたがわたしたちの内におられ、わたしがあなたがたの内におられるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」
 
 このイエス様の祈りは聞かれ、かなえられているからこそ、キリストを信じる者が教会として、キリストの身体の一部として、一つにされています。一般に家族というのはメンバーとして参加する共同体ではなく、その家族に生まれて家族であるように、私たちは神の家族として新しく生まれさせていただいています。
 
 こうしてキリストご自身が私たちの平和であるからこそ、そのキリストに属している者もその平和にあずかれます。ですから私たちが一から平和を作り上げる必要はなく、イエス様がすでに来られて、全ての人に平和の福音を告げ知らせ(17節)、平和を打ち立てて下さったという御業を信じれば、キリスト者はこの世で良い業を行い(エフェソの信徒への手紙2:10)、平和に取り組むよう励まされます。互いにキリストを信じ、神の戒めである、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、イエス様が弟子たちを愛されたように互いに愛し合おうとすれば、平和的な方向へ進んでいくでしょう。
 
 目の前におかれた敵意、人間関係の修復、長く続く戦争の終戦は簡単ではありません、不可能に見えるかもしれません。しかし、自分でなんとかしようとするから不可能なのであって、主イエスにつながっていること、この大きな恵と神様の力を信じて、平和を祈っていきたいと思います。教会という神の家族の一人一人が、キリストの平和の福音を運ぶものとして世へ派遣されています。聖霊に助けて頂き、まずは自分の周りの人間関係から平和に向けて歩みだしていきましょう。
   

(引用 新共同訳聖書)
 


良い知らせを伝える者の足

2024-06-07 22:30:01 | 日記

  先日、医療ソーシャルワーカーとして4年間務めた地域の病院を退職しました。この町に引っ越す前に仕事を探し、面接を受けた時は、まさか新型コロナウイルスの感染が拡大するとは予期していませんでした。ですから、このような世界的大混乱の時期に医療従事者として働き始めた時は「なぜこんな時期に、よりによって病院で」と思いながらも、神様が与えた職場と信じ、とにかく必死で勤めておりました。そして気が付くと、コロナにかかることもなく4年間が過ぎ、職員の方々に温かく送り出して頂き感謝でした。退職の理由について聞かれ、教会で伝道の働きに専念することを何人かの方々に話すと、「僕もミッションスクールに通っていたんですよ」「教会の礼拝にはいったことありますよ」「教会に行くとお茶とお菓子は出ますか?」「突然、行っても平気なのですか」など好意的なコメントをいただきました。「ぜひ一度益子教会にいらしてください」と伝えることができ、神様がこの病院に私を置かれたのも意味があったのだろうと実感しました。そして何よりも、病院という人の生死を日々目の当たりにする場で働く機会があったからこそ、今、キリストの福音を伝える伝道者になるようにと、神様からの召命を受けることが出来たのです。

 2024年5月29日、日本基督教団関東教区総会にて准允を授かり、益子教会の担任教師(伝道師)として正式に遣わされました。益子教会へ2020年4月に牧師である夫と共に赴任してきた時は、信徒は私一人でした。しかし、一人二人と神様が信徒を加えて下さり、多くの方々にお祈りと献金で益子伝道を支えていただいことは感謝につきません。これからは、主任牧師と共に益子での宣教活動を神様の導きに従って、その方法についても具体的に祈り、信仰で踏み出していきたいと願っています。

准允式の司式をしてくださった先生がローマ信徒への手紙10章8-18節より説教をしてくださりました。

「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。 」ローマ信徒への手紙10章14-15節

という御言葉を通して、伝道師としてこれから歩みにおいて、福音を宣べ伝える上で試練や困難があることを、「良い知らせを伝える者の足」は汚れてしまうかもしれないと例えられていました。私は実は気弱で欠けの多い者であり、困難や試練で挫けそうになるかもしれません。しかしながら神様からの召命の確かさを信じ、神様の助けと聖霊の導きによって、キリストの福音:良い知らせを宣べ伝える者として歩んでいきたいと、身の引き締まる思いで准允を受けました。たとえ私の足は美しくなく弱くとも、良い知らせ:福音の内容自体が神様の救いの美しさであるがゆえに、その救いの美しさが、伝える者の足をも強めてくれるのではないかと信じます。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマの信徒への手紙 10:17)

 キリストの言葉を一人でも多くの方々に伝え、聞いた方々に聖霊が働かれ信仰に導かれるように祈りつつ、神様とキリストの教会に仕えていきたいと願います。

(引用 新共同訳聖書)