聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

地の果てまで

2024-09-17 22:16:53 | 日記

 若い時に、私は約一ケ月程スペイン・ポルトガルの一人旅をしたことがあり、そこでの空の色が、今迄見たことがない鮮やかな深い青色で非常に感動したものでした。ローマ帝国時代に現スペインは、イスパニアと呼ばれ、当時西の地の果ての国とされていたそうです。ちなみに日本は東の地の果て(極東)ですが、そんな遠い日本へ16世紀にキリスト教の宣教師が西の地の果てから来てくれたのだと、驚きと感謝を改めて思わされました。

 「私には夢がある I have a dream!」の演説で有名な、公民権運動を指導した牧師のマーティン・ルーサー・キング師は「破れた夢」という説教で、「人間の経験で最もつらい問題の一つは、自分の一番大きな希望が実現するのを生きて見られる者は、ほんの少数の者にすぎないということ」、それでも「無限の希望を固く抱いて、有限の失望を受け入れる」、「自分の破れた夢と真剣に対決しなければならない。」と言っています。これは使徒パウロが、イスパニアへの伝道旅行へ行くという夢、ヴィジョンを語っていた箇所(ローマの信徒への手紙15:24.28)からの説教の一部だそうです。パウロは「地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録 1:8)と主イエス様の言葉を伝え聞き、地の果てまで伝道しようと志したのでしょう。残念ながら、聖書の記録にはパウロがイスパニアへ行ったという記録がなく、ローマで殉教したという伝承が残されています。神様はパウロに別の計画を持ち、彼の希望はその後、他の伝道者たちによって全世界へキリスト教が伝えられているという形で、今も実現中です。

 私たち人間が考え、計画することは必ずしもすぐに実現するとは限りませんし、道が閉ざされることもあります。挫折し、がっかりしますが、そこで止まらず、神様がすべて統括しておられることを信じ、神様のなさりたい事とその方向性をキャッチしていくことで、希望を固く抱けるのではないでしょうか。私たちの内に住む聖霊が私たちを導き、聖霊の力が注がれ、キリストの愛を知らない人に出会い、証しする機会が与えられるという、神様の救いの御業に参与させて頂けることを期待したいと思います。いつも救いの喜びを覚え、絶えず祈り、神様に感謝しながら*、今おかれた宣教の場所でキリストの愛を伝えていきたいと願います。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」  (使徒言行録 1:8)

*テサロニケの信徒への手紙1 5章16-18節


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礼拝メッセージ   「思い煩わずに、神に委ねる」

2024-09-14 13:06:38 | 日記

益子教会メッセージ   「思い煩わずに、神に委ねる」  聖書箇所 マタイによる福音書6章25-35節
 
 人は何かが不足している、もしくは明日・将来不足するかもしれないと心配し、思い煩います。一方、その何かが満たされても思い煩いはなくなりません。なぜなら人は他者と比較し「もっと、もっと」お金、地位、名誉、健康、能力を欲し、飽くことがないからです。すべてにおいて、上には上がいます。また、地震や水害、温暖化現象による異常気象、予測ができない災害について将来不安になります。災害は現在の科学をもってしても正確な日時を予測することはできません。一方、その両極端にある人々は、どうせ、死んだら終わりだし、先のことがわからないのだから、今を好き勝手に、したい放題しようと。しかし、その人の心の底にも死んだらどうなるか、将来どうなるかわからないという不安があり、それから現実逃避しているだけで思い煩っているのと同じです。
 
 今日のマタイによる福音書の平行箇所が、ルカによる福音書12章22-34節に記されています。ルカでの文脈は、直前に愚かな金持ちの譬えをイエス様が話されていて、その後「だから」「それから」と接続詞がきて、「思い悩むな」と本日の平行箇所へと続きます。愚かな金持ちの譬えは、ある人がイエス様に、遺産分割の仲裁をしてほしいとお願いしたことに対し、「私は裁判官、調停人ではない」と断り、続いて周りの人に話をされています。ある金持ちは、豊作で、今よりもっと大きい倉をたて、穀物や財産をしまい、「自分はこれから先、何年も生きていく蓄えがあるぞと、飲んだり食べたり楽しもう」と言っていたところ、神はその晩、その金持ちの命を取りさった、という話です。イエス様は貪欲に注意するようにと、どんなに財産を持っていても人の命は、財産ではどうすることもできないと話されました。財産を持つことは問題ないのです。問題は、この金持ちが「私の穀物、私の財産」といって、貧しい人に施すこともなく、自分の富のことばかり考えて生き、神様への感謝もないことです。人はどんなにお金を積んで、先進医療を受けたとしても、たいして寿命を延ばすことはできません。どんなに財産があっても、あの世に持っていけないのです。
 
 この金持ちに欠けていたものは、神様への信仰です。本日の箇所は、神様への信仰が唯一私たちの心を満たし、それが思い煩い、恐れ、不安から私たちを解放することをイエス様が教えておられます。信仰があれば、たとえ財産があっても、貧しくとも、優秀で社会で活躍していよとも、特に才能がなくとも、今の状況に満足しています。神様との信頼関係において生きることで満たされ、神様に感謝できるからです。逆に、世の中の価値観は仕事上、スポーツ、様々な分野でもっともっと、貪欲に先を行こうと欲します。しかし、きりがないので、どこで満足するかを自分で決めなければならず、それはとても難しいことでしょう。貪欲と思い煩いはつながりやすいのです。
 
 イエス様は空の鳥が倉をつくらなくとも十分に生きられること、野の花がなにもせずとも美しく装ってくださることの例から、ましてや「あなたがたは鳥より価値がある」ので、心配しなくとも神様が必要なことは与えて下さると説明されました。何を食べようか、飲もうか、着ようかと必要以上に思い悩むのは、信仰が薄いからだと言われました。もし、思い煩ってしまったら「信仰を増し加えてください」とそのまま祈ってよいと思います。
 
 神様への信仰があれば、すべてが神様から与えられたものであるとし、感謝できます。そして、生きる目的、優先順位が、この世の価値観での成功ではなく、主イエス・キリストのために生きることになります。すると、「私が、私の、」と私のことばかり考えるのではなく、神様の御心は?キリストだったらどう思うだろう、どうするだろう?とキリストの思いを祈りつつ、それを模索し、そこへ聖霊が導かれます。すると、自分の心配に囚われている状態から解放され、神様が支えて下さると信じて、転んでも起き上がって再び歩き出す力が与えられます。
 
 そのような全てを委ねられる神様への信頼はどうして持てるのでしょうか?その根拠はローマの信徒への手紙 8:32にもに示されています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。 」天の父なる神様は、御子を通して私たちがイエス・キリストを信じる信仰で、罪が赦され、義とされ、神の子供にして下さり、惜しみなく祝福と恵みを与えて下さる方です。御子を与えるほど、私たちを大切に思ってくださっているのだから、ましてや、他の生きる上で必要なものが与えられないわけがないとこの御言葉は示しています。このことを信じることが根拠で、神様との信頼関係が深められます。「すべて」とは、寿命も含めてです。病気になることも含めてです。信仰があれば、全て人生順調にいくとは聖書にかいてありません。聖書で記されているのは、困難にあっても神様がそれらを取り扱ってくださる、全てのことを益に変えて下さり(ローマ8:28)、困難に耐えられるよう、逃れの道も備えて下さる(コリントⅠ 10:13)という約束です。ですから、困難、試練は生きている限り必ずきますが、神様への信頼を持ち続けることで、心配する必要がないのです。
 
 イエス様は33節で「何よりも、神の国と神の義を求めなさい」と導かれます。神の国とは、神様の意思が行われる領域です。神様のみ心は、皆が神様を信じ、神様を礼拝し、神様の愛の関係が与えられることであり、そのために、キリストが十字架にかかって下さり、死なれ、復活されました。神との正しい関係がもてることを、義とされると言い換えられます。神の義を求めるとは、神様との正しい関係が与えられることを自分だけでなく、すべての人に与えられるように求めることでしょう。イエス様がヨハネによる福音書 16:23-24で 「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
 
 イエス様の名前を通して天の父なる神様へ祈り求めれば、与えられ、わたしたちは喜びで満たされるとイエス様は約束してくださっています。私たちが神様の豊かさを受け取ることができるように、喜びが満たされるようにしてください!と、遠慮なく、大胆に祈りましょう。
 
 喜びについては、テサロニケの信徒の手紙Ⅰ 5:16-18に「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。
 
 JOY(喜び)に満たされ続けるには  この頭文字の優先順位を覚えておくと良いです。
  Jesus   イエス様 を一番にする。神の国を求める

  Others   他者に配慮する、寄り添う、親切にする

  You     あなた  あなた自身のことは全て主にゆだねる。あなたを最後にすると、思い悩むことも減ります。

 イエス様は34節で 明日のことは明日自ら思い悩むと おもしろい表現をしています。 明日のことを心配しても、自分の思う通りに明日を、未来を変えることは人間には不可能です。かえって、思い煩って他の心の病を引き起こす可能性もあります。イエス様はその日の苦労はその日だけで十分だと言われます。今日起こったことに対して、あくせくして対応するのは仕方がないことです。そして「大変な一日にだった」と振り返る労苦だけで、十分であると。ですから、明日という当日になって思い煩わざるを得ないことがおきるので、明日自らがわずらうのです。つまり前日と明日に、2重に思い悩む必要がないということです。逆に、日の終わりに「今日も生かされた」ということを神様に感謝することができ、そして明日からのことは神様に委ねていこうと祈って床に就けば、不安で眠れないという状況にならないはずです。不眠というのは、体は睡眠を欲していても、頭がいろいろ考えてしましいつも動いているから眠れないのです。
 
 世の中は、特に日本では教会に来る人は少ないです。家族も、世の中も人も神様のことに興味はなく、今の生活のことで精一杯であり、娯楽を求めて気晴らしをするのに忙しい状況です。しかし、イエス様のこの言葉(ルカ12:32)
 
 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国を下さる」という約束を信じましょう。当時、イエス様の弟子たちの群れは小さかったし、不安定な枕するところもない旅をしていましたので、不安になる要素はたくさんあったでしょう。イエス様は、弟子たちに大丈夫だと励まされます。そして今日の私たちの教会のように、小さい群れに対しても、同じ言葉をかけてくださっています。祈り続ければ、必ず御心にそう祈りなのでかなえられるという約束があります。神様が神の国を私たちを通して広げてくださること、それが小さいことかもしれませんが聖霊の導きによって私たちを通して実現に至らしめてくださることを期待し、互いに励ましあいましょう。
   
 (引用 新共同訳聖書)
 


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「ろくろで作る土の器」

2024-09-12 11:10:22 | 日記

 先日、益子焼き体験で、ろくろで土の塊から、お皿と花瓶を作成された方から、その作品の写真を見せて頂きました。その方は今回初めてだそうで、マンツーマン指導を受けて作ったのですが、非常に難しかったと。けれども、自分の手で作品を生み出すことの楽しさと、また自分の作品をいとおしく思ったと言われていました。そしてその時、「神様が人間を創造した時も、同じようにその作品である人間に対しての愛情を持たれたのだろう」と、神様の人間への愛を、陶器づくりを通しても知ることができたとおっしゃっていました。そして、その作品は初めてとは思えない、とても素敵な作品でした。

 一般的に、器というのは何かの目的を持って作られるものですが、益子焼きの作家さんたちの作品を見ても、機械でつくる大量生産の器と異なり、一つ一つの作品に特徴があり、思いが込められているのを、素人の私が見ても感じます。ましてや、神様が人間一人一人を創造される時、その人の人生で、その人の為の目的をもって創造し、そしていとおしく、大切に思い、そして人がその神様の愛に気づき、神様への信頼関係を持つことを願っておられることが聖書に示されています。たとえ、壊れてしまっても、神様は修復することが出来る方です。なぜなら創造される主なる神様は、救い主(贖い主)でもあるからです。神様の目にはわたしたち一人一人は値高く、貴いとみて下さる*1、と記されているとおりです。

 「光あれ」と天地の創造のとき、神様は言葉で言われて、その通りになっていくように、神様の御子イエス・キリストが私たちの救い主であるという福音と、生きている間に経験するその救いの御業を悟る光を私たちの心に与えられます*2。パウロは私たちを土の器として例え、この並外れた偉大な神様の力を土の器の中に納めている宝と記しています。この宝がその器を通して光輝き、神様の力がわたしたちを通して現わされます。器である私たちに力があるのではないので、器は立派でなく、壊れやすく、欠けがあるかもしれません。しかし、各器の中にある宝に力があり、この神様の力を通して、私たちがどんな試練にあっても、神様の愛に根差し、愛にしっかりと立つものとして、他者に仕えていく力となるという希望が与えられていることは幸いです。人知を超えた、計り知れない神様の愛を、土の器より気が付かされ、神様へ感謝したいと思います。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」 コリントの信徒への手紙Ⅱ4章7節 (引用 新共同訳聖書)

*1 イザヤ書43章3-4節参照

*2 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章6節「「闇から光が輝き出よ」」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」

 


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