聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

礼拝メッセージ   「思い煩わずに、神に委ねる」

2024-09-14 13:06:38 | 日記

益子教会メッセージ   「思い煩わずに、神に委ねる」  聖書箇所 マタイによる福音書6章25-35節
 
 人は何かが不足している、もしくは明日・将来不足するかもしれないと心配し、思い煩います。一方、その何かが満たされても思い煩いはなくなりません。なぜなら人は他者と比較し「もっと、もっと」お金、地位、名誉、健康、能力を欲し、飽くことがないからです。すべてにおいて、上には上がいます。また、地震や水害、温暖化現象による異常気象、予測ができない災害について将来不安になります。災害は現在の科学をもってしても正確な日時を予測することはできません。一方、その両極端にある人々は、どうせ、死んだら終わりだし、先のことがわからないのだから、今を好き勝手に、したい放題しようと。しかし、その人の心の底にも死んだらどうなるか、将来どうなるかわからないという不安があり、それから現実逃避しているだけで思い煩っているのと同じです。
 
 今日のマタイによる福音書の平行箇所が、ルカによる福音書12章22-34節に記されています。ルカでの文脈は、直前に愚かな金持ちの譬えをイエス様が話されていて、その後「だから」「それから」と接続詞がきて、「思い悩むな」と本日の平行箇所へと続きます。愚かな金持ちの譬えは、ある人がイエス様に、遺産分割の仲裁をしてほしいとお願いしたことに対し、「私は裁判官、調停人ではない」と断り、続いて周りの人に話をされています。ある金持ちは、豊作で、今よりもっと大きい倉をたて、穀物や財産をしまい、「自分はこれから先、何年も生きていく蓄えがあるぞと、飲んだり食べたり楽しもう」と言っていたところ、神はその晩、その金持ちの命を取りさった、という話です。イエス様は貪欲に注意するようにと、どんなに財産を持っていても人の命は、財産ではどうすることもできないと話されました。財産を持つことは問題ないのです。問題は、この金持ちが「私の穀物、私の財産」といって、貧しい人に施すこともなく、自分の富のことばかり考えて生き、神様への感謝もないことです。人はどんなにお金を積んで、先進医療を受けたとしても、たいして寿命を延ばすことはできません。どんなに財産があっても、あの世に持っていけないのです。
 
 この金持ちに欠けていたものは、神様への信仰です。本日の箇所は、神様への信仰が唯一私たちの心を満たし、それが思い煩い、恐れ、不安から私たちを解放することをイエス様が教えておられます。信仰があれば、たとえ財産があっても、貧しくとも、優秀で社会で活躍していよとも、特に才能がなくとも、今の状況に満足しています。神様との信頼関係において生きることで満たされ、神様に感謝できるからです。逆に、世の中の価値観は仕事上、スポーツ、様々な分野でもっともっと、貪欲に先を行こうと欲します。しかし、きりがないので、どこで満足するかを自分で決めなければならず、それはとても難しいことでしょう。貪欲と思い煩いはつながりやすいのです。
 
 イエス様は空の鳥が倉をつくらなくとも十分に生きられること、野の花がなにもせずとも美しく装ってくださることの例から、ましてや「あなたがたは鳥より価値がある」ので、心配しなくとも神様が必要なことは与えて下さると説明されました。何を食べようか、飲もうか、着ようかと必要以上に思い悩むのは、信仰が薄いからだと言われました。もし、思い煩ってしまったら「信仰を増し加えてください」とそのまま祈ってよいと思います。
 
 神様への信仰があれば、すべてが神様から与えられたものであるとし、感謝できます。そして、生きる目的、優先順位が、この世の価値観での成功ではなく、主イエス・キリストのために生きることになります。すると、「私が、私の、」と私のことばかり考えるのではなく、神様の御心は?キリストだったらどう思うだろう、どうするだろう?とキリストの思いを祈りつつ、それを模索し、そこへ聖霊が導かれます。すると、自分の心配に囚われている状態から解放され、神様が支えて下さると信じて、転んでも起き上がって再び歩き出す力が与えられます。
 
 そのような全てを委ねられる神様への信頼はどうして持てるのでしょうか?その根拠はローマの信徒への手紙 8:32にもに示されています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。 」天の父なる神様は、御子を通して私たちがイエス・キリストを信じる信仰で、罪が赦され、義とされ、神の子供にして下さり、惜しみなく祝福と恵みを与えて下さる方です。御子を与えるほど、私たちを大切に思ってくださっているのだから、ましてや、他の生きる上で必要なものが与えられないわけがないとこの御言葉は示しています。このことを信じることが根拠で、神様との信頼関係が深められます。「すべて」とは、寿命も含めてです。病気になることも含めてです。信仰があれば、全て人生順調にいくとは聖書にかいてありません。聖書で記されているのは、困難にあっても神様がそれらを取り扱ってくださる、全てのことを益に変えて下さり(ローマ8:28)、困難に耐えられるよう、逃れの道も備えて下さる(コリントⅠ 10:13)という約束です。ですから、困難、試練は生きている限り必ずきますが、神様への信頼を持ち続けることで、心配する必要がないのです。
 
 イエス様は33節で「何よりも、神の国と神の義を求めなさい」と導かれます。神の国とは、神様の意思が行われる領域です。神様のみ心は、皆が神様を信じ、神様を礼拝し、神様の愛の関係が与えられることであり、そのために、キリストが十字架にかかって下さり、死なれ、復活されました。神との正しい関係がもてることを、義とされると言い換えられます。神の義を求めるとは、神様との正しい関係が与えられることを自分だけでなく、すべての人に与えられるように求めることでしょう。イエス様がヨハネによる福音書 16:23-24で 「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
 
 イエス様の名前を通して天の父なる神様へ祈り求めれば、与えられ、わたしたちは喜びで満たされるとイエス様は約束してくださっています。私たちが神様の豊かさを受け取ることができるように、喜びが満たされるようにしてください!と、遠慮なく、大胆に祈りましょう。
 
 喜びについては、テサロニケの信徒の手紙Ⅰ 5:16-18に「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。
 
 JOY(喜び)に満たされ続けるには  この頭文字の優先順位を覚えておくと良いです。
  Jesus   イエス様 を一番にする。神の国を求める

  Others   他者に配慮する、寄り添う、親切にする

  You     あなた  あなた自身のことは全て主にゆだねる。あなたを最後にすると、思い悩むことも減ります。

 イエス様は34節で 明日のことは明日自ら思い悩むと おもしろい表現をしています。 明日のことを心配しても、自分の思う通りに明日を、未来を変えることは人間には不可能です。かえって、思い煩って他の心の病を引き起こす可能性もあります。イエス様はその日の苦労はその日だけで十分だと言われます。今日起こったことに対して、あくせくして対応するのは仕方がないことです。そして「大変な一日にだった」と振り返る労苦だけで、十分であると。ですから、明日という当日になって思い煩わざるを得ないことがおきるので、明日自らがわずらうのです。つまり前日と明日に、2重に思い悩む必要がないということです。逆に、日の終わりに「今日も生かされた」ということを神様に感謝することができ、そして明日からのことは神様に委ねていこうと祈って床に就けば、不安で眠れないという状況にならないはずです。不眠というのは、体は睡眠を欲していても、頭がいろいろ考えてしましいつも動いているから眠れないのです。
 
 世の中は、特に日本では教会に来る人は少ないです。家族も、世の中も人も神様のことに興味はなく、今の生活のことで精一杯であり、娯楽を求めて気晴らしをするのに忙しい状況です。しかし、イエス様のこの言葉(ルカ12:32)
 
 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国を下さる」という約束を信じましょう。当時、イエス様の弟子たちの群れは小さかったし、不安定な枕するところもない旅をしていましたので、不安になる要素はたくさんあったでしょう。イエス様は、弟子たちに大丈夫だと励まされます。そして今日の私たちの教会のように、小さい群れに対しても、同じ言葉をかけてくださっています。祈り続ければ、必ず御心にそう祈りなのでかなえられるという約束があります。神様が神の国を私たちを通して広げてくださること、それが小さいことかもしれませんが聖霊の導きによって私たちを通して実現に至らしめてくださることを期待し、互いに励ましあいましょう。
   
 (引用 新共同訳聖書)
 


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「ろくろで作る土の器」

2024-09-12 11:10:22 | 日記

 先日、益子焼き体験で、ろくろで土の塊から、お皿と花瓶を作成された方から、その作品の写真を見せて頂きました。その方は今回初めてだそうで、マンツーマン指導を受けて作ったのですが、非常に難しかったと。けれども、自分の手で作品を生み出すことの楽しさと、また自分の作品をいとおしく思ったと言われていました。そしてその時、「神様が人間を創造した時も、同じようにその作品である人間に対しての愛情を持たれたのだろう」と、神様の人間への愛を、陶器づくりを通しても知ることができたとおっしゃっていました。そして、その作品は初めてとは思えない、とても素敵な作品でした。

 一般的に、器というのは何かの目的を持って作られるものですが、益子焼きの作家さんたちの作品を見ても、機械でつくる大量生産の器と異なり、一つ一つの作品に特徴があり、思いが込められているのを、素人の私が見ても感じます。ましてや、神様が人間一人一人を創造される時、その人の人生で、その人の為の目的をもって創造し、そしていとおしく、大切に思い、そして人がその神様の愛に気づき、神様への信頼関係を持つことを願っておられることが聖書に示されています。たとえ、壊れてしまっても、神様は修復することが出来る方です。なぜなら創造される主なる神様は、救い主(贖い主)でもあるからです。神様の目にはわたしたち一人一人は値高く、貴いとみて下さる*1、と記されているとおりです。

 「光あれ」と天地の創造のとき、神様は言葉で言われて、その通りになっていくように、神様の御子イエス・キリストが私たちの救い主であるという福音と、生きている間に経験するその救いの御業を悟る光を私たちの心に与えられます*2。パウロは私たちを土の器として例え、この並外れた偉大な神様の力を土の器の中に納めている宝と記しています。この宝がその器を通して光輝き、神様の力がわたしたちを通して現わされます。器である私たちに力があるのではないので、器は立派でなく、壊れやすく、欠けがあるかもしれません。しかし、各器の中にある宝に力があり、この神様の力を通して、私たちがどんな試練にあっても、神様の愛に根差し、愛にしっかりと立つものとして、他者に仕えていく力となるという希望が与えられていることは幸いです。人知を超えた、計り知れない神様の愛を、土の器より気が付かされ、神様へ感謝したいと思います。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」 コリントの信徒への手紙Ⅱ4章7節 (引用 新共同訳聖書)

*1 イザヤ書43章3-4節参照

*2 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章6節「「闇から光が輝き出よ」」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」

 


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「憐れみ深い神」 土曜礼拝メッセージ

2024-08-31 14:04:59 | 日記

聖書箇所   マルコによる福音書1章40-45節 

本日はマルコによる福音書より「憐れみ深い神」と題しまして、メッセージをさせていただきます。

 「憐れむ」という言葉は、どんな時に用いられるでしょうか。つらい状況の人から話を見聞きし、「可哀そうだな」と思うことができますが、他人であればあるほど、深くその人に感情移入をすることはそう多くはないと思います。「断腸の思い」というのがあり、これは中国の故事からきています。ある人が親子の猿を見つけ、その子猿を船で連れ去ると、母猿は必至に河岸をずっと走って追いかけ、そしてとうとうその船に飛び乗ってきましたが、その時母猿は息絶えてしまいました。そして、その母猿の腹を裂くとはらわたがちぎれていたということで、つまりはらわたが裂けるほど母猿が子猿のことを思って苦しんだのが「断腸の思い」の由来だそうです。新約聖書での「憐れみ」、「慈愛」を表す単語(原語はギリシャ語)も同じで、「腸がちぎれるような苦しみ」という意味から転じて「憐れみ」という意味になったそうです。また旧約聖書の原語ヘブル語で「憐れむ」は「子宮」という単語からきており、つまり出産の際の母体の子供に対する慈しみの心という意味が「憐れむ」となり、神様が人間を憐れむときの表現に使われている単語です。

たとえば、列王記Ⅰ3章にソロモン王の知恵を表す裁判の話があります。二人の遊女が同時期に子を産み、一人が赤ん坊を踏んで死なせてしまったところ、その女がもう一人の遊女の子供と死んだ子をすり替えて、生きている方が自分の子だと主張しました。二人がそれをソロモン王の前の裁きに持ってくと、「この子を二つに割いて、半分ずつ二人に与えよ」と言いました。すると、本当の母親である女が、わが子を憐れに思うあまり、「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人に上げてください」と言った時の「憐れに」という単語もそうです。

また、ホセア書11:8で、神様は反逆したイスラエルの民に対して、「どうして見捨てることができようか」と激しいく心を動かされ、憐みに胸を焼かれる」という箇所での「憐れみ」もそうです。神様が私たち人間をかわいそうに思われるその表現は、旧約聖書では、激しい、あたかも母親が母体の子を慈しむ、愛を注ぐ思い、女性的な愛情で示されているのが興味深いです。なぜなら聖書は神様を「父なる神」とし、父親的な表現で示しているからです。だからといって、神様に実際男女の性別があるわけではありません。性別というのは被造物の持つ生物学的なものであるとされます。わたしたち人間が神様を理解できるように、類比的に父の愛、母の愛で神様の愛は表現されています。

 

聖書に記録されているイエス様は、当時の政治的に虐げられ貧しい民衆、治らない病を持つ人々、悪霊に取りつかれて苦しむ人々、「罪びと」と言われ社会から疎外され、同胞から差別されていた人々と積極的に関わり、「神の国」を宣べ伝え、彼らと食事を共にし、病を癒されました。イエス様の行動の動機は下記の箇所のように「深く憐れんで」と記されています。イエス様の憐みは単に可哀そうと思うだけでなく、その方々に寄り添い、共に苦しみ、そして助けるという慈愛の思いと行動を伴うものでした。本日の聖書箇所も、重い皮膚病にかかっている人が置かれている社会的状況、つまり汚れた存在として隔離されている状況(レビ記13:45-46)に対して深い憐みを示されたところです。イエス様は思い皮膚病にかかっている人を、腸がちぎれる想いにかられ、手を差し伸べて、その人に触れ、「よろしい。清くなれ。」と言われました。

 

イエス様はあえて隔離されている地域に近い路地を通られたからこそ、重い皮膚病を患っている人が、イエス様に近寄って来られたのでしょう。律法では、一般の人に感染しないように移動するときは、一定の距離を置いて歩き、しかも「汚れている」「汚れている」と叫びながら歩かなければならないという、なんとも悲惨な状況でした。その人は、イエスさまの噂を聞いていたので、本当は近くまで行くことができない、そういう社会の、律法のきまりを犯してまで、イエス様の近くへ行きひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったのです。

この人は、膝まずいて、低い姿勢でイエス様に、信仰を持って近づきました。するとイエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」のです。

 

イエスが癒したあと、すぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」と言われた理由は、単にイエス様の癒しの奇跡を魔術のように触れ回ってもらうと、イエス様が神の国を宣べ伝えるという主な目的が妨げられるからであり、この人が癒されてなすべきことは、社会復帰するためにまず律法で定められたこと「祭司に見せて、清いと宣言してもらう」ことをしてほしかったのだろうと思われます。残念ながら、この男は大いにこの出来事を人々に告げ言い広め始めてしまいました。嬉しかったのでしょう。イエス様は。もはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられましたが、それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来たと記されています。

 

私はこの箇所を通して、神様の恵みを自分が受けるばかりで、表面的にしか他者を思いやっていなかった愛のなさを示され、悔い改めます。以前病院で働いていた時は、入院している患者さんたちの生死といつも直面していましたが、全員と接しているわけではなく、関わっていない患者さんの死に対しては無感覚になってしまうことが、働いていて一番つらかったことでした。私が直接かかわるケースは、家族がいなかったり、生活保護を受けていて入院費・アパートの家賃の支払いが困難だったり、何かしら支援が必要な方々でした。今でも忘れないのが、病気が進行し退院ができなくなってきた患者さんと、事務的なことを代理人業者やアパートの家主に取り次がなければならない時がありました。その方とお話するたびに、家に帰りたい、でも自身の体が日に日にしんどくなりと、ご自分の死を覚悟しなければならないけれども、受け入れられないという葛藤を見て取れるとき、私はこの人にどう寄り添えるのかと、なんとかキリストの救いの話しのきっかけを引き出せないかとあれやこれやと考えているうちに、他の仕事もあるので機会がなく、ある朝、その方がすでに亡くなっていたと報告がありました。私は、その人の隣人になりたかった。しかしなれなかったという心残りがあり、そのことを神様に祈りました。キリスト教の病院で、チャプレンとして働く職種でなければ、患者さんに福音を伝えるというのは一般の病院では困難でした。私は、仕事としてキリストの福音を伝えたいという思いが、病院勤務の経験を通してさらに強められ、伝道師になろうと導かれたと思います。

 

隣人と言えば、イエス様は良いサマリア人のたとえを話されました(ルカ10:25-37)。ある旅人が強盗にあい、瀕死状態で道で倒れていた時、祭司やレビ人という宗教家たちは見て見ぬふりをして通り去った。しかしユダヤ人の敵であるサマリア人が通りかかると、その人を憐れに思い、応急手当をし、宿屋へ連れて行って、宿の代金プラスもっと費用がかかったらそれを支払うとまで言った。そして、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めにおいて、この3人の内誰がこの人の隣人となったか?とイエス様は律法学者に問い、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。隣人になるとは、相手が誰であれ傍によって、相手をかわいそうに思い、共に苦しみ、その人に寄り添うことまで問われます。どうやったらそんな、憐みの心をもてるのでしょうか。

 

イエス様はルカによる福音書6章35-36節でこう言われました。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と話され、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

 

私たちにとって敵とはだれでしょうか。単に自分に敵対してくる人だけではなく、現代社会的にニュースで犯罪を犯した人を見てひどい奴だ、だめな人だと見下げてしまわないでしょうか。そのような態度も彼らを敵としてみなしているかもしれません。一方、天の父は恩知らずの悪人にも情け深いのです。イエス様のいわれる隣人とは、このルカの箇所の天の父が示す憐れみを基準にして、その人の隣人になりなさいと言われます。非常に難しい、実行不可能のことと、諦めてしまいそうになるかもしれません。

 

私たちも以前、キリストへの信仰をいただく前、自分でなんとか困難を乗り越えようとし、それが出来なくて辛く、悲しく、惨めな状態があったと思います。神様はそんな私たちをかわいそうに思って、憐れんで下さり、はらわたが裂ける程の痛みをもって、共に苦しんで下さったからこそ、イエス・キリストの命を犠牲にして、私たちを救い出してくださったことを、深い感謝を持って思い起こします。神様は目に見えなくとも、悲しみの真ん中に共におられる、共に苦しまれていることを信仰で受け止められると、大きな慰めが与えられます。このような憐み深く、共に苦しんでくださる神様は、私たちが自分の意思や力で、ご自分と同じような憐みの心を持って行動するように、強いられるかたではありません。わたしたちが出来ないのはわかっておられるのです。ただ、できなくとも、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と、わたしたちが自ら、キリストの心に沿いたい、清められたいという思いを神様に祈り、キリストが内に住んで下さるように願うことで、それが可能になるという希望があります。

 

エフェソの信徒への手紙3章17節に「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根差し、愛にしっかり立つ者としてくださるように。」とパウロが祈っているように、キリストの憐みのこころを持つには、私たちの内にキリストが住んでいただくしかないと思います。そうすれば、私たちが、キリストの愛にねざし、愛にしっかり立てるよう内に住む聖霊が導いてくださります。すると差別で苦しむ人、「人と違う」「弱い」からなどでいじめられ、虐げられて辛い思いをしている方、自分の敵に対してさえもっと気にかけるように、心が変えられていく、そして最初は何もできなくとも、その方々のために祈り始める。するといつか、わたしたちにも、各々与えられた場所で、その時その時にある人の隣人になる機会が与えられると思います。そして、イエス様は、わたしたちがその機会を逃して出来なかったとき、また別の機会も与えて下さる、やさしいかたです。

 

私たちは、インマヌエル「神が共にいて下さる」という名前である、イエス・キリストを、自分の必要や悩みのためだけでなく、他の方々の必要のために自らが関わっていくということを生活の様々な状況で実感したいと願います。


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礼拝でのかぶり物@ルーマニア人の教会

2024-08-30 10:42:45 | 日記

 以前ギリシャのアテネに旅行に行ったとき、ルーマニア人教会の礼拝に参加したことがあります。その当時ギリシャには多くのルーマニア人が出稼ぎ労働者として在住し、彼らのための教会が現地にあり、この時日本人のグループ向けに日本人の宣教師が通訳をして頂き、礼拝に参加させて頂きました。そこで驚かされたことは、まず小さい子供も静かに座って、お母さんと礼拝に参加していること(通常子供は礼拝の途中で退席、もしくは最初から子供の礼拝として別に行われている)、そして女性が頭にハンカチみたいな布をつけていること、こんなにも大勢の若い家族が、異国の地にて彼らの母国語での礼拝を捧げるため熱心に集まっていることでした。女性の頭の布はかぶり物と言われ、女性が礼拝に出席する際に身に着けるべきものとして聖書に記されており*1、キリスト教でも宗派によってそのことを今でも守っている教会はありますが、現代の特にプロテスタントの教会では服装は自由であり、かぶり物を女性がつけることを守っているのは珍しいからです。

 私は聖書を読むとき、その時代の社会を反映している慣習や差別的記述に関してはあまり深く考えずにいました。特に女性の地位は当時低く、頭数には数えられないし、公的な場での発言は許されていませんでした。しかし、使徒パウロはイエス・キリストの福音を宣べ伝える上で、革命的なことを記しています。人種、性別、社会的階級は一切なく、キリスト・イエスにおいて一つなのだと*2。そして、礼拝において女性も与えられた賜物を用いて発言(祈ったり、預言したり)できるという画期的なことを記しています*3。キリストにおいて、人は新しく創造され、神様の前に違いはなく、平等であるからです。一方で、当時の社会的身分の違いがそう簡単にひっくり返るわけではなく、パウロがそれにそった発言をしていることも彼の手紙に示されています。その一見矛盾とも思われる記述について、それはパウロの平和や秩序を大切にしていたゆえの、周辺社会への配慮だと思えるのです。しかしパウロはさりげなく彼の手紙に、地域教会で奉仕していた女性たちの名前を挙げています。それは大っぴらには言えなくとも、キリストにある新しい信仰共同体(教会)においては、女性の立場と使命は新しくされていることを控えめに表現しているのではないでしょうか。

 パウロは、キリストの十字架によって、人間関係における敵意が滅ぼされ、キリストにおいて一人の新しい人につくり上げることで、平和を実現し、キリストを信じる者を一つの体として神様と和解させてくださったと記しています(エフェソ2:14-16)。キリストを信じる者は、自分たちが救いに与ることに留まらず、キリストの福音を知らない人々に伝える、つまり神との和解を勧める任務があります。キリスト者は、差別や敵意を廃棄したキリストの平和を世の中に運ぶ役目があります。その際、相手の社会背景、宗教、歴史を無視し、これが真理だと押し付けるやり方は、キリストの愛に根差していないでしょう。過去キリスト教の宣教にそういう時代があったことも否定できません。その反省とともに、違った考えを持っている人とまずは対話し、困っているもしくは虐げられた人々の話を聞く、そして平和に向けて共に働いていこうとすること、その上でキリストの福音を曲げずに伝えていくことが問われるのではないかと思わされます。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」 (コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章17節)  (引用 新共同訳聖書)

*1 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章2-16節

*2 ガラテヤ3:26-28

*3 コリントの信徒への手紙Ⅰ 10:5  14:1-5


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「目を開かれたので」

2024-08-16 16:44:37 | 日記

 猛暑日が続く年です。驚いたことに、これとほぼ同じ気温が82年前の8月に名古屋市内でも記録されていたそうです。当時は冷房はありませんが、日本家屋は風通しを良くした作りで、蚊帳を使って虫をよけ、家の敷地内に木を植えて日陰を作り、井戸水を打ち水にしたりと工夫をし、なんとか乗り切ったそうです。現代では冷房がない生活が考えられません。しかし、森林の中は太陽の光が木々にさえぎられ、真夏の日中でも涼しく快適ですので、私たちは週に一度は車で森の傍まで行き、森を一時間程歩きます。

 地球には、砂漠地帯のような年中酷暑の場所に住む民族もいます。古来からベドウィンなどの遊牧民は砂漠に点在するオアシスを利用し、ラクダ・羊の放牧や売買を営みながら、テントで移動生活をしています。現代は定住化する人が増え、その人口は減っているそうです。そのベドウィンの話に関連し、ハガルという女性の話が聖書に記されています。彼女はエジプト人で、古代イスラエル民族の祖先のアブラハムの妻、サラの奴隷として雇われました。神様がアブラハムとサラに子を授けると約束しましたが、高齢のサラはそれを待ちきれず、自分の代わりにハガルに夫と子供を作らせ、自分の子とすると提案しました。いざ神様の約束どおりにサラが子を授かると、彼女はハガルとその子イシュマエルを追い出すようアブラハムに要求し、哀れなハガルは息子と二人っきりで砂漠に追い出されました。ハガルが苦しんで泣いていると、天から神のみ使いが呼びかけ、井戸を見つけさせ二人を助けたというストーリです。この親子は砂漠に住み、イシュマエルから12部族の民族が生まれました。

 聖書の本筋はイエス・キリストの祖先となるアブラハムとサラのストーリーですが、今回ハガルにあえて着目したのは、神様は弱い者の叫びをこの世界中のどこでも聞き逃さない方であると今一度気づかされたからです。そして、目の前にあっても、様々な事情や思いで覆いかぶされて見えなくなっている必要なもの、つまり神様のキリストに示される愛を、その人の目を開いて見せて下さります。ハガルがこの時神様への信仰を持っていたどうかは記されていませんが、虐げられ、悲しみに叫んで泣いていました。神様は、その人に信仰があってもなくても、全ての人の叫びを聞き、かわいそうに思って、助けて下さる、慈愛の方であります。その究極が、ご自身の御子イエス様を全ての人が救われるために、十字架で死なせ、復活させた出来事に現わされます。

今、戦争により生死の狭間におかれている状況、家庭内暴力、学校でのいじめ、会社でのハラスメント、多くの人々が神様を知らずに苦しみ、叫んでいます。これらの人々の声を神様が聞いて下さっていることを信じ、その方々のために祈り続けたいと思います。神様を信じることによる解放、救い、すばらしさ、そして神様にすべてを信頼し、委ねて生きることが出来ることを「知る」ことが出来るように祈りたいと思います。私たちは、明日についてどうなるかわからないので、思い煩ってもかえって心が病みます。むしろ、神様がなんとかしてくださるとすべて委ねて、神様に信頼しつつ、今生かされていることの感謝の祈りを日々ささげたいと思います。

 

「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。 神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。」(創世記21章19-20節)

 (引用 新共同訳聖書)


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