預言者イザヤの活動はユダ王国の「ウジヤ王が死んだ年」にと示されるので、BC8世紀前半から始まったと考えられます。彼はおよそ40年間にわたり、ユダ王国で王と民に神様の言葉を伝えました。しかし彼らは、イザヤの神様からの警告「主なる神に立ち帰りなさい、さもないと国が亡びる」というメッセージに怒り、聞くどころかイザヤを迫害しました。この時代、王も民も神様から離れ、他の国からもたらされた偶像を拝み、権力者が弱者を虐げ、社会的に不正がまん延していました。一方、次々と国を軍事力で征服していくアッシリア帝国の脅威に脅かされていた時代です。当時の神殿のあるエルサレムがアッシリア軍に包囲された時、奇跡的に神様により守られ、滅びずに残されたという出来事があり、それは神(ヤハウエ)の恵みであり、だからこそ、神に立ち帰れと語っています(イザヤ書1:8-9)。イザヤ書は新約聖書では少なくとも400回引用(暗示・言いかえも含めて)され、インマヌエル預言、メシアの預言が含まれています。
〇イザヤの預言者としての召命
本日の箇所は、イザヤが神殿で礼拝中に、幻にて神様が現れた時のことが記されています。イザヤは「見た」と書いていますが、神様の「衣のすそが神殿いっぱいにひろがっていた」とだけあるので、神さまの全体を見たわけではないようです。出エジプト記33:20で「人はわたしを見て。なお生きていることはできない」と神様はモーセに言われているからです。神様のまわりで6つの羽を持って飛んでいるセラフィムという天国の生き物たちが、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と言っています。
その様子を見たイザヤは、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(10節)と言って、自身の汚れた唇、つまり自身の罪及び同胞の罪を言い表しています。イザヤのように聖なる神様に出会うと、人は自身がどんなに罪深いものであることを告白せざるを得ない状況になります。聖なるとは、「分離」という意味です。全知全能の神は私たち被造物とは全く分離されている方であり、人とは異なり、人は神になれません。聖なるが3回繰り返されているのはヘブル語は最上級の形容詞がないので、繰り返すことで最も聖なるという表現に使っているそうです。新約聖書で、弟子として呼ばれた時のペトロがイエス様に出会った時「主よ わたしから離れてください わたしは罪深い者です」と言ったように。私たちも同様に、御言葉の福音を通してイエス様と出会うと、自分の罪深さを自覚します。セラフィムの一人がイザヤのところに飛んで来て、祭壇から火鋏で取った炭火をイザヤの口に触れさせて「見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」(7節)と言い、イザヤは死なないで済み、彼の罪が赦されたので、この後、神様と対話することが可能となります。
私たちも自身の罪を告白すると、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦され、そしてイエス様の復活の力によって、新しく神の子供として生きることができるという恵みに預かれます。そして、遠慮なく、イエス・キリストの御名で天の神様に祈ることが可能となることは幸いです。
〇民の心を頑なにする預言
イザヤは罪が赦されたあと、「誰を遣わそうか」という神様の召命に「わたしを遣わしてください」と答えました。預言者としての召命に即座に答えます。しかし、神さまは非常に不思議なことを言われます。9-10節「行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために。」これはあたかも、神様が民の心を頑なにするかのような表現です。ここは、イザヤの預言者としての活動がどれほど困難であるか、彼らはイザヤが伝える神の言葉を聴かず、悟らず、悔い改めるどころか、イザヤを迫害するであろうと、彼の預言活動の困難さをあらかじめ、伝えているととられています。
〇荒廃の後の回復:切り株の希望
これに対し、イザヤは(この救われない状態は)「いつまでですか?」と神様に尋ねると、神様は「町々が…荒廃して崩れ去るときまで。」と言われます。神様は厳しいユダ王国の滅び、つまりユダに対する裁きを言われますが、それでも「そのときまでと」終わりがあることを示します。7節「主は人を遠く移される」は民が捕虜としてバビロニアへ連れ去られることを預言しているととれますが、その後、切り倒された木の跡に残る、切り株の希望を言われます。10分の一が残るが、それも焼き尽くされる、しかしその切り株が残る、つまり神が連れ戻す残りの者がいて、イスラエル民族は滅びないとことが13節に示されます。そのわずかな残り、そして切り倒されたテレビンの木、樫の木のように、切り株から芽吹き、新しい葉が起こること、そのような新しい成長、人々の間での神の新しい働きが現れるという回復の希望が記されています。「切り株」は破壊的力によって切り倒されるという「裁き」の象徴でありますが、同時に再生の可能性の象徴でもあります。神様はアブラハムからイスラエル民族を起こされましたが、創世記12章でアブラハムと契約を結ばれました。それは彼の子孫を通して、全ての国民が祝福されること。この子孫が神の御子イエス・キリストであり、キリストを信じる信仰によりすべての人が救われるという道を神様は用意されていたので、イスラエル民族は歴史的にも国を失い、絶やされてしまいそうになりながら、この神様の計画がなされるために、切り株、聖なる種子が残されていたのです。
切り株の希望とは、主イエス・キリストによる救いであります。切り株から新芽がで、若枝が伸びるように、神様のご計画においては、人がどんなに罪を犯し、神様から離れようとも、絶望状態におちいったとしても、若枝として登場されるメシア、イエス・キリストが私たちの代わりに十字架で罪を負って死なれ復活されたことで、私たちが神様に赦され、私たちと神様の壊れた関係に和解がもたらされます。失われた状態であった私たちが、人として望ましい状態に回復される、平和・平安の時が来ることを約束してくださっていることです。イザヤ書11章でも若枝という表現を通して、メシアを預言しているとされ、その日が来れば、またその根が全ての民の旗印とされ国々はそれを求めて集うこと、つまり切り株から生まれる、救い主イエス・キリストにある希望を、イザヤの時代から神様は約束されています。預言者エレミアも33章15節で「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」と預言しています。
アッシリア、バビロニア帝国に国を滅ぼされ、捕囚で他の地に連れ去れれた、この当時に生きていたイスラエル・ユダの人たちは、この預言を、将来国が復興されることと受け取り、希望をいだいたことでしょう。しかし、この預言はこの当時の人々だけのためでなく、私たちのためでもあります。神様は全ての人間を罪と死の力から救い出すメシア、イエス・キリストを通して私たちを回復させて下さることをあらかじ預言され、全ての人に対する希望を約束です。
〇救い主:メシヤにある希望 すべての人々の回復
このイザヤの民の頑な預言は新約聖書でいくつか引用されています。イエス様は種まきの譬えの後で、ご自分の譬え話が結果として人々の心を頑なにすることを、イスラエルのかたくなさと関連付けて言われ、弟子たちに宣教の困難さを示しています(マルコ4:11-12)。
パウロはこの頑くななイスラエルの民を神様は見捨てていないことを、ローマの信徒への手紙で説明しています。まず、異邦人が信仰によって救われ義とされることを記した後、では律法を守ることで義とされると信じ、神に選ばれたイスラエルの民は救われないままでいるのか?という話に展開しています。そして、答えとしてはそれでも神の選びは変わらず、残りの者が必ず救われると「残りもの」と旧約聖書を引用してパウロは言っています。神様のご計画は、一部のイスラエル人が頑なになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、イスラエル人が不従順になったのは、つまり頑なにされたのは、私たち異邦人が不従順の時に受けた神のあわれみを彼らも受ける為であり、神様はすべての人を不従順の内に閉じ込められて、全ての人を憐れむためだ(ロマ11:25-26)という不思議な計画をパウロに啓示されています。すべての人がいつか神に立ち帰り、救われる日が来ることの希望を伝える。これは人間の常識や考え方では理解しがたいことではありますが、これも神様のご計画であると任せて、信じる信仰をもちたいです。
先日ある方が、益子教会に来られた時、彼が自身がクリスチャンとなったきっかけは、駅前で配られた一枚のトラクト(伝道用の冊子)だったという証しを聞くことができました。彼は高校生の時に駅前で配られたトラクトに書かれている福音の内容に興味を持ったけれど、彼の両親の反対もあり教会には行かなかったそうです。それから大学生になったとき、再びトラクトを受け取り、その教会に行くようになって、信仰に導かれたそうです。ですから、日本は文化的に、宗教的に宣教が難しいと悲観的にならず、彼のように神の言葉である種がまかれて、それが芽を出す人が必ずいる、その時でなくとも、後になって信仰に導かれるという証しは、非常に励まされました。
日本で人口の1%弱のクリスチャンの数という統計は私たちを悲観的にさせ、宣教活動が困難であることは確かです。イザヤのように人々が頑なであることを聞いても、私たちも神様が共にて、助け導いてくださることを信じ、主の言葉を語り続けたいと願います。必ず御言葉を聞いて、救われる人がいることを信じ、切り株の希望を持っていたいと思います。短期的には実を結ばないように見える活動も、このトラクトから導かれた方のように、後から必ず芽を出す種がまかれているからです。私たちが成長させるのではなく、神様が成長させてくださり、私たちの役割はキリストの福音を知らせる、つまり種まきです。教会として、神様を求めてきた方々に、私たちみんなで仕えることで、神様がその人を救われるという御業に参加するよう、神様は一人一人を招いてくださっています。 (新共同訳聖書 引用)
神様の計画は全ての人に福音が告げ知らされ、信じて救われることであり、神様の時間で神様の業のなされるタイミングを期待して祈りつつ、各々が主に召された者として、置かれた場所で救い主キリストの福音を伝える者となれるよう互いに祈り合いましょう。