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聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

礼拝メッセージ 「希望の切り株は残る」 イザヤ書6章1-13節

2025-06-14 08:29:06 | 日記

 預言者イザヤの活動はユダ王国の「ウジヤ王が死んだ年」にと示されるので、BC8世紀前半から始まったと考えられます。彼はおよそ40年間にわたり、ユダ王国で王と民に神様の言葉を伝えました。しかし彼らは、イザヤの神様からの警告「主なる神に立ち帰りなさい、さもないと国が亡びる」というメッセージに怒り、聞くどころかイザヤを迫害しました。この時代、王も民も神様から離れ、他の国からもたらされた偶像を拝み、権力者が弱者を虐げ、社会的に不正がまん延していました。一方、次々と国を軍事力で征服していくアッシリア帝国の脅威に脅かされていた時代です。当時の神殿のあるエルサレムがアッシリア軍に包囲された時、奇跡的に神様により守られ、滅びずに残されたという出来事があり、それは神(ヤハウエ)の恵みであり、だからこそ、神に立ち帰れと語っています(イザヤ書1:8-9)。イザヤ書は新約聖書では少なくとも400回引用(暗示・言いかえも含めて)され、インマヌエル預言、メシアの預言が含まれています。

〇イザヤの預言者としての召命

 本日の箇所は、イザヤが神殿で礼拝中に、幻にて神様が現れた時のことが記されています。イザヤは「見た」と書いていますが、神様の「衣のすそが神殿いっぱいにひろがっていた」とだけあるので、神さまの全体を見たわけではないようです。出エジプト記33:20で「人はわたしを見て。なお生きていることはできない」と神様はモーセに言われているからです。神様のまわりで6つの羽を持って飛んでいるセラフィムという天国の生き物たちが、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と言っています。

 その様子を見たイザヤは、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(10節)と言って、自身の汚れた唇、つまり自身の罪及び同胞の罪を言い表しています。イザヤのように聖なる神様に出会うと、人は自身がどんなに罪深いものであることを告白せざるを得ない状況になります。聖なるとは、「分離」という意味です。全知全能の神は私たち被造物とは全く分離されている方であり、人とは異なり、人は神になれません。聖なるが3回繰り返されているのはヘブル語は最上級の形容詞がないので、繰り返すことで最も聖なるという表現に使っているそうです。新約聖書で、弟子として呼ばれた時のペトロがイエス様に出会った時「主よ わたしから離れてください わたしは罪深い者です」と言ったように。私たちも同様に、御言葉の福音を通してイエス様と出会うと、自分の罪深さを自覚します。セラフィムの一人がイザヤのところに飛んで来て、祭壇から火鋏で取った炭火をイザヤの口に触れさせて「見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」(7節)と言い、イザヤは死なないで済み、彼の罪が赦されたので、この後、神様と対話することが可能となります。

 私たちも自身の罪を告白すると、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦され、そしてイエス様の復活の力によって、新しく神の子供として生きることができるという恵みに預かれます。そして、遠慮なく、イエス・キリストの御名で天の神様に祈ることが可能となることは幸いです。

〇民の心を頑なにする預言

 イザヤは罪が赦されたあと、「誰を遣わそうか」という神様の召命に「わたしを遣わしてください」と答えました。預言者としての召命に即座に答えます。しかし、神さまは非常に不思議なことを言われます。9-10節「行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために。」これはあたかも、神様が民の心を頑なにするかのような表現です。ここは、イザヤの預言者としての活動がどれほど困難であるか、彼らはイザヤが伝える神の言葉を聴かず、悟らず、悔い改めるどころか、イザヤを迫害するであろうと、彼の預言活動の困難さをあらかじめ、伝えているととられています。

〇荒廃の後の回復:切り株の希望

これに対し、イザヤは(この救われない状態は)「いつまでですか?」と神様に尋ねると、神様は「町々が…荒廃して崩れ去るときまで。」と言われます。神様は厳しいユダ王国の滅び、つまりユダに対する裁きを言われますが、それでも「そのときまでと」終わりがあることを示します。7節「主は人を遠く移される」は民が捕虜としてバビロニアへ連れ去られることを預言しているととれますが、その後、切り倒された木の跡に残る、切り株の希望を言われます。10分の一が残るが、それも焼き尽くされる、しかしその切り株が残る、つまり神が連れ戻す残りの者がいて、イスラエル民族は滅びないとことが13節に示されます。そのわずかな残り、そして切り倒されたテレビンの木、樫の木のように、切り株から芽吹き、新しい葉が起こること、そのような新しい成長、人々の間での神の新しい働きが現れるという回復の希望が記されています。「切り株」は破壊的力によって切り倒されるという「裁き」の象徴でありますが、同時に再生の可能性の象徴でもあります。神様はアブラハムからイスラエル民族を起こされましたが、創世記12章でアブラハムと契約を結ばれました。それは彼の子孫を通して、全ての国民が祝福されること。この子孫が神の御子イエス・キリストであり、キリストを信じる信仰によりすべての人が救われるという道を神様は用意されていたので、イスラエル民族は歴史的にも国を失い、絶やされてしまいそうになりながら、この神様の計画がなされるために、切り株、聖なる種子が残されていたのです。

 切り株の希望とは、主イエス・キリストによる救いであります。切り株から新芽がで、若枝が伸びるように、神様のご計画においては、人がどんなに罪を犯し、神様から離れようとも、絶望状態におちいったとしても、若枝として登場されるメシア、イエス・キリストが私たちの代わりに十字架で罪を負って死なれ復活されたことで、私たちが神様に赦され、私たちと神様の壊れた関係に和解がもたらされます。失われた状態であった私たちが、人として望ましい状態に回復される、平和・平安の時が来ることを約束してくださっていることです。イザヤ書11章でも若枝という表現を通して、メシアを預言しているとされ、その日が来れば、またその根が全ての民の旗印とされ国々はそれを求めて集うこと、つまり切り株から生まれる、救い主イエス・キリストにある希望を、イザヤの時代から神様は約束されています。預言者エレミアも33章15節で「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」と預言しています。

 アッシリア、バビロニア帝国に国を滅ぼされ、捕囚で他の地に連れ去れれた、この当時に生きていたイスラエル・ユダの人たちは、この預言を、将来国が復興されることと受け取り、希望をいだいたことでしょう。しかし、この預言はこの当時の人々だけのためでなく、私たちのためでもあります。神様は全ての人間を罪と死の力から救い出すメシア、イエス・キリストを通して私たちを回復させて下さることをあらかじ預言され、全ての人に対する希望を約束です。

〇救い主:メシヤにある希望 すべての人々の回復

 このイザヤの民の頑な預言は新約聖書でいくつか引用されています。イエス様は種まきの譬えの後で、ご自分の譬え話が結果として人々の心を頑なにすることを、イスラエルのかたくなさと関連付けて言われ、弟子たちに宣教の困難さを示しています(マルコ4:11-12)。

 パウロはこの頑くななイスラエルの民を神様は見捨てていないことを、ローマの信徒への手紙で説明しています。まず、異邦人が信仰によって救われ義とされることを記した後、では律法を守ることで義とされると信じ、神に選ばれたイスラエルの民は救われないままでいるのか?という話に展開しています。そして、答えとしてはそれでも神の選びは変わらず、残りの者が必ず救われると「残りもの」と旧約聖書を引用してパウロは言っています。神様のご計画は、一部のイスラエル人が頑なになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、イスラエル人が不従順になったのは、つまり頑なにされたのは、私たち異邦人が不従順の時に受けた神のあわれみを彼らも受ける為であり、神様はすべての人を不従順の内に閉じ込められて、全ての人を憐れむためだ(ロマ11:25-26)という不思議な計画をパウロに啓示されています。すべての人がいつか神に立ち帰り、救われる日が来ることの希望を伝える。これは人間の常識や考え方では理解しがたいことではありますが、これも神様のご計画であると任せて、信じる信仰をもちたいです。

 先日ある方が、益子教会に来られた時、彼が自身がクリスチャンとなったきっかけは、駅前で配られた一枚のトラクト(伝道用の冊子)だったという証しを聞くことができました。彼は高校生の時に駅前で配られたトラクトに書かれている福音の内容に興味を持ったけれど、彼の両親の反対もあり教会には行かなかったそうです。それから大学生になったとき、再びトラクトを受け取り、その教会に行くようになって、信仰に導かれたそうです。ですから、日本は文化的に、宗教的に宣教が難しいと悲観的にならず、彼のように神の言葉である種がまかれて、それが芽を出す人が必ずいる、その時でなくとも、後になって信仰に導かれるという証しは、非常に励まされました。 

 日本で人口の1%弱のクリスチャンの数という統計は私たちを悲観的にさせ、宣教活動が困難であることは確かです。イザヤのように人々が頑なであることを聞いても、私たちも神様が共にて、助け導いてくださることを信じ、主の言葉を語り続けたいと願います。必ず御言葉を聞いて、救われる人がいることを信じ、切り株の希望を持っていたいと思います。短期的には実を結ばないように見える活動も、このトラクトから導かれた方のように、後から必ず芽を出す種がまかれているからです。私たちが成長させるのではなく、神様が成長させてくださり、私たちの役割はキリストの福音を知らせる、つまり種まきです。教会として、神様を求めてきた方々に、私たちみんなで仕えることで、神様がその人を救われるという御業に参加するよう、神様は一人一人を招いてくださっています。 (新共同訳聖書 引用)

神様の計画は全ての人に福音が告げ知らされ、信じて救われることであり、神様の時間で神様の業のなされるタイミングを期待して祈りつつ、各々が主に召された者として、置かれた場所で救い主キリストの福音を伝える者となれるよう互いに祈り合いましょう。


旧約聖書の学び 創世記20章

2025-06-05 07:58:19 | 日記

〇6月5日 創世記20章 繰り返された失敗

 この章はアブラハムがネゲブ地方へ移り、ゲラルという場所に滞在した時の話です。アブラハムは、自分の妻サラを妹だと偽ったので、ゲラルの王アビメレクがサラを宮廷に召し入れたとあります。これと同様な話が創世記12章10-20節でも記されており、飢饉のため皆でエジプトに移住した時、アブラハムはサラを妹だと偽りました。そしてサラの美しさがエジプト人の目に留まり、エジプトのファラオに召し入れられたが、主がエジプトの人々に恐ろしい病気にかからせたので、ファラオは怒って、サラを帰しアブラハムをエジプトから追い出したという話です。

 20章では神様が介入されて、夢でアビメレクに語られます。そしてアビメレクは自分の潔白(アブラハムより「妹」だと言われたから宮廷に召し入れたこと)を神に弁明したこと、またアブラハムになぜ嘘をついたのかと責めた時の、アブラハムの弁明が記されています。アブラハムの言い訳は、この土地には神を畏れることが全くないから、妻のゆえに自分が殺されると思った、そしてサラは異母兄弟であり、事実、自分の妹だということです(11-13節)。しかし、アブラハムはサラが彼の妻であることをアビメレクを恐れて言わなかったことは彼の嘘であり、そのおかげでアビメレクは神の裁きにあうところでした。神様を信頼せず、人間であるアビメレクを恐れたことによります。

 神様は、アブラハムの不信仰から起こった事にもかかわらず、彼を「預言者」として、逆にアビメレクのために執り成しの祈りをする役目を与えていることが興味深いです。アビメレクは異教徒であり、主なる神を知らないにもかかわらず、夢で現れ、語られた主を畏れ、主の言う通りにアブラハムにサラを帰して贈り物を与え、彼の領土内に好きに住んで良いと許可を与えました。アビメレクは、サラに対しても「わたしは宮廷に召し入れたが、あなたに何もしていない」と疑惑をはらすため、銀1000シュケルをその証拠として「兄に」贈ったと、これであなたの名誉は回復されると、サラに対してもはっきり、自分の名誉にかけて言いました。(16節)

 アブラハムのこのゲラルでの出来事が、神様からのイサク誕生の告知の後に記されていますが(それが実際、年代順であるかどうかは別として)、神様は約束の子を産むサラを守るため、またアブラハムとサラを祝福するため、またアビメレクが神様からの呪いを受けないため(今回は、アビメレクの宮廷の女性たちが不妊になって、アブラハムの執り成しの祈りで癒されたと18節記されています)介入してくださったことが示されています。

 神様から呼び出され信仰で歩んできたアブラハムの歩みにおいて、彼の信仰が練られて成長してきたことがわかりますが、同時に失敗もありました。にもかかわらず神様が常に忍耐強く、憐れみ深く、神様の約束を果たすために軌道修正され、その都度助けられてきたことが創世記で記されています。私たちも失敗を繰り返すことがありますが、同じ失敗を繰り返すというのは、たいがい、きちんと悔い改めてない場合であり、神様はそのことを学んで悔い改める迄同じような状況が起こることを許され、私たちを試されることがあるでしょう。自分の思いで動いてし失敗したり、危機的状況を招いてしまったら、すぐに神様に悔い改め、助けを求め、そしてその失敗からの教訓を忘れずに、神様にますます信頼し、神様の御業にために用いて頂けるよう、祈り求めていきたいと願います。


旧約聖書の学び 創世記19章

2025-05-29 08:00:19 | 日記

〇5月29日 創世記19章 ソドムの滅亡とロトの救出

 アブラハムが、18章でソドムの人々が滅ぼされないように執り成しを神様にしたのにかかわらず、結局10人どころか、一人の義人もいなかったのでソドムは滅ぼされることになりました。実際、現代にいたるまで、神様の前に義人は一人もいないとパウロが記しているとおりです(ローマ3:10)。にもかかわらず、私たちが滅ぼされないでいるのは、救い主イエス・キリストの十字架の死と復活のおかげです。イエス様は神の子ですが、完全な一人の義人となられるために人となって生まれてくださりました。このイエス様の義は、イエス・キリストを信じた人にその義が及ぶ、つまり、神様が正しいとその人をみなしてくださるから、滅びの道から救いの道へ移され、新しく神の子として生きるという、神様のご計画によります。

 神様は、ソドムの町が滅ぼされる経過で、アブラハムのために甥のロトとその娘たちを助け出して下さりました。ロトは二人の天使がソドムの町に現れた時、彼らから何か普通の人でないものを感じたのでしょうか、彼らを守るために自分の家に泊まるように強いて勧め、彼らは承諾しました。ロトは町の人々:若い人から年寄りまでが旅人をどう取り扱うか、その残忍さを知っていたからこそ、自分が守らなければと思ったのかもしれません。案の定町の人々は、旅人をなぶりものにしようとロトの家にやってきますが、天使たちは彼らに目つぶしを食らわせます。そしてロトと妻と娘たちの手をとって、町から逃げるよう連れ出しますが、残念ながらロトの妻は逃げる途中で「振り向いてはいけない」と言われたのに、後ろを振り向いたため、塩の柱になったと記されています。ロトは恐れて、二人の娘と山に隠れて住んでいましたが、ソドムの人々の悪い影響を受けていた娘たちは父親のロトを酔わせて、父親との間に子どもを造り、子孫を残す計らいをしました。その二人の娘の子たちがモアブ人と、アンモン人の子孫となります。

 一つの町が滅ぼされてしまうというのは、非常に神様の厳しさを思わされます。しかし、そのソドムの人々の悪行のために、多くの人の叫びが神様に届いたと(18:21)記されているように、神様はその人々を助ける為に、ソドムの人々を滅ぼすという決断をされたのでしょう。今の世の中でも、むごい話を耳にします。子供が拉致され監禁されたままで長年虐待されたり、人身売買がなされたり、臓器が摘出されて売られたり、奴隷のように働かされている人がいたりと、なぜそんなことが人権が語られる現代でも許されるのかと怒りを感じることがあります。そういう時に「神様、彼らを助けてください」と祈らずにはいられません。被害に遭っている人々が救い出されるように、またそのようなひどいことをしている人たちが悔い改めて、その行いを辞めるよう祈り続けたいと思います。神様はすべての人を創られたので、全ての人を愛しておられますが、今や救い主イエス・キリストが来られ、救いの情報が全世界に宣べ伝えられているので、それ以前のその情報がなかったという言い訳が出来ない時代です。悪い行いから悔い改め、神を信じるようにと、また神の裁きについてもキリストの使徒パウロが記しているとおりです。「今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じられておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。」(使徒言行録17:30-31)神様は苦しむ人々の叫びを聞き、いつまでも虐げている人々をそのままにはしておかれない、正しく裁かれる方であることを信じ、神様の慈愛と公義に委ねていきたいと思います。


旧約聖書の学び 創世記18章 イサク誕生の告知とアブラハムの執り成し

2025-05-23 11:33:25 | 日記

 アブラハムに再び、主(神様)が現れたと記されます。アブラハムがマムレという場所に天幕をはっていた時、目を上げると、突然3人の人が立っていたとあるので、この3人は人間の旅人のように遠くから歩いてきた様子もなく、突然アブラハムの目の前に現れたと言えます。彼は走り出て3人を迎え、地にひれ伏して彼のもてなしを受けて下さいとお願いします。おそらく、主のみ使い(天使)か主ご自身が人の形となった現れたのかと、アブラハムは気づいたのでしょう。この3人の人が来た目的はアブラハムとサラの間に待望の子が来年の今頃生まれること、そしてもう一つは、ソドムという町の滅亡を前もって知らせるためでした。

 この当時この地域の習慣では、知らない人であっても旅人をもてなすことをしていたようです。砂漠地帯がほとんどで、オアシスが点在するようなパレスチナ地域には、宿屋がある町がたくさんなかったからでしょう。新約聖書に「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」(ヘブライ人への手紙13:2)とも記されています。いつ、主や天使が、どのような姿で私たちの傍におられるかわからないので、分け隔てなく、人々の必要に気づき、親切に主を愛する愛をもって助けることの大切さを思わされます。

 一人の人が「あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」(10節)とアブラハムに行ったことを、当時89歳になっていたサラは後ろの天幕の入り口で聞き、心の中で笑いました。そのことに対して主は「なぜサラは笑ったのか…主に不可能なことがあろうか」(13節)と、サラの不信仰を指摘します。しかし、サラは謝ることもせず、恐ろしくなり嘘をついて「わたしは笑いません」と言ってしまいます。しかし主はサラに自分の不信仰を認めるように指摘します。「いや、あなたは確かに笑った。」(15節)このように、主はわたしたちの心の中を全てご存じであるので、私たちは素直に不信仰を認め、悔い改める必要があると身が引き締まる思いです。

 その後、彼ら見送りにアブラハムが行く際、主は「ソドムとゴモラの罪を非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。…果たして、わたしに届いた叫のとおりかどうか見て確かめよう」(20-21節)とご自分の計画を話されます。それは主が、アブラハムの甥ロトがソドムに住んでいることもご存じで、その計画を彼に知らせ、その計画の中で彼を用いようとされたからでしょう。そのことを聞いたアブラハムは、ソドムとゴモラに住んでいる正しい人(義人)のために神様に執り成しをし始めます。彼は、その町に何人かの義人がいても、他の悪人とともに滅ぼしてしまうのでしょうか?と、神様の公平さや憐れみ深さに訴えて交渉をします。その町に「義人が50人いれば滅ぼさないでくださいますか」、45人では、40人では、30人では、20人では、10人ではと粘り強くバーゲンするのです。このことからアブラハムは大胆に神様に執り成しの祈りをするほど、信仰が練られていたことがわかります。単なる、甥のロトを助けたいという思い以上に、正しい人が少しでもいたら、町全体を滅ぼさないでくださいという、他人のために必死で滅ぼさないでくださいと、滅びる者への愛が見られます。また神様は公義とあわれみをもって、アブラハムと語られ、「10人のために滅ぼさない」と言ってくださいました。

主イエス・キリストは今も、父なる神の右の座にあって私たちのために、執り成して下さること(ローマ8:34、ヘブライ7:25 1ヨハネ2:1)を思い起こし、その深い愛に感謝したいと思います。私たちも、憐れみと恵により先にイエスキリストを信じ、救いを受けた者として、「主に不可能なことがあろうか」という主の奇跡の力を信じて、まだ信じていない人々の救いをとりなす者へと、変えられていきたいと願います。


子供のように成長を目指して

2025-05-19 14:28:26 | 日記

 小さい子供たちに久しぶりに会うと、その成長にいつも驚かされます。一方、何年、何十年ぶりに友人や同窓生とあって、「変わらないね」と互いに言いあうことがあり、見た目が変わっていない(年をとったように見えない)という、誉め言葉であるともとれます。その中でも「変わらないわけないよ、皆、前と同じじゃない、変わってるんだよ」とある人がボソッとつぶやきました。その方の意味するところはおそらく、数十年の間に、各々の人生でいろんなことが起こり、それを乗り越えてきたり、挫折したりと若い時とは異なり、考え方も背負っているものも変わっているはずだ、と。

 仕事でも、スポーツでも、趣味でも現状で満足するのではなく、その上を目指そうとすると、それが過度のプレッシャーとならなければ、善い結果を生み出し、成長した、善い意味で変わったと言われるでしょう。信仰の面でも、クリスチャン生活長いから「知っている」と聖書を日々読むことを止め、たまにしか祈ることしかしなければ、成長するどころか、後退してしまいます。子供はなぜ良いのかというと、わがままで子供っぽいところが良いわけではなく、自分が大人と比べて身長も低く、体力・腕力もなく、大人に多くのことを頼らなければならないとわかっているところ、素直なところだと思います。子供は無意識にも、成長を目指しているのではないでしょうか。

 イエス様の弟子たちが、ある時「天の国で誰が一番偉いのでしょうか」とイエス様に質問しました。そこで、イエス様は一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、下記のことを言われました。ここでの子供のようにというのは、自らを低くする態度、自分の力を誇らず、神様により頼むという神様との信頼関係を持つ人、子供のように素直に天の父なる神様に従おうとする人のことだと思います。天の国:神様が支配する領域では、権力をふりかざし他者に指図するのではなく、低くなって他者に仕えることが大切であるのでしょう。イエス様は師として多くのことを弟子たちに教えられましたが、ご自身で人々に仕えるその模範を示され、多くの病気や障害に悩む人、悪霊に取りつかれて苦しんでいる人、社会から疎外されている人に仕えられたことが聖書に記されています。

 私は生活している中で、イエス様がいうように、子供のように自らを低くしているだろうかと問われます。自分が高ぶっているのが顕著にわかるのは、たとえば、何か自分が他者から認められない状況がおこり、自身のプライドを傷つけられる時です。つまり自分が何かひとかどのものかと自負し、他者から評価されないと思い、自分を高めたくなる、弁明したくなるという愚かな気持ちになることです。謙遜ぶった自己卑下ではなく、自分自身はたくさん成長しなければならないところ、変えられなければならないところがあるということを忘れずにいたいです。また、イエス様の名のゆえに、子供のような小さな、弱い、誰かの助けを必要とする人々を受け入れているだろうか(マタイ18:5)も問われます。私は信仰の面で、一生かかっても理想とするところ:イエス・キリストのようにはなれませんが、それでも神様が成長させてくださると使徒パウロが記しているので*、聖霊の助けを得て、少しでも霊的な成長を目指したいと願います。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 自を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。 」マタイによる福音書18章3-4節

*コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章6節