聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

礼拝メッセージ 「初期キリスト信徒が大切にしていたこと」

2024-07-13 13:27:53 | 日記

 本日の聖書の箇所の直前は、聖霊が降誕した日、つまりペンテコステの様子が記され、続いてどのようにキリストの教会が誕生したかが記されています。使徒ペトロが聖霊の力を受け、エルサレムにいるユダヤ人たちに、十字架にかけられて死なれたイエス様を神様が復活させ、神様の右に上げられたこと、信徒たちに約束された聖霊を御父から受けて注いでくださったこと、神様はイエス様を主とし、メシヤとなさったことを大胆に語りました。すると、その場にいた3000人が悔い改め、キリストの名による洗礼を受け、ペトロたちの仲間に加わり最初のキリストにある共同体、つまり教会(エクレシア)が誕生しました。
 
  現代の教会は宗派の違いは多少あっても、この初期の教会でなされていたこと、つまり使徒の教えを守り、祈り、洗礼と聖餐式を行い、主にある交わりを続けてきています。一方で、現代の教会は宣教のために伝道資金を集めて、教会堂をたて、付属施設を運営し、インターネットで広告宣伝し、オンラインで礼拝を配信し、また米欧諸国ですと政治的後ろ盾を得るために働きかけ、教会の社会的地位を確保することにも努力している教会もあるでしょう。現代の教会は当時の原始キリスト教会と比べると、複雑な社会の中で非常に忙しい状況にあるといえます。
 
 では、この忙しい現代の教会において、初期の教会のように勢いをもって成長している教会はどれだけみられるでしょうか。教会がシンプルに礼拝をし、祈祷会をし、交わりをするという基本的なこと以外に、しなければならない活動がたくさんあります。それらの活動は必要でありますし、素晴らしいことですが、この忙しい中で、どれだけ、本来の教会がなすべきことに時間が注がれているでしょうか。
 
 何事でも、状況が複雑になっていき問題が起こった時、迷いが生じた時、原点に帰ることが大切だと一般的にも言われます。ですから、教会のことにおいても初期のキリスト信徒たちは、どうだったかを聖書の御言葉から振り返ることは大切だと思います。当時の信徒たちは、教会堂もなく、宣教のための資金も効率的な手段など何一つ持っていませんでした。しかしペンテコステ後使徒たちは聖霊の力を受け、ペトロが説教すると一度に3000人(2:41、以下使徒言行録)、男性だけで5000人(4:4)が信仰に入り、多くの男女が主を信じ(5:14)弟子の数がますます増え、祭司も大勢加わりました(6:7)。信徒数は爆発的に増加していきました。なぜなら初期の教会では聖霊が働かれ、教会は聖霊によって力を得ていたからです。
 
 彼らはまだその当時はエルサレムの神殿に集まりユダヤ教の礼拝も続けていましたが、同時に家々でも集まって、4つのことを熱心にしていたと42節に記されています。使徒たちの教え、相互の交わり、パン裂き、祈りを硬く守って行っていたと初期のキリスト者の活動の要約が記されています。
 
 まず使徒の教えを守りとは、イエス様の教えを守ることであり、私たちはそれらが記される聖書を神の言葉として信じ、守ることであります。次に相互の交わりとは(交わりという言葉はコイノニア)、単に気のあう人同士で集まる関係ではなく、そこで私たちがキリストの体として一つであることを認識し、キリストの教会という共同体で共に聖霊に預かり、主の臨在に預かることに基づく、兄弟姉妹としての交わりです。私たちは皆、お互いの一部であり、キリストの体として調和して協力し始めます。3つ目のパンを裂くとはイエス様が「私を記念してこれを行いなさい」と言われたように、イエス様の十字架の死とその血による「新しい契約(ルカ22:20)」を思い起こし、深く覚えるということです。次第に主の日(日曜日)に家庭集会で集まり、礼拝を行い、共同の食事をし(愛餐)、イエス様による新しい契約を記念してパン裂きをし、のちには聖餐という儀式にかわっていきました。そして4つ目は祈りです。主イエスのみ名を通して天の父に共に祈ることは、祈りを通して父なる神、子なるキリスト、聖霊を私たちは体験することができます。使徒言行録4:24-31には信徒たちは心を一つにして、神に向かって声をあげて祈っていたと記され、12:12ではペトロが投獄されるとペトロのために集まって祈っていたことが記されています。今日の教会において礼拝とは別に、祈祷会が熱心に行われている教会は健全であると言われます。どんなに少ない人数でも、祈りのために時間をとって集まって皆で祈ることは、大切ではないかと思います。そして、教会の課題のためだけでなく、個人の祈りの課題をも共有し、祈りあうことで、お互いを知り、励ましあい、慰めあうことが出来るのが幸いです。
 
 これらの4つを彼らが大事にし、熱心に行っていました。すると、周囲の人々に好意を寄せられ、主は救われる人を日々仲間に加えられ、一つにされたと47節に記されています。さらに2:44-47では信徒たちは、持ち物を共有し、神殿に集まり、一緒にパンを裂いて、食事を共にし、神を賛美していたと記されていますが、この中で、当時のエルサレムの教会でのみ行われていて、他の教会に継承されていないことも含まれています。一つは、持ち物を共有する共同体生活です。これはその時は真心を持ってみなで分け合おうという私欲を捨て、喜んで行われていたことかもしれませんが、使徒言行録には、そのことに起因する教会内の問題がおこったこと(やもめの食事の配分)も記され、また後日エルサレムの教会が貧しくなって、異邦人の教会からの献金がパウロを通してなされたことも記されています。一方で、一つの教会が財政的に困っていたら、他の教会が献金で支援するという助け合いの姿の原型もここで見ることができます。益子教会は、関東教区の教会が捧げてくださるナルドの壺献金と益子伝道を支援する会の献金、その他多くの個人の兄弟姉妹の方により支えられ、教会がこの地で礼拝を続けられることに主にあって感謝をしております。これは、まさに、同じキリストの教会として一つであるから助け合おうという愛の形の現れとして、現代の教会にも引き継がれている、キリストにあって共に生きる姿であると思います。もう一つは神殿に集まっていたということです。後に、キリストの教会が異邦人の信徒にも拡大していき、キリスト教がもはやユダヤ人だけのユダヤ教一派でなくなり、独立していくと、神殿ではなく家に集まるようになっていきます。
 
 各教派によっては何を大切にするかはその歴史的発展段階で多少ことなり、礼拝の仕方も多様であります。その多様性を持つ個々の教会が存在すると同時に、すべての教会がキリストに結ばれて一つとされているのが、キリストの体である公同の教会です。そして、神様の言葉である聖書という共通の正典を通して、私たちも次世代へ信仰を継承し、福音を知らない人々に告げ知らせることができるのは、まさに神様の御業であります。
 
  キリストの教会はキリストの救いと恵みに生きる者となった信徒の集合体であり、この世に福音を宣べ伝えるという使命を受けて、一人一人が呼ばれていることに変わりはありません。そして、救われる人の数だけに目を留める必要もないと思います。もちろん、大勢が救われることは大きな喜びですが、当時も毎日3000人救われたわけではなく、少ない人数の日もあったであろうと思います。しかし人数に関わらず、救いの喜びは同じです。神様の目には一人が救われることが重要であり、ルカによる福音書15章の見失った一匹の羊、失くした銀貨、放蕩息子のたとえにあるように、一人が悔い改めると天では大きな喜びがあるからです。私たちの教会でも、主が教会に送って下さる一人一人に対して、丁寧に、親切に向き合い、祈りつつ聖霊がその方に触れて、主イエスキリストを信じる信仰に導かれるようケアしていきたいと願います。
 
 初期のキリスト信徒たちが日々の普通の生活の歩みが恵みに満たされ、主への愛と感謝を共に共有し、教会として大切な4つことを熱心に行っていたように、私たちの教会もまずこれらを基本とし、聖霊の導きに従って宣教の業に励んでいければと願います。現代においても、初期の頃と同じ聖霊が私たち一人一人の上に、教会の上に注がれ、キリストの福音が多くの人に御言葉を通して届くよう、祈っていきたいと思います。「主が救われる人びとを日々仲間に加え一つにされ」る(2:47)という希望を、御言葉の確証により受け取りたいと思います。

(引用 新共同訳聖書)


礼拝メッセージ「弱いときに発揮されるキリストの力」

2024-07-13 10:32:53 | 日記

聖書箇所 コリント信徒への手紙Ⅱ12章9-10節

  この世の中は強いこと、健康であることに価値があり 弱いこと、病気であることは良くないという思考がまかり通っています。また、病の癒しや困難な状況の除去を祈ってもなかなか聞かれなくて、落胆することもあるでしょう。本日の箇所でパウロは、「弱いときにこそ強い」(10節)となぜ言えたのでしょうか。そして、現代に生きる私たちも同様に、弱いときに強いということをどのように体験し、神様の恵みに感謝できるのかを、聖書から示されたことをわかちあいたいと思います。
 
  まず、このコリントの信徒ヘの手紙2 が書かれた背景についてご説明しますと、パウロは、伝道旅行を通してコリントにキリストの教会が建てあがりました。しかし、パウロが他の町へ移動した後、その教会に、おそらくエルサレムから送られてきた人びとが、パウロが使徒であることを否定し、パウロを誹謗中傷し、代わりに、自分たちはエルサレムからから推薦状を持ってきた、正統な使徒であると誇っているということが記されています。それを真に受けてしまった信徒たちが教会の中にいたので、パウロは彼が使徒であることを説明するだけでなく、コリント教会へのキリストの愛を示すために様々のことをコリントの教会に書き記しています。今日の箇所はパウロが主から示された二つの個人的経験を記しています。
 
 パウロは、第3の天まで引き上げられるという経験をしたことを記しています。自分のことであっても、「わたし」(一人称)で記さず、3人称で書いていますが、よく読めばパウロのことだとわかります。そのような、誇ろうと思えば誇れた霊的なすばらしい体験にも関わらず、彼は14年間黙っていました。「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。 」(12:1)と誇ること自体が愚かだと承知しながら、パウロは使徒であるということを説明するためにあえて、主が見せて下さったこと、啓示して下さったことを、この機会に話しているのだと思います。
 
 次の体験は、パウロが取り除いてほしい「とげ」のことについてです。そのとげとは具体的に何かと記されていませんが、おそらく身体的な病気や伝道をする上での障害ではないかと言われます。それを「取り除いて下さい」と神様に3度祈りました。しかしその答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)でした。この答えを受けて、パウロはとげがあるままの弱い状態だからこそ、キリストの力が彼のうちに宿って下さる、だから弱さを誇りましょうと、現代に生きる私たちをも励ましています。そのとげは、第三の天までに引き上げられたという経験をしたパウロを思い上がらせないように与えられたものでもあると言っています。
 
 この祈りの答えを通して、神様はパウロに「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」という恵みの約束を与えました。パウロはどんな状況においても、キリストの力が発揮されるという経験を幾度となく彼の生涯してきたことでしょう。ですから10節に記されるよう「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 」ということが出来たのだと思います。神様の約束は私たちに信仰を生み、信仰は希望を強めます。神様は私たちの「困難を取り除いてください」という祈りに対して、困難を取り除かれない場合があります。代わりに困難に神様の恵みを加えて困難の意味を変えることがあります。
 
 個人的な証しですが、私は42歳の時に胃がんになりました。手術で胃をほとんど摘出、最悪の場合は全部を摘出することもありますと説明を受けました。私は「御心ならば癌を消してください。たとえそうでなくとも手術がうまくいくようお任せします」と祈りました。結果、直前の検査ではがんは消えていませんが、私には平安が与えられ、恐れず開腹手術を受けることができました。その後が、ある意味試練の時でした。術後に後遺症に悩まされ、仕事を休職して一人で家に療養していた時にうつ的にもなり、世の中からも教会からも取り残されたように感じ、せっかく神様に助けて頂いた命を感謝する思いが削られるという、身体的にも信仰的にも試練の時期でした。この辛い、不信仰の状態、弱い私に神様は恵を加えてくださり、困難の意味を変えてくださいました。つまり、この後、仕事を辞めて、療養目的で両親が当時仕えていたアメリカの日本人教会へ行くために、移住する道が開かれたのです。そして、両親の伝道を手伝っているうちに、伝道者への召命が与えられはじめました。私の場合、癌をなくしてくださいという祈りは聴かれませんでしたが、それは神様の恵みがそんな弱い私に注がれ、アメリカで日本人向けに信徒伝道をしていた時、神様の力が発揮されて求道者や友人たちに聖書の学びの家庭集会を開くことができたのは驚きです。もしこの闘病の時期がなかったら、アメリカにも行くこともなく、献身することもなかったかもしれません。
 
 実は、主イエス様ご自身が、弱い時にこそ強いということを、身をもって示された方でした。コリント信徒への手紙Ⅱ 13:4に
 「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」 
 
 イエス様は社会的に疎外されていた人々、弱い人々に寄り添われました。屠り場にひかれる小羊のように、十字架刑に引き渡され、死なれました。しかし、このことは私たちの罪が赦されるため、また神の力により復活されて栄光を受けられ、そのことを信じる私たちも、イエス様とともに神様の力によって生きるようにして頂くためでした。
 
  また、神様はあらゆる恵みの源であり、主イエス・キリストの十字架を通して、私たちを救い、永遠の栄光に招いてくださっているとの御言葉がペトロの手紙1 5:8-10に記されています。恵みの神様が苦しんでいる私たちを完全なものとし、強め、力づけ、揺らぐことないように、神様がして下さるとの約束が私たちにも与えられていることは大きな励ましです。また パウロは使徒20:32にて、エフェソの教会の長老たちに伝えているように、御言葉が神様の恵みであり、そしてこの御言葉が私たちを作り上げ、キリストを信じて聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせると記しています。
 
  この世に生きている限りおこりうる悲しみ、困難を通して、自分の弱さを認め、神様に委ねた時、私たちの力ではなく、内に住まわれるキリストの力が発揮されるとの約束が私たちに与えられています。この神様の恵のみことばをいつも心に蓄え、何度も読んで味わい、日々様々なことがおこっても、弱さのなかに働かれる主の力が発揮されることを信じましょう。神様によって万事が益になるように共に働くという、ローマ8:28にしるされている希望を持ちつつ、キリストによる救いの喜びを忘れず、日々祈って聖霊の導きに従って歩んでいきましょう。
 
   (引用 新共同訳聖書)
 


恵みにより万事が益となる

2024-06-28 11:14:50 | 日記

 30年という月日は遠い昔のように感じます。その頃のことは断片的にしか覚えていませんが、最近、30年前も神様が私をどんなに憐み、恵みを注いで下さっていたことを思い出す機会が与えられました。先日、新しく教会に赴任した教師のための、新任教師オリエンテーションに参加する恵みに預かりました。研修は非常に盛沢山の内容でしたが、何よりも同期の仲間が与えられ、お互いの召命や今に至るまでの証し、神様の恵みを分かち合うことができ、このプログラムを準備してくださった先生方に主にあって感謝しております。

 講師の一人である神学校の教授の方と夕食の席でご一緒し、ある共通の話題で盛り上りました。私が約30年前に米国に国際関係論を学ぶため留学していた時、お世話になっていたカリフォルニアにある日本人教会に、その方もほぼ同時期(私が引っ越した直後と入れ違いですが)に関わっておられたのです。実はその頃、私は信仰的にスランプに陥っていた時で、教会に行っても喜びがなく、神様は私を見放しているだろうと思って心の底に深い絶望感を持っていました。卒業後、就職もうまくいかずと、様々な面で人生のどん底時代と重なり、暗い思い出ばかり。しかし、その日本人教会(シカモア教会)の牧師さんのメッセージを通して神様が、「お前は大丈夫だよ、赦されているよ」と語られているように不思議と受け取れ、それ以来行く先々の地域の教会に参加し続けている間に、信仰が徐々に回復されていったことを改めて思い出したのです。神様はこんな前からだめな、弱い私を支え、導くために、多くの方々との出会いを与えて下さったこと、そして、今に至るのかと思うと神様のなさる恵みの業に驚きと感謝でいっぱいになりました。

 困難な時、苦しい時、悲しかった時は、実は神様の恵みが一番注がれている時であり、それに気づくか気づかないかの違いで、同じ状況でもどん底が喜びと感謝に変えられると思わされました。この世に生きている限りおこりうる(それが自分の失敗に起因するもの、不可抗力的なものも含め)困難、辛いことを通して、その困難に神様は恵みを加え、困難の意味を変え益に変えて下さる方であることを多くのことを振り返り、気が付かされ、感謝しています。この神様の恵の御言葉をいつも心に蓄え、何度も読んで味わい、神様によって万事が益になるように共に働くという上記の御言葉あって希望を持ちつつ、キリストによる救いの喜びで、日々祈って聖霊の導きに従って歩んでいこうと思わされました。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」 ローマの信徒への手紙 8:28

 

(引用 新共同訳聖書)


私の羊を飼いなさい

2024-06-23 13:31:34 | 日記

2024年6月16日、益子教会にて、伝道師の就任式を関東教区議長の熊江牧師により司式をしていただきました。当日は小さい益子教会の礼拝堂は席がないほど、玄関にまで溢れてしまうほど大勢の方々が参加下さり、多くの方々から励ましの言葉を頂き、神様の祝福をたくさん頂くことができた式でした。熊江先生の「わたしの羊を飼いなさい」と題する説教にて、ご自身が若い頃伝道師として就任した時、先輩の牧師からアドバイスを受けたことを分かち合って下さいました。「神学的な知識も大事であるが、一番大事なのは信徒一人一人を愛することだよ」と言われたそうです。私もこのことを忘れずにいたいと思わされました。

 今までは、信徒として、牧師の妻として足りないながらも神様と教会に仕えてきました。今後は、主任牧師と共に、神様が召して下さった益子教会にて、主イエス様の羊を任されるという重大な責務となります。このような責任を背負いきれるのか、私のような者に務まるのかと、自信はありません。しかし、召命して下さった主が必ず助けてくださるという確信を与えられ、また幸い今は主任牧師と二人体制なので、その大きな恵みに感謝し、信徒の方々の祈りにも援護して頂き、先輩先生方にも助けられて一歩踏み出していこうと思わされました。

 そうこうしていると、早速、困難なことがおきました。私は出だしから、「ほら、おまえはダメだ!」と言われているかのようで、落胆させられ、就任式の喜びや感謝を奪い去られそうになりました。そんな時、下記の「すると主は、わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」が私に与えられ、立ち直ることができました。これからも主イエスの羊に愛を持って仕える上で、うまくいかないことがたくさんあると予想されます。私はうまく対応できない、ダメな者であっても、主イエス・キリストにますます頼り、たとえ困難な状況が変わらなくとも、困難な状況自体を恵みに変えてくだるという、弱さの中に働かれる主の力に希望を持っていこうと励まされました。そして、神様の御言葉を語り続け、御言葉で主の羊を養うことを徹底していきたいと思います。神様は真実な方ですから、御言葉の約束通りに、このような弱い僕をもいつも御言葉によってタイムリーに励まし、強めて奉仕にあたらせて下さることを信じ、神様の御心にそって、牧会していけるように、絶えず祈っていきたいと思います。

「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリントの信徒への手紙2 12:9-10)

(引用 新共同訳聖書)

 


礼拝メッセージ「キリストはわたしたちの平和」

2024-06-13 13:35:55 | 日記

 聖書箇所 エフェソの信徒への手紙2章11-18節

 本日はエフェソの信徒への手紙2章より、「キリストはわたしたちの平和」と題してメッセージをさせていただきます。エフェソという町は古代ギリシャの商業都市で、使徒パウロが伝道旅行にて開拓した教会の一つです。この手紙は冒頭(1:1)で「エフェソにいる聖なるものたち」へと書かれていますが、続いて「キリスト・イエスを信じる人たちへ」とあるように、エフェソの町の教会だけでなく、その周辺の教会にも宛てて書かれた内容で、手紙は回覧されていたであろうと言われています。ですから、全ての教会に共通する問題に触れながら、キリストを頭とする「一つの教会」であることを述べている手紙です。先ほど使徒信条を読みましたが、その中の「公同の教会」とは時代や国、民族を超えた普遍的な性格を持つ、唯一の一つの教会であるという意味で、それを私たちは信じますと告白しています。
 
 「キリストがわたしたちの平和」という表現は意味深いものです。まず、平和とは何かと考えますと、例えば戦争や争いがない状態と思いつくのではないでしょうか。聖書でいう平和(シャローム、平安があるように、とイスラエルの国では挨拶の言葉)とは、元来何かが欠如したりそこなわれたりしていない充たされた状態を指し、無事、安否、平安、健康、繁栄、安心、和解など、人間の全ての領域にわたっての神様の意志に基づいた、真の望ましい状態を指しているそうです。この意味でのわたしたちの平和がキリストであると、今日の箇所が記しています。
 
 平和とは敵対していた関係が和解にいたる状態であります。ここでは二つの和解、2段階の和解について記されています。一つ目の和解は神様と人間の和解です。神様はそもそも人間を愛するために創造されたのですが、人間が罪ゆえにほんとうの神様の存在を否定し、自分の思うままに生き、神様に敵対し、人間同士でも敵対関係を作りだしてしまい、今の世の中に至っているといえます。神様は人間が争ったり、分断したりすることを望まれていませんし、そのような人の罪に対して怒りと悲しみを持たれます。しかし、神様はご自分の造った人間を愛し、かわいそうに思ってなんとか、人間を救おうとされました。そして神様から離れてしまった人間を救うために、イエス・キリストをこの世に送られました。その働きの目的は、キリストが仲介者となり、十字架によって神様と人々が和解することであります。
 
 使徒パウロはローマ信徒への手紙5:8-10にこのことを記しています。
 「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたので、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」

 また コリント信徒への手紙Ⅱ5:17-20にもこう記しています。
 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 」
 
 神様が私たちを愛して下さっていることは、わたしたちの罪を赦すためにかわりにキリストが十字架で死なれ、よみがえられたことに示されています。この救いを信じた者は死から新しい命へと移されます。この肉体で生きている限り見た目はかわらないかもしれませんが、内側(魂、心)が新しく創造されているという意味です。イエス・キリストのゆえに、私たちはすべての罪が赦されて救いにあずかっています。そして、この神様からの和解の言葉、キリストの平和の良い知らせを、知らない人々へ伝える奉仕を信じた者たちに委ねておられます。
 
 二つ目の和解は、一つ目の神様と人間との和解を前提とした、人間同士の和解についてです。エフェソの信徒への手紙2:15に、「規則と戒律づくめの律法を廃棄」とあります。ここでの律法は特定的で厳格で外側のことを規定する律法、ユダヤ人と異邦人を区別されるためにあった規則で、例えば外国人との交際禁止の律法(使徒10:28参照)のことであり、神様がモーセに与えた律法ではなく人間が付け加えた様々な規則のことといえます。なぜなら、イエスは律法を廃棄するためにではなく成就するために、完成するために来られた(マタイによる福音書5:17)と言われていますし、使徒パウロはガラテヤ信徒への手紙3:24で「律法はわたしたちをキリストもとに導く養育係だ」と言っています。
 
 どんなに平和を人間が求めても、お互いの利害が一致しないため、伝統や文化が異なるため敵対してしまいます。和平交渉はキリスト抜きでは行き詰まり、希望を失います。しかし、信仰に生きる者はキリストの体に生き、聖霊の助けによって共同体の仲間(つまり神の家族、エフェソ2:19)を愛して生きようと導かれます。キリストによって神の家族となり、一つになることは、イエス様が十字架にかかる直前に、弟子たちの前で父なる神様に祈って、お願いしてくださっています。ヨハネ17:21に

 「父よ、あなたがわたしたちの内におられ、わたしがあなたがたの内におられるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」
 
 このイエス様の祈りは聞かれ、かなえられているからこそ、キリストを信じる者が教会として、キリストの身体の一部として、一つにされています。一般に家族というのはメンバーとして参加する共同体ではなく、その家族に生まれて家族であるように、私たちは神の家族として新しく生まれさせていただいています。
 
 こうしてキリストご自身が私たちの平和であるからこそ、そのキリストに属している者もその平和にあずかれます。ですから私たちが一から平和を作り上げる必要はなく、イエス様がすでに来られて、全ての人に平和の福音を告げ知らせ(17節)、平和を打ち立てて下さったという御業を信じれば、キリスト者はこの世で良い業を行い(エフェソの信徒への手紙2:10)、平和に取り組むよう励まされます。互いにキリストを信じ、神の戒めである、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、イエス様が弟子たちを愛されたように互いに愛し合おうとすれば、平和的な方向へ進んでいくでしょう。
 
 目の前におかれた敵意、人間関係の修復、長く続く戦争の終戦は簡単ではありません、不可能に見えるかもしれません。しかし、自分でなんとかしようとするから不可能なのであって、主イエスにつながっていること、この大きな恵と神様の力を信じて、平和を祈っていきたいと思います。教会という神の家族の一人一人が、キリストの平和の福音を運ぶものとして世へ派遣されています。聖霊に助けて頂き、まずは自分の周りの人間関係から平和に向けて歩みだしていきましょう。
   

(引用 新共同訳聖書)