聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

十字架の言葉  コリントの信徒への手紙一1:18-25

2024-03-30 13:12:08 | 日記

 キリストの使徒パウロが人々に最も伝えたかったことの中心的テーマは、十字架の言葉です。十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えており、それは当時のギリシア人にとっては愚かな話であり、ユダヤ人にとってはつまづきとなる内容でした。しかし、この十字架の言葉は神の知恵、神の力であると使徒パウロは説明しています。人の知恵では理解しがたい内容であっても、神の知恵にかなった、神様の救いの業が十字架の言葉に示されているからです。神様は十字架で死なれたイエス様を3日目に復活させ、そのことが福音として全世界に宣べ伝えられ、それを聞いた人々が信じて救いがもたらされる、という手段を神様はお考えになりました。日本の場合は、フランシスコ・ザビエル宣教師が大変な思いをして日本に福音を伝えて以来、迫害の時代を経て、今自由にキリストを信じて教会に集える時代となっていることを考えると、本当に昔の宣教師の方々の信仰と勇気と、それを支えてくださった主イエス様に感謝の思いが湧いてきます。

 イエス様の十字架の死は、私たちの罪のためであり、私たちが赦されて救いを得られるために、イエス様は復活されました(ローマ4:25)。洗礼が、古い自分のお葬式と新しい自分が生まれる誕生日を象徴するように、神様から与えられる霊(聖霊)によって神様の恵を知るようになり(コリント一2:12)、将来に救いが完成することを待望しつつ、この世の歩みを主イエス様とともに歩めることは幸いです。


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「祈るときには」マタイによる福音書6:9-13

2024-03-30 09:55:35 | 日記

 私たちが礼拝で、個人で祈る「主の祈り」は、マタイとルカに両福音書に記されています。マタイのほうがルカより長く、マタイは祈りが習慣的傾向のある人々向けに語られているとされますが、祈りの内容は極めて完結で包括的にイエス様の宣教内容がまとめられています。この祈りでは、まず神様を「天の父」と呼ぶことのできる特権、関係性がイエス様によって私たちに与えられています。

まず、御名があがめられること、神の国が来ること、神の御心が行われることを祈るということは、私たちが神の国と神の義を求めて(6:33)生きること、それが神様の業へ自らが参与していくことにも繋がる祈りです。

それは続く、日々の糧、罪の赦しの願いを求めることにも関連します。これらがかなえられることは、結局神様の栄光が顕れること、神様の御心が行われる御国が来ることの実現になるからです。

私たちの生活へ神様が日々介入して下さり、神様の国(神様の支配)が広がっていくことを願い、そして覚える祈りであります。一つ一つの意味をかみしめて、日々信頼して祈っていきましょう。(Feb.2024 益子教会メッセージ 要約)


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ヨーロッパの最初の教会:家庭集会

2024-03-24 17:28:43 | 日記

 私の両親は、家で伝道者を招いて定期的に家庭集会を開いていました。小学生の頃、母が家庭集会のために用意する特別なお菓子を一緒に食べられるのが楽しみでした。その頃から、自分が大人になったらおいしいお菓子とお茶を用意して、少人数で集まって聖書を学び、賛美をし、お祈りをしあうという集会を家で開きたいなと漠然と思ったものです。その後私が大人になってから、ある方々が提供してくださるご家庭や、自分の家にて定期的に家庭集会を開くことができたのは神様の恵であり、神様は私の小さな思いを覚えて実現させて下さったのだと感動します。クリスチャンの方だけでなく、そのママ友や、聖書を見たこともないけれど興味をもって参加してくださる方々が集ってくださり、少人数ですが、毎回よき交わりの時が与えられました。

 初期キリスト教の教会は、家庭集会から始まったことが聖書に記録されています。使徒パウロが、当時の地中海沿岸・内陸地域へ伝道旅行を徒歩や船で周り、行く先々でキリストの福音を伝え、それを聞いて信じた人々が家に集まって礼拝をし、それが当時の世界に広がっていきました。リディアという女性は、使徒パウロが第二伝道旅行において、フィリピという都市で伝道した時に、「主が彼女の心を開かれ」(使徒16:14)イエス・キリストを信じた女性です。パウロの一行にとって、フィリピがヨーロッパ地域で最初に伝道をした街であります。彼女は「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人」(使徒16:14)とあるように、小アジアのテアテラ市(黙示録の七つの教会の一つ、黙示2:18-29参照)の出身の人でした。

 リディアは信じた直後、彼女もその家族も洗礼を受け、パウロ達を家でもてなそうとして、強いて泊まるように招待したとあります。「私が主を信じる者だとお思いでしたら」という箇所は、「私が主に対して忠実な者と思うならば」とも訳せるとされます 。彼女は信じたばかりで、すでにイエス・キリストを「主」と呼ぶことの深い意味を理解し、自身は主イエスに従う者、忠実な者となった、もしくはなろうと決意しての発言ではないかと思います。彼女が家に彼らを引き留める理由は、彼女の救われた喜びと感謝により、もてなしを申し出たのかもしれませんが、それをパウロたちが受けたのは、単に彼女の押しの強さによってではなく、彼女の主イエスに対する真実を尽くそうとする態度も見て、安心して泊まったのではないかと思うのです。そしてフィリピの町の教会はリディアと、後に救われた看取の家の集会から発展していったようです。

 私はイエス様を「主」と呼ぶとき、どれだけイエス様に従っていこう、真実を尽くそうという覚悟があるのかが、この箇所を読んで問われます。主と呼ぶからには、私は主の僕であり、そしてイエス・キリストは私たち(複数)教会の主であります。その主に信頼してすべてを委ね、自分の思いではなく、神様の思い(御心)がなるよう、聖霊の助けにより祈り求めていきたいと願います。

 

「そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。」 使徒言行録16章15節

 (引用 新共同訳聖書)


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赤い桃の木

2024-03-20 09:47:06 | 日記

  春の強風が吹くある日、古河市にある桃園に行きました。日本でも最大の桃園とありましたが、実際に行ってみてその桃の木の数は圧巻でした。ピンク色の美しい桃が満開で、鶯が時折花の蜜をせわしく吸っていましたが、ピンクの中に際立つ赤い桃の木に目が留まりました。数は少ないですが、赤という色はとても目立ちます。一般に何かの注意を引くサインは、大概赤色なのはそのためでしょう。

 聖書のストーリーの中に、「赤い紐」によって救われた女性の話がヨシュア記に記されています。紀元前16世紀頃(諸説あり)、イスラエル民族がカナンの地(現代のパレスチナ地域)にあるエリコという町を攻略する際、先にスパイが送られました。そのスパイ潜入の情報は漏れ、追手がスパイ達に迫った時、町の城壁に住むラハブという娼婦の女性が彼らをかくまいました。そして、スパイたちは彼女とその家族を救い出す印として、赤い紐を彼女の家の窓に結び付けるように指示しました。その後、イスラエル軍がこのエリコの町を攻めた時、彼女と彼女の家族はこの赤いしるしにより助けられました。彼女は異民族であり、異教の神を信じる環境で、娼婦という職業をしていたにもかかわらず、イスラエル人の信じている偉大な神のうわさを聞き、真の神であり、信じれば救われると信じて勇気ある行動を起こしたのです。彼女は「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」*とその信仰を告白しました。

 この赤い紐は、エジプトで奴隷状態でイスラエルの民がエジプトを脱出する時に、家の門柱の鴨居に塗った過越の小羊の血と、イエス様の十字架の血潮を象徴すると解釈されています。キリストが流された血潮を自分の為だと受け入れ信じる人には、神様は私たちの罪を赦し、その怒りを下すことはなさいません。神様は、私たちがどのような者であるか、過去に何をしたか、どんな生まれかを問われず、ただ信仰によって救われ、赦されるという型がラハブのストーリーにも示されていることは、現代に生きる私たちに希望を与えます。

 赤い色の花を見る時、イエス様の十字架で流された血潮が思い起こされます。神の子であるのに人としてお生まれになり、人と同じ体を持って地上で神の国の到来を宣べ伝え、およそ人が体験しうる究極の苦しみ、悲しみ、痛み、恥を十字架の受難において経験してくださったのは、私の罪が赦されるためでした。そのイエス・キリストの大きな犠牲に示される神様の愛を深く感謝し、イエス様の復活を祝うイースターを迎えたいと思います。

また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 マルコによる福音書14章23-24節

*ヨシュア記 2:11


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「信仰によって実現される約束」土浦フレンド教会でのメッセージ

2024-03-10 14:02:21 | 日記

 今日の箇所はアブラハムが神様から召命を受けたところです。彼は何のあてもなく「示す地へ行け」と言われて、家族と一緒に旅だちました。75歳という晩年に。具体的な内容はなく、大いなる国民にすると、祝福し、地上のすべての氏族はかれによって祝福に入ると。アブラハムはこれを聞いた時、どの程度内容を理解したのかは不明であるが、とにかく この神様の言葉に従ってカナンの方面へ移動しました。シケムの聖所へ一歩移動するとそこで 再び神は彼に表れて「 この土地を子孫に与える」と言われました。そしてアブラハムはそこで祭壇を作って礼拝した。それからさらにベテルの東の山に移り そこでも祭壇を作って 主のみなを呼んだとあります。主のみなを呼ぶとは 主のみなによって祈った(新改訳聖書) という訳により 礼拝するという意味です。彼は一方一歩進むたびに、主を礼拝し 主を呼び求めたのだろう。そしてネゲブまでたどり着いたというところが本日読んだ箇所です。

 ここから私たちの生活に適用できるのは、神様は 少しづつ示されるということではないでしょうか。 将来の計画、将来におこることを 一遍に神様はそのご計画を詳細に人間に知らせません。そこで私たちは、知らされたことに基づいて祈り、次の一歩へと進む。するとまたそこで神は少し先のことを示されます。アブラハムは創世記を読んでいきますと、時に神様の約束を信じられなくて 失敗もしますが、それでも信じ続けていることが記されています。創世記13:14 で甥のロトが分かれていったとき また子孫に永久に 見渡す限りの地を与えると。大地の砂粒のようになる 15:1 で あなたの報いは大きい と神が言われると ここで初めてアブラムは 「子供がいないのになぜ?」と神に尋ねます。すると、アブラハムから生まれる子孫が星の数のようになると 言われ、そして「アブラハムは主を信じた。そして彼の義と認められた」15:1-6 とあり最終的に イサクが与えられます。

「あなたのみ言葉は わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」詩編119編105節

上記は、神様のみ言葉はわたしの道の光であり、歩みを灯す灯だという詩編です。灯とはいわゆる現代でいる懐中電灯のような、ランプの小さな光です。それは自動車のヘッドライトのようではなく、また道路の高いところにあるライトのように先まで照らす光ではないと。真っ暗な道を一歩一歩、歩んでいくとき、その足元を照らす光です。懐中電灯では 遠くの先まではその光では見えないけれども、その光があれば、とりあえず安全に歩いていけます。そうして、少しづつ進んでいくと見えない物が見えてきます。

 神様の計画も同様ではないでしょうか。私たちは明日のことや 来年がどうなるかがわからなくとも、今日という日に 日々の食べ物が与えられ、守られる、他者と争わずにお互い赦し合う、そのような生活がみ言葉の光によって可能となります。そこには、神様にお任せするという信頼が必要となります。もし不安な気持ちになれば、信頼できるように「信仰を増し加えて下さい」と祈れば必ず恵みとして増し加えてくださいます。 そしてその信仰があれば、この先どうなるのかなと不安になることはなく、落ち着いて日々暮らせます。たとえ何か不安になることが起こっても、すぐにお祈りをすれば、聖書を通して「安心しなさい」という神様のメッセージが与えられ、心に平安が与えられるのはなんと幸いでしょうか。

 私たちの信仰は単に、自分が健康で、守られ、すべてが自分の思い通りにうまくゆくことを保証する神様を信じていることではありません。私たちの罪を贖うため十字架で死なれ、復活されたイエス・キリストの父である神様を信じています。それ程までにして、私たちを愛してくださる神様に対する信頼をもとに、たとえ目に見えなくとも 目に見える聖書のみことばを通して、私たちの歩みを一歩一歩確実に導いてくださると信じることができます。

 日々、様々なことが起こり、その度に心が揺さぶられ、疲れてしまうこともあります。体調が悪いと思うようにことが進まず、焦る気持ちばかりが募ることも正直あります。しかし、日々聖書の御言葉に触れると、私の内に住む聖霊が忘れている神様からの恵みを思い起こしてくれて、何が一番大切なのかといつも初心に戻されます。そしてどんなことでも祈り続け、また他の方々にも祈っていただくので、互いに祈りあえることが本当に励ましであります。私が歩む道をみ言葉によって照らして頂き、日々与えられている恵を感謝しつつ、主イエス様と共に歩んでいきたいと思います。

 約束がなされても その約束なさる方を信じる者がいなければ その約束は実現されないという面もあります。 つまりその約束を信じて受け取る人が必要なわけです。そういう意味で 神様の約束が実現されることと私たちの信仰とは密接に関係があると言えます。信仰は神様のなされた約束を有効とし つまり信仰なしに祝福の相続の約束は成立しないのです。そしてアブラハムは 信じたのです。

 アブラハムは 神様から祝福の約束が与えられます 「祝福」が5回も繰り返されます。ここで実は神様は 歴史の中に神様のご計画の救いとまた裁きを予告されています。人間はこの神様の業に対していかなる態度をとるか、つまり信じるかどうかで 救済か裁きとわかれ、 ここでは 裁きのことが呪いと表されています。しかも「祝福するものたち」は(複数)で 呪う者は(単数)とあるのは興味深いです。

 パウロがガラテヤ4:13、神はアブラハムとその子孫に世界を受け継がせる祝福を約束されたが、その約束は律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのとで言っているとおり アブラハムの信仰だけでなく、彼の信仰に従う者も確実にこの祝福の約束にあずかれると啓示により示しています。パウロはガラ4:11で アブラハムは割礼のないままに信じるすべての人の父となるとり、私たちも信仰により義と神様の前に正しいと みとめられると言っています。

 アブラハムの信仰とは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を信じた」、と ガラテヤ4:17にあります。その意味するところは、アブラハムもサラも 子供を作る能力は衰えていた、つまり死んでいたのに 彼らから生まれる子孫を与えられると神様は約束され、存在していなかった奇跡の子イサクを呼び出して存在させたのです。およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。 20彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美した とあります。

アブラハムは 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。この信仰が神様から義と認められました。アブラハムは律法を守ったから神様から義とされたわけではないということをパウロは繰り返しいっています。そもそもアブラハムの時代に律法は存在していません 約400年後に神様がモーセを通して与えられていますから。

以上のことから 私たちの信仰と アブラハムの信仰の共通点とは何でしょうか。共通点は 不可能が可能となること 望みなきところに望みを作り出すことができる方無から有を創造する神様を信じる信仰です。アブラハムの場合 100歳から子供が生まれるという不可能が可能になった。私たちの場合は 死人が復活するという不可能が可能となったことを 死は誰も避けられず、死に勝利することはできない、それをイエス様の復活で神様は可能としたことを信じるのが 私たちの信仰です。私たちの罪を贖うため十字架で死なれ、復活されたイエス・キリストを信じる信仰が与えられています。

 今日の創世記の箇所は、神が異邦人つまりすべての民族を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しています。よって、この信仰によって生きる私たちは、信仰の人アブラハムと共に祝福されているのです。この信仰さえも、私たちの自分の意思で、力でもたらしたものではなく、神様の賜物である ということはエフェソ2:7-9に記されています

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」

私たちに信仰が与えられること、救われること、アブラハムにおいて約束された祝福が与えられること、これらすべて神様の恵みであり、神様からのプレゼントです。私たちはその神様のなされた恵の御業に対して、何もお返しできませんが、アブラハムが祭壇を作って神様の皆を呼び求めたように、渡したちは神様に感謝をもって礼拝を捧げられます。 また、わたしたちは神様に造られたものであり、しかも、神様が各々の人生に計画をもっておられ、前もって準備してくださった善い業があり、わたしたちは、その善い業を行って歩むことができる、とエフェソ2:10に記されています、なんと幸いなことでしょうか。

信仰も、良い業も、祝福も すべて神様の恵みです。

キリストを信じる信仰により、わたしたちはキリストのものとなるので、すると、神様がアブラハムに対して約束されたことが、わたしたちにもあてはまり、信仰によりアブラハムの子孫であり、約束による相続人となるとパウロは記しています。

また、このことを確証させてくれるのが、信じる者に与えられる聖霊であり、約束された御国を相続するための保証であるとパウロはエフェソ14:1で記しています。

私たちは神様の祝福の約束が自分にも信仰により与えられているからです。このことを覚え、主に感謝しつつ今週もキリストと共に歩んでいきましょう。

エフェソ2: 10「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」


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