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聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

礼拝メッセージ「主の僕の苦難と死」 

2025-04-12 09:07:17 | 日記

タイトル  「主の僕の苦難と死」    聖書箇所 イザヤ書53章6-10節

〇主の僕とは
  本日の聖書箇所で預言者イザヤが記している、この「僕」は誰なのか?ということが議論されてきました。同じ旧約聖書を信じるユダヤ教の学者の間では、この僕についてイスラエルの国を擬人化していると取る説、または預言者イザヤ自身や他の預言者のことを言っているという説、これから来るメシア的な王とする説などがあるそうです。しかし、私たちクリスチャンは、この僕こそが主イエス・キリストのことであると信じています。つまり、イエス様の受難と死はイエス様がメシアとしてこの世に来られる約750年前に、預言者イザヤによって「主の僕」として預言されていました。本日の箇所の描写はまさにイエス様がポンテオ・ピラトのもとに沈黙のうちに裁判にかけられ、何の罪もみいだされないまま、十字架で罰せられ死なれたこと、葬られたことぴったり合致するからです。53章5節にて「彼が刺し貫かれたのは私たちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって 私たちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」と記されています。イエス様は、何の罪もない、罰せられる理由がない神の御子であるのに、人間の罪をすべてを代わりに十字架で負うために同じ人間として生まれてきて下さりました。それが神様の救いのご計画であることは、10節の「主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる」と示されています。イエス様が主の僕として、このような苦難の道を歩み、喜んで命を代わりに捧げて下さったことが、10節「彼は自らを償いの捧げ物とした」と記される通りです。イエス様ご自身は捕らえられたとき、弟子の一人が剣で立ち向かおうとすると 「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」マタイ26:56)と言われ、彼らのなすがままにされました。


  主イエスが負われたこの十字架の意味を、私が充分に、わかりやすく説明するには限界があります。一つだけはっきり言えることは、主イエスが十字架にかかったのは、わたしたちの為であること、あなたの為であることです。なぜ、自分の為に2千年も前に神の子が、十字架にかからなければならないのか、その関連性を理性や知識でとらえることは難しいと思います。自分の心の深いところ、魂、霊の部分でとらえる事柄であり、それは6節「道を誤り それぞれの方角へ向かって行った。」ということ、つまり自分が神様から離れて、罪を犯し続けていたことを認めるところから始まります。神様から切り離されている、断絶している状態を呪われていると聖書ではいいます。ですから、自分が罪のゆえに呪いを受けている者だというはっきりした自覚がないと、イエス様が十字架でおわれた罪が自分のこととしてつながらないのです。すると、イエスは歴史上の人物、教師・預言者としか考えられず、自分の罪からの救い主として信じるのが難しいでしょう。呪いだなんて、そんな言葉を聴きたくも使いたくもないのですが、使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙3章13節「木にかけられた者は皆呪われている」と旧約聖書を引用し、十字架という木にかけられて、わたしたちの呪いを主イエスが代わりに引き受けてくださったことを記しています。よって、その主イエスの十字架の苦しみと死が、自分のためだったと信じる信仰により、呪いが祝福に変わり、神様の恵みの中に生かされて、神様の愛の中で生きられるよう、聖霊が導いてくださるのが、キリストの福音といえます。自身が多く赦されたゆえに、神様の恵を多く受ければ受ける程、多く神様を、主イエス様を愛することができます。
  
 〇キリストの苦しみは神との平和があたえられるために
 
 次に「彼の受けた懲らしめによって 私たちに平和が与えられ」5節とあります。使徒パウロはコロサイ信徒への手紙1章20-22節で

  「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」 と記しています。

  私たちは、生まれながらにして心の中で神から離れていて、神に敵対していた者ですが、主イエス様の十字架の苦しみは、神様と私たちとの間に和解をもたらすため、私たちに神様との間に平和を造り出すためであったことが記されています。ローマの信徒への手紙5:8-10にも

  「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。?敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」 と記されています。
  
 〇エチオピアの宦官への伝道

  本日のイザヤ書の箇所は、弟子のフィリポを通して、エチオピア人への伝道へと用いられています。使徒言行録8章26-40節に弟子のフィリボが、サマリアに伝道した後、主の天使にガザに降る道へ行けと言われます。すると、馬車に乗っているエチオピアの女王の宦官がこのイザヤ書の箇所を読んでいるところに出くわします。宦官はエルサレムからのエチオピアへの帰途に就くときで、フィリポが「読んでいることが分かりますか?」と聞くと彼は「これは誰についていっているのか教えてください」と尋ねます。フィリポはこの箇所から説き起こしてイエス様についての福音を告げ知らせました。すると、それを信じた宦官はその場でフィリポからバプテスマを受けました。このように、イエス様のこの十字架の苦しみと死が、私たちの救いの為になされた神様の計画として、イザヤを通して預言され、イエス様によって成就され、その福音が全世界へ宣べ伝えられています。
 
 〇教会の連帯としての苦しみ

  キリストの十字架の苦しみは、現代の私たちの教会にも関わります。なぜなら教会の一員である私たち一人一人は、キリストの証人として呼ばれているからです。教会はキリストの体であり、一つであるゆえに、キリストとの連帯性の上に立っています。つまり、教会はイエス・キリストの十字架の苦しみにより固く結びあわされているといえます。教会は福音のゆえに苦しみも共にするとうい意味です。使徒パウロがコリント2 1章5節でこう記しています。
 
 「キリストの苦しみが満ち溢れてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによってみちあふれているからです」。
 
  教会がキリストの苦しみを共有するとき、私たちの慰めが満ち溢れる、とパウロは自分の宣教の経験から証ししています。現代は、迫害もなく、信仰ゆえに苦しみにあうことはあまりないかもしれません。それでも、家族の反対があって、洗礼を受けられないという方もおられたり、世の中の人たちは真剣にキリストを信じている人を嫌うこともあります。私たちは、そのような世の中にあっても辛いことを経験するかもしれませんが、神様を求めている人を神様はキリストへ引き寄せて下さっています。教会においてキリストにある慰めを共有し、互いの為に祈り合い、執り成しの祈りをし、キリストを信じていることを表し、キリストの福音を伝えていく勇気を与えられたいものです。
 
 レント(受難節)の最後の週に、私たちはイエス・キリストの大きな犠牲と神様の私たちへの深い愛を思い巡らし、聖霊により主の愛に引き寄せられて、神様との交わりの中を歩めるよう祈り求め、死からよみがえられ、死に勝利されたキリストの復活、イースターを喜びで迎えましょう。
                                  (新共同訳聖書 引用)