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聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

礼拝メッセージ 2024年12月29日 益子教会

2024-12-29 13:32:52 | 日記

聖書箇所   ヨハネの手紙Ⅰ 1:1-4     タイトル  「喜びが満ちあふれるために」

 ヨハネの手紙の著者は1節「初めからあったもの」イエス・キリストを証しし、伝えるといっています。この「初めから」という書き出しは、創世記1章1節「初めに、神は天と地とを創造された」及びヨハネによる福音書1章1節「初めに言があった」が反映しているとされます。そして初めから永遠に存在し、神と共におられる言であるイエス・キリストによってこの世にもたらされた「命の言」について、また「今」という時に、私たちは永遠の命を預かる恵みを得ている(5:13)ことを伝えるためにと序文で述べています。ヨハネにとって、永遠の命とは、この体が死んでから与えられるもの、将来天国に行ったときにいただくものではなく、キリストを信じた時から与えられている命であることを記しており、またそれはイエス様ご自身がヨハネによる福音書にて言われていることに基づきます(ヨハネによる福音書6:47)。現代に生きる私たちはキリストの福音を信じ、キリストを信頼することによって、新しく神から生まれた者として、御父と御子の交わりにいれられることで永遠の命を「今」経験できます。この交わりにおいて私たちの新しいアイデンティティ「自分は何者か、どこから来たのか」がわかり、神の家族として新しく生まれることになります。

この「交わり」とはつながっている、結ばれているとも言い換えられでしょう。キリストを信じれば御父と御子イエス・キリストとつながり、これを基に信徒同士のつながりを持つようになり、この交わりゆえにわたしたちの喜びが満ちあふれるようになると記しています。神との交わりを持ち、御言葉に従うよう歩めば誘惑と罪に負けないように、抵抗できるように神は私たちを変えてくださる、つまり、光の中を歩めば、罪を犯さないようになっていき、たとえ罪を犯したとしても御子イエスの血によって罪から清められる(7節)ことを記しています。

 光の中を歩むことを具体的には兄弟を愛することと記し(2章10節)、互いに愛し合うことを何度もこの手紙の中で奨励しています。このことはイエス様ご自身がヨハネによる福音書15章で弟子たちに「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われ、木であるイエス様につながって、実を結ぶようにと話された箇所です。つまり、実を結ぶということは互いに愛し合うことであり、イエス様につながっているから可能となる、そして互いに愛し合えることでイエス様の喜びが私たちにも与えられるので、喜びで満たされるとイエス様は言われました(ヨハネによる福音書15章11節)。教会生活の交わりにより、私たちの信仰は支えられ、共に祈り合える兄弟姉妹がいかに大切であるかと実感しています。私たちは信仰によって天の父なる神様と御子イエス・キリストの交わりを教会として互いに持つことが出来、それによって永続する喜びが満ち溢れるという、恵みの体験を、他の人に伝えることができます。

 先日、ドキュメンタリー映画を観ました。都内にある児童養護施設に入所している子供たちの、心の動きや語る言葉に焦点をあてたドキュメンタリー作品で、「人のつながり」について考えさせられる作品でした。施設という、血がつながらない人々との共同生活、しかし家族とも他人ともいえない「つながり」を持つ中で成長していく子供たちの一年を追った内容です。日本には施設等で暮らす社会的養護が必要とされる子どもたちが、4万2千人(2024年時点)もいるとのことです。

 つながりは大切です。教会という共同体が、血はつながっていなくとも、自分たちを造られ神様を信じ、神様が天の父であるという、神の家族としての自分を認識し、互いに愛し合おう、お互いをケアし、支え合おうとする共同体となれたらと思わされました。私自身も教会生活での交わりにより私の信仰は支えられ、同じキリストを信じる信仰を持つ仲間とのきずながどんなに大切か実感しています。私たちは信仰によって天の父なる神様と御子イエス・キリストの交わりを教会として互いに持つことが出来、その交わりで喜びが満ち溢れるという恵みの体験を、他の人に伝えることができます。

 一方で、教会の人数が多くなり、ただ礼拝に参加し食事をともにしているだけでは仲がよいのですが、奉仕を共にチームでしていくようになると、皆それぞれ個性があり、育ってきた環境や考え方が異なるため意見もぶつかることもあります。相手のちょっとした態度や発言に傷ついて、感情を害しもう関わりたくないと思うこともあるかもしれません。ひどい場合には、教会をさって別の教会にいってしまうという現象があります。しかし、神様は私たちに聖霊を通して、神の愛による平和を持ちなさいと、互いに愛し合いなさいと導かれます。わたしたちが御言葉を示されて、感情的には従いたくなくとも、それでも従おうとするのは、強制的ではなく、自分がどれだけ神様から愛されたか、忍耐してもらったかを思い返すからです。結局、赦せない相手が心の中にいると、その人に対する苦い思いが他のよいことや喜びを蝕んでいきます。

 日常生活の中で、TVのニュースを見ていても愛せない相手が毎日のように現れます。先日TVのニュースを見ていて子を虐待をする親が、「自分は悪くない」と裁判で言っているのを聞いて思わず他人ながら「赦せない!」と言ってしまいました。ましてや当事者である虐待を受けて苦しんできた子が、虐待してきた親を赦せるようになれるのでしょうか。無差別に通り魔的に自分の子供が殺害されたら、その親は犯人を赦せるのでしょうか。一方、自分が発した言葉、態度が、まったく悪気がなくとも、相手が悪くとらえて傷ついてしまう場合もあります。人は人生において加害者にも被害者にもなり得るのです。関係がこじれると、こちらが謝っても赦してくれないことは多々あります。

 しかし、神様はその赦せない思いに苦しむ、過去の傷で喜びが心にもてない人々のことも理解してくださる、憐れみ深い、やさしい方だと信じます。そして、加害者が悔い改めることを、神様は望んでおられる。両者とも同じ神様が創られた人間であるゆえに。そんな、加害者でも被害者でもすべての人が苦しんで悩んでいるこの世を、神様は憐れみの心を持って、御子イエス・キリストを通して救おうと決めてくださったのです。その愛がイエス様の十字架に現れています。

 愛するとは赦すことです。教会内では主イエスを信じている者同士では、この同じ「互いに愛し合いなさい」とイエス様が言われたことをやろうとできますが、キリストを知らない人とは、キリストの言う愛をしらないので「互いに」が出来ません。それでも、イエス様は律法の中で大切な2つの戒めとして「主なる神を愛し、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と言われたように、隣人がクリスチャンでなくとも、その人を愛するようにイエス様は求めておられます。これは、聖霊の助けが必要ですし、神様の愛が注いでいただく必要があります。もし愛せない相手が自分の前に置かれても、イエス様の名によって天の父に助けを願えば、何でも与えられるとの約束(ヨハネによる福音書15章16節)が、大きな励ましであります。現実的に他者を愛することをできない場面があって落ち込むこともあるかもしれません。しかし、出来ない私たちの為に、イエス様が十字架で罪を贖ってくださったのです。自分の力で互いに愛せる人がいれば、イエス様の十字架の贖いは必要ないのです。たとえ赦せない相手がいても、相手が自分を赦しくれなくとも、諦めないで、いつか、神様が両者の心に聖霊を通して和解を導いてくださることを信じて、委ねていきたいと思います。相手の心を自分が変えることはできないですが、神様がこのことを取り扱ってくださると任せられたとき、心の重荷が軽くなれるのは幸いです。

「神に願うことはなんでもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心にかなうことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(ヨハネの手紙1 3章22-23節)御父と御子の交わりに自分自身も入れて頂くことで、私たちが御心に適うことを求めるように変えられます。すると、御心にかなった祈り、互いに愛し合えるように助けてくださいという祈りを神様は必ず答えてくださるとの約束を信じ、そして神様の愛が私たちを通して他者へ流れ出るよう、そしてキリストの内に喜びがあふれ続けるよう、共に祈り続けていきたいと思います。そして、今特につながりを求め、孤独でいる子供たち、大人たちがイエス様の愛に出会い、自分たちが愛されている神の子どもであることを御言葉に触れて知る機会がこの日本においてもなんとか与えられるよう願つつ、自分たちが何ができるか神様に祈っていきたいと思います。


旧約聖書の学び 創世記10章

2024-12-26 14:37:44 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇12月26日(木) 創世記10章 民族表

 この章では、大洪水でひとたび人類が滅び、箱舟にのって生き残ったノアとその家族たち(ノアの子ども達セム、ハム、ヤフェトとその妻達)から、どのように人が増え広がっていったかを、3人の息子から分かれた民族、氏族を列挙しています。

 この民族表は、9章1節で神様が「産めよ、増えよ、地に満ちよ」とノアと3人の子たちに祝福して言われたことが、実現したことを表している内容と言えます。ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめたものだと記しています(32節)。古代オリエントの地図を見ますと、この民族表に記されている名と同じ地名がいくつか記されているのも、その氏族がその地域に住み、そして町の名や土地の名になって言った形跡が見られます。考古学的に聖書以外の文献と照合すると、その系図と民族が住んでいたとされる地域が一致しないこともありますが、この聖書の記された時代の政治的局面(例えば、エジプトがパレスチナ地方を従属国としていた時代)を反映しているからであろうと言われます。 

 使徒パウロはアテネで人々に宣教した時にこう言っています。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また彼らが探し求めさえすれば、神を見出すことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」(使徒言行録17章26-27節)イスラエル民族の祖先(セム系)だけではなく、全ての民族の始まりを記しているこの民族表から、人類は唯一の創造者である神様より造られ、全ての民族が将来神様を求め、救いに与れるようになるとの神様の救いのご計画を読み取れます。パウロはアテネの人々に、キリストの福音を人類の原初史に遡って説明していたのかもしれません。


旧約聖書の学び 創世記9章 虹の契約

2024-12-19 21:51:23 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

 洪水後、神様はノアだけでなく、ノアの子供たち(セム、ハム、ヤフェト)にも新しい時代における神様の祝福を語られました。神様は新たに、ノアの家族と一緒に箱舟に載った生き物に、産み、増え、地上に広がるようにと言われました。しかし、創造の時の人間と動物、生き物との関係が以前のようではなくなってしまいました。人間は他の生物を支配せよ(管理せよ)というのは同じですが、生き物は人間の前におののく、つまり人間を恐れるように変わります。そして、以前は人間も生き物も草食だったのですが、肉食が許されます。なぜ、神様がこの時点で人に、3節「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい」として与えたのかはわかりません。しかし、神様はひとつだけ条件をつけました。血を含んだ肉を食べないこと。血は命だからと。これは、神様が後に与えた律法で、動物の犠牲を捧げる時も、動物の血は水のように注ぎださねばならないと規定されています(申命記12:16,24 15:23)。神様はたんにイスラエルの民へ律法での祭儀的な規定として血抜きをするように言われたのでなく、これは全ての人への神様の命令であります。なぜ血を食べてはいけないのでしょうか。血が、神様が創られた命を表すからとされます。つまり、自分の食糧のために生き物の命を犠牲にするとき、その動物は神様のものであり、その命を犠牲としていることを忘れてはならないのです。そのしるしとして、命を表す血は食べてはならないのです。

なぜ人の命が大切なのか。あるTVのドラマで、高校生が検事に「なぜ人を殺してはいけないのか?」と質問し、答えにつまった検事は「一緒に考えましょう」と高校生に言ったシーンがありました。おそらく検事は刑法に殺人の規定があることは説明できても、例えば「人を殺してはいけないというが、戦争では人を殺してよいのか?」に対しての時代や国、究極的には人によって多様な考えがあるので、「一緒に考えよう」と言ったのでしょう。しかし、「命を奪ってはならないこと」の理由は人が考えて決めることではないと、聖書は明確に記しています。5-6節「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。…人は神様にかたどって造られたからだ。」とあるように、すべての命は神様が創造して作ったもので、神様のものであり、特に人は神様にかたどって造られているからそれを損なってはならないのです。神様の所有の人の命を奪うことは、神様に対する犯罪、神様に対して賠償責任を問われるのです。イエス様は「互いに愛しあいなさい」という命令を弟子たちに言われました。それは、神様が造られた人間であるから、造られたもの同士相手を尊重し、相手から奪わず、相手を傷つけず、平和に互いに生きること、それが神様の求めている人間関係であると言えます。神様抜きで考えた人権、尊厳は国連憲章でいくら定めても、異なった命に対する考え方、慣習、歴史を持つ人々にとってはそれに同意できない部分もあるでしょうし、自分たちが良いと思うことを続けるのではないでしょうか。

12節からは、ノアと神様は契約を結ばれることが記されています。その契約とは、8章21節にも記されていることをさらに詳しく、「2度と洪水で肉なるものを滅ぼすことはしない」という内容で、雲の中の虹(「弓」の意味)をそのしるしとされました。神様は虹を見て契約を思い起こすと言われました。このノアとの契約は神様の一方的な恵みの保証として置かれていて、契約における人間側の義務が記されていません。人間がどうであれ、神様はこの契約を守って下さる方です。

そして、18節からはその後のノアと子どもたちの話が記されています。ノアは農夫(土の人という意味)でぶどう作りを初めて始めたようです。ぶどう、ぶどう酒、ブドウ園、ぶどうの木は、聖書では非常によく出てくる表現で、祝福を意味している箇所が多く(ミカ書4:4 ホセア書ア2:17)、イエス様は譬えで「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネによる福音書15章5節)と言われました。ノアがぶどうの栽培を始め、ぶどうの実が発酵してぶどう酒となり、ノアはそれを初めて飲んだと思われます。ノアがぶどう酒を飲んで酔ってしまい裸で倒れてしまった事と、子どもたちのとった態度を聞いて、父親であるノアが祝福と呪いのことばを3人に言ったことが記されています。信仰の人ノアの発言が記されているのがこの箇所だけであるのも興味深く、子が親を尊敬すべきであること、十戒の「父と母を敬え」が思い出されます。人類は3人の息子たちからさまざまな人種が分かれていくことが10-11章の系図に記されていますが、その中で注目されるところはセムの子孫がアブラハムへつながることです。このセムからダビデ王、そしてイエス・キリストというメシアの系図につながります。


礼拝メッセージ 「あけぼのの光の訪づれ」

2024-12-16 13:08:58 | 日記

 聖書箇所   ルカによる福音書1:76-80 

 本日は、ルカによる福音書1章のザカリヤの預言の箇所よりメッセージをさせていただきます。ザカリヤは祭司で、神殿の聖所に入って香を焚いていた時に天使が現れ、「妻エリザベトは男の子を産む、その子はヨハネと名付けなさい、彼は主に先だって行き準備のできた民を主の為に用意する。」と告げられました。しかし彼は老齢であったため天使の言葉を信じることが出来ず、子供が生まれるまで口が利けなくなってしまいます。それから10ケ月後、エリザベトは男の子を産み、名前を付けるタイミングでザカリヤが「この子の名はヨハネ」と書いたとたん口が利けるようになり、神を賛美し始めたと記されています。(ルカ1章5-20節)

 ザカリヤの口が利けなかった10ケ月のことについては何も聖書は記していませんが、彼はどのような気持ちだったでしょうか。おそらく、神様のお告げを疑ったことを悔い改めて、じっと忍耐していたことでしょう。その期間に彼が自分の不信仰と向き合い、誰とも話ができないという孤独に置かれたことは、一層神の深い憐みの中におかれ、彼の信仰が深められ、神様への賛美へと呼び覚まされるためだったかもしれません。ですから口が利けるようになったとたん、神を賛美し始め、そして、本日の箇所のように聖霊に満たされ、預言が与えられたのではないでしょうか。ザカリヤは10ケ月間でしたが、ユダの人々は約400年間彼らの間に主の預言者が現れない期間でした。ユダ国がBC586年にバビロニア帝国に滅ぼされ、その後捕囚から国に帰還が許され破壊された神殿が立て直されましたが、その後世界の列強諸国の支配を受け続けていました。その間は旧約聖書の最後の預言書マラキ書が記されたのも約BC400年代(BC5世紀前半)と言われていますので、旧約時代の最後の預言者と言われる洗礼者ヨハネの時迄、約400年間預言者を通しての神様からの言葉が民になかったことになります。人々は神様の言葉がいつ再び預言者を通して語られるか、いつメシアが来られるかと待ち望んでいたのです。

ザカリヤはルカ1:68-69節で「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」と数千年にわたって維持されてきた神の偉大な救いの計画において、約束の通りダビデの家からメシアを起こしてくださったことを神様に感謝して賛美をしています。救いの角とはメシアのことを表します。

76-77節で「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」と、イザヤ40:3の預言されているように、自分の子ヨハネの役割「主の道を整える」こと、メシアの道を備えるという大きな役目の主の預言者となることを預言しています。

メシアの救いを受け入れる準備とは、まず人々の間に悔い改めの心が起こされることです。人々が単に今の現状が苦しくて、助けがほしいと神様に訴えるだけで、自分の罪と向き合わずにいることも可能です。しかしメシアを受け入れるには、まず自分が神様の前に罪人であるという自覚が心の底からあるときに初めて、その罪を悔い改め、罪の赦しを受けたいと願い、罪から救ってくださる方としてメシアを求めるからです。

ユダヤ人にとってメシア救世主はダビデの家系からでる、来るべき王をさしていて、このメシアを神が送り、ご自分の民イスラエルを回復させ、国家として独立させ神の民としての栄光を回復してくれるとユダヤ人は待望していたのです。しかし、マタイによる福音書1章21節が示すように、神様のご計画に基づくメシアは「罪から救う方」だとはっきり天使は告げています。つまりメシアは単なる政治的救世主ではないというメッセージです。そこでバプテスマのヨハネは人々にまず、罪を自覚し、悔い改めるように荒野で叫び、それに応答した人々が洗礼を受けにきました。悔い改めるのは、裁かれるためではなく、罪が赦されるためであり、まさに神様の憐みによるのです。

ですから、78-79節「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」と続きます。メシアによる救いは神の憐みの心によるといっています。神様がわたしたちを憐れんで下さるということは、聖書で一貫したメッセージであります。神様は深い憐みの心によって、私たちの罪を赦そうと決められ、そのために御子イエス様を十字架で代わりに罰せられました。そしてこのキリストによる救いを信じる者は罪に対する罰をとがめられることなく、赦されて、神の子供として永遠の命を頂けるという、本当にこの上ない恵みをすべての人に用意くださりました。父と子と聖霊と一つであられる神様は、私たちが罪と死に縛られ、どうしようもない状態で苦しんでいることを、人間となった御子イエス様を通して、ご自身も共に苦しまれ、悲しまれていると言えます。聖書の神様は「いつもあなたと共にいる」(インマヌエル)の神様であり、神様の憐みの心は、私たち人間の「かわいそうに」と思うだけのレベルではなく、共にいてご自分も苦しみんでくださる方です。

新約聖書での「憐れみ」、「慈愛」を表す単語の一つは(ギリシャ語)も「腸がちぎれるような苦しみ」という意味から転じて「憐れみ」という意味になったそうです。また旧約聖書の原語ヘブル語で「憐れむ」は「子宮」という単語が語源で、それは出産の際の母親のお腹の子供に対する慈しみの心という意味が転じて「憐れむ」となり、神様が人間を憐れむときの表現に使われている単語です。ホセア書11章8節に「ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか…私は激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる」と神様の愛をホセアは記していますが、エフライムとはイスラエルの別名で、神から離れ偶像崇拝で堕落してしまったご自分の民に対する愛が表現されていますが、ここでも「憐れみ」という単語が使われています。私たちを愛してくださる神様は情け深く、熱情的です。

御子イエス様はその地上での生涯において、神の国を宣べ伝え、そして群衆が羊飼いのいない羊のようだと憐れまれて、教えを話されたと記されていますし、神様の憐みの心をもって社会から疎外されていた人々に関わり、病気を癒し、共に食事をされました。またイエス様はルカによる福音書6章35-36節でこう言われました。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と話され、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」イエス様は神の国の到来を告げ知らせ、そこでは互いに隣人を愛することと憐れむことがなされる領域であり、それをご自身が実践して、私たちにその模範を示されました。

私たちは神様が私たちを憐れむような心で他者を憐れむことができるでしょうか。私はこの箇所を通して、神様の恵みを自分が受けるばかりで、表面的にしか他者を思いやることができない愛のなさを示され、悔い改めて、神様に愛を注いでくださいと祈るばかりです。私は折しもコロナ勃発時に病院でソーシャルワーカーの仕事を始めましたが、とにかく世界的に混乱していた時期で、そんな非常事態の日々の中で最初の3年間働いていました。患者さんの中には死に直面し、苦悩している方がおられても、私は病院ではソーシャルワーカーの仕事しかできません。キリストの福音を伝えることの出来ないもどかしさを抱えながら、定年退職になってからではなく、「今」キリストにある希望を人々に伝えなければと緊迫感を持つようになりました。このような経験を通して、神様は私のような者をフルタイムでキリストの福音を伝える伝道者になるよう導いて下さりました。聖書の御言葉を通して、暗闇の中にいる方々、希望が持てない方々に、神様の憐みの心、神様の愛を頂いて、キリストの救いを宣べ伝えたいと願っています。

78節「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」の「あけぼのの光が訪れる」とは、マラキ書4章2節に「しかし、わたしの名を恐れる者たちには、義の太陽が昇る。その翼に癒す力がある。」とあり、その「義の太陽が昇る」という言葉、太陽が昇るとはあけぼのの光が昇ることです。したがって、義の太陽とは救い主イエス様を指し示し、この昇る義の太陽:イエス・キリストが、罪のために死の影で生きていた人々、そして暗闇の中にいた人々に光を与えることを指ししめします。そして、その翼には癒す力、つまり罪びとが悔い改めて赦しを受け、癒されることをマラキが預言し、それが成就されたことをザカリヤが述べています。

またヨハネによる福音書1章1-5節で、言が御子イエス・キリストである、「言の内には命があり、その命は人間を照らす光、光は暗闇の中に輝いている」と記されています。言葉であり光であるイエス様が、暗い世を照らすあけぼのの光として、すでに私たちのところへ来てくださっていることは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して実現しています。そして今も私たちを平和の道へ導いてくださっていることを感謝したいと思います。ヨハネによる福音書はその光について証するために洗礼者ヨハネが神から遣わされたと記しています。(ヨハネ1:6-7)人々は皆平和を求めています。しかしながら、人間の力だけでは、平和の実現が難しかったことは、過去の人類の歴史を見て残念ながらわかることです。やはり、平和を願う人々がまず、自分が神から離れていたこと、その罪をキリストの十字架と復活により赦されて、暗闇ではなく、あけぼのの光の中である主イエスとともに光の中を歩むことで、平和を求めていければと願います。必ず、主イエス・キリストが平和の道へわたしたちを導いてくださると、本日のザカリヤの預言からも希望が持つことができます。

わたしたちはザカリヤの預言の箇所からも救い主の到来の喜び、そして御子を通しての罪の赦しが与えられているという神様の豊かな恵みに感謝し、自分が受けている憐れみの心を少しでも私たちが日常生活の中で他者に対して持てるように祈り、私たちの周りにキリストの平和を広げていくよう神様に用いて頂きたいと願います。私たちの力ではそれはできませんが、聖霊の助けを頂き、導いていただけることが幸いです。詩編119:105に「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」記されているとおり、日々御言葉から私たちの歩む道を照らしていただき、今週も歩んでいきたいと願います。


旧約聖書の学び 創世記8章

2024-12-12 14:29:21 | 日記

(益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」で、旧約聖書を創世記から順に学んでいます。その概要を掲載しています)

〇12月12日(木) 創世記8章 心に覚えて働かれる主なる神

 大洪水の水が引き、箱舟はアララト山(アララトという地方のどこかの山と考えられる)の上に止まりました。1節の「神はノアと…に御心に留め」られたと記されています。御心に留めるということは 神様が心に覚えておられる者に向かって働いておられることを意味し、同じ表現が出エジプト記2章24-25節にあり、神様がエジプトで奴隷として苦しむイスラエルの民の叫びを聞き、族長たちと交わした契約を思い起こされ、エジプトから救出されようと働かれる時にも記されています。

ノアは雨がやみ、水が引いてきたのを分かっても、神様の時と言葉を忍耐強く待ち、箱舟にとどまっています。神様ご自身が16節「さあ、箱舟から出なさい。」と、神様の意思に基づいて、地球規模の破滅から生き延びたノアたちに指示されました。ノアとその家族と動物たち、爬虫類等を箱舟から出させ、創造の時のように増えていくように命じられ、新しい時代の始まりが記されています。ノアは箱舟で待っている間、鳥たちを使って、水の引き具合をチェックしていたことが記されています。古代に鳥を使った方角の確認(羅針盤代わり)の航海術があったことの記録はあるそうで、ノアがそのような知恵を用いたのかもしれません。まずカラスを放ち、次に鳩を放ちました。ノアが手を伸べて鳩をつかみ、箱舟の中に戻すという描写がノアの鳩に込めた思いを感じ取れます。長期間、箱舟の中に閉じ込められたノア達がようやく箱舟から出られると、期待と希望を持って鳩を飛ばした事でしょう。3回目に鳩が戻ってこないことから 地上から水が引いて鳩が地上で生きられるようになったことを知ります。新約聖書で、イエス様が洗礼を受けられたとき、「天が裂けて、“霊“がハトのようにご自分に降って来る」(マルコ1:10)と記されていますが、鳩は聖霊を示し、ノア達にとって新しい創造の先触れであり、聖霊が現代にいきるキリスト者にとって、神の国を待ち望みつつこの世を歩む人々を導いてくださる方であることを、この箇所からも想起されます。

地上に出て、最初にノアがしたことは祭壇を造り神様に犠牲の捧げものをしたことです。旧約聖書では人間が動物の犠牲を捧げることを通して、神様との関係の修復をする道を神様は示して下さりました。そして、ノアの時もその犠牲は神様に受け入れられ、主はなだめの香りをかいで「再び大地を呪うことをしない」と言われました。そして、人の心は幼い時から悪いとしながらも、この度したように生き物をことごとく滅ぼすことは2度としないと言われました(21節)。そして自然の秩序:夕が来て朝が来る、夏が来て冬が来る(パレスチナ地方の気候は四季が日本のようにない)という自然界の秩序は、人間がどんなに悪くとも維持されるという神様の恵みを約束してくださっています(22節)。

神様は人の悪に対しては怒られ、裁かれる方でありますが、同時に人に対して忍耐され、憐れみ深く、情け深く、ご自分の民を愛される熱情の神であられることは旧約聖書を読んで知ることができます。本当は、人間が毎日洪水で滅ぼされるべく存在であるにもかかわらず、神様はご自分の創造された人間を救おうとして諦めないお方であります。この洪水の物語が指し示すことは、あらゆる動物犠牲は神をなだめることはできても、それによって人間の罪を取り去ることはできないし、何度も繰り返される必要があるという限界と、真に神をなだめることが出来、一度ですべての人の罪を取り去ることができる御子イエス・キリストの十字架の犠牲と復活による神の救いの御業を指し示しているといえるでしょう。(ローマ3:25-26参照)