聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

良い知らせを伝える者の足

2024-06-07 22:30:01 | 日記

  先日、医療ソーシャルワーカーとして4年間務めた地域の病院を退職しました。この町に引っ越す前に仕事を探し、面接を受けた時は、まさか新型コロナウイルスの感染が拡大するとは予期していませんでした。ですから、このような世界的大混乱の時期に医療従事者として働き始めた時は「なぜこんな時期に、よりによって病院で」と思いながらも、神様が与えた職場と信じ、とにかく必死で勤めておりました。そして気が付くと、コロナにかかることもなく4年間が過ぎ、職員の方々に温かく送り出して頂き感謝でした。退職の理由について聞かれ、教会で伝道の働きに専念することを何人かの方々に話すと、「僕もミッションスクールに通っていたんですよ」「教会の礼拝にはいったことありますよ」「教会に行くとお茶とお菓子は出ますか?」「突然、行っても平気なのですか」など好意的なコメントをいただきました。「ぜひ一度益子教会にいらしてください」と伝えることができ、神様がこの病院に私を置かれたのも意味があったのだろうと実感しました。そして何よりも、病院という人の生死を日々目の当たりにする場で働く機会があったからこそ、今、キリストの福音を伝える伝道者になるようにと、神様からの召命を受けることが出来たのです。

 2024年5月29日、日本基督教団関東教区総会にて准允を授かり、益子教会の担任教師(伝道師)として正式に遣わされました。益子教会へ2020年4月に牧師である夫と共に赴任してきた時は、信徒は私一人でした。しかし、一人二人と神様が信徒を加えて下さり、多くの方々にお祈りと献金で益子伝道を支えていただいことは感謝につきません。これからは、主任牧師と共に益子での宣教活動を神様の導きに従って、その方法についても具体的に祈り、信仰で踏み出していきたいと願っています。

准允式の司式をしてくださった先生がローマ信徒への手紙10章8-18節より説教をしてくださりました。

「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。 」ローマ信徒への手紙10章14-15節

という御言葉を通して、伝道師としてこれから歩みにおいて、福音を宣べ伝える上で試練や困難があることを、「良い知らせを伝える者の足」は汚れてしまうかもしれないと例えられていました。私は実は気弱で欠けの多い者であり、困難や試練で挫けそうになるかもしれません。しかしながら神様からの召命の確かさを信じ、神様の助けと聖霊の導きによって、キリストの福音:良い知らせを宣べ伝える者として歩んでいきたいと、身の引き締まる思いで准允を受けました。たとえ私の足は美しくなく弱くとも、良い知らせ:福音の内容自体が神様の救いの美しさであるがゆえに、その救いの美しさが、伝える者の足をも強めてくれるのではないかと信じます。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマの信徒への手紙 10:17)

 キリストの言葉を一人でも多くの方々に伝え、聞いた方々に聖霊が働かれ信仰に導かれるように祈りつつ、神様とキリストの教会に仕えていきたいと願います。

(引用 新共同訳聖書)