聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

礼拝メッセージ 「キリストへの信仰によって生きる」

2024-08-10 13:06:12 | 日記

2024年8月11日、12日 益子教会 メッセージ 聖書箇所  ガラテヤの信徒への手紙2章16-21節

 本日は、ガラテヤ信徒への手紙より、「キリストへの信仰によって生きる」と題してお話しをしたいと思います。ガラテヤ信徒への手紙は、パウロの手紙の中で、最も口調の強い表現と切迫感をもって書かれた手紙です。パウロの宣教によって、ガラテヤ地方にいくつかの教会が生まれ、その信徒たち(今のトルコ地域)がキリストの福音を信じて喜んでいましたが、パウロが去ったあと、ユダヤ人でキリストをメシヤと信ずる者(ユダヤ主義的キリスト者)がやってきて、「キリストを信じるだけではだめだ、異邦人はユダヤ教の律法を守り、割礼をうけなければ救われない」という偽りの福音を教え、キリストの福音からガラテヤ信徒の人々を引き離そうとしていたのです。キリストの福音はイエス・キリストを信じる信仰によって救われる、義とされるのであって、律法を守ることを付け加えてはならないことをパウロがガラテヤの信徒の人たちに説明しています。

その説明は16節で「律法の実行によってはだれ一人として義とされない」と、パウロははっきり断言しています。人は生まれながらにして自己中心なので、自分の意思で良い人になろうと努力しても不可能であり、律法のようなすべての法律や道徳的に正しさを完璧に守れる人間は誰ひとりいません。つまり誰も神様の前に、「わたしは自分の行いによって正しい、無罪です」ということができないからです。

私たち日本人にとって「律法を守ることで義と認められる」とは具体的にどういうことかあまりピンとこないかもしれません。たとえていいますと、自分は、社会的、道徳的に何か良いことをしたいと思う。しかし、様々な事情で、今の自分の生活を犠牲にしてまで出来ない。またこれをしてはいけないとわかっていても、うっかりしてしまう、仕方なくしてしまい、罪悪感を持ってしまう。そしてこれらを償うために、何か自分でできる良い行いをして罪の償いにあてるという心理的操作は日本社会にもあると思います。しかしこれでは、根本的な罪の解決にならず、また同じことの繰り返しになります。

 わたしにとってはクリスチャンホームで育ったことは大きな恵みでしたが、若い頃キリストの福音を理解していなかったゆえに、聖書の教えが律法となって私を支配し、苦しんだという経験があります。私は洗礼を受けましたが、その後キリストを救い主として生きることの意味がぼんやりしてしまい、良いこと、なすべきことと知っていても自分の意思、弱さでできない、これはしてはいけないと頭では知っていても誘惑に負けてしまう、後悔してもまた繰り返していました。後ろめたさを抱えつつ、教会の奉仕を少しはして、教会に通うことで気休めを自分のなかで作り、一方いつも責められる思いがありと内面が非常に不安定で、律法に支配されているユダヤ人に近い状況でした。私は思っていました「神様は聖書の教えを守れない私を赦さず、見捨てただろう」と。自分の力で頑張らねばならない、自分の為に生きることに疲れてしまいました。

憐れみ深い神様はそんな私をかわいそうに思って、30歳の時、キリストがそんな自分のために、十字架にかかって死んでくれたから、私は神様の前に自分がどんなにダメなクリスチャンであっても無罪とされ、キリストのおかげで神様の前に出られると信じる信仰が与えられました。すると、負い目や重荷が取り去られました。これからはキリストのために生きること、神様にすべてゆだねて生きることができるのだという喜びと解放感が与えられました。

 パウロは、律法自体は霊的で、聖なるもので良いものだとも言っています。(ローマ7:12、14)しかし、罪はその良い律法を利用して、人を破滅に導きます。つまり律法や聖書のことばを自分の意思や努力によって守ろうとし、それで自分の中で正しいとすることで、神様ではなく、自分で自分を支配できる、自分の行いで自分を義と認めようとするという傲慢な状態に導くからです。自分の意思や力で、正義を獲得できると思い、一方出来ない自分がいるという分裂状態を律法は作り出すので、そのことを律法に支配されていれるとパウロは説明しています。

義とされるとは、神様によって「あなたは無罪」と宣言されるという、法廷用語であります。それは神との関係が正しい関係に移されることを意味します。キリストの十字架と復活のおかげで、罪に問われることもなく、堂々と神様の前に出られること、そして神様との愛の関係、信頼関係の中に生き、祝福と恵に招きいれられること、それがキリストを信じる信仰によって義とされるということです。私たちは正しくなくとも、キリストの義がわたしたちを覆ってくださります。この神様との正しい関係になることはイエス・キリストへの信仰によってのみです。律法を守るという行いによってではないのです。

  またパウロは、19節で「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしはキリストと共に十字架につけられています。」と言っています。これは、約2000年前にイエス・キリストの十字架の死が成し遂げてくださったこと、その影響が今も私たちの上に続いている、その死を共有しているといいかえられます。それは、わたしたちがキリストを信じ、洗礼を受けることによって罪に支配された古い自分は死んで、そのお葬式をしたということです。同時に、聖霊が与えられ、洗礼によって新しい命により、キリストに結ばれて神に対して生きることが可能になります。だから20節で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言っています。同じことをコリント信徒への手紙Ⅱ 5:15でもパウロ記しています。「キリストがわたしの内に生きる」ことについて、パウロはエフェソ3:16-17で 「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 」と記しています。

このパウロの祈りは、神様が聖霊により、わたしたちの内なる人を強めて、信仰によってわたしたちの霊の部分にキリストに住んでいただけるようにと、お願いしています。なんでもそうですが、神様にお願いすればかなえられるのです。キリストによって「新しいわたし」になった状態、罪の法則から解放された新しい人として私たちの感情がどうであれであれ、わたしたちは生かされているのです。

   現代に生きるわたしたちも、ガラテヤの信徒の人と同じような罠にはまる可能性があります。また、生活の中である罪に悩まされる、落ち込む「わたし」がいると、「本当に救われているのだろうか、新しくなってないではないか」「代わりに何か良いことをしなくては」と疑うことがあるかもしれません。そのような元の不自由な状態の思いに戻そうとする力、肉の思いが働いても、思い起こしましょう。神様の前にすでに私は義と認められているのだと、キリストと結ばれ、新しく創造された者(コリント信徒への手紙Ⅱ3:18 5:17)、として私は生きているのだと、毎回御言葉の約束によって引き上げていただきましょう。この神様の大きな恵みを一度受けて、それを無駄にできるでしょうか。キリストが十字架でしてくださったことで、私たちは何もせずに、神様との愛の関係を与えられ、神様の子どもとしてすべて良いものを与えられる、今も、将来も天においても相続することを約束されている、このたくさんの恵みを信仰で受け取り続けよう、とこの御言葉は現代に生きるわたしたちにも強くメッセージを訴えています。

神様が与えてくださったこの救いの喜びを感謝し、主に従おうとすれば、結果的によい行いに導かれます。パウロはエフェソの信徒への手紙2:8-10で

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」 つまり、聖霊が結ぶ実として良い行いさえも神様から与えられるものです。

20節「わたしが今、肉において生きているのは、」は別訳では「今わたしがこの世に生きているのは」とあり、わたしたちはこの世の生活を送りながらも、キリストに目を注ぎ(へブル12:2)キリストにすべてを委ねて歩むことを「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛しわたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」とパウロは表現しています。 

父なる神様が聖霊により、力をもってわたしたちの内なる人を強めてくださるよう、内に住んでくださるキリストに全面的に委ね、主がわたしたちを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように、キリストへの信仰によって日々生きられるよう、互いに祈りあいましょう。 

(引用 新共同訳聖書)


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