聖書箇所 使徒言行録17章22-31節
本日の聖書の箇所は、使徒パウロが第2伝道旅行で現ギリシャ・トルコの地域を回ったときの、アテネで伝道した時のことが記されています。
〇自然、神様の造られた世界を通して神を知る
人はどのようにして神の存在を知ることができるのでしょうか。自然界の美しさ、精巧にできている動植物をみて、どの民族の間でも、神の存在をなんとなく思う、また神という大きな存在を求めることをしています。陥りがちな人間の傾向性は、その自然の凄さすばらしさに圧倒されて自然自体を神として拝んでしまいます。古代エジプトや南米のインカ帝国の太陽神など。自然の美しさ・天体の雄大さを通してだけでは、神を知るのは不十分です。また、古代ギリシャの人々は人間のような性質を持つ神々を拝んでいました。恋愛の神、お金の神、戦争の神、平和の神、怒りの神、愛の神、憎しみの神等。いたるところに、それらの神々をなだめるために祭壇があり、神殿と偶像が設置されていました。パウロは伝道旅行の途上にアテネにより、この町の状況を見て憤慨したと16節で記されています。
一方で、人間の知識や理性、つまり哲学を通して神を知ろうとする、もしくは神の存在を検証するやり方も古代からあったようです。また、当時ギリシャには哲学者が多く、エピクロス派やストア派は二つとも当時の主要な哲学で、どちらも人格的な神を信じていませんでした。彼らは哲学を語り、また何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたと21節に記されていますので、働くこともせず、労働は全て奴隷にさせて、自分たちはおしゃべりをしていたということです。
そのような街の人々に対して、広場でパウロはイエス・キリストの福音とその復活について福音を皆に宣べ伝えていたのです(18節)。パウロは人々が知らないで偶像を拝んでいても、彼らが少なくとも神を求め、礼拝したいという心があることをとっかかりにして主イエスの父なる神様について説明してました。また、「知られざる神」という祭壇というのを見つけて、知らずに拝んでいるもの、世界とその中の万物とを造られた神様のことを話しています。神様は一人の人(アダム)からすべての民族を造り出し、地上の至るところに住まわせ、各々の民族ごとに住む場所を決められました。神が人類の創造において、神の似姿につくり、土の塵からその体を形造り、命の息(神の霊)を吹き込まれ、人は生ける霊となったと創世記に記されています。人間だけが神を探し求めさせるように造られているようです。たとえば何千年たっても、猿が神を拝んでいるという遺跡は見つからないことからもわかります。パウロは、アテネの人々に合わせて、神様のご計画に基づく人類の創造から説明し、神は人の内に神への憧がれのような、神を探し求める心を与えてくださっているとアテネの人々が理解しやすい仕方で福音の導入を語っています。
しかし、たとえ人が神を求める心が備わっていても、神様を信じず、自分の思うままに生きることを選んだため、神の似姿から堕落してしまったため、神様ではなく、他の者で代用しようと求めるようになってしまいました。人はその心の穴、空虚さを埋めるために、様々なもので代用しようとします。気圧の法則を発見したパスカルは人の心には空洞があり、それを求める。それを埋めるのは本当の神しかいないと表しています。私たちの人生における真の渇きを満たすことができるのは神だけです。
神様は求めれば、必ず探し求められる方であります。神があまりに大きな存在、崇高な畏れ多い存在だとしたら、とても近づきがたく、遠くにいる存在に様に思えますが、神様は実際に、わたしたちからそれほど遠くにはおられないのです。またパウロがは28節で「我々は神の中に生き、動き、存在する」、「我々は神の子孫である」と聖書の神様をしらなくとも、神を求める心からこのように表現したであろう詩人の言葉を引用しています。しかし、子孫だからといって、私たちが神であるとか、神になるとパウロが言っているのではありません。なぜなら人間はあくまでも、被造物であり、復活されたイエス・キリストを長子として、神の子供とされ神の家族となりますが、人間は神にはなれません。文脈的にパウロはギリシャの詩人が「自分たちは神の子孫だ」と言っているなら、なおさら、神は人間によって人間の業や考えで像として造られる存在だと考えてはならないと説明しています。
〇神の言葉:イエス・キリストを通して神を知る
パウロは、ユダヤ人向けには、律法という観点から、行いで救われるのではなく、信仰によって救われることを説明してきましたが、アテネの人々には、このようにユダヤ人向けとは異なるやり方で福音を伝えようとしました。しかしどの民族に対しても、この世界と人間を創られた唯一の神を知るには、イエス・キリストを通して、御言葉を通してしか知ることができないのです。聖書を通して神を知り、つまり神様に対して自身に罪があることに気が付かされないと、いくら聖書を熱心に勉強しても、聖書が誰について記しているかを悟ることができません(ヨハネ5:39)。その罪を赦し神様との和解をもたらすために送られた救い主イエス・キリストを信じる信仰がない限り、聖書はただの本であり、神様を信じることができないのです。
ですからパウロは、最後に30節「神はこのような無知の時代を大目に見てくださいましたが、今は、どこにいる人で皆悔い改めるようにと、命じておられます。」と、本論に入りました。今や、イエス様が救い主として来られ、神の言葉が全世界に宣べ伝えられているので、探し求めれば、自然からではなく、他の神々ではなく、神の言葉を通して本当の神様を見つけることが出来る時代になったのです。それは人が悔い改めることから始まり、神に立ち帰り、キリストの救いを信じて、神の御霊に満たされて神様の祝福を受け、新しく生きるようにされる救いがすべての民族に与えられる時代となったことをアテネの人々に説明しています。
私たち人間は神のかたちに、神の似姿として創造されましたが、人は罪によってその形から堕落したので、今日、周囲を見渡しても、日々の世界のニュースをみても、神様が創造された意図にかなった人々の行動を見出すことができません。人の命が奪われたり、戦争が続きと心が痛むことばかりです。人が神様から離れ、自分を造って下さった創造主を信じず、自分が神のようにふるまい、神の似像が失われている結果が、今の世界ではないでしょうか。神様の目的は、人間が神の似姿から堕落したときに失ったものを、私たちのために回復し私たちを神の子として再び神との交わりへと導くことです。そして、この目的のためにイエスは来られたのです。
しかしアテネの人々はイエス・キリストの復活とこの世の裁きについての話しを聞くと、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と関心を示しません。それでも、少数の人々は信仰に入ったと記されています。パウロのアテネ伝道は決して、無駄ではなかったのです。たとえ大勢が救われようが、少数であろうが、大きな喜びが天にあると、イエス様は見失った一匹の羊のたとえ話で話されているからです。(ルカによる福音書15章7節)
〇「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」
私たちが信じる、主イエス・キリストの父なる神様は遠くはなれた、異国の神ではないのです。すべての民の神であり、常に、どこにいても私と共にいてくださいます!イエス様は、人となって、人の間に住んでくださり、今も一人一人の内に聖霊として住んで下さっています。私たちは、復活の主イエスを信じる信仰で、神様が共にいて下さると、安心できるのが幸いです。御言葉は私たちの近くにあり、神様を求める者には、必ずご自身を表してくださり、救いに導いて下さる方です。パウロはローマの信徒への手紙10章8-13節で記しているとおりです。
では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
わたしたちは、神の子供として今も生かされているのは、私たちが生きるこの失われた世界に、キリストの良い知らせを伝える者として、神様のご計画の業に参加させていただくよう、召されています。個人としてだけでなく、教会という共同体として召されています。わたしたちは、まだキリストという神の似姿に聖霊によって変えられていく途上であります。聖霊によって私たちを神の似姿に変えてくださるように、私たちの人生があなたの証しとなりますように、福音の愛の光が、私たちの人生を通して、神様を求めている人々に輝き出ますように互いに祈っていきましょう。
(新共同訳聖書 引用)