
■ 「家政婦のミタ」40%が映し出す、今という時代:
「家政婦のミタ」がマーケティングの本質を示す!40%の理由分析で見えるもの!
はじめに:
昨年の話題。
TVドラマ「家政婦のミタ」が関東で平均視聴率40%をとった。
この40%の凄さについて、今、冷静に考えてみる。
昔、プロレス、相撲、野球、年末の紅白歌合戦が50%超の視聴率を上げたことがある。
娯楽が少なく、
TVというエンタメが家庭の娯楽の王座をしめていたときの話である。
今は、多様な、個性的な生活が当然となり、
いろいろな楽しみを享受出来る時代だ。
平日のTVドラマで、
これだけの数字をたたきだしたのは、
「異常」といえる。
わかりやすく言えば、
全国の40%の人が、
他に何もせずにTVの同じ番組を見ていたということである。
この「異常さ」を分析することで、
現在・未来の社会・消費の本質がいろいろと分かってくる、
ように思う。
A.「家政婦のミタ」のインパクト:
「家政婦のミタ」の40%という視聴率。
ドラマの歴史の中では、今世紀では初めてだという。
TVの可能性をみせつけた。
TV放送が始まって50年超、その積み重ねはだてじゃなかった、
ということになる。
TVというマスメディアの凄さ、
使い方によっては、
爆発的な影響を社会に与えうることを証明してみせた。
3.11.大震災の後、しばらくTVCMの自粛があり、
ACCの広告が流れた。
そのときの「子宮頸がん」ということばが脳裏に焼きついた。
我々は、
TVというメディアで何回も訴求されると、
深層心理にその言語・映像が染み込んでしまう、
という強烈な体験をしたが、
TVメディアの潜在力の凄さを、
「家政婦のミタ」は改めて見せつけることとなった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
因みに、
当番組は、どのようなものか、
観たことの無い方のために概要を記す・・・・・。
松嶋菜々子が演じる無表情・無人格?な家政婦が、
重い過去を引きずりながら、
ある家庭に家政婦として派遣された。
家政婦の名前は「ミタ」。
その家庭も、同様に深い傷を負っていた。
「ミタさん」がその家庭に入り込み、
その家族との関係の中で、
家族と共に魂の再生を果たしていくというストーリーである。
B.ヒットの裏側にあるもの:
「家政婦のミタ」は、
なぜこんなにヒットしたのだろうか?
1.その裏側に時代性がある。
2.層状性(相乗性)がある。
3.商品(番組)そのものの個性がある。
4.テーマ設定の妙がある。
の4つの要因がありそうだ。
1.時代性について:
この一年は本当に嫌なこと、辛いことが多かった。
東日本大震災、原発事故、ギリシャ破綻、高齢化・福祉問題、消費税増税等々
内憂外患であった。
今後、何十年にもわたって、
いいことが起こらないのではないか、
子供、孫の時代は今の親の時代を超えてより幸せになることはできないのではないか、
という予感がよぎる一年だった。
一言でいえば停滞感・後退感の横溢する一年だった。
何か、スカッとした、インパクトのある事が起こらないだろか?!
と皆が思った。
複雑でままならない状況、
それを打破してくれる人はいないか、
英雄待望論が生じた一年でもあった。
過去をリセットして、何か新しいことを起こしたい!
そんな思いを抱く時代に突入したといえる。
政治的な感覚でいうと、
ファシズムの温床が出来つつあるということでもある。
「家政婦のミタ」は、
このような時代の気分を見事にすくいとって、
皆の溜飲を下げた番組といえる。
2.層状性(相乗性)について:
「家政婦のミタ」、40%の視聴率。
このような奇跡的なことが起きる時には、
40%へ向かって、偶然としか思えない、神の采配・いたずらがあった、
と考えるのが普通だ。
今回で言えば、
・まず、市原悦子主演の「家政婦は見た!」という、
セレブ家庭を覗き見する、妙に人の心をくすぐる、
ユニークな、大人気長寿番組があったことが大きい。
その資産・遺産をうまくいかした。
・ 大災害からの再生が待望されている中で、
TVドラマの人・家族の復活というテーマが同期(シンクロ)した。
・ 番組の途中で、すごい視聴率だと宣伝されたため、
勝ち馬にのりたい、そんなに人気なら是非観てみたい、
という大衆心理が高まった。
いわゆる勝ち馬にのりたいというバンドワゴン効果が生じた。
・ SNSでバーチュアルな口コミが発生し、
あいつが言うならちょっと観てみようか、という井戸端、口コミ感覚が醸成された。
いろいろなことが相乗効果的に繋がり、40%という数字がたたき出された。
40%の裏側には、
運の良い、40%を実現するような価値連鎖があったことは間違いない。
3.商品(番組)の個性について:
個性といえば、
何といっても主役の「家政婦のミタさん」のキャラである。
台詞、仕草、表情、どれもが異常値感覚で強烈である。
話は飛躍するが、
劇画のヒットメーカー、小池一夫氏曰く、
私は、劇画のストーリーは書かない。
キャラが鮮明なら、その人物は自然と動き出し、黙っていてもストーリーが浮かび上がってくる。
キャラこそ劇画の本質であると。
(子連れ狼等の作品で有名である)
キャラが立つと、
いきいきとその人物像が、その人生像が湧き上がってくる。
成功は間違い無しと!
キャラを立てるということは、
人物像にメリハリをつけるということである。
キャラが立てば、それに対して他人からの好き嫌いという評価が鮮明に出てくる。
好きな人も大歓迎だが、嫌いな人も番組を盛り上げてくれる。
昔でいえば、アンチ巨人である。
巨人は嫌だが、巨人あっての自分の贔屓のチーム?!
という感覚に近い。
当番組は、
このキャラを立てた瞬間から成功が保証されたともいえる。
4.テーマ設定の妙がある。
・まず、当ドラマは、精神的などん底から這い上がって復活していく、
という古典的な文学テーマを踏襲している。
人は誰しも精神的な辛さ、苦しさからは逃れたい、
そこから脱して幸福になりたい、
と願っている。
それは不滅の人間(文学)的なテーマである。
・ついで、いろいろな人間くさいエンタメ要素が入っていることが大きい。
出世、左遷、くび、嫉妬、不倫、喧嘩、愛、絆、隣人関係、
うらみ、罰・罪、死、受験、舅問題、しがらみ、
自殺、勉強、無邪気な子供、死者の霊、占い・・・・
およそ人間である以上、
だれもが経験する人生テーマが満載なのである。
話が変わるが、
日本が世界に誇る「源氏物語」がなぜ面白いか、
上記のようなテーマが詰まっているからとされる。
源氏物語は、
宮中の男女間を中心とした人間関係の葛藤、争いを軸に物語が進められる。
源氏物語は日本人が好きな無常観に満ちた物語であるが、
中身は、恋に、仕事に生きる人間くさい昼メロ的なドラマである。
「家政婦のミタ」にも、
社会・生活で遭遇する事柄が全部凝縮されている。
ひとつひとつのシーンにあきさせないエピソードが散りばめられている。
「家政婦のミタ」が扱かっている内容は相当にシリアスである。
家庭の主人の不倫で、離婚を申し渡された妻(子供たちの母)が自殺する。
こどもと主人の断絶が起こる
会社で不倫が発覚し、出世競争から脱落、退社。
子供は勉強、恋に悩み、
自殺した妻の実家の父との葛藤、死んだ妻の妹との恋愛感情、
もつれまくった設定である。
人間の情がドラマの中に息づいており、
ドラマのコンテンツが実にリッチである。
そして、最終的な「復活」という大テーマをしっかり漂わせている。
魂が再生していく予感を与えている。
トルストイの「復活」という小説がその典型である。
ハッピーエンドが来る予感、
これもTVのホームドラマがはずしてはならない落としどころである。
このポイントを見事に匂わせている。
キャスティングの妙も大きい。
松島奈々子、子役の本田望結、相武紗季・・・、
子役のキーちゃんの清涼感的な、無邪気な存在感も、
この番組のアクセントとして見逃せない。
ここにいる役者は、
もともと楽観的なキャラをもつ俳優たちである。
このことでシリアスなドラマなのに、
実は根底では深刻ではないドラマストーリーを予感させることに
つながっている。
C.「家政婦のミタ」の高視聴率の背景:
テレビドラマで、高視聴率をとろうと思えば、
家族の誰が見ても、はらはら、どきどきでしながら、
でも安心してみていられることが大切である。
観ていて何か不安で、
チャンネルを廻したくなるような仕立てでは、
多様なターゲットを引き付けることは出来ない。
40%をとるには、
オールターゲットでなければならない。
因みに20%であれば、
ターゲットを絞り集中して、そのターゲット心理を深く掘り下げていくことが
可能といわれている。
このドラマの守備範囲はきわめて広い。
家族、親戚、会社の同僚・部下、上司、子供の学校・交友関係、隣人等々
登場人物が多様である。
そのシーン・オケージョンも多様である。
パーツが多様なので、
誰がみても、自分に近いコンテンツがどこかには必ずあり、
自分へ向いているドラマという感覚を抱かせる。
高視聴率の理由のひとつは、
ターゲットが広いという素朴な背景がある。
皆でみなければ、異常値40%はでない。
マーケティングでいうところの「選択と集中」という概念とは逆の方向である。
しかし、広いスタンスのコンセプト・ターゲットでも、
皆に共通の骨太のテーマがあれば強さがでてくる。
テーマの本質性が求められる。
このドラマの場合は「復活」というテーマになる。
このドラマは、
大震災・原発事故、不景気等鬱屈した気分の中で、
視聴者へ、リセット・再生へのきっかけを与えてくれたのかも知れない。
だから、40%になったといえる。
D.「家政婦のミタ」のブランド価値:
マーケティングの立場で見ると、
「家政婦のミタ」はブランド化している。
あのダウン、帽子が飛ぶように売れた。
「承知しました」、「業務命令」という言葉がはやった。
ブランド価値の1:
ドラマと同期化した「連想のアンカーポイント」の鮮明さ
連想のアンカーポイントとは、
そのブランドをいわれると最初に思い出すある種の表現要素をさす。
ソフトバンクといわれれば、
孫社長、白戸家の白い犬・・・・といったものだ。
連想点が強烈なほどそのブランドは強いブランドといえる。
「家政婦のミタ」と聞けば何を思い出すだろう?
どんな連想点があるだろう?
・ミタさんのつくる(つくらない?)、あの「無表情」、「冷たい目線」、
・ミタさんの着ている、あの「ダウン」、「帽子」
・家族から言われて発する、あの受身的な、「業務命令(でしょうか)」、「承知しました」というせりふ
である。
「家政婦のミタ」といわれればこれらがすぐ思い出される。
完璧なブランドの連想点である。
「家政婦のミタ」はこの連想点で、視聴者の心の奥に刻まれ、人から人へと口コミされた。
連想点が強烈なので、
否応なしに「家政婦のミタ」のざわついた感覚が、
脳に焼きつき、視聴行動が日本全体に広がったものと思われる。
ブランド価値の2:
知覚品質(イメージ)をつくるキャラクターの鮮明さ:
キャラの鮮明さ。
ドラマは役者によるところが大きい。
その役者の演じるキャラがどのぐらいわかりやすく鮮烈かによって、
そのドラマが人のこころに届くかどうかが決まる。
「ミタさん」という家政婦のキャラは、実に強烈である。
家事は完璧にこなす。
スーパー家政婦である。
動きによどみが無い。冷たいロボットのようだ。
人のことはお構いなしに業務命令を遂行する。
「業務命令」であれば殺人でも、「承知しました」と受ける。
今回のドラマで、
松嶋奈々子の醸し出すキャライメージは大きい。
「ミタさん」を演じている松嶋奈々子をどうとらえるか?
松嶋菜々子の今までのキャラとは真逆のキャラであり、
そのギャップは大きい。
ご本人の知的、賢い人、真摯に生きる、
というキャライメージからは程遠い。
イメチェンである。
無表情のロボットのようなキャラになった。
このギャップが半端ではないので、
話題になった。
しかし、あの松嶋奈々子が演じるのだから、
単なる冷たい、ロボットのようなキャラで終わることはないだろう、
との憶測を呼び、これまた話題になるという
複層的な展開になっていった。
『家政婦は見た』は、
市原悦子主演の人気ドラマである。
これをもじった感じの役どころを、
松嶋菜々子はどう演じるのだろうか?
あの知的な松嶋奈々子が、
ミーハーで好奇心が強い家政婦を演じるのだろうか?
という微妙な不安もよぎった。
実際にふたを開けて見れば、
あの家政婦のイメージとは全く違っていた。
このギャップも大きかった。
「家政婦のミタ」のイメージは松嶋奈々子によって、見事につくられた。
E.「ミタさん」の予定調和的な結末/しあわせとは何か?:
最終回には、
無表情の「ミタさん」から、
魂の再生を果たした笑顔がでる?、
と皆が期待した。
松嶋菜々子の笑顔はどのようなものか、
それがこの家族にどんなインパクトをあたえるのか。
それが作り笑顔か?真の笑顔か?、
という興味も抱かせた。
今、
なぜ「ミタさん」というキャラクターが共感を呼んだのだろう。
現代社会のライフスタイル、生活価値観の変化が大きい。
・ロハス的なシンプルライフ、本音で生きたいのびのびと生きたい、
・社会的な抑圧(社会ルール・マナーという制約、出世志向、他人目線志向)から開放されたい、
・過去のわずらわしさをリセットしたい、
等の鬱的な気分を打開したい、
という感覚が昨年の大震災以降急速に台頭してきている。
その背景には、幸せとは何だろう、
という素朴な問いかけを、
皆がし始めたということがある。
清水寺の恒例、今年のキーワードは「絆」であった。
価値観が物中心主義から大きく転換した。
ブータン国王夫妻の来日で、
幸せの定義がGDP志向ではない、
心のリッチさへとシフトしている。
実際に、
大震災にあった人ほど幸せを感じている!?
というパラドクシカルな報告も聞く。
家、家族を失って辛い思いをしていることは間違いないのだが、
逆に生きていること、今の衣食住が最低限足りていることの喜びをかみしめている!
人の好意のありがたさ素直にを感じられる、
ということらしい。
このようなお金、物では測れない価値観で、
自分の生活、人生を見直そうとの機運が起こっている。
この潮目の変化の時に
「家政婦のミタ」が呼応、同期して喝采を浴びた、
ということになる。
また、「ミタさん」のように、人の命令に忠実に動くことで、
自己・自我を封じ込めて生きることが出来るならば、
楽なのでは!
という超受身的な心理を突いたことも大きいという。
自己実現・自己主張で個人を立てることに疲れ、
「ミタさん」のように自己を抑制する生き方に
共感を覚えたりするのも時代のなせる業である。
「ミタさん」のキャラは、いろいろな生き方の解釈の余地を残した。
見る人に、自由にこのキャラを解釈して!
という投げ掛けで、
視聴者が勝手に自分の都合で「ミタさん」へ共感していく、
というフレームをつくった。
でなければ、
個性化・多様化が進んだ時代にこのようなマスは取れない。
40%は、
実はマスではなく、ミニの集合体ということになる。
「ミタさん」は心理的なプラットフォームを与えてくれた。
そのフレームに、
視聴者は自分の独自の解釈でのっかり、
結果が40%になったということになる。
F.最後に/少し家政婦のマーケティング的な話を:
・「家政婦さん」という仕事は、
社会の、時代の旬の現象と捉えることができる。
今は自分で何から何までするという時代ではなく、
サービス代行(=家政婦的な仕事)の時代である。
実際に家政婦さんの利用経験率は5%、
利用意向率は30%近くあるという。
その相場は、
2時間で5000円という。
住み込みでは、一日15000円という。
手が届かないサービスではない。
・家政婦さんという仕事の背景は以下のようになる。
日本人は井戸端会議が大好きである。
江戸時代の鎖国と幕藩体制で、
平和な時代がつづくと、
狭いエリアの中で、
近所の人は何をしているのか、
というような小さな出来事に興味を持つことになる。
盆栽いじり的な、人間的な機微に触れた社会が育ってきた。
あのお宅ではこんなことが起こって、
こんな風だ、
というようなことが大好きな国民である。
仲良くやりながらも村八分的な微妙ないじめ文化が醸成されたりもした。
ご近所のことが気になるということが、
自然にDNAのなかに埋め込まれてくる。
「家政婦さん」という言葉の響きの中には、
他人の家の中にある秘密を垣間見て、
井戸端会議でうわさできる
という妙なざわめき感的な期待がある。
社会の中には、
実は家政婦さん的な、業種・業態が多いことに気づかされる。
外食、惣菜宅配、買物代行、家事代行(ダスキン)、保育園、介護支援、デイサービス・・・等である。
昔、武家の中に乳母という制度があった。
乳飲み子を、実の母が育てるのではなく乳母が育てる。
一切の教育・しつけも乳母がおこなう。
これも代行のひとつである。
大学生の家庭教師というのもいわば親がおこなう勉強の面倒を、
優秀な学生がおこなうという一種の家事代行である。
つまり家政婦的な仕事は、
社会のなかに相当浸透していてニーズは大きいのである。
ここにも番組がヒットする背景があったということになる。

家政婦さんはセレブしか雇えないという感覚がある。
家政婦さんを頼む快感は一種の優越感的な味わいがある。
あこがれるという心理もある。
その一方で自分達も何かあれば家政婦さんを雇うということが出来る、
という実感もある。
永久とは行かなくとも短い期間頼むことは出来る。
家政婦を雇う行為は、
セレブ的ではあるが、意外に身近という感覚もある。
「家政婦のミタ」の主人公の職業は遠い世界のようでいて、
実は身近な職業だったことが改めてわかる。
このあたりもドラマのヒットの要因となっている。
因みに家政婦さんには3つの約束事があるという。
・秘密を守る、
・家風を知る(味、家事の個性・・・)
・ルールを知る(特に家族間の人間関係の状況を見極めて、ストレスのないように動く)
あなたは、守れますか?
あなたには、家政婦の素質はありそうですか?
この稿おわり
■ 追記1:二つ目の40
実は昨年、
もうひとつの「40」があった。
地味だが押さえておかなくてはならない、
その「40」の出来事とは?
42年続いた大長寿番組・水戸黄門が終了した。
水戸黄門の視聴を支えてきた人が70歳以上になる。
たそがれ世代の番組が終了する。
ここには高齢化社会の縮図がある。
若い人は時代劇を見たいとは思わない、
水戸黄門の印籠をもってしても、
その潮流にあがなうことはできなかったという訳だ。
最盛期は40%台の視聴率を上げたが、
だんだん落ち込み一ケタ台となってしまった。
終了にあたっては、たくさんのファンからやめないで、
という声が届いたという。
凄い反響だったらしい。
だったらもっと見てくれればいいのに、
とスタッフは感じたという。
アメリカの話。
以前コーラが味を変えたとき、
なぜ変えるんだと、怒りの声がたくさん届いたという。
いままでコーラを飲まない人まで文句を言ってきたという。
結局もとの味にもどしたらしいが・・・?
長い間ロングセラーを続け、
空気のような存在で皆から当たり前のように見られていたものが、
いざ、やめるとなると、
実は凄い存在だったと気づかされ、やめないでと苦情が殺到する、
という話である。
ここでは、ロングセラーの維持の秘訣が隠されている。
それはマンネリにならないように、
常日頃からPRに努め、その存在感をいつも高からしめておく、
ということである。
ロングセラーには定常的な刺激策が不可欠という教訓である。
大衆の心は、
いつも移ろいやすく、ものに飽きてやがて忘れてしまうものだ。
水戸黄門。
最初の5分を見て、最後の5分を確認すればそれで済むといわれた。
勧善懲悪の本当にわかりやすいストーリーである。
最初の5分で悪役と善玉が峻別される、途中で善玉が悪玉にいじめられる。
しかし最後は善玉が必ず勝つ、
水戸黄門の「この印籠が目に入らぬか」
でめでたく収束する。
水戸黄門が40%もの視聴率を取った背景とは何か?
水戸黄門は時代劇というより、
「元気で一生懸命に頑張れ!最後は報われる!というコンセプトの番組である。
そのコンセプトが、
高度成長時代に重なって、
一生懸命頑張って仕事をすれば,
最後は自分の道は開けて必ず報われる、
という価値観にミートした。
水戸黄門は高度成長時代の申し子であった。
高度成長期には、
ひとつの会社で勤め上げ、地位、収入が毎年アップし、それなりの退職金がもらえる、
女性は、会社に勤めた後、伴侶をみつけ寿退社し、専業主婦になる、
という一次線形的な成長パターンがあった。
水戸黄門のような、
最後はハッピーエンドになるという単純明快で、一時線形の勧善懲悪ストーリーは、
高度成長の時代にはピッタリはまった。
時代の変化の中で、その価値観がついにもたなくなった。
視聴率がとれなくなった。
もちろん若い人は時代劇そのものが皮膚感覚から遠いものであり、
ストーリーが単純過ぎて、人生の屈折した機微に追いつかないものとして
無関心、無関与になってしまった。
「水戸黄門」という名前と、「印籠」というブランド連想点で、
長寿を謳歌したが、時代の要請にはこたえられず、
ついに退場となった。
「家政婦のみた」が受ける時代には、
水戸黄門という番組は必要がない、
というわかりやすい結論になった。
今の時代は、低成長、かつ可処分所得の厳しさから、
単純に「もの」を追求し欲求を満たすことができない。
シンプルな、自分流の幸せを求めるという時代である。
何となく停滞した、これ以上の成長は望めない時代、
20代の若い世代は、この失われた時代の20年で大きくなった世代である。
今が高度成長期と比べて良くないという発想がそもそもない。
今の時代、
あくせくしないでもそれなりにハッピーじゃないか?
と思っている節がある。
■追記2:3つ目の40
40%という数字。
昨年、もうひとつ象徴的で重要なことが起きた。
テレビの総視聴率が、
ついに40%を割った。
要するに、
テレビをつけない人がどんどん多くなっている。
テレビの凄さは見つめつつも、
TVメディアへの社会要請は微妙に変化しつつある、
といっていい。
テレビは、
ネットも含め新しい収益源をさがさなければならない時代へ入った。
キー局でもTBSは赤字である。
地方局はかなりの厳しさがあるという。
かなり前だが、「ほりえもん」がテレビ朝日を買収しようと動いたことがあった。
テレビとネットの融合をはかるためという論だったが、
既存勢力に阻まれ挫折した。
今にして思えば、きわめて当たり前の発想で動いていたことがわかる。
ユーチューブが人気だ、
あらゆる人が、自由に表現出来る時代の象徴である。
TVのような、
完成度の高い番組をつくり一方通行で放映するというビジネスモデルは、
時代遅れである。
個人の好みで見たいものが選べる、
個人が、自由に投稿し、自由に視聴することが当たり前の時代になった。
「家政婦のミタ」がマーケティングの本質を示す!40%の理由分析で見えるもの!


TVドラマ「家政婦のミタ」が関東で平均視聴率40%をとった。
この40%の凄さについて、今、冷静に考えてみる。
昔、プロレス、相撲、野球、年末の紅白歌合戦が50%超の視聴率を上げたことがある。
娯楽が少なく、
TVというエンタメが家庭の娯楽の王座をしめていたときの話である。

いろいろな楽しみを享受出来る時代だ。
平日のTVドラマで、
これだけの数字をたたきだしたのは、
「異常」といえる。
わかりやすく言えば、
全国の40%の人が、
他に何もせずにTVの同じ番組を見ていたということである。

現在・未来の社会・消費の本質がいろいろと分かってくる、
ように思う。


ドラマの歴史の中では、今世紀では初めてだという。
TVの可能性をみせつけた。
TV放送が始まって50年超、その積み重ねはだてじゃなかった、
ということになる。
TVというマスメディアの凄さ、
使い方によっては、
爆発的な影響を社会に与えうることを証明してみせた。

ACCの広告が流れた。
そのときの「子宮頸がん」ということばが脳裏に焼きついた。
我々は、
TVというメディアで何回も訴求されると、
深層心理にその言語・映像が染み込んでしまう、
という強烈な体験をしたが、
TVメディアの潜在力の凄さを、
「家政婦のミタ」は改めて見せつけることとなった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

当番組は、どのようなものか、
観たことの無い方のために概要を記す・・・・・。
松嶋菜々子が演じる無表情・無人格?な家政婦が、
重い過去を引きずりながら、
ある家庭に家政婦として派遣された。
家政婦の名前は「ミタ」。
その家庭も、同様に深い傷を負っていた。
「ミタさん」がその家庭に入り込み、
その家族との関係の中で、
家族と共に魂の再生を果たしていくというストーリーである。


なぜこんなにヒットしたのだろうか?
1.その裏側に時代性がある。
2.層状性(相乗性)がある。
3.商品(番組)そのものの個性がある。
4.テーマ設定の妙がある。
の4つの要因がありそうだ。

この一年は本当に嫌なこと、辛いことが多かった。
東日本大震災、原発事故、ギリシャ破綻、高齢化・福祉問題、消費税増税等々
内憂外患であった。
今後、何十年にもわたって、
いいことが起こらないのではないか、
子供、孫の時代は今の親の時代を超えてより幸せになることはできないのではないか、
という予感がよぎる一年だった。
一言でいえば停滞感・後退感の横溢する一年だった。
何か、スカッとした、インパクトのある事が起こらないだろか?!
と皆が思った。
複雑でままならない状況、
それを打破してくれる人はいないか、
英雄待望論が生じた一年でもあった。
過去をリセットして、何か新しいことを起こしたい!
そんな思いを抱く時代に突入したといえる。
政治的な感覚でいうと、
ファシズムの温床が出来つつあるということでもある。
「家政婦のミタ」は、
このような時代の気分を見事にすくいとって、
皆の溜飲を下げた番組といえる。

「家政婦のミタ」、40%の視聴率。
このような奇跡的なことが起きる時には、
40%へ向かって、偶然としか思えない、神の采配・いたずらがあった、
と考えるのが普通だ。
今回で言えば、
・まず、市原悦子主演の「家政婦は見た!」という、
セレブ家庭を覗き見する、妙に人の心をくすぐる、
ユニークな、大人気長寿番組があったことが大きい。
その資産・遺産をうまくいかした。
・ 大災害からの再生が待望されている中で、
TVドラマの人・家族の復活というテーマが同期(シンクロ)した。
・ 番組の途中で、すごい視聴率だと宣伝されたため、
勝ち馬にのりたい、そんなに人気なら是非観てみたい、
という大衆心理が高まった。
いわゆる勝ち馬にのりたいというバンドワゴン効果が生じた。
・ SNSでバーチュアルな口コミが発生し、
あいつが言うならちょっと観てみようか、という井戸端、口コミ感覚が醸成された。
いろいろなことが相乗効果的に繋がり、40%という数字がたたき出された。
40%の裏側には、
運の良い、40%を実現するような価値連鎖があったことは間違いない。

個性といえば、
何といっても主役の「家政婦のミタさん」のキャラである。
台詞、仕草、表情、どれもが異常値感覚で強烈である。
話は飛躍するが、
劇画のヒットメーカー、小池一夫氏曰く、
私は、劇画のストーリーは書かない。
キャラが鮮明なら、その人物は自然と動き出し、黙っていてもストーリーが浮かび上がってくる。
キャラこそ劇画の本質であると。
(子連れ狼等の作品で有名である)
キャラが立つと、
いきいきとその人物像が、その人生像が湧き上がってくる。
成功は間違い無しと!
キャラを立てるということは、
人物像にメリハリをつけるということである。
キャラが立てば、それに対して他人からの好き嫌いという評価が鮮明に出てくる。
好きな人も大歓迎だが、嫌いな人も番組を盛り上げてくれる。
昔でいえば、アンチ巨人である。
巨人は嫌だが、巨人あっての自分の贔屓のチーム?!
という感覚に近い。

このキャラを立てた瞬間から成功が保証されたともいえる。

・まず、当ドラマは、精神的などん底から這い上がって復活していく、
という古典的な文学テーマを踏襲している。
人は誰しも精神的な辛さ、苦しさからは逃れたい、
そこから脱して幸福になりたい、
と願っている。
それは不滅の人間(文学)的なテーマである。
・ついで、いろいろな人間くさいエンタメ要素が入っていることが大きい。
出世、左遷、くび、嫉妬、不倫、喧嘩、愛、絆、隣人関係、
うらみ、罰・罪、死、受験、舅問題、しがらみ、
自殺、勉強、無邪気な子供、死者の霊、占い・・・・
およそ人間である以上、
だれもが経験する人生テーマが満載なのである。
話が変わるが、
日本が世界に誇る「源氏物語」がなぜ面白いか、
上記のようなテーマが詰まっているからとされる。
源氏物語は、
宮中の男女間を中心とした人間関係の葛藤、争いを軸に物語が進められる。
源氏物語は日本人が好きな無常観に満ちた物語であるが、
中身は、恋に、仕事に生きる人間くさい昼メロ的なドラマである。

社会・生活で遭遇する事柄が全部凝縮されている。
ひとつひとつのシーンにあきさせないエピソードが散りばめられている。
「家政婦のミタ」が扱かっている内容は相当にシリアスである。
家庭の主人の不倫で、離婚を申し渡された妻(子供たちの母)が自殺する。
こどもと主人の断絶が起こる
会社で不倫が発覚し、出世競争から脱落、退社。
子供は勉強、恋に悩み、
自殺した妻の実家の父との葛藤、死んだ妻の妹との恋愛感情、
もつれまくった設定である。
人間の情がドラマの中に息づいており、
ドラマのコンテンツが実にリッチである。

魂が再生していく予感を与えている。
トルストイの「復活」という小説がその典型である。
ハッピーエンドが来る予感、
これもTVのホームドラマがはずしてはならない落としどころである。
このポイントを見事に匂わせている。

松島奈々子、子役の本田望結、相武紗季・・・、
子役のキーちゃんの清涼感的な、無邪気な存在感も、
この番組のアクセントとして見逃せない。
ここにいる役者は、
もともと楽観的なキャラをもつ俳優たちである。
このことでシリアスなドラマなのに、
実は根底では深刻ではないドラマストーリーを予感させることに
つながっている。


家族の誰が見ても、はらはら、どきどきでしながら、
でも安心してみていられることが大切である。
観ていて何か不安で、
チャンネルを廻したくなるような仕立てでは、
多様なターゲットを引き付けることは出来ない。

オールターゲットでなければならない。
因みに20%であれば、
ターゲットを絞り集中して、そのターゲット心理を深く掘り下げていくことが
可能といわれている。

家族、親戚、会社の同僚・部下、上司、子供の学校・交友関係、隣人等々
登場人物が多様である。
そのシーン・オケージョンも多様である。

誰がみても、自分に近いコンテンツがどこかには必ずあり、
自分へ向いているドラマという感覚を抱かせる。
高視聴率の理由のひとつは、
ターゲットが広いという素朴な背景がある。
皆でみなければ、異常値40%はでない。

しかし、広いスタンスのコンセプト・ターゲットでも、
皆に共通の骨太のテーマがあれば強さがでてくる。
テーマの本質性が求められる。
このドラマの場合は「復活」というテーマになる。

大震災・原発事故、不景気等鬱屈した気分の中で、
視聴者へ、リセット・再生へのきっかけを与えてくれたのかも知れない。
だから、40%になったといえる。


「家政婦のミタ」はブランド化している。
あのダウン、帽子が飛ぶように売れた。
「承知しました」、「業務命令」という言葉がはやった。

ドラマと同期化した「連想のアンカーポイント」の鮮明さ
連想のアンカーポイントとは、
そのブランドをいわれると最初に思い出すある種の表現要素をさす。
ソフトバンクといわれれば、
孫社長、白戸家の白い犬・・・・といったものだ。
連想点が強烈なほどそのブランドは強いブランドといえる。
「家政婦のミタ」と聞けば何を思い出すだろう?
どんな連想点があるだろう?
・ミタさんのつくる(つくらない?)、あの「無表情」、「冷たい目線」、
・ミタさんの着ている、あの「ダウン」、「帽子」
・家族から言われて発する、あの受身的な、「業務命令(でしょうか)」、「承知しました」というせりふ
である。
「家政婦のミタ」といわれればこれらがすぐ思い出される。
完璧なブランドの連想点である。
「家政婦のミタ」はこの連想点で、視聴者の心の奥に刻まれ、人から人へと口コミされた。
連想点が強烈なので、
否応なしに「家政婦のミタ」のざわついた感覚が、
脳に焼きつき、視聴行動が日本全体に広がったものと思われる。

知覚品質(イメージ)をつくるキャラクターの鮮明さ:
キャラの鮮明さ。
ドラマは役者によるところが大きい。
その役者の演じるキャラがどのぐらいわかりやすく鮮烈かによって、
そのドラマが人のこころに届くかどうかが決まる。
「ミタさん」という家政婦のキャラは、実に強烈である。
家事は完璧にこなす。
スーパー家政婦である。
動きによどみが無い。冷たいロボットのようだ。
人のことはお構いなしに業務命令を遂行する。
「業務命令」であれば殺人でも、「承知しました」と受ける。
今回のドラマで、
松嶋奈々子の醸し出すキャライメージは大きい。
「ミタさん」を演じている松嶋奈々子をどうとらえるか?
松嶋菜々子の今までのキャラとは真逆のキャラであり、
そのギャップは大きい。
ご本人の知的、賢い人、真摯に生きる、
というキャライメージからは程遠い。
イメチェンである。
無表情のロボットのようなキャラになった。
このギャップが半端ではないので、
話題になった。
しかし、あの松嶋奈々子が演じるのだから、
単なる冷たい、ロボットのようなキャラで終わることはないだろう、
との憶測を呼び、これまた話題になるという
複層的な展開になっていった。

市原悦子主演の人気ドラマである。
これをもじった感じの役どころを、
松嶋菜々子はどう演じるのだろうか?
あの知的な松嶋奈々子が、
ミーハーで好奇心が強い家政婦を演じるのだろうか?
という微妙な不安もよぎった。
実際にふたを開けて見れば、
あの家政婦のイメージとは全く違っていた。
このギャップも大きかった。
「家政婦のミタ」のイメージは松嶋奈々子によって、見事につくられた。


無表情の「ミタさん」から、
魂の再生を果たした笑顔がでる?、
と皆が期待した。
松嶋菜々子の笑顔はどのようなものか、
それがこの家族にどんなインパクトをあたえるのか。
それが作り笑顔か?真の笑顔か?、
という興味も抱かせた。

なぜ「ミタさん」というキャラクターが共感を呼んだのだろう。
現代社会のライフスタイル、生活価値観の変化が大きい。
・ロハス的なシンプルライフ、本音で生きたいのびのびと生きたい、
・社会的な抑圧(社会ルール・マナーという制約、出世志向、他人目線志向)から開放されたい、
・過去のわずらわしさをリセットしたい、
等の鬱的な気分を打開したい、
という感覚が昨年の大震災以降急速に台頭してきている。

という素朴な問いかけを、
皆がし始めたということがある。

価値観が物中心主義から大きく転換した。
ブータン国王夫妻の来日で、
幸せの定義がGDP志向ではない、
心のリッチさへとシフトしている。

大震災にあった人ほど幸せを感じている!?
というパラドクシカルな報告も聞く。
家、家族を失って辛い思いをしていることは間違いないのだが、
逆に生きていること、今の衣食住が最低限足りていることの喜びをかみしめている!
人の好意のありがたさ素直にを感じられる、
ということらしい。
このようなお金、物では測れない価値観で、
自分の生活、人生を見直そうとの機運が起こっている。
この潮目の変化の時に
「家政婦のミタ」が呼応、同期して喝采を浴びた、
ということになる。

自己・自我を封じ込めて生きることが出来るならば、
楽なのでは!
という超受身的な心理を突いたことも大きいという。
自己実現・自己主張で個人を立てることに疲れ、
「ミタさん」のように自己を抑制する生き方に
共感を覚えたりするのも時代のなせる業である。

見る人に、自由にこのキャラを解釈して!
という投げ掛けで、
視聴者が勝手に自分の都合で「ミタさん」へ共感していく、
というフレームをつくった。
でなければ、
個性化・多様化が進んだ時代にこのようなマスは取れない。
40%は、
実はマスではなく、ミニの集合体ということになる。
「ミタさん」は心理的なプラットフォームを与えてくれた。
そのフレームに、
視聴者は自分の独自の解釈でのっかり、
結果が40%になったということになる。


社会の、時代の旬の現象と捉えることができる。
今は自分で何から何までするという時代ではなく、
サービス代行(=家政婦的な仕事)の時代である。
実際に家政婦さんの利用経験率は5%、
利用意向率は30%近くあるという。
その相場は、
2時間で5000円という。
住み込みでは、一日15000円という。
手が届かないサービスではない。

日本人は井戸端会議が大好きである。
江戸時代の鎖国と幕藩体制で、
平和な時代がつづくと、
狭いエリアの中で、
近所の人は何をしているのか、
というような小さな出来事に興味を持つことになる。
盆栽いじり的な、人間的な機微に触れた社会が育ってきた。
あのお宅ではこんなことが起こって、
こんな風だ、
というようなことが大好きな国民である。

ご近所のことが気になるということが、
自然にDNAのなかに埋め込まれてくる。

他人の家の中にある秘密を垣間見て、
井戸端会議でうわさできる
という妙なざわめき感的な期待がある。

実は家政婦さん的な、業種・業態が多いことに気づかされる。
外食、惣菜宅配、買物代行、家事代行(ダスキン)、保育園、介護支援、デイサービス・・・等である。
昔、武家の中に乳母という制度があった。
乳飲み子を、実の母が育てるのではなく乳母が育てる。
一切の教育・しつけも乳母がおこなう。
これも代行のひとつである。
大学生の家庭教師というのもいわば親がおこなう勉強の面倒を、
優秀な学生がおこなうという一種の家事代行である。

社会のなかに相当浸透していてニーズは大きいのである。
ここにも番組がヒットする背景があったということになる。

家政婦さんはセレブしか雇えないという感覚がある。
家政婦さんを頼む快感は一種の優越感的な味わいがある。
あこがれるという心理もある。
その一方で自分達も何かあれば家政婦さんを雇うということが出来る、
という実感もある。
永久とは行かなくとも短い期間頼むことは出来る。
家政婦を雇う行為は、
セレブ的ではあるが、意外に身近という感覚もある。

実は身近な職業だったことが改めてわかる。
このあたりもドラマのヒットの要因となっている。

・秘密を守る、
・家風を知る(味、家事の個性・・・)
・ルールを知る(特に家族間の人間関係の状況を見極めて、ストレスのないように動く)
あなたは、守れますか?
あなたには、家政婦の素質はありそうですか?
この稿おわり

実は昨年、
もうひとつの「40」があった。
地味だが押さえておかなくてはならない、
その「40」の出来事とは?
42年続いた大長寿番組・水戸黄門が終了した。
水戸黄門の視聴を支えてきた人が70歳以上になる。
たそがれ世代の番組が終了する。
ここには高齢化社会の縮図がある。
若い人は時代劇を見たいとは思わない、
水戸黄門の印籠をもってしても、
その潮流にあがなうことはできなかったという訳だ。
最盛期は40%台の視聴率を上げたが、
だんだん落ち込み一ケタ台となってしまった。
終了にあたっては、たくさんのファンからやめないで、
という声が届いたという。
凄い反響だったらしい。
だったらもっと見てくれればいいのに、
とスタッフは感じたという。
アメリカの話。
以前コーラが味を変えたとき、
なぜ変えるんだと、怒りの声がたくさん届いたという。
いままでコーラを飲まない人まで文句を言ってきたという。
結局もとの味にもどしたらしいが・・・?
長い間ロングセラーを続け、
空気のような存在で皆から当たり前のように見られていたものが、
いざ、やめるとなると、
実は凄い存在だったと気づかされ、やめないでと苦情が殺到する、
という話である。
ここでは、ロングセラーの維持の秘訣が隠されている。
それはマンネリにならないように、
常日頃からPRに努め、その存在感をいつも高からしめておく、
ということである。
ロングセラーには定常的な刺激策が不可欠という教訓である。
大衆の心は、
いつも移ろいやすく、ものに飽きてやがて忘れてしまうものだ。
水戸黄門。
最初の5分を見て、最後の5分を確認すればそれで済むといわれた。
勧善懲悪の本当にわかりやすいストーリーである。
最初の5分で悪役と善玉が峻別される、途中で善玉が悪玉にいじめられる。
しかし最後は善玉が必ず勝つ、
水戸黄門の「この印籠が目に入らぬか」
でめでたく収束する。
水戸黄門が40%もの視聴率を取った背景とは何か?
水戸黄門は時代劇というより、
「元気で一生懸命に頑張れ!最後は報われる!というコンセプトの番組である。
そのコンセプトが、
高度成長時代に重なって、
一生懸命頑張って仕事をすれば,
最後は自分の道は開けて必ず報われる、
という価値観にミートした。
水戸黄門は高度成長時代の申し子であった。
高度成長期には、
ひとつの会社で勤め上げ、地位、収入が毎年アップし、それなりの退職金がもらえる、
女性は、会社に勤めた後、伴侶をみつけ寿退社し、専業主婦になる、
という一次線形的な成長パターンがあった。
水戸黄門のような、
最後はハッピーエンドになるという単純明快で、一時線形の勧善懲悪ストーリーは、
高度成長の時代にはピッタリはまった。
時代の変化の中で、その価値観がついにもたなくなった。
視聴率がとれなくなった。
もちろん若い人は時代劇そのものが皮膚感覚から遠いものであり、
ストーリーが単純過ぎて、人生の屈折した機微に追いつかないものとして
無関心、無関与になってしまった。
「水戸黄門」という名前と、「印籠」というブランド連想点で、
長寿を謳歌したが、時代の要請にはこたえられず、
ついに退場となった。
「家政婦のみた」が受ける時代には、
水戸黄門という番組は必要がない、
というわかりやすい結論になった。

単純に「もの」を追求し欲求を満たすことができない。
シンプルな、自分流の幸せを求めるという時代である。
何となく停滞した、これ以上の成長は望めない時代、
20代の若い世代は、この失われた時代の20年で大きくなった世代である。
今が高度成長期と比べて良くないという発想がそもそもない。
今の時代、
あくせくしないでもそれなりにハッピーじゃないか?
と思っている節がある。


昨年、もうひとつ象徴的で重要なことが起きた。
テレビの総視聴率が、
ついに40%を割った。
要するに、
テレビをつけない人がどんどん多くなっている。
テレビの凄さは見つめつつも、
TVメディアへの社会要請は微妙に変化しつつある、
といっていい。
テレビは、
ネットも含め新しい収益源をさがさなければならない時代へ入った。
キー局でもTBSは赤字である。
地方局はかなりの厳しさがあるという。
かなり前だが、「ほりえもん」がテレビ朝日を買収しようと動いたことがあった。
テレビとネットの融合をはかるためという論だったが、
既存勢力に阻まれ挫折した。
今にして思えば、きわめて当たり前の発想で動いていたことがわかる。
ユーチューブが人気だ、
あらゆる人が、自由に表現出来る時代の象徴である。
TVのような、
完成度の高い番組をつくり一方通行で放映するというビジネスモデルは、
時代遅れである。
個人の好みで見たいものが選べる、
個人が、自由に投稿し、自由に視聴することが当たり前の時代になった。
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