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■ 北野エース、食品専門小売、「超・品揃え」で経済に喝!!

2012年05月03日 | Weblog
■ 北野エース、食品専門小売、「超・品揃え」で経済に喝!!

はじめに:

今、日本国内の経済状況を見ると、
欧州国債問題、米国の不景気、日本の大震災後・・・
と様々な悪材料がそろい、あまり芳しい話は聞こえてこない。
景気のいい話は少ない。

しかし、ここへきて、景気の足取りも緩やかに回復しつつある。
各種の指標は好転の兆しを示しているという。

但し、GDPの半分を占める個人消費の勢いは弱い。
個人消費はマクロ的にみれば低位安定状態である。
ここがなかなか活性化しない。

ひとついえるのは、
個人も、小売業者も、ものをつくる製造業者も、皆が努力して、
消費を伸ばす努力が必要ということである。
無駄なものを買い、浪費すると言う意味ではない。
生活が向上し個人の幸せ度が向上する消費が、
もっと増えてもよいという意味である。

そのためには、
・メーカーは、皆が買いたくなるようなものをつくる、
・小売は、皆が欲しているニーズを発見しメーカーに伝え、出来たものをきちんと仕入れ売り場に並べる。
ただ並べるだけではダメで、楽しく選べるように売場のエンタメ性を高めておく責任がある。
・個人も、ただいたずらに財布の紐を締めておくのではなく、
必要なものをキチンと目利きして購入する、買い物を楽しむという積極性が求められる。
ショッピングをもっとエンジョイし、潜在下に眠っている欲求を目覚めさせ、
生活に潤いを与えるという姿勢がいる。

さて、今回は北野エースの話である。

上記のような、今だからこそ求められる小売の役割を見事に演じている。
百貨店にも出店している、ユニークな食品専門スーパーである。

今、コモディティを扱う小売業態、例えばCVS、SM、百貨店・・・・・
はどこも厳しい状況にある。
基本的に儲からない。
何となく気を吐いているのは、CVS、食品スーパー、PBで稼げる超大手SM、
といったところだけである。

このような逆風の中、ユニークなポジションをとり善戦している企業が、
北野エースである。
今48店舗、200億円の売り上げ。
今年で50周年を迎える。

北野エースはどのようにして消費に喝を入れたのであろうか?


A.北野エースのUSP:

USPとは/ユニークセリングプロポジション、ユニークセールスポイントのこと。
商品や企業の独自の存在価値のことである。

北野エースのUSPとは何か?!

NEO・CSという価値:

北野エースには、3つのCSがあるように思う。
(これは弊社の仮説であり、北野エースからの話ではない)

・シェルフウォーキングCS(ユニークなものを見る楽しみ/ウィンドウショッピングのようなこと)
・セレクションCS(ユニークなものを選ぶ楽しみ)
・ビヘイニアCS(ユニークなものを買っておいしいと思うこと)

売り場には見たことがないものがたくさんあるという。

前回の来店ではなかったものが、今回の来店ではあったりと、
新しい楽しみを提供している。

「一回で三度おいしい」店となっている。
CSの本質は深い。
単純な総合的顧客満足度だけで判断してはいけない時代になっている。
北野エースのように、
CSを微分して、きめ細かく管理していくことが必要である。

調布店の話。
近くの西友で普通に買い物をした女性が皆、北野エースに入店していく。
上記の3つのCSがあるからだ。

食のテーマパークと呼ぶにふさわしい品揃えである。
店が違えば、品揃えが異なる。

社長北野の考え方・・・。
生活は生きている。
一駅違えば、売れるものが違う。
店の商圏が異なるのだから、売れるものがちがうのが当然なのに、
普通のスーパーでは、
チェーンオペレ-ションで統一したMDにしている!?
おかしいじゃないか?
と考えた。
ここに市場機会があると睨んだ。
また大手では絶対にできないことであり、
参入障壁が大きいということで、きめ細かい店つくりにチャレンジしたという。

例えば、
浅草店:高齢女性向けの和のスイーツが豊富。静岡の250円の「満腹どらやき」が大人気という。
川崎店:800種のワインコーナーがある、すごい迫力だ。
大宮店:惣菜が豊富、帰宅途中の勤務者が便利に利用する。

その店のエリアで何が評判になるか?毎日工夫をしている。
例えば、
毎日1アイテムを、別のいいものへ差し替える。
それを365日やり続けることが大切であるとする。
365日経てば、同じ北野エースの看板が出ていても、
全く違う店なっているという。

きわめて地味な作業である。
しかし、愚直に実践するので「エリア最適」の店ができる。
それは統一感のある整然としたチェーンオペレーションの姿ではない。

北野には、
「毎日変わる店、それが一番いい」
とする企業文化が育っている。

実は、北野社長にはトラウマがある。
普通にやっていては、大手に負ける!!というトラウマである。(詳細後述)
但し明治屋、大丸ピーコックのような高級スーパーを目指そうとする考えもない。
価格はキチンとセーブしている。

北野エースは、社長のトラウマにせかされるように(?)、
中間価格帯のエンタメオペレーション(先ほどのユニークな品揃え等々)を実践し、
高いCSを確保している。
全く新しい小売業態である。


B.北野エースのバイイングシステム:

北野エースのMD・品揃えを語るには、
独特の仕入れシステムに言及しなければならない。
仕入れの考え方が、逆転的な発想になっている。

地方へ出店する、そのエリアでユニークな評判の地元企業・産物を見つけ、
それを品揃えして実績、潜在性を見るという。
店は商品開発のインキュベーターという発想である。

地方で見つけたものを、
東京のバイヤー会議で取り上げ、
各店の店長・仕入れ責任者が、そこに参加して、
自分の店のためにそれらの商品を買うかどうかを決める。

本部バイヤーが決めたものを、
各店が一律に仕入れ店頭に並べるということはない。
各店の店長、即ち、自分の店の生活圏に精通している人が、
自分の目でスクリーニングして、買うものをその場で決める。
つまり、バイヤーと店の責任者がTWOWAY&スクラッチで渡り合う。
従って、本部バイヤーも必死である。

買うかどうかの選択基準は、
・食べて自分がおいしいと感じるか、
・家族にたべさせても安心か
という2つの視点だという。
きわめてシンプルで妥当性のあるスクリーニングである。

店舗は、その店の商品を売るだけではなく、
その店の商圏エリアでの仕入れの窓口ということが、
普通のスーパーと比べての大きな違いである。

また、店の責任者に仕入れの権限があるということは、
実は、自分で仕入れたものは売り切らないとかっこわるい、
ということになる。
従って、完売することが多いという。
自己責任感がでて、立派な実践教育にもなっているという。

エリアドミナントで効率よく仕入・物流(ロジスティク)を考えるというのが、
アメリカ型のチェーンオペレーションの基本である。
北野エースは、これとは真逆の手法・立場を取っている。


C.北野エースを取り巻く小売業態の実情:

1.CVSの状況:

今、CVSが調子いい。
正にコンビニの名前の通り、便利な業態である。
自宅の冷蔵庫代わり、急ぎで必要なときに最適だ。
しかし、一番の利点は個人対応商品に徹しているということだ。

スーパーと違い、
ひとりひとりの食べる適量が手に入るという点が、
もっとも大きい差別化となっている。
弁当、惣菜、スイーツ、パン、インスタント食品、菓子等、
皆、個別対応である。
CVSは、食品周りをみると、基本的にPB的なものが多い。
売れるものだけを、
味でも、容量でも、価格でも個別対応に割り切ってつくり込んで、
棚に並べる。
スーパーのように標準家族3-4人分をまとめた容量のものはない。
あくまでも個別対応である。

因みに、最近のCVSでは、
上年代層や女性の利用が急速に増えている。
・ 個人対応の小容量商品が豊富、
・ PB導入や、NB値引きにより、スーパーと比べても遜色のない価格になっている
等々の理由による。

2.GMSの状況:

GMSがしんどいのは、
生活者の抜本的、本質的なニーズに対応できていないからといわれる。
極端に言えば、GMSの唯一の利点は、
ワンストップショッピングという時間効率性である。

GMSは、
いろいろな生活物資を置くことで生活インフラになってしまっている。
公共事業のような側面を持たされている。
ほとんど人が歩かないような墓場のような売場も抱え込んでいる、
という苦しさがある。
但し、一部のGMSでは、
PBの豊富さで気を吐いているところもあり、
光明がひとつ差してきたともいえそうだ。

3.北野エースの変身:

北野エースは、もともと関西の普通のスーパーであった。
特売、安売りを武器に25店、270億円の売り上げまで成長した。
しかし、イオンやIYの郊外型大規模スーパーの進出で、
売り上げが150億円ぐらいまで落ち込んだという。

座して死を待つ、という状況になったという。
東京に進出して最初は大手量販店にはない「質」(品揃え)で勝負を掛けた。
一般スーパーという業態を捨てた。
しかし、なかなか実績に結びつかなかったが、
そうこうしているうちに大手百貨店にから出店の要請があり、
そこから大ブレークが始まったという。

北野エースには、
店頭オペレーションの鉄則があるという。

・つい寄りたくなる店
・毎日寄ってもあきない店
・品切れはご法度

の3つである。
買いに来たお客様には失望させない
在庫がなくなれば、
北野の近くの店から店頭在庫を貰い受けるというアナログ的な制度もある。

小売は現場が大切。
五感(嗅覚、視覚、聴覚、触覚、味覚)を総動員して現場からヒントを得るという。
数字だけでは見えない何かを五感でとらえるという。
社長は現場のその感覚が大好きという。
そのセンスで一般スーパーとは全く異なる店にしてきたという自負がある。

社長のポリシーはわかりやすい。

おいしいものを食べる、世界中からおいしいものを届ける、
それを五感で集めてくる。
地方に出店するのも、
地方のいいものを知る、集めるという目的があるからという。
店を出せば、地方のいいものの情報が集まってくる。
それを全国の店で展開する、
本当にいいものを、
いろいろな人においしいといってもらう、
との思いがある。

正に商売の原点である。
商品を右から左へと動かすことは。
多少語弊のある言葉かもしれないが、小売の原点である。

必要なものを必要なところへ届け、
その最適マッチングによって食生活を豊かにする、
という高邁なミッションを小売は持っている。
小売は社会インフラ的な業態なのである。

昔の総合商社には、「時差は金なり」
(三菱商事から出版された本である/1970年代の古き良き時代の商社の基本機能を語っている)、
というフレーズがあったが、地球の裏側で発見したものを、表側へと持ってくる。
その行為に対して対価をいただくという発想があった。

別の場所で安く仕入れ出来るものがあれば、
安く仕入れて別の場所で少し高く売る、そしてマージンを稼ぐ。
それでも消費者は安く買え、
かつ珍しいものを買えるとあらば、ハッピーということになる。

商社は、
地球規模で、商品、マネー、資源の「過不足を調整する業態」と考えれば分かりやすい。
この調整を短期でやれば「売買」という商行為になる、長期でやれば「投資」というビジネスになる。

小売にも、総合商社と同じような側面がある。

北野エースは、
そのような商売の原点を地で行く。
基本の基本に忠実である。

北野エースは次々と新しい試みを行う。
今、試そうとしているのは、買う前の試食である。
全商品を、その場で試食して買えればより完璧なCSを、お客様に提供できる。
しかし、コストとオペレーションを考えるとなかなか難しいものがあるが、
北野エースでは、この春これを実験するという。

これは、トラップと呼ばれるマーケティング手法である。
トラップとは、
罠(試食、試飲、サンプリング等の生活者の喜びそうな罠)を仕掛けることにより、
・その罠の中で、
・いきなりその商品を味わせ、
・家での食シーンを想像、食した気にさせ、
・買う気を起こさお金を出してもらう、
というマーケティングノウハウのことである。
(TRAP,RECOMMEND,APPLIED,PURCHASEの頭文字)
車の試乗はその典型的な手法である。
乗ってしまうとかなりの確率でその車を買うという。


D.北野エースのエンタメ性:

北野エースはお客様の満足度が高い。
喜んで買い物をする。
そのエンタテイメント感は、独自の品揃えポリシーが産み出している。
品揃えは、超・MDという言葉がふさわしい。
数が半端ではない。

■ 以下、サイトからの抜粋である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
地方独自の商品、海外からの輸入食材などを集めた圧倒的な品揃えで
「お客様が求めること」に徹底的にこだわり、付加価値を追求してきました。
グロサリーストアにおいては、カテゴリーを絞って専門性を高め、
半端でない品揃えで「CSの重要な領域である、選択の楽しさ」を実現した。
また、地域や立地条件の違いを踏まえた商圏エリアマーケティングを取り入れた。
店毎に独自の運営をし、まったく異なる店が出来た。
発想はすべて「お客様発信」。
今日教えられた商品は、明日店に並べる・・・、
これはと思う商品を思いつけば、即仕入れに入る・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
抜粋了。

レトルトカレーの品揃えはどのぐらいか。
売り場をみると、
レトルトの箱が本のように並べられ、まるでブック陳列のようである。
その数も50種と多いので、
お客様の心理は思わず手で取り出してどんなカレーか見たくなってしまう、
という。

しょうゆも140種あるという。例えばかつおだし土佐しょうゆ・・・・
MDが多いということは当然回転が極端に悪いものが多い。
しかし、これはお客様が、
喜びというヒューマン的な満足度を得ているのでOKとしている。

但し、売れないものを別の売れそうなものへ入れ替える、
という地道な作業を毎日実行している、
売場責任者の仕事は売れるものを、
いつも考えて仕入れ、棚に置き、
その刺激的な売場を維持することにある。

店舗責任者には、
品だしといった機械的な、機能的な無味感想な役割ではなく、
お客様に、驚き、喜びを与えるコンッシェルジェ的な役割が期待されている。

店の中で、
エンタメ感のある買物体験をしてもらうためには、
必要なものをただ渡す、
というような「小売業発想」はだめ。
超MDで、お客様を喜ばせる、
というサービス精神が不可欠とされる。

そのようなエンタメ的な社風が北野エースの経営資産となっている。
エンタメ的なものに素直に感動する社員が求められている。
北野のスタッフはエンタメが好きでなくてはならないが、
実は、北野社長自身が、最強のエンタテナーである。

東武百貨店の地下のスーパーに北野社長が現れた。
お客様へ自ら大陳商品を取り、封を開いて試食をすすめた。
ひとつ売れた。
商品デモはエンタメそのものである。
それを実践している北野社長。
正に現役バリバリである。

この稿おわり

追記:
小売にはいろいろな業態がある。
大手小売りに伍して行くには逆転の発想が必要である。
いわゆる差別性のある、ユニークな業態でなければならない、
これは、どの教科書にも書いてあることである。

北野エースを
「中堅のA/エース」にしたものは何だろうか?
その独自のポジション(=ブランド価値)が、
今の地位をもたらしたことは間違いないが、
実はそれだけではない。

いくら正しいこと(独自のポジション)を考えついても、
それを実現する意志の強さと実行力がなければならない。
北野社長は、根っからの商売人である。
店を楽しくすることが大好きな人である。
好きだから、信念もでてくるし、行動できる(やり通せる)ということになる。
やりきる実行力こそが、今の北野エースをつくったといえる。

往々にして、
マーケティングの成果があがるかどうか?
を議論するときに忘れられてしまうのは、
実行力である。
往々にして、成功事例研究は、知恵的なものに議論が集中しがちである。
これは筆者の過去の経験からであるが、
皆が知恵を出せば、やることの内容(戦略、戦術だったり)は、
誰が考えても大体同じようなところへ落ち着いてくる。

問題は実行できるかどうかである、
ということが多い。

北野エースは両方をきちんと廻した稀有の企業ということになる。

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■ユニクロ銀座旗艦店、ユニクロ大変貌の証し?その意味とは!

2012年04月14日 | Weblog
■ユニクロ銀座旗艦店、ユニクロ大変貌の証し?その意味とは!

ユニクロ銀座旗艦店がお披露目された。
そこにユニクロの現状の光と影をみた!


A.ユニクロ銀座店の意味?:

3月16日。
ユニクロ銀座店がオープンした。

世界のユニクロになるためのシンボリックな店、
という。

グローバルで、強豪(競合)に伍してゆくには、国内で圧倒的なNO1になる必要がある。
そのための宣戦布告という。
ユニクロは、国内でみると、
一店舗あたりの売場面積は増えているものの、
その売場効率(単位平米当りの売上高)は年々落ちてきている。

そこでユニクロはグローバルに活路を見出している。
一見して派手な動きであり、もてはやされてはいるが、
なかなか苦しい展開ともいえる。

銀座ユニクロは年間100億円をねらう!
新店長も交えての会見で、柳井CEOが思い切った発言をした。
普段の会見では、売り上げ予想はしないという。
今回は、新店長のいる前で100億円と宣言した。

意気込みを感じさせる言葉である。

ユニクロ銀座店。
横にアバクロ、前にH&M、ZARA、少し外れてGAPと
「FF」(ファストファッション)がひしめいている。

グローバルに見ると、カジュアファション分野ではユニクロは第4位である。
後塵を拝している。
現状、ユニクロの海外点は236店で売り上げは1000億円。
一気に一兆円企業を目指す。
銀座店はその意気込みを示すフラッグシップの店だという。

日本のカジュアルファッション企業の「雄」が、
外国勢と伍して戦う姿は、
今どきの冴えない時代・社会において、元気をもらえる感じである。
エールを送りたい気持ちである。

今は、話題先行で勢いがあるが、
ユニクロ銀座店には心配な点も・・・・・?

心配な点1:
ユニクロ銀座店の目標100億円は素人目からしても無理がありそうだ。
周囲との競合が激しすぎる。

心配な点2:
新店舗は12フロアーで、意外と使いにくい感じがありそうだ。
階が変わればフロアコンセプトを変えて、
店舗全体のメリハリをつけることになるが、
複層階の使い勝手性は決してよくない。

ワンフロアーでのびのびしている方が迫力があり、
品揃え感が演出でき回遊しやすく見やすい、
というのが、
不特定客を吸引し、客単価を上げるタイプの業態の定石である。

広いフロアでこそ、
セレクション(選択)におけるCSが高まり、結果最終の買物CSも高くなる。
ホームセンターでは、2F建ての店ははやらないという。
だだっ広いワンフロアーの方が使いやすく繁盛するというのも、
この理屈である。

固定客で成り立ち、
一見さんお断り的な高級ファッションの店なら、
あまり気にする必要のない話である。

心配な点3:
今は話題となっているが、
時間の経過とともに人々の関心は薄れていく。
実際に、銀座の他のFFもそのような感じになっている。
開店時の熱気はどうしてもなくなる。
時間の経過とともに、
実務的な「商品」、「売り」、「商品回転」の技が求められる。
真の実力が試されることになる。
ユニクロも話題だけではもたない。

以前のブログでも触れたように、
銀座は、最近とみに活気のある街区になっている。
超有名ブランド店の開設、銀座三越の増床、有楽町・阪急メンズ館、ルミネの開店、そしてFFの進出、
と話題に事欠かない。
ソフトバンクの旗艦店も、ユニクロのすぐ近くにオープンして話題となっている。
銀座は、小売戦争のメッカになったというより、
旬の話題満載の街になっている。

ダイナミックな銀座でのユニクロ新店舗は、
いろいろな意味で面白いことになりそうだ。
そんな予感がする。

B.ユニクロ銀座店のUSPについて:

USPとは、
ユニークセリングプロポジション/ユニークセールスポイントのこと、
商品、企業の独自の価値を示す言葉だ。

ユニクロ銀座店のUSPとは?

店内構成のコンセプトがそのUSPを物語っている。
・実用―エンタメ、
・子供―大人
・メンズ―ウイメンズ
・遊び―フォーマル
・単独―コラボ
・定番―実験
・フラッグシップ―実需
・流行―コンサバ
・オーソドクス―フロンティア
といろいろな要素が「おもちゃ箱」のように詰まっている店である。
実に多様な価値観を表現している。

ユニクロ銀座店のコンセプト。
それは筆者の考えでは、
「何かありそうな予感」、
となる。
従来のユニクロとは違う、
世界に、未来に打って出ようとする意気込みを籠めた店、
ということになる。

1F:
ウェルカムゲートと呼ばれるコンシェルジェフロアー。
充実した案内サービスがある。
6カ国語対応で外国のお客様へも対応できる。
アジア系の旅行者への売り上げも見込んでいる。
場合によっては、
店内同行案内、銀座の街区案内もしてくれる。
コーデネートされたマネキンが並び、
どの階に何が展示されているかがわかる。
目次代わりのフロアーになっている。

2F、3F:シーズンセレクションズ

4、5、6F:ウィメンズ

7F:キッズフロアー
保育士の社員がいる。
フロアーはやわらかいマットでカラフルな色使いである。
棚の角は、
子供に危険がないようまるくなっている。
子供の目線で服に触れられるように、かなり低くなっている。

8、9F:メンズ

10F:ハイブランド・アンダーカバーとのコラボフロアー

11F:UTフロア
300種類のTシャツが展示されている。国内最大級の品揃えである。
開店キャンペーン中は990円である。
企業、キャラクター、アート日曜雑貨等が奔放にデザインされて、
従来のユニクロとは異なる雰囲気をかもし出している。

12F:情報発信フロアー
集英社の9つの雑誌とコラボして、各雑誌の編集長が、
今年のコーディネートを提案している。
MORE、NON・NO、LEE・・・・・等々とのコラボである。
今の時期なかなか春めいて、初夏らしくいい感じのデザインが並ぶ。

複層階の店舗で、
コンセプトのメリハリをつけやすくなっており、面白い店づくりになっている。

但し、実用的なユニクロの服を買いに来た人が、
欲しい服を探すとになると、
複層階に渡る、多様なコンセプトで構成された店の使い勝手は、
どう評価されるだろうか?


C.ユニクロという企業の価値とは:

なぜユニクロは皆から一目おかれる存在になったのか?
3つぐらいの本質的な価値がありそうだ。

価値1:

「合理的パフォーマンス」という価値

銀座店の開店オープンのチラシを見ると、最高価格が4990円で四桁の数字が踊る。
大体1990円、2990円という価格である。

このようなSPA的な大量生産・大量販売的で低価格帯の店が、
堂々と銀座の目抜き通りに開店することは、
以前では考えられなかった。
百貨店、専門店が、
季節の終盤でセールをさりげなくやる感覚はあったが、
いわば品のいいセールの範囲であった。
(実際は特売そのもの、在庫品の一掃セールなのだが)

ユニクロは前面に画一性と低価格が押し出されている。
もちろん周囲の外資のFFも安い価格帯を得意としている。
しかし、外国イメージ、斬新なデザインテーストで、
単純なスーパー衣料の特売というイメージからは何とか逃れている。

ユニクロの場合はどうだろうか?
ユニクロは、今、流行のFFとはやや一線を画している。
メーカー的な発想のSPAである。
SPAは、Speciality Store Retailer of Private Label Apparel の頭文字からくる。
ユニクロは、自分で100%つくって100%自分の店で売っている。
製造小売業である。
「製造」というニュアンスが、
特に色濃く残っているタイプのSPAと考えられる。

ユニクロモデルは、SPAの特徴を活かした典型的なビジネスモデルである。
SPAの本質である、
「低コスト」、「自社責任品質」、「独自のデザインテースト」の3本柱をキチンと立てている。
機能では、フリース、ヒートテックなど製造業らしい技術開発力を示し、
デザインは媚びへつらうことがない、極めて実用的なもので勝負している。

ユニクロは、
いわゆるファッションブランドではなく、また単純なPOPカジュアルでもない。
シンプルな実務的な機能美を持ったNEO・カジュアルファッションである。

ファッション製品ではなく、工業製品といった方が近い。
工業製品といえば、車、家電である。
車は自分でつくり、自分の看板をだした店舗で打っている。
昔の家電も自社の家電専門店で売っていた。

ユニクロは、
そのような典型的な「専門品ビジネスモデル」に近い、
と発想すれば、
その本質がかなり見えてくる。

即ち大量につくり大量に売る、
そして品質、性能を落とすことなく、
価格も出来るだけ安くするという
ビジネスモデルになっている。

従って、価格の安さもチープということには繋がらない。
「合理的で、高いコストパフォーマンスがある」
というイメージに繋がってくる。

しかし、ブランドファッションの世界では異端である。
一部の高級ファッションから見れば、
価格が安い、画一的な、実用的なデザイン、
という風に見られてしまう。
一種の宿命でもある。

ユニクロの、従来のファッション業界を「創造的に破壊する(シュンペーター提唱)」スタンスが、
今後、銀座という街のなかでどう評価されていくのか?
見ものである。

価値の2:

ロングテール産業という価値。

ファッション会社は、個人がガレージ(自宅の一角)で開業できる。
デザインセンスとミシンがあればOKである。
ITベンチャーがもてはやされる以前から、
ファッション業界はベンチャーのるつぼであった。
NHK、朝の連ドラ「カーネーション」で話題になった、
「コシノジュンコさんの母親」の物語も
いわばガレージビジネスそのものである。
ファッション業界は、
ごくごく小さなファッション企業がひしめき合い、
独自のデザインで世に出ようと頑張っている。

ユニクロは、
実用的なカジュアルファッションアイテムを大量生産し
小売まで含めて対応している。
ユニクロを冷静に見ると、
低コストの大量生産、大量販売の典型的な、旧来の高度成長型モデルともいえる。

ユニクロに対しての評価はいろいろある。
周囲の人の着ている服がユニクロだらけで嫌だ、
というファッション特有のネガティブ意識が根強くある。
ユニクロは、あくまでも家着で、家の周囲の生活圏の、学生なら学校行動圏のファッション、
という評価もある。

それが銀座に出展して、旗艦店と称することには何か違和感を感じる、
という評価になる。
銀座というファッションのメッカ、聖地に旗艦店をもちたい、
という自己満足ではないのか?
というやっかみ的な声もある。

ユニクロは合理的な品質感・機能とコストの両面で勝負している。
ファッション性はその機能からくる機能美と微妙にリンクしている。
普通の安売りFFとは違う、と判断される。
従って、ちゃらちゃらしたFFブランドとは違う、
という側面がある。

ユニクロは、
ガレージビジネス的な色合いを残し、
ベンチャー的なイメージを保持している。
いくら大きくなっても、
「いつまでもベンチャーでいるという意気込みを持ち挑戦してゆく」
それがユニクロの価値である。

一所懸命、何かを作り社会に訴えかけようとしているイメージがあり、
「大量」というマスイメージから距離を置くことに成功している。
そのような特異なイメージだからこそ、
生活者が何らかのシンパシーを持ち、
あれだけの売り上げ・ファンが獲得できたということになる。

ユニクロの評価は、人によりダイナミックに上下する。
評価がまちまちである。
これも成長企業のエネルギッシュな側面である。

価値の3:

ユニクロの最もユニークな価値。

それは、柳井CEOというオーナーの存在である。
昔の本田宗一郎、松下幸之助といった大創業者といった趣が出てきている。
一種のクセ(=カリスマ性)を持っている。

価値の1、2、3で見たように、
ユニクロブランドは、
つかみどころの無い、新鮮で多様な価値を持っている。
と同時に旧来のビジネスモデル価値も合わせもった
複雑な価値群で出来ている。

単に家着を安く売っている店ではない、
ことだけは間違いのない事実である。

D.最後に/ユニクロの寄ってたつ環境とは:

FF(ファストファッション)の本質が、ユニクロを存在せしめている。
ユニクロがここまで繁盛している、その背景・環境について押さえておく。
FFがはやっている、
という時代・社会なくして、ユニクロの繁栄はない。

今、FFが大流行である。
因みにFFがなぜ持てはやされるのだろうか?

以下、その理由である。

・まず、何といっても絶対価格が低い。

・服はいろいろと着まわす、重ね着する、従って安くていろいろなアイテムをたくさん持ちたいというニーズがある。

・服はあきる、一回も着ないことも、また一回きて飽きてしまうことも、棚の奥にしまって、着ないで過ぎてしまうこともある。
要は、もったいないことが多い。
それなら安くていろいろな種類が買えるFFが便利

・自分のお気に入りでマストアイテムが見つかるまでの道のりでは、いろいろと試さないといけない。
それにはFFの低価格・高回転感がうってつけ。

・世の中全体に、いいものをしっかり買って、きちんと着て、
という感覚がなくなってきている。
成熟時代の必然である。使いまわし感、ディスポーザブル感が横溢している。

・自分の好みもどんどん変わる。
流行もかわる、他人の目線も評価もかわる。
従って安くていろいろなアイテムが揃うFFはうってつけ

等々の理由でFFがはやる。
FFという業態は間違いなく時代の子である。
時代という環境がつくりあげた企業である。

余談になるが、
われわれビジネスパースンがユニクロに親しみを抱くのは、
なぜだろうか?

日本の高度成長時代の代表的な業種、生活を豊かにしてきた業種、
車、家電的なビジネスモデルを踏襲しており、
それが匂ってくるからこそ親近感を抱いてしまうのだろうか?

また、日本を戦後牽引し、日本経済を復活世界の経済大国にてきた、
ホンダ、ソニー、パナソニックの創業カリスマ経営者たちへの憧憬を
柳井氏に感じているからだろうか?

このあたりの微妙なユニクロの醸し出す雰囲気が、
皆をひきつけているのかもしれない。

この稿おわり


追記1:
ユニクロ銀座で杞憂に終わってほしいこと

1.ユニクロ銀座店は入店するビルの選択を間違っていたのではないか。
ワンフロアあたりの面積が狭すぎる?

2.銀座という街で、FFをを仕掛けること、本当はしんどかったのではないか?
銀座では結局はカジュアルな店は淘汰されてしまう?
その街のもつPOP(point of parity/らしさ感)から見て、
銀座はユニクロの本領が発揮できる街ではない?

という心配が杞憂に終わるように頑張ってほしい。

そういえば銀座にはソフトバンクもビッグな店舗を出した。
その近くにユニクロのもう一段下の価格帯の店GU(ジーユー)もできた。
何と、最高価格は2990円で、ほとんどが3桁である。
銀座で価格破壊をやろうとしている。
AKBの前田敦子の広告で勝負を掛けている。
このGUがどこまで続くのか?
注目したい。

過去、ユニクロは、従来より上の価格帯でデザイン性を基調にしたファッションを展開して失敗した。
ユニクロから高級ファッションは連想できない。
そのブランドがユニクロとわかった瞬間からブランドの価値は減耗してゆく。
高価格帯は個人のテーストが大事にされる。
ユニクロで服を買うように、
出たとこ勝負で衝動的に、取りあえずこれでいいか?という感覚の買物はできない。
SPAというビジネスモデルはユニクロで花開いたモデルだが、
高級ブランド展開には向かない。
むしろジーユーの方がユニクロのビジネスモデルにあっている。
しかし、銀座店はどうなるか?
実際はなかなか厳しいかもしれない。

追記2:ユニクロと株価

今、日経平均が上昇している。
10、000円を超えた。

ユニクロは年初来上昇している。
計算では、ユニクロの株価上昇が、日経平均上昇の150円分に相当しているという。
現在のユニクロの時価総額は1兆8500億円でパナソニック、ソニーよりも大きい。
勝手の日本経済を牽引してきたアセンブリーの総合電気、車が振るわない。
替わって、今まで典型的なドメスティック企業とされた流通、食品が気を吐いている。


追記3:ユニクロの今後

ユニクロのうまれ故郷、日本マーケットにおいて、
半端ではない差でNO1になることの意味は大きい。
厳しい日本の消費者に、サービス品質を磨いてもらう、
GDP、NO3のマーケットで斬新な商品開発を進めていく、
という。
しかし量の拡大と利益の最大化は海外で実現する、
ときわめてドライだ。

ユニクロ。
柳井CEOのバイタリティは、
日本をどこへ連れて行くのだろか?!
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■ 「家政婦のミタ」40%が映し出す、今という時代:

2012年03月10日 | Weblog
■ 「家政婦のミタ」40%が映し出す、今という時代:

「家政婦のミタ」がマーケティングの本質を示す!40%の理由分析で見えるもの!

はじめに:

昨年の話題。
TVドラマ「家政婦のミタ」が関東で平均視聴率40%をとった。
この40%の凄さについて、今、冷静に考えてみる。

昔、プロレス、相撲、野球、年末の紅白歌合戦が50%超の視聴率を上げたことがある。
娯楽が少なく、
TVというエンタメが家庭の娯楽の王座をしめていたときの話である。

今は、多様な、個性的な生活が当然となり、
いろいろな楽しみを享受出来る時代だ。
平日のTVドラマで、
これだけの数字をたたきだしたのは、
「異常」といえる。
わかりやすく言えば、
全国の40%の人が、
他に何もせずにTVの同じ番組を見ていたということである。

この「異常さ」を分析することで、
現在・未来の社会・消費の本質がいろいろと分かってくる、
ように思う。

A.「家政婦のミタ」のインパクト:

「家政婦のミタ」の40%という視聴率。

ドラマの歴史の中では、今世紀では初めてだという。
TVの可能性をみせつけた。
TV放送が始まって50年超、その積み重ねはだてじゃなかった、
ということになる。
TVというマスメディアの凄さ、
使い方によっては、
爆発的な影響を社会に与えうることを証明してみせた。

3.11.大震災の後、しばらくTVCMの自粛があり、
ACCの広告が流れた。
そのときの「子宮頸がん」ということばが脳裏に焼きついた。

我々は、
TVというメディアで何回も訴求されると、
深層心理にその言語・映像が染み込んでしまう、
という強烈な体験をしたが、
TVメディアの潜在力の凄さを、
「家政婦のミタ」は改めて見せつけることとなった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
因みに、
当番組は、どのようなものか、
観たことの無い方のために概要を記す・・・・・。

松嶋菜々子が演じる無表情・無人格?な家政婦が、
重い過去を引きずりながら、
ある家庭に家政婦として派遣された。
家政婦の名前は「ミタ」。
その家庭も、同様に深い傷を負っていた。
「ミタさん」がその家庭に入り込み、
その家族との関係の中で、
家族と共に魂の再生を果たしていくというストーリーである。


B.ヒットの裏側にあるもの:

「家政婦のミタ」は、
なぜこんなにヒットしたのだろうか?

1.その裏側に時代性がある。
2.層状性(相乗性)がある。
3.商品(番組)そのものの個性がある。
4.テーマ設定の妙がある。

の4つの要因がありそうだ。

1.時代性について:

この一年は本当に嫌なこと、辛いことが多かった。
東日本大震災、原発事故、ギリシャ破綻、高齢化・福祉問題、消費税増税等々
内憂外患であった。

今後、何十年にもわたって、
いいことが起こらないのではないか、
子供、孫の時代は今の親の時代を超えてより幸せになることはできないのではないか、
という予感がよぎる一年だった。
一言でいえば停滞感・後退感の横溢する一年だった。

何か、スカッとした、インパクトのある事が起こらないだろか?!
と皆が思った。
複雑でままならない状況、
それを打破してくれる人はいないか、
英雄待望論が生じた一年でもあった。

過去をリセットして、何か新しいことを起こしたい!
そんな思いを抱く時代に突入したといえる。
政治的な感覚でいうと、
ファシズムの温床が出来つつあるということでもある。

「家政婦のミタ」は、
このような時代の気分を見事にすくいとって、
皆の溜飲を下げた番組といえる。

2.層状性(相乗性)について:

「家政婦のミタ」、40%の視聴率。
このような奇跡的なことが起きる時には、
40%へ向かって、偶然としか思えない、神の采配・いたずらがあった、
と考えるのが普通だ。

今回で言えば、

・まず、市原悦子主演の「家政婦は見た!」という、
セレブ家庭を覗き見する、妙に人の心をくすぐる、
ユニークな、大人気長寿番組があったことが大きい。
その資産・遺産をうまくいかした。

・ 大災害からの再生が待望されている中で、
TVドラマの人・家族の復活というテーマが同期(シンクロ)した。

・ 番組の途中で、すごい視聴率だと宣伝されたため、
勝ち馬にのりたい、そんなに人気なら是非観てみたい、
という大衆心理が高まった。
いわゆる勝ち馬にのりたいというバンドワゴン効果が生じた。

・ SNSでバーチュアルな口コミが発生し、
あいつが言うならちょっと観てみようか、という井戸端、口コミ感覚が醸成された。

いろいろなことが相乗効果的に繋がり、40%という数字がたたき出された。
40%の裏側には、
運の良い、40%を実現するような価値連鎖があったことは間違いない。

3.商品(番組)の個性について:

個性といえば、
何といっても主役の「家政婦のミタさん」のキャラである。
台詞、仕草、表情、どれもが異常値感覚で強烈である。

話は飛躍するが、
劇画のヒットメーカー、小池一夫氏曰く、
私は、劇画のストーリーは書かない。
キャラが鮮明なら、その人物は自然と動き出し、黙っていてもストーリーが浮かび上がってくる。
キャラこそ劇画の本質であると。
(子連れ狼等の作品で有名である)
キャラが立つと、
いきいきとその人物像が、その人生像が湧き上がってくる。
成功は間違い無しと!

キャラを立てるということは、
人物像にメリハリをつけるということである。
キャラが立てば、それに対して他人からの好き嫌いという評価が鮮明に出てくる。
好きな人も大歓迎だが、嫌いな人も番組を盛り上げてくれる。
昔でいえば、アンチ巨人である。
巨人は嫌だが、巨人あっての自分の贔屓のチーム?!
という感覚に近い。

当番組は、
このキャラを立てた瞬間から成功が保証されたともいえる。

4.テーマ設定の妙がある。

・まず、当ドラマは、精神的などん底から這い上がって復活していく、
という古典的な文学テーマを踏襲している。
人は誰しも精神的な辛さ、苦しさからは逃れたい、
そこから脱して幸福になりたい、
と願っている。
それは不滅の人間(文学)的なテーマである。

・ついで、いろいろな人間くさいエンタメ要素が入っていることが大きい。
出世、左遷、くび、嫉妬、不倫、喧嘩、愛、絆、隣人関係、
うらみ、罰・罪、死、受験、舅問題、しがらみ、
自殺、勉強、無邪気な子供、死者の霊、占い・・・・

およそ人間である以上、
だれもが経験する人生テーマが満載なのである。

話が変わるが、
日本が世界に誇る「源氏物語」がなぜ面白いか、
上記のようなテーマが詰まっているからとされる。
源氏物語は、
宮中の男女間を中心とした人間関係の葛藤、争いを軸に物語が進められる。
源氏物語は日本人が好きな無常観に満ちた物語であるが、
中身は、恋に、仕事に生きる人間くさい昼メロ的なドラマである。

「家政婦のミタ」にも、
社会・生活で遭遇する事柄が全部凝縮されている。
ひとつひとつのシーンにあきさせないエピソードが散りばめられている。
「家政婦のミタ」が扱かっている内容は相当にシリアスである。
家庭の主人の不倫で、離婚を申し渡された妻(子供たちの母)が自殺する。
こどもと主人の断絶が起こる
会社で不倫が発覚し、出世競争から脱落、退社。
子供は勉強、恋に悩み、
自殺した妻の実家の父との葛藤、死んだ妻の妹との恋愛感情、
もつれまくった設定である。

人間の情がドラマの中に息づいており、
ドラマのコンテンツが実にリッチである。

そして、最終的な「復活」という大テーマをしっかり漂わせている。
魂が再生していく予感を与えている。
トルストイの「復活」という小説がその典型である。
ハッピーエンドが来る予感、
これもTVのホームドラマがはずしてはならない落としどころである。
このポイントを見事に匂わせている。

キャスティングの妙も大きい。
松島奈々子、子役の本田望結、相武紗季・・・、
子役のキーちゃんの清涼感的な、無邪気な存在感も、
この番組のアクセントとして見逃せない。
ここにいる役者は、
もともと楽観的なキャラをもつ俳優たちである。
このことでシリアスなドラマなのに、
実は根底では深刻ではないドラマストーリーを予感させることに
つながっている。


C.「家政婦のミタ」の高視聴率の背景:

テレビドラマで、高視聴率をとろうと思えば、
家族の誰が見ても、はらはら、どきどきでしながら、
でも安心してみていられることが大切である。

観ていて何か不安で、
チャンネルを廻したくなるような仕立てでは、
多様なターゲットを引き付けることは出来ない。

40%をとるには、
オールターゲットでなければならない。
因みに20%であれば、
ターゲットを絞り集中して、そのターゲット心理を深く掘り下げていくことが
可能といわれている。

このドラマの守備範囲はきわめて広い。
家族、親戚、会社の同僚・部下、上司、子供の学校・交友関係、隣人等々
登場人物が多様である。
そのシーン・オケージョンも多様である。

パーツが多様なので、
誰がみても、自分に近いコンテンツがどこかには必ずあり、
自分へ向いているドラマという感覚を抱かせる。
高視聴率の理由のひとつは、
ターゲットが広いという素朴な背景がある。
皆でみなければ、異常値40%はでない。

マーケティングでいうところの「選択と集中」という概念とは逆の方向である。
しかし、広いスタンスのコンセプト・ターゲットでも、
皆に共通の骨太のテーマがあれば強さがでてくる。
テーマの本質性が求められる。

このドラマの場合は「復活」というテーマになる。

このドラマは、
大震災・原発事故、不景気等鬱屈した気分の中で、
視聴者へ、リセット・再生へのきっかけを与えてくれたのかも知れない。
だから、40%になったといえる。


D.「家政婦のミタ」のブランド価値:

マーケティングの立場で見ると、
「家政婦のミタ」はブランド化している。

あのダウン、帽子が飛ぶように売れた。
「承知しました」、「業務命令」という言葉がはやった。

ブランド価値の1:
ドラマと同期化した「連想のアンカーポイント」の鮮明さ

連想のアンカーポイントとは、
そのブランドをいわれると最初に思い出すある種の表現要素をさす。
ソフトバンクといわれれば、
孫社長、白戸家の白い犬・・・・といったものだ。
連想点が強烈なほどそのブランドは強いブランドといえる。

「家政婦のミタ」と聞けば何を思い出すだろう?
どんな連想点があるだろう?

・ミタさんのつくる(つくらない?)、あの「無表情」、「冷たい目線」、
・ミタさんの着ている、あの「ダウン」、「帽子」
・家族から言われて発する、あの受身的な、「業務命令(でしょうか)」、「承知しました」というせりふ
である。
「家政婦のミタ」といわれればこれらがすぐ思い出される。
完璧なブランドの連想点である。
「家政婦のミタ」はこの連想点で、視聴者の心の奥に刻まれ、人から人へと口コミされた。
連想点が強烈なので、
否応なしに「家政婦のミタ」のざわついた感覚が、
脳に焼きつき、視聴行動が日本全体に広がったものと思われる。


ブランド価値の2:
知覚品質(イメージ)をつくるキャラクターの鮮明さ:

キャラの鮮明さ。
ドラマは役者によるところが大きい。
その役者の演じるキャラがどのぐらいわかりやすく鮮烈かによって、
そのドラマが人のこころに届くかどうかが決まる。

「ミタさん」という家政婦のキャラは、実に強烈である。
家事は完璧にこなす。
スーパー家政婦である。
動きによどみが無い。冷たいロボットのようだ。
人のことはお構いなしに業務命令を遂行する。
「業務命令」であれば殺人でも、「承知しました」と受ける。

今回のドラマで、
松嶋奈々子の醸し出すキャライメージは大きい。

「ミタさん」を演じている松嶋奈々子をどうとらえるか?
松嶋菜々子の今までのキャラとは真逆のキャラであり、
そのギャップは大きい。
ご本人の知的、賢い人、真摯に生きる、
というキャライメージからは程遠い。
イメチェンである。
無表情のロボットのようなキャラになった。

このギャップが半端ではないので、
話題になった。

しかし、あの松嶋奈々子が演じるのだから、
単なる冷たい、ロボットのようなキャラで終わることはないだろう、
との憶測を呼び、これまた話題になるという
複層的な展開になっていった。

『家政婦は見た』は、
市原悦子主演の人気ドラマである。
これをもじった感じの役どころを、
松嶋菜々子はどう演じるのだろうか?

あの知的な松嶋奈々子が、
ミーハーで好奇心が強い家政婦を演じるのだろうか?
という微妙な不安もよぎった。

実際にふたを開けて見れば、
あの家政婦のイメージとは全く違っていた。
このギャップも大きかった。

「家政婦のミタ」のイメージは松嶋奈々子によって、見事につくられた。

E.「ミタさん」の予定調和的な結末/しあわせとは何か?:

最終回には、
無表情の「ミタさん」から、
魂の再生を果たした笑顔がでる?、
と皆が期待した。
松嶋菜々子の笑顔はどのようなものか、
それがこの家族にどんなインパクトをあたえるのか。
それが作り笑顔か?真の笑顔か?、
という興味も抱かせた。

今、
なぜ「ミタさん」というキャラクターが共感を呼んだのだろう。

現代社会のライフスタイル、生活価値観の変化が大きい。
・ロハス的なシンプルライフ、本音で生きたいのびのびと生きたい、
・社会的な抑圧(社会ルール・マナーという制約、出世志向、他人目線志向)から開放されたい、
・過去のわずらわしさをリセットしたい、
等の鬱的な気分を打開したい、
という感覚が昨年の大震災以降急速に台頭してきている。

その背景には、幸せとは何だろう、
という素朴な問いかけを、
皆がし始めたということがある。

清水寺の恒例、今年のキーワードは「絆」であった。
価値観が物中心主義から大きく転換した。
ブータン国王夫妻の来日で、
幸せの定義がGDP志向ではない、
心のリッチさへとシフトしている。

実際に、
大震災にあった人ほど幸せを感じている!?
というパラドクシカルな報告も聞く。
家、家族を失って辛い思いをしていることは間違いないのだが、
逆に生きていること、今の衣食住が最低限足りていることの喜びをかみしめている!
人の好意のありがたさ素直にを感じられる、
ということらしい。

このようなお金、物では測れない価値観で、
自分の生活、人生を見直そうとの機運が起こっている。
この潮目の変化の時に
「家政婦のミタ」が呼応、同期して喝采を浴びた、
ということになる。

また、「ミタさん」のように、人の命令に忠実に動くことで、
自己・自我を封じ込めて生きることが出来るならば、
楽なのでは!
という超受身的な心理を突いたことも大きいという。

自己実現・自己主張で個人を立てることに疲れ、
「ミタさん」のように自己を抑制する生き方に
共感を覚えたりするのも時代のなせる業である。

「ミタさん」のキャラは、いろいろな生き方の解釈の余地を残した。
見る人に、自由にこのキャラを解釈して!
という投げ掛けで、
視聴者が勝手に自分の都合で「ミタさん」へ共感していく、
というフレームをつくった。

でなければ、
個性化・多様化が進んだ時代にこのようなマスは取れない。

40%は、
実はマスではなく、ミニの集合体ということになる。

「ミタさん」は心理的なプラットフォームを与えてくれた。
そのフレームに、
視聴者は自分の独自の解釈でのっかり、
結果が40%になったということになる。


F.最後に/少し家政婦のマーケティング的な話を:

・「家政婦さん」という仕事は、
社会の、時代の旬の現象と捉えることができる。
今は自分で何から何までするという時代ではなく、
サービス代行(=家政婦的な仕事)の時代である。

実際に家政婦さんの利用経験率は5%、
利用意向率は30%近くあるという。
その相場は、
2時間で5000円という。
住み込みでは、一日15000円という。
手が届かないサービスではない。

・家政婦さんという仕事の背景は以下のようになる。

日本人は井戸端会議が大好きである。
江戸時代の鎖国と幕藩体制で、
平和な時代がつづくと、
狭いエリアの中で、
近所の人は何をしているのか、
というような小さな出来事に興味を持つことになる。

盆栽いじり的な、人間的な機微に触れた社会が育ってきた。
あのお宅ではこんなことが起こって、
こんな風だ、
というようなことが大好きな国民である。

仲良くやりながらも村八分的な微妙ないじめ文化が醸成されたりもした。
ご近所のことが気になるということが、
自然にDNAのなかに埋め込まれてくる。

「家政婦さん」という言葉の響きの中には、
他人の家の中にある秘密を垣間見て、
井戸端会議でうわさできる
という妙なざわめき感的な期待がある。

社会の中には、
実は家政婦さん的な、業種・業態が多いことに気づかされる。

外食、惣菜宅配、買物代行、家事代行(ダスキン)、保育園、介護支援、デイサービス・・・等である。
昔、武家の中に乳母という制度があった。
乳飲み子を、実の母が育てるのではなく乳母が育てる。
一切の教育・しつけも乳母がおこなう。
これも代行のひとつである。

大学生の家庭教師というのもいわば親がおこなう勉強の面倒を、
優秀な学生がおこなうという一種の家事代行である。

つまり家政婦的な仕事は、
社会のなかに相当浸透していてニーズは大きいのである。
ここにも番組がヒットする背景があったということになる。


家政婦さんはセレブしか雇えないという感覚がある。
家政婦さんを頼む快感は一種の優越感的な味わいがある。
あこがれるという心理もある。

その一方で自分達も何かあれば家政婦さんを雇うということが出来る、
という実感もある。
永久とは行かなくとも短い期間頼むことは出来る。
家政婦を雇う行為は、
セレブ的ではあるが、意外に身近という感覚もある。

「家政婦のミタ」の主人公の職業は遠い世界のようでいて、
実は身近な職業だったことが改めてわかる。
このあたりもドラマのヒットの要因となっている。

因みに家政婦さんには3つの約束事があるという。
・秘密を守る、
・家風を知る(味、家事の個性・・・)
・ルールを知る(特に家族間の人間関係の状況を見極めて、ストレスのないように動く)

あなたは、守れますか?
あなたには、家政婦の素質はありそうですか?

この稿おわり


■ 追記1:二つ目の40

実は昨年、
もうひとつの「40」があった。
地味だが押さえておかなくてはならない、
その「40」の出来事とは?

42年続いた大長寿番組・水戸黄門が終了した。

水戸黄門の視聴を支えてきた人が70歳以上になる。
たそがれ世代の番組が終了する。
ここには高齢化社会の縮図がある。
若い人は時代劇を見たいとは思わない、
水戸黄門の印籠をもってしても、
その潮流にあがなうことはできなかったという訳だ。

最盛期は40%台の視聴率を上げたが、
だんだん落ち込み一ケタ台となってしまった。

終了にあたっては、たくさんのファンからやめないで、
という声が届いたという。
凄い反響だったらしい。
だったらもっと見てくれればいいのに、
とスタッフは感じたという。

アメリカの話。
以前コーラが味を変えたとき、
なぜ変えるんだと、怒りの声がたくさん届いたという。
いままでコーラを飲まない人まで文句を言ってきたという。
結局もとの味にもどしたらしいが・・・?

長い間ロングセラーを続け、
空気のような存在で皆から当たり前のように見られていたものが、
いざ、やめるとなると、
実は凄い存在だったと気づかされ、やめないでと苦情が殺到する、
という話である。

ここでは、ロングセラーの維持の秘訣が隠されている。
それはマンネリにならないように、
常日頃からPRに努め、その存在感をいつも高からしめておく、
ということである。

ロングセラーには定常的な刺激策が不可欠という教訓である。
大衆の心は、
いつも移ろいやすく、ものに飽きてやがて忘れてしまうものだ。

水戸黄門。
最初の5分を見て、最後の5分を確認すればそれで済むといわれた。
勧善懲悪の本当にわかりやすいストーリーである。

最初の5分で悪役と善玉が峻別される、途中で善玉が悪玉にいじめられる。
しかし最後は善玉が必ず勝つ、
水戸黄門の「この印籠が目に入らぬか」
でめでたく収束する。

水戸黄門が40%もの視聴率を取った背景とは何か?
水戸黄門は時代劇というより、
「元気で一生懸命に頑張れ!最後は報われる!というコンセプトの番組である。

そのコンセプトが、
高度成長時代に重なって、
一生懸命頑張って仕事をすれば,
最後は自分の道は開けて必ず報われる、
という価値観にミートした。
水戸黄門は高度成長時代の申し子であった。

高度成長期には、
ひとつの会社で勤め上げ、地位、収入が毎年アップし、それなりの退職金がもらえる、
女性は、会社に勤めた後、伴侶をみつけ寿退社し、専業主婦になる、
という一次線形的な成長パターンがあった。

水戸黄門のような、
最後はハッピーエンドになるという単純明快で、一時線形の勧善懲悪ストーリーは、
高度成長の時代にはピッタリはまった。

時代の変化の中で、その価値観がついにもたなくなった。
視聴率がとれなくなった。

もちろん若い人は時代劇そのものが皮膚感覚から遠いものであり、
ストーリーが単純過ぎて、人生の屈折した機微に追いつかないものとして
無関心、無関与になってしまった。

「水戸黄門」という名前と、「印籠」というブランド連想点で、
長寿を謳歌したが、時代の要請にはこたえられず、
ついに退場となった。

「家政婦のみた」が受ける時代には、
水戸黄門という番組は必要がない、
というわかりやすい結論になった。

今の時代は、低成長、かつ可処分所得の厳しさから、
単純に「もの」を追求し欲求を満たすことができない。
シンプルな、自分流の幸せを求めるという時代である。

何となく停滞した、これ以上の成長は望めない時代、
20代の若い世代は、この失われた時代の20年で大きくなった世代である。
今が高度成長期と比べて良くないという発想がそもそもない。
今の時代、
あくせくしないでもそれなりにハッピーじゃないか?
と思っている節がある。

■追記2:3つ目の40

40%という数字。
昨年、もうひとつ象徴的で重要なことが起きた。

テレビの総視聴率が、
ついに40%を割った。

要するに、
テレビをつけない人がどんどん多くなっている。
テレビの凄さは見つめつつも、
TVメディアへの社会要請は微妙に変化しつつある、
といっていい。

テレビは、
ネットも含め新しい収益源をさがさなければならない時代へ入った。
キー局でもTBSは赤字である。
地方局はかなりの厳しさがあるという。

かなり前だが、「ほりえもん」がテレビ朝日を買収しようと動いたことがあった。
テレビとネットの融合をはかるためという論だったが、
既存勢力に阻まれ挫折した。
今にして思えば、きわめて当たり前の発想で動いていたことがわかる。

ユーチューブが人気だ、
あらゆる人が、自由に表現出来る時代の象徴である。
TVのような、
完成度の高い番組をつくり一方通行で放映するというビジネスモデルは、
時代遅れである。

個人の好みで見たいものが選べる、
個人が、自由に投稿し、自由に視聴することが当たり前の時代になった。


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■ 今年の新・視点!大震災・原発、世界不況に隠れた大テーマ、人口・世代問題の本質!

2012年01月24日 | Weblog
■ 今年の新・視点!大震災・原発、世界不況に隠れた大テーマ、人口・世代問題の本質!

本年初めてのマーケブログは、
骨太の大テーマ、人口・世代問題を取り上げます。

Z.はじめに:簡単な昨年のレヴューから

昨年は冴えないこと、辛いことが多かった。
大震災、原発事故は、
収束に向かいつつも、いまだに暗い影を落としている。
世界では、欧州国家破綻問題、アメリカ国債格下げ問題、ニューヨークデモ、英国暴動、中国経済失速の懸念、
国内では、大王製紙・オリンパス経営不祥事、株価長期安定的低迷?、超円高問題
と暗鬱たる状況にあり、
即効性のある解決策がみつからない負のテーマがつづいた。

一方、明るいニュースも多かった。
電波等では世界一のスカイツリーの誕生、
計算速度世界一のスパコン・京の登場、

また、科学のフロンティアを示す、
凄い発見もあり、将来の夢・可能性を感じさせることもたくさんおこった。

・不確定性原理の否定(これは今年に入ってから)
・太陽系の地球外生命の可能性(木星の衛星のひとつに海(水)がありそこに生命がいる可能性)
・ヒッグス粒子発見、質量を生ぜしめる素粒子の存在仮説
・光速より早いニュートリノの存在
等々、
「知のフロンティア」には限界がないことを知らされた。
常識は必ず打ち破られる。
そして新たなテーマ(疑問)が生じてくる。
そんな予感を抱かせる昨年でもあった。
科学が何かをブレークスルーしてくれる感さえ抱かせる、
面白い発見、発明がつづいた。

さて、マーケティングの話である。
お正月から少し時間がたって、
ものごとを冷静に考えられる状況にあるので、
今後のマーケティングの大テーマ、『人口・世代問題』について考えてみたい。

A.まず、お正月に思ったことから:今の社会情勢について

1月1日、ウィーンフィルの新年祝賀コンサートがウィーンから生中継された。
毎年恒例の明るく華やかなイベントである。

ヨハンシュウトラウスのワルツを中心に、最後はラデツキー行進曲で賑やかに終わる。
途中、王宮でのバレーも披露され、
クラシック音楽のしかめっ面をしたような堅苦しい演奏会ではない。
明るく楽しいプログラムで新年の楽しみのひとつである。

ウィーンフィルハーモニーの世界最高峰の音楽が
気分よく軽やかに演奏されると、
人の気持ちをこうも高揚させるものかと改めて感心させられた。
欧州のクラシックは正にクラシックで、
何百年の伝統を誇っている。
古典の不朽の価値を感じさせてくれた。

さて、同じ欧州の、その華やかさの裏側では、
ギリシャ国債問題という部厚い不吉な雲が欧州のみならず全世界を覆っている。

もともとギリシャは、
借金でままならない国民性、お国柄といわれている。
ドイツのような、アリのようにしっかりとした働きものの国民性とは異なるという。

今、欧州では、
異種格闘技をEUというリングでやっている状況にある。
国の違いが克服できずに、異なるDNAで経済リングの中で、同床異夢で戦っている状況である。
国家間の格差が域内の矛盾を生み、克服できずにいる。
ギリシャ問題は、
ソフトランディングか、一気に決着をつけるか、
という手法の問題、時間のかけ方の問題に関心が移っている。

転じて、日本は?
昨年は何といっても東日本大震災、3.11はあまりにも強烈であった。
原発という大問題も残されたままである。
清水寺の官長さんが今年の象徴的な書をしたためた。
絆。
これも大震災の後の日本人のメンタリティを示すものである。
今こそ日本人は一体となって国難を乗りきらなければならない、
という意思のあらわれである。

大震災。
想定外のことが起きた。
ある確率で、
あのような悲劇は必ず起こる。
あの超大津波は1000年に一度の確率で起こる。
地球の時間軸の中ではごく普通の地表のゆらぎに過ぎないだろうが、
100年未満の寿命の人間にとっては、
未曾有、未体験の出来事として、
無力さ、非力さを感ぜずにはおれない。

しかし人間は生きていかねばならない。
それは厳粛な事実であり、この世に生を受けたものの勤めである。

さて、年頭にあたっては『人口・世代問題』を取り上げる。
改めていうまでもないが、
人口は生活、社会等々すべての基本要素である。
『人口・世代問題』は、この世に生をうけた人間の集合体に関する問題である。
ボディーブローのようにじわじわと、
しかし間違いなくハイブローで、先進国だけではなく、グローバルなテーマとして、
浮かび上がってきた。
『人口・世代問題』は社会の、経済の大変革を強いる大テーマ(大課題)である。

B.人口測定の難しさ/そもそも人口ってわかるの?:

Aで触れたようにいろいろ辛いことがあっても、
人間は粛々と社会生活を送らなければならない。
社会は人口の集合体である。
人口問題は社会問題そのものといってもいい。
年初にあたって、
その人口問題の本質について考えてみる。

今、地球の人口は70億人。
昨年、10月31日に超えたとされる。
その日に生まれたあかちゃんは、
70億人目の記念として、
様々な証(あかし)が与えられるという。

地球人口、70億人目は世界でたった一人しかいないはずだが、
その一人をある国のある郡のある町のある両親から生まれたこの子、
とは特定は出来ない。
精々できるのは、10月31日に70億人を超えるという統計的な推計までである。
その推計はほぼ間違いないので、
その日に生まれる子供は皆70億人目の資格があるとされた。
しかし、あくまでも推計なので、
はずれることも、極小さい確率では起きる、
ということを織り込んでの70億人目の記念日になる。

人口は正確には把握できない。
出産が管理されて正確に把握できるエリアの方がすくない。
いつ生まれたかも分からないケースもある。

また、出産の定義もまちまちである。
完全に母体から出たときを出産とするか、頭がでていればOKとするかで、
70億人目が誰だかは異なる。

違う場所で同時に生まれるようなケースがある、
それを同時中継で誕生の瞬間まで確認できるだろうか?
生まれるあかちゃんの人数が多く、
かつエリアが広範なので出産の順位を特定することは難しい。

一日当たり何百万人がうまれている。
それを全世界同時中継で70億人目の一人を決するような、
オリンピックのようなことはできない。

次のようなことを考えたりもする。
自然発生的に生まれてこそ意味があるのに、
もし順序を監視できたとすれば、
その日に70億人目になるために促進剤をつかったり、
あるいはわざと遅らせたりという変な動きもでてくるかもしれない?

そもそもある母親からあかちゃんが産まれるからといって、
その瞬間をTVカメラで監視するという行為自体が出産時期に影響を与えてしまう。
カメラは母親の意識に微妙に影響するだろう。

量子力学的な超微細な世界の電子等の観察がそれにあたる。
観察者の存在そのものがそもそも観察の客体の動きに影響をあたえる。
観察は電子、光を通しておこなうので、
それが評価客体の存在に微妙な影響を与えることは容易に想像できる。
目に見えない観察者の意識のエネルギーも微妙な影響を与える。
だから客観的な観察はできない、
というより客観的な観察という行為自身が存在しない、
ということになる。

繰り返しになるが、
正式、正確な人口は把握できない、
というのが結論である。
それより70億人目の可能性のある、
あかちゃんはたくさんいるという方が賑やかでいい。
グローバルにお祝いができ、生命の誕生という嬉しい話題を世界で共有できる。
人口抑制問題もPRされる、という効用もある。

人口は、物理的な測定の難しさの問題だけではなく、
どこに誰がいるか、隠された子供の存在があるのでは、
と言う社会問題もかかえていて、
その実数をつかむことが極めて難しい。

人口の実態数と登録に乖離が生じるケースはかなりあるものと推察される。
問題は複雑である。
例えば、中国の一人っ子政策のもとでは、
次子は闇っこになり、戸籍、就職免許等々もとれない、
闇の中の子供になる、
という社会的に非存在となるようなケースもある。
本当の人口というものは実は分からない。

但し、ある一定のレンジで今世界にはどの位の人がいるのかはわかる。
人口問題を扱うには、そのような統計的な推計でかまわない。
弊害は特にない。

C.70億人の人口の適否/地球上の人口キャパはどのぐらいか?:

70億人の意味について考える。
この人口規模で地球はやっていけるだろうか。
・食、水がたりるだろうか、単純に生きていくための限界とは?
・多少いい暮らしをしていくための限界とは?
をそろそろ考え始めなくてはいけないところへ来ている。

超異常気象のようなエマージェンシーが起こると、
70億人は地球のキャパを越える数にならないとも限らない。
いわゆるゆとりがない状況にどんどん近づいている感がある。
どこかの時点で不連続な危機的な状況がおき、
人口が清算される予感が頭をよぎったりもする。

今世紀末には100億人を超えるという。

食料、医療、環境がめちゃくちゃになり、
地球での生活環境は破綻するともいわれている。
その時に備えて、
・地球外に逃げるか、
・地球の周囲に第二の外環的な地球空間をつくるか、
・農業の生産性向上、技術革新により食料の供給量を上げて、
気候の厳しい超過疎エリアでの居住を可能にし、今の都市部の人口密度を減らしてゆくか、
・人為的に人口減を行うか(妊娠制限、出産制限や間引き/これは世界的に飢餓の時代にはおこなわれていた)、
・ロボットを使ってブレーンワーク・肉体労働の生産性を上げ働かない人間を多くし、
人間の活動量(消費カロリー)を減らし、食料摂取量を減らすか(要は毎日寝て暮らす)、
同じく機械化によって社会・産業の生産性があげれば、出産制限で労働人口が減っても生活水準は落とさずに済むか、

等々いろいろなことを考えてしまう。

予想される食糧問題、環境問題、生命としての固体の数の多さに起因する心理的な圧迫感等々
問題は山積みである。
待ったなしの状況である。
それらを解決する技術大革新・スーパーイノベーションを実現しなければ、
早晩やっていけなくなるだろう。

因みにロボットについてはこんな話も。
中国では労働コストの上昇により、
労働コストが低いというアドバンテージを提供できなくなりつつあり、
業種によってはロボットによる大量生産への模索がはじまっているという。
要するに、ロボット化は、
農業、工業、社会、家庭・・・
あらゆる分野で必須のインフラにならざるを得ない社会テーマとなってきた。

地球を守って持続可能な社会を実現するには、
革新的な複合技で現状の課題を克服していくしかない。

D.人口・世代問題のテーマ化(課題化/優先順位化):

この50年間で大きく人口は増えた。
人口増のもたらす課題は、大きく3つになる。

1.まず人口高齢化、人口オーナス期問題である。
全世界的に人口ボーナス期を終えて人口オーナス期に突入する。
高齢者人口を若年世代でささえる、その負担が半端なく大きくなる。
今の新興国でも数十年の間には結構辛い状況になってくる。
高齢化問題はこれから大きくのしかかってくる。

日本はその先端を切ってこの問題に直面している。
世界が日本を注視している。
自分たちも近い将来どのように対応すればよいのか?
日本をお手本とするか、反面教師とするか?
と。

2.次いで、前項で触れた人口絶対数の問題である。
人が多くいて生産力が大きくなる、
という経済学的な規模を追う真理は今でもある。

しかし、先進国では、
これからは一人当たりの生産性の高さで暮らしぶりをよくする、
という発想の転換をしなければならない。
生産性向上の観点が必須となる。
フェアトレードという観点からも、
労働コストの低い地域に極度に依存する労働集約型の経済体制は
批判を浴びることになる。

3.最後に同じ人口でも、
世代別では様々な社会問題を抱えている。
また、マーケティング的な対応もかなり異なる。

E.マーケティングパラダイムの変化/人口の高齢化がもたらす課題:

もともとマーケティングは、
互いに切磋琢磨しながらイノベーションして良くなっていこうというモデルだが、
それでやっていけるのだろうか。
環境、資源、人の限界がそれを許さない、
というビッグなテーマが突きつけられている。

人口問題は、
日本では高齢化問題でもある。
これには介護、福祉・年金問題が張り付いている。
それが消費税増税論議にむすびついて、
今年最大の政治課題となっている。

消費税についてはだれもがアップしなければならないという認識を持ち、
仕方の無いことと思っている。
一方で、上げないで済ます知恵はないかと虫のよいことも考えている。
そんな手品のような話はないのだが、
増税の前に政治、政府が自ら身を削ることという正論もあり、
話がややこしくなっている。

まったくその通りだが、
身を削らなくても増税は不可避というのが常識である。
自ら身を削る、たとえば、
政治家の数を減らす公務員の数を減らす、給与を削減する、政府の資産を放出する・・・、
確かにその通りだがその節減額はたかがしれている。
まず、政府が身を削るべきということを人質にとって、
消費税増税を先延ばしにしたいという
国民の妙な小知恵があるようにも思えてしまう。

高齢化で肉体が衰え、労働力の実質的な量は当然減る。
それを生産性向上、機械化(ロボット化)で補えるかといえば、すぐには難しい。

高齢化の意味するところで大きいのは、
ものを産み出す、引退者を除く実質的な労働力の減少である。
単純労働時間に頼るGDPは当然減る。

しかし、知恵を売るという側面では新しい展望が開けてくる。
知恵を売る?
例えば、いままでのマネジメント、仕事上のノウハウを、
コミュニティ、家族、中小企業の中で生かすという道がある。
あまった時間を家のなかで生かすということになれば、
例えば、「いくじい」(育児をするおじいちゃん)が孫の面倒を見れば、
若いママは安心してパートに出られる。
高齢者が、家事を代替すれば、家人は別の労働へ従事できる。

高齢化問題に対応するというと、
ネガの部分を何とか解消するという後ろ向きの発想になりがちだが、
もっと前向きの発想が求められている。
選択肢はいろいろある。
知恵と工夫が求められている。

F.世代別のマーケティングテーマ:

人口問題を消費に絡ませて考えると、
以下のような世代論に落ち
てくる。

1. 消費世代論:

40代は消費世代といわれる。
消費が活発になる。
40代になると収入が増えてくる。
また、家族構成員が大きくなり、住宅、家具、家電、教育、エンタメ、食事・・・・と、消費が半端なく増えてくる。
ここに人口のボリュームゾーンが突入するとバブルが生じる。
前回のバブルは団塊世代がこの消費世代に突入した時に生じた。
この現象が、今、団塊ジュニア層で起ころうとしている。
80年代のような、今の団塊世代が20年前に起こした華やかなバブルではないが、
消費はかなり盛り上がる。
バブルと言えば、金余りによる、
土地、絵画・・・の値上がりが連想されるが、
それはバブルの表面的な現象面にしか過ぎない。

2. 団塊ジュニア論:

団塊ジュニアによる第二のバブル期が到来する。
これにメーカー、小売はどのように対応するのだろうか。
但し、前回のバブルとは大きく異なる点がある。
それは家族構成から来ている。
今は、以前の団塊世代のような標準世界(夫婦子供二人)中心の単純な家族構成ではなく、
例えば、単身者が全国ベースで30%の構成比になる。
家族構成は、
単身、独身両親同居、DINKS,子有世帯、多世代とまちまちになり、
特に単身世帯についてどう対応するかは大問題になる。
今回起こりうるであろう第二のバブルは、
前回のような標準世帯が一律的に消費をのばすという単純な図式のバブルではない。
きわめて多様性に富んだミドルバブルになる可能性が高い。
即ち、同じようなものがたくさん売れると言うことではなく、
商品の使用は多様性を極めるということにある。
少数変量生産、供給体制が求められることになる。

3. 団塊世代論:

高齢化した団塊シニア層(60台前半層)にどのようなマーケティングをしていくか。
消費財メ-カー全体が迷っている。
人口動態グラフでみると、かたまりとしては最大のものである。
半端でなく大きい。
しかし、個体差が大きく一律的なマスマーケティングでは対応できない。
個体差が大きすぎるからである。
ライフステージ、ライフスタイル、ライフスキルの3つが個人々々で違いすぎる。
健康、収入、家族構成、嗜好性(志向性)、組織からの開放され具合、仕事の内容、ID(インタレストドメイン)等々で、
個体差が超大きくなっている。

お金をもって定年後のゴルフにいそしみたい60歳男性、
超高齢の親を抱えて、その時間におおきな制約を受ける60歳女性、
定年後の離婚でひとりで生きる60歳女性、
多世代で8人で暮らす60歳夫婦、
生活習慣病で活動に制限がある60歳男性
等々
生活がまちまちである。
高度成長期のように、働き盛りで、一直線に欲望を満たしに頑張る、
という団塊世代ではなくなっていことは
要注意である。

団塊世代は、
戦後まもなく生を受け、焼け跡から高度成長へと向かう日本の再生・成長期に生きてきた。
物をつくり、物への欲望を糧として頑張ってきた。
そして、混乱の社会変革期ともいえる第4次中東戦争後の高度成長終焉期、バブル期、失われた20年期を
うまく乗り切って、
企業からの退職金もそれなりにもらえて年金生活に入り、
ハッピーといわれている層だが、
平均寿命を見るとまだ20年以上頑張らなくてはいけない辛さもあり、
なかなか大変な層でもある。
個体差の大きさと同時に将来の不安にもおののいている層である。

4. 20代の若者論:

良妻賢母で生きていく団塊の女性、
夫唱婦随で亭主関白を夢見て生きていく団塊の男性、
のような団塊世代とは異なり、
団塊の孫世代はどのような思考・志向でいきているのだろうか。
面倒な社会的リレーションを避けて、
他人との比較で消費を決めるという競争心もなく、自分流に生きている。
但し、妙にゆるい絆を求めて不特定多数のゲーマー達とゲームに浸る。
NETを通じて対話をしながらお酒をのんだりしている。
生鮮三品をつかって料理するということよりも、
加工食、中食、外食(FFを含む)を巧みに使い、
インスタント食品、コンビニの個人食材、弁当等々に妙に精通して、
それらを使いこなす世代である。
お酒、海外旅行、車という消費にあまり関心を示さず、
マイペースで生きている。
物欲は小さい。
何をしたいのかよくわからないといわれる所以である。

G.人口問題と幸せのあり方の関係:

人口増加問題はなかなかやっかいな問題で、
基本的には生産性を向上させ食料その他の物資を安定的に供給できる技術の確立が必須である。

しかし、今は徐々にであるが、パラダイムが変わっている。
人口をもの(食料)で養うという発想ではなく、
もっと異なる解決法が求められている。
物的な所有欲を追求する幸せのパラダイムではなく、
本質的な幸せを理解し、それに馴染んでいく新しいパラダイムである。

例えば、ブータンモデルのような異色の考え方がある。

人との会話に生き方の基本を据え、
物理的な制限・制約の多い暮らしのなかでも、
気持ちの持ち方で無限の幸福感を味わっていこうというモデルである。
ブータンは、
人間は幸せになるため、幸せであるために生きているんでしょう?!
と問いかけているように思える。
ものを持つために生きているのではないのでしょうと?!
「幸せ」の定義をかえれば、
今の制限の中でも十分に幸せを味わえるのかもしれない。

しかし、そのブータンでもインターネットが解禁され、外国の人は入り込み、
世界中から様々な刺激を受けるようになってきていろいろと弊害がおき始めているという。

自分の知っていた世界観とは異なる誘惑的な世界観を知ってしまうと、
その牧歌的な生活モデルは大きく崩れていく可能性がある。
世界で異なる生活をしている人がたくさんいることを眼前に見せられると、
その誘惑に負けてしまい、自分たちの良さを見失うということが起こってくる。

実際に都市部のごみ問題が生じている。
ブータンの首都のマンションの裏側にごみがたまっている。
都市の浄化機能がブータンの旺盛な消費行動に追いつかない状況が、
生まれ始めている。

これを文化に毒されていると考えるか?
ブータンの人も普通の人だったと考えるか?
われわれに深い問題を提起している。

北欧は人口も少ないが、
ひとつの「幸せのモデル」をつくった。

ブータンもひとつの「幸せのモデル」をつくった。
実に素朴な牧歌的なライフスタイルモデルである。

世界を見渡せば、
ローカル毎にライフスタイル、文化・歴史、また自然環境も違う。
ハッピーな生活は皆異なる。
情報化による普遍性は、
時に暴力的な形で生活の価値観を破壊する。
ローカルな特性を無視した世界標準は、
それがデファクトスタンダードな国にだけに恩恵をもたらす。
今はアメリカ、欧米、日本である。
それ以外では、負の影響が大きいことが看過されてはならない。

「幸せ」の定義はローカルで異なる。
グローバル化は、
他のよい面が取り入れられ生活が向上するプラス面、ローカルの良い面が損なわれる面
ローカルな不足面が顕になり、不満を増幅させるマイナス面
と、いろいろな+-の側面を突きつけてくる。
グローバル化はローカルな幸せを破壊する可能性を秘めている。

新しい時代をつくる、日本の社会・マーケティングモデルは何だろう。
それはとりもなおさず「幸せ」とは何だろう、
という問いかけに他ならない。
他人の芝生が良く見え、それへ向かって頑張ろうという、
考え方と、
自分の芝生のよいところ見つめて大切にしよう
という考え方のせめぎあいがある。

西欧では、保守的かもしれないが後者への意識がたかまっている気がする。
一定の富の集積が済み、十分暮らしていけるということの裏返しである。
一方で、発展途上国はこれから富を蓄積しようとしている。
他人の芝生をみて欲望を高からしめそれを達成するという意識を自分たちの都合で抑えることはできない。
悩ましい問題である。

■ 最後に:

人口問題は永遠のテーマである。
マーケティングの立場からは何ができるか、
今年こそ何らかの結論的なベクトルを出さなければならない状況になってきたような気がする。

この稿おわり
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■ 幼児専門業態・西松屋、C.S.NO1の秘密・奇跡!

2011年12月17日 | Weblog


■ 幼児専門業態・西松屋、C.S.NO1の秘密・奇跡!

アパレル部門で西松屋がNO1になった。
二位は若者に大人気のローリーズーファーム、
三位はユニクロである。

何が受けているのだろうか?

A.西松屋、非常識の店舗経営とは?:

西松屋とは?
服を中心としたベビー、幼児向けの小売業態である。
老若男女全員がターゲットではないので、
一般的にはあまりなじみのない企業である。

店内に入ってみた。
閑散とした店内、こんな賑わいのない店に人がくるのだろうか?
が第一印象である。
一日当たり330人を超えて繁盛感が出ると、
10KM以内に追加出店するという。

たくさん来店者があると賑わっていてよい、
というのは昔の小売のパラダイムという。

例えば、
店先にセールのワゴンを置いて、人をひきつける。
賑わい感、お得感を演出できるツールとしてワゴンは小売のコモンセンスであった。

西松屋は、
ワゴンを外して売り上げ、客の流れ等々を実験してみた。
結果は、常識とは違っていた。
特にベビー用品を扱う西松屋では、
母親がこどもの手を引いて、こどもを抱いた状態で
エントランスのワゴンセールに集まってきて商品を漁るという行為が
成立しないのだという。
ワゴンは廃止となった。

今の時代、消費者は、
「我先にお得なワゴンにとびついて人より先にお得なものをとる!」
という行動を取らなくなっている。
言い古されているが、ニーズが個性化、多様化している。
気に入らないもの、自分に合わないものは安くても魅力を感じない。
ワゴンは過去の販促手段であり、遺物である。

マネキンもそうだ。
マネキンのスペースは西松屋にとっては無用の長物であった。
マネキンに着せたコーディネートをまねする人は、
誰もいないという結果からこれも廃止となった。
マネキンのとるスペースはデッドスペースにしか過ぎないという結論である。

現社長は元鉄鋼マンで技術屋さんである。
「なぜ?」という疑問で小売の常識が覆されていく。

そして行き着く先が、
あのさびしい店舗である。
さびしい店舗が今の母親をひきつける。

さびしいのではなく、ゆとりがあるということらしい。
母親が子供を抱えながらでも、子供の手をつなぎながらでも、
ストレスを感じることなく物が選べるという機能に特化した結果が、
たまたまさびしいという印象になるだけという。

C.S.NO1の称号は、
閑散とした店舗からもたらされた。

B.西松屋、売場管理の非常識:

売場の評判はよい。

通路の幅は2.7Mあり、通常の小売業態の2.0Mよりかなり広い。
買物用手押しのワゴン、3台でもすれ違いが出来る。
買物ワゴンをその場において、
子供のために、
ゆったり、ゆっくり品定めができる。

選択するという母親の行為をサポートしているのが、
人のいないゆとり感のある幅広の通路である。
自分がしたい買物をストレスなくできる環境を提供している。

個人がどのように感じるか、が重要という。(この場合は母親)
周囲の他人が、ざわめいて無性に何かを物色している、
そんな小売独特のノリ・賑わい感に関心がない母親が増えている。
マイペースの生活者(母親)が増えれば、
店の賑わいは二の次でよいということになる。

あくまで母親が、
いかに気持ちよく商品が選べるか、
という購入決定までのプロセスを整えることに注力すればよいことになる。

賑わいで繁盛感を醸し出し、他人が何を買うかを気にして商品を選ぶ、
という高度成長時代的な消費行為はなくなりつつある。

今の母親には成熟社会に育ち、物への執着はない。
人と争うように物を買い、
人にそれを見せて悦に入るという消費モデルとは、
無縁の母親が増えている。
特に子供服のように個人の嗜好性が強く生じる分野ではなおさらである。

今は、
自分がマイペースで買い物ができ、自分で選んだという満足感が重要となる。
いわゆる選択CSの高さが求められる。
特にリーマンショック後のスペンドシフト消費の中、
大震災の後遺症が残る中では、
消費心理が萎えており、浮かれた消費意識はさめてきている。

もうひとつ、
西松屋の顧客は、
普通の小売業態とは根本的に異なることを見逃してはならない。

お客様は子供と母親である。
とくにベビーはかわいい自分の分身であり、変な意味ではなく、
自分のペットである。
とにかくかわいい。
目の中に入れても痛くない。

何を買ってやろうかな?
と考えるだけでも楽しい。
いろいろと選ぶ、そのひと時が至福の時間となる。
自分のものを買うより熱心である。
母親は物を買うのではなく、「選ぶ時間」を買っているのである。
納得いくまで選んで、それで母親と子供の絆がより強くなる、
そんな心理的な満足感を求めている。

従って、選ぶ場所と時間がきちんと提供できなくてはならない。
それがあの閑散とした店舗ということになる。

では売場はどうなっているのだろうか?
西松屋の陳列はちょっとかわっている。

店のエントランスを入ってまず圧倒される。
天井まで届かんとする高さ5段の、0-3歳の女児服の正面を見せた陳列である。
高さは相当高いが、通路が2.7Mあるので、
圧倒的な迫力と量感で迫ってきつつも、
圧迫感がないという不思議な売場空間になっている。

よくいわれる圧縮陳列のような、
狭い売場にものがあふれ出ているような場ではない。
でも閑散とした墓場のような売場でもない。

因みに圧縮陳列とは?
売場で、商品をところ狭しと、ぎゅうぎゅうに詰めて、
商品があふれ出るような空間にする。
売場の商品の渦で、人の心に催眠を掛け、購入を誘うという陳列方法である。
商品が詰め込まれた売場で、
自分の欲しいものを探すというトレジャーハンティングを楽しんでもらうゲーム空間になっている。
事例としては、
ドンキホーテが有名である、
船井総研の陳列技術ノウハウとしても有名である。

西松屋は、この一般的な圧縮陳列とは違う。
商品の圧縮度、集中度が半端ではないにもかかわらず、
ゆとり感のある、選択行為がスムーズにいくような陳列である。
全く新しい陳列システムを実現した。

母親が幼児の服を見るときに、
高い場所にある服を見たければ、ながい取鳥竿のような棒で自分でとりだす。
いちいち売場管理者を呼ばない。
取った服を子供に合せてサイズ感、色合い感を見る。
ボトムスとトップスが同じ場所に並んでいるので両者を取り出して、
合せてコーディネートを確認することもできる、

一連の選択行為をうきうきしながら楽しんでいる。
女子が家の中で、
友人同士で、服を着まわしてミニファッションショーをやるというノリである。

新しい圧縮、集中陳列で、
人のコストは極力セーブされている。
店舗運営は通常2人でおこなっている。
手の掛かる売場の仕組みは極力排除して、
オペレーションが非常にシンプルになっている。
それでいてお客様は、
自主的に物を選んで、大満足で、
まったくC.S.は下がらないのである。


C.西松屋の商品・サービス(服)、その新発想とは:

西松屋は小売である。

何を売るかといえば幼児の服が中心となる。
西松屋の幼児服には、どんな仕掛けがしてあるのだろう。

子供服には4つの要素が必要である。
・かわいい(に代表されるデザイン性)
・安全
・丈夫
・安い
である。

西松屋はこれらを同時に実現した。

まず、かわいいである。
実は奥が深い話になる。
かわいい服がどの位品揃えされているか?
が大切な点になる。
店では、母親が一生懸命、でも楽しく服を選んでいる。
あれだけの大量陳列でかつ、通路でしっかり合わせて決めていくので、
気に入りのものが見つかる確率は間違いなく高い。

もし検討して見つからなければ買わないということになる。
実は、それはCSの向上にも繋がる。
衝動的な、ただ価格が安いからという購入では、
家庭へ持ち込んで使用するときは、満足度は低くなる。
店で納得して買物してこそ使用場面での満足度も高くなる、
という道理である。

また、価格の低さが西松屋のヒットの大きな要因だが、
価格が低ければ、商品に対する期待値も抑えられる。
100点満点で満足ではなくとも、
60-70点の満足でも充分という気持ちで購入する。

従って、メチャかわいくなくとも、
結構かわいいじゃん!でも購入決定に至る。
価格の低さが、かわいいの選択範囲を極めて広げているといえる。
幼児がふだん着る服への要求水準はもともとそんなに高くはなく、
さらに価格が低ければ、
余計かわいいの許容範囲が広くなる。
因みに西松屋の幼児服は1000円前後のものもある。

次いで、
実用性、安全性への配慮はどうだろうか。
低コスト追求で犠牲になっていないだろうか。

ボタンやポケットがあるものは一部はそれをプリントで表現した。

デザイン的にはそれでかわいく見えれば全く問題はない。
また実用的にも困らない。

ボタンをとめる作業はいらなくなる。
ボタンが取れてしまうという不都合もおこらない、
ポケットに何かを入れるということも幼児の場合はない。
実用的にはプリントで充分なのである。
ボタンやポケットに何かが引っかかって面倒なことにならない、
という安全効果も生じている。

プリント方式は、
幼児服を極めて低コストで供給できる発想である。
母親の気持ちの転換があれば成立する話である。
母親は、
低コストメリットとプリント方式の低イメージを比較考量し、
子供服が半年―1年もすれば着れなくなってしまう現実を考えて、
西松屋を積極的に利用する。
西松屋の考え方は実に優れものということになる。

この4点セットのメリットをとことん追及していくと、
若い母親は自分の子供を着せ替え人形のように着せ替えて、
子供のかわいさを最大限引き出すことができる。
あたかもファッションデザイナーのように。

D.西松屋、今のマーケティングトレンドへの適合性:

西松屋は、今の時代のマーケティングトレンドに乗っている。
だから、C.S.がNO1となる。

トレンドは3つある。

1. CS概念の変化に対応した。

西松屋は小売のCSの概念を変えた。
(トレンドにのっとったCSに変化・対応できた)

母親は、西松屋ではじっくりゆっくりマイペース(親子ペース)で買物ができる。
慌てふためいてばたばたと買い込むという状況はない。
選ぶプロセスを楽しんでいる。
母親には選ぶことを適当にしてしまい後で後悔したくない、
という心理がある。
自分の選ぶ行為を大切にしている。
高度成長期のものが欲しいということではなく、
自分にあったものをしっかり選べる、
という新しい満足度を求めており、西松屋はそれにミートしている。

2. 小売の経験則に科学を持ち込んだ。

小売に、最初に科学を持ち込んだのはセブンイレブンである。
単品管理、チームマーチャンダイジング等々革新的な試みをした。
日本の小売に旋風を巻き起こした。

地味だが西松屋も中々のものである。

経験則、業界の常識を尊重しつつも、
それは本当か、科学的にはどうなんだろうという、素朴な問いかけで
徹底したコストダウン、
即ち、人員の絞り込み、仕入れ原価の低減、オペレーション工数の低減等々
を図った。
また、小売の原点、店で物を納得行くまで選んでもらう、
ことに対して徹底的にチャレンジしている。
小売なんだから、服をしっかり見せ、試してもらうという原点に立脚する
という気概を持っている。

例えば、ワゴンが存在すると、その上、その下の空間はどのような意味が生じるのか?
無駄になっているのではないか?
非効率になっていないか?
と問う。

例えば、店舗の適正サイズという目標をしっかりと持ち込んだ。
1日に330人を超えると一人のお客様へのCS対応力が落ちてくる。
充分なケアが出来ない。
だから近くに出店する、という理屈だ。

例えば、特定ターゲットに対応した店だから余計な人はこなくてもよい、
と割り切る。
店員数は少なくてよいし、逆に密度の濃い接客が可能になる。
店舗立地も第一級の幹線道路でなくても、
少し裏の通りでもいいということになり、
低コスト出店が可能になる。

等々

3.ファッションスタイルのトレンドにのった。

生活者の服の選び方が変わってきた。
西松屋の品揃えは、今風の服の選択心理にミートしている。

FFについて語らないといけない。
今、FFが流行っている。ファストファッションのことである。
なぜ流行っているか?
H&M、ユニクロ、ギャップ、フォーエバー21等々は、
なぜそんなに盛況なのか?

理由1:
値段が安い。

理由2:
いいものをしっかり選んで着るという志向がなくなってきた。
キチントいい服を選ぶ目利きはもともとない。
気に入ったと思って、買っても案外着ていない、
中には一度も着ないでそのままクローゼットにしまったままという服もある。
安ければそのような無駄になる服がでてきてもあきらめられる。
安くいろいろと買うことで確率的に自分のお気に入りの定番服がでてくる、
という割り切った買い物もできる。
FFのお陰で、
ある程度無駄がでても最終的に自分寄りのものが見つかればいい、
という買い物スタイルが可能になった

理由3:
買っても着ない、一回来て着なくなるようなことを結構経験している・・・?
買って家に帰ったら何となくパットしない感じで、
仮に着なくなってしまったとしてもあまり苦にならない金額である。
FFは、逆に買物の失敗が許される金額レベルにある。
失敗してもトラウマが、落ち込みが少なくて済む。
そのような金額設定業態がFFである。
FFは失敗が許される業態である。

理由4:
安価なものをたくさん買って重ね着したほうがいい
今はカジュアル全盛で、
個性的な重ね着が社会的に許される時代である。
いろいろな種類で、様々なカジュアルの七変化を楽しみたい。
FFはデザインも多様だし、少し日本的でないセンスも楽しめるし、
おまけに安いので気軽に買える。

理由5:
安いから家着にも、日常の普段着にも転用できる。
つまり汎用性があり、使用パフォーマンスが高くなる。
FFは極めて合理的なお買い得な買物の場である。

というようなことで、
不景気、大震災後の消費意欲の減退の中でもFFはひとり気をはいている。

実は西松屋の幼児服も同様である。

FFの発想、コンセプトに近い。

子供はどんどん大きくなる。
また、子供は小さいながらファッションの好みがでてくる。
この色は嫌、このデザインは嫌、ということを意思表示する。
とたんに服は使えなくなる。
買った服はすぐ陳腐化する。
着れなくなった服は、
お蔵に入れておくか、捨てるか、リサイクルにするか、すぐ下の子供が廻すか、
といった運命となる。
もったいない話が多くなる。
従って、安くて、多様なデザインのものを数多く買うことが望ましい
ということになる。

西松屋は、マーケティングの基本トレンドを正面から見据えて、
粛々と実行してきた会社である。

E.最後に:

西松屋のあのさびしい感じの店舗は、
極めて合理性の高い非常識だが超常識なマーケティングの結実である。

その発想は、
素人の元鉄鋼マン社長の0ベースの発想法から生まれたということに、
驚かされる。
革新は、いつも素人のなぜ?という問いかけから始まる。

この稿おわり

追記:
近づいてきた年末・新年は、西松屋とは「違う発想で」??!!

■クリスマスは年末の大イベントなので、賑やかにいきたいものですね。
今年の災いを払拭して元気になれるようにと!

■お正月の福袋セールでは我先に安くていいものを、
とりたいですね!

福袋は、
日本のお正月の恒例行事・イベントです。
イベントなので、狂騒感がないと盛り下がります。
福袋の中に何が入っているの?一種のゲームをやっている感じで、
我が家の女房殿、娘なども目を輝かしています。
日本の小売業は良心的で、
品物を厳選して袋の中にいれており、
個々の商品テーストはそれなりのものです。
もちろん自分に合う合わないはありますが、
友人同士、家族同士で交換すれば充分満足度は維持されるようにつくられています。
自分のふだんの行きつけの店、百貨店の福袋であれば、
自分の好みから外れたものではないはず、
という安心感もあります。

やる以上は、福袋は「我先に頑張ってゲットしたい」ものです!
何せ正月ですから???
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■ 阪急メンズ、ルミネ誕生、魅惑の銀座、その進化・深化・新化!

2011年11月05日 | Weblog
■ 阪急メンズ、ルミネ誕生、魅惑の銀座、その進化・深化・新化!



はじめに:銀座は変わる

有楽町であいましょう・・・・・♪
が流行ったのが昭和30年代、
故フランク永井が歌って大流行した。
フランク永井は当時2年連続レコード大賞をとった大人気歌手であった。

有楽町は銀座の玄関口。

そこから数寄屋橋交差点、4丁目交差点へと人が流れる。
今は、有楽町を抜けて、
松屋通りを歩き銀座松屋デパートへ向かうルートがメインだという。

銀座が変貌している。
成熟した大人の女性の街、
そんな単純な街ではなくなった。
若い女性がくる、男性が来る、家族連れが来る、ビジネスパースンが来る、ファミリーがくる、ヤンギャルがくる・・・・、
多様な街へと変わった。
古い言葉だが、
有閑マダムといわれる時間・金銭にゆとりのある富裕層が
ショッピング、食事を楽しむ街ではなくなった。

今は、そのような「銀ブラ」(銀座をブラブラする、という昔の「はやり言葉」)的な
風情はない。
時代が銀座を変えた。。

銀座はすたれていく古い街ではなく、
日本のあらゆる生活価値観を吸収し、
進化し続ける現代的な街である。

A.銀座の違い、その格とは:

銀座の街は、
あまたある繁華街、
例えば新宿、渋谷、池袋、上野、最近の秋葉原
とは明らかに違う。

「気品」がある。
大人、成熟、綺麗、上質、洗練という感覚がよぎる。
目抜き通りの建物が綺麗。
裏通りに入っても場末的な感じはなく情緒がある。
有名なランドマークとなる建物、店も多い。
例えば、
和光の時計台、数寄屋橋交番、資生堂パーラー等々、
日産ギャラリー、ソニービル・・・・・・。

ここで、クイズをひとつ!
銀座は他の街と比べて何が違う?
他の街にあって、銀座にはないものとは?

答えは、
高層ビル、産業的な大きな道路、陸橋(空中歩道橋)、
汚い裏路地、風俗・呼び込み、学校、家電量販店である。
要は、
ハード的な建造物、綺麗でないもの、風俗っぽいもの、
学生(ある意味未成熟な若者)、身近すぎる小売業態
が銀座にはほとんどない。

銀座には、
街の雰囲気としてそのようなものを寄せ付けないオーラがある。
また様々な規制があるとも聞く。
都市的な無味乾燥さ、
人間の本性・退廃感、
未成熟さ
身近さ
が似合わない街である。

歴史の「t(時間軸)」がインテグレートした、懐の深い、
また、連綿とつづく商人・市井文化がある。
そのような雰囲気が銀座の魅力である。

歴史的に見て、
銀座は、江戸時代から商業の中心地として発達してきた。
そこには、商人の旦那衆の、いまでいうロータリー・ライオンズクラブ的な文化がある。
その文化が、時間を掛けて発酵し定着し、
今のような雰囲気をもたらした。

商業集積、文化集積、エンタメ集積、飲食集積が、
整合性を保ちつつ、
雑多な感じではなく大きな包容力を醸し出し、
人を迎え、包み込む街である。

渋谷の若者・インディズ的な文化発進感、
新宿の歓楽街的な猥雑なイメージ、
池袋の雑多なエネルギー感。
秋葉原の萌え感
上野の裏日本玄関的な雑踏感

このような人間くさい、人間の営みを感じさせる街
も魅力的だが、
銀座にはそれらとは異なる匂いがある。
人生の上澄みを取ってきたような、
古い言葉だが「ハイカラ」な街、
それが銀座である。

B.戸惑う街・銀座:

今銀座のビルの賃貸料に変化が起きている。

有楽町駅から銀座松屋デパートへの通称松屋通りが、
銀座中央への
賑わい感のあるアクセスルートになっている。

人の流れが代わってきた。

有楽町界隈、晴海通りと松屋通りの間の賃料が上昇している。

銀座3,4丁目から有楽町界隈に銀座の賑わいがシフトしている。
昔、ダイエーが銀座プランタンを出店した。
最近では、
有楽町の駅前に、有楽町イトシアがマルイをキーテナントとして開店した。
またマロニエゲートがプランタンの北側にできた。
有楽町界隈は、
本当に賑わい感があり、うきうきするような街並みになってきた。

銀座に昔から慣れ親しんだ人をも戸惑わせる街である。

当然、賃料相場も上がってくる。
逆に、中央通りから東側の昭和通り方面、南側の新橋方面の賃料は
やや低迷しているという。

とあるTV番組の実験。

渋谷のギャル系の若い女性が、銀座4丁目交差点あたりに降り立った。
彼女らは銀座をどう見るのか。

歩いている人を見ると、皆お金持ちそうに見えるという。
彼女らが初めて銀座にきた、ということも驚きだが、
どのように歩いていいか戸惑うというのも驚きで
銀座の雰囲気のもたらす気品のなせる技かもしれない。

銀座は何か違う雰囲気を持った街である。
違和感があって居心地が悪いということではなく、
何かいい感じだが、戸惑ってしまう街である。

渋谷のギャル系女性も戸窓ながらも、悪い印象はもってない。
しばらく歩いて、
4丁目交差点から新橋方面へむかったあたりのファストファッション店、
ユニコロ、アバクロ、H&M,GAPをみると、
自分の街のような気分になるという。

銀座はいろいろな価値観を取り込み人を惑わせる。
しかし、それが心地よい進化となって新しい人を呼びこむ。

銀座は、そのような好循環を生み出す、生きた
街である。

C.銀座の奥深さ、その余韻など:

銀座。
筆者には格別の思いがある。
その昔、
日比谷に本社があるペトロケミカルの会社に勤めていたことがある。
銀座へは通勤で通っていた。
丸の内線・銀座駅でおり、日比谷の本社まで毎日歩いていた。

銀座は、昔からの繁華街で、歴史の長さを反映して、
伸びのある街である。
包容力のある街である。
西へ行けば日比谷公園、皇居のお堀がすぐそばにある。
大きな鯉や雷魚らしきものが悠々とおよいでいる。

日比谷公園の中には松本楼があり、おいしいオムレツを食べさせてくれる。
日比谷公会堂、野外音楽堂もある。
メーデーの集会がおこなわれてニュースにも流される。

少し南へ下れば帝国ホテルがあり、観光客、ビジネスマンが行きかう。

日比谷のど真ん中には宝塚があり、日生劇場もあり、東宝エンタメの中心地でもある。

一方、東へ歩めば昭和通りを越えて、
東銀座には、いま改築中の歌舞伎座がある。

北へ向かうと、
ホテル西洋銀座がある。
旧西武流通グループの元総帥・堤清二氏が、
文化発進の一環として建てた、
ハスピタリティに徹した、ユニークな外観のホテルである。
バブル期には、もてなしのホテルとして人気を博した。
このホテルの前には、新装の銀座コージーコーナーの本店がある。

銀座の中心を見る。

数寄屋橋交差点の交番の裏は宝くじで有名なチャンスセンターがあり、
一等が頻繁に出るということで売り出し日には大行列が出来る。
その数寄屋橋交差点にはソニービルがある。
ソニーのシンボリックなショ-ルームとして世界から人が集まってくる。

銀座のもうひとつの中心は4丁目交差点。

服部グループ(セイコー)の和光があり上年代の女性のメッカとなっている。
戦前に出来た名店で、
銀座といえばこの時計台つきのビルである。
銀座を象徴する背景として有名だ。

手前には模型で有名な天賞堂があり、
いい年の男性が童心に戻って模型を喰い入るように見ている。

4丁目交差点には、
三越が建ち、日産ギャラリーが車好きの人を集め、
そこから中央通りを北に歩くと、ITOYAがあり文具、雑貨の一品が並ぶ。

4丁目交差点近くには京都の老舗、和文具の店・鳩居堂がある。
銀座で一番高い土地として有名だ。
1平米2000万円超という値段である。

4丁目交差点から南に歩けば、
ヤマハの楽器、音楽が楽しめるエンタメスポットがあり、おもちゃの博品館もある。

一度、新橋界隈へ突入すれば 
そこはサラリーマンの聖地、いっぱい飲み屋の集合で、
たちまちおじさんの町になる。

少し足を伸ばせば、汐留界隈。
電通、日本テレビ、パナソニック、劇団四季・海がある。
更に、東へ足を伸ばせば、移転でもめている築地の魚市場に至る。

銀座の裏通りに足を伸ばすと・・・・。
そこには雑多な飲食、雑貨、ファッションの店が並ぶ。
また、画廊も多く美術品、絵画をみてあるくのも楽しい。

飲食といえば高級クラブも多く、リーマショック以降不景気といわれてはいるが、
座るだけで何万円という価格がゆるされる街である。

こんなに多様で個性的な集積はない。

一種のテーマパークのような感じである。
歴史の重み、長さの中で蓄積された、
ふところの深い銀座が、そこにはある。

ところが・・・・?
最近、銀座がどんどん変わってきている!

銀座に世界の人気ブランドが出店し始めてから久しい。
プラダ、ルイビトン、ダンヒル、コーチ、チャネル、ブルガリ・・・・・。
独自出店、百貨店内出店といろいろあるが、
銀座は有名ブランド店のメッカになっている。
ブランド店が多く集まるのは並木通りである。
西の表参道と並んでブランドの集積地となっている。

やや異質?の変化もある。

まず、
ドラッグストアのマツキヨの出店である。
あの気高い?銀座に何でドラッグが!
という違和感を皆が抱いた。
最近では、
ファストファッションの出店が半端ではない。
ユニクロ、GAP,H&M、アバクロ。
また低価格紳士服の店もふえた。
もうすぐ、ユニクロの低価格帯ブランド「ジーユー」も開店するという。
あの「しまむら」も開業予定だという。

銀座の「格」が落ちたということではなく、
高級でなくとも、
いいものならコストパフォーマンスを重視して買いたい、
という時代の価値観を具現化する業態が、
しっかりと市民権を得てきたという証と思われる。

さて、何だかんだいっても、
銀座の要所々々には、
マツヤ、松坂屋、三越、プランタン、旧阪急と老舗・新興デパート群が軒を連ね、
威厳を醸し出している。

D.銀座デパート戦争の始まり?:

数あるデパートに不足している点を付加価値化して、
満を持して、
阪急MEN‘STOKYOが誕生した。
有楽町の駅前だ。

市川海老蔵のポスター・パンフレットが目を引く。
キャッチは、
「世界が舞台の男たちへ。」

30代、40代の男性専門のファッション館である。
銀座の中で唯一ワンストップショッピングが可能な、
超高級でもない、セレブでもない、
世界で活躍している男性、一流の男性へ、
やや高めの微妙な価格帯で品揃えした男性中心の舘である。

お昼に開店して、午後9:00まで開いている。
仕事帰りの男性の選択の機会を潤沢につくった業態である。
阪急は、梅田での実績がある。
男性専門の大型店といえば、
新宿の伊勢丹メンズ館、マルイのメンズ館がその走りである。

鼻息は荒い。
初年度は、120億円の売り上げ目標という。
上記の老舗デパート、三越、松屋、松坂屋の3店の
男性ファッションの売り上げ合計と同じ売り上げである。

そして、同じツインビルの中に時間差でルミネが誕生した。

ルミネは、
JR東日本が経営する駅中ファッションビルである。
14店舗で2000億円を売り上げ、
店員のハスピタリティ、CSの技を磨くルミネスト教育でも有名である。
高収益力の駅中ビルである。

今回の有楽町出店に当たっては、
もともとのルミネの固定ファンがついており、
顧客インフラがしっかりしている。

しかし、それに頼ることなく、
銀座では25-35歳の女性を狙い、
通常の駅中ルミネとは異なった品揃えで勝負する。
初年度の売り上げ目標は何と200億円という。
旧西武百貨店の4割増の売り上げという。

両店は、同じツインビルの中で、
メンズとレディズを隣あわせとなって、
カップル、夫婦の買物の相乗効果を狙うという。

もともと、この有楽町のこの場所には、
松竹があり、朝日新聞の本社があった。
このツインビルの大家さんは松竹、朝日新聞である。

今や、有楽町界隈は、
若い人中心の大ファッションスポットに変貌した。
立派な銀座の玄関口となった。
時代の流れを感じさせる。

銀座の背景地を見ると、
北には丸の内のオフィス街がある。
最近は丸の内、東京駅の八重洲エリアからも人が銀座へ流れてくる。
八重洲ブックセンターは銀座から目と鼻の先にある。

銀座は人の集積地である。
銀座には人を楽しませるエンタメ(感)の集積がある。

時間の経過とともに出来上がってきた街の魅力が、
人だけでなく、物を、情報を、お
金を引き寄せる。

銀座は、生きている。
若旦那衆、マダムの成熟した街という雰囲気を残しつつ、
若い人でも、男の人でもOKの、
新しいたたずまいの集客マシンに変貌した。

誰もがチョット「新・銀ブラ」出来るいい街になった。

E.ブランドダイナミズムから見た銀座とは:

ブランドには、以下の法則がある。
ブランドの間の関係性についての法則(考え方)である。
もっと簡単に言えば、
ブランドの競合の中には、
3つのダイナミズム・メカニズムがビルトインされているという考え方である。

・クラスター(頻度)効果、
・正則効果
・順位効果

クラスター効果:
たくさん集まるとそれがパワーとなって、
マーケットへのアピール力が増し、
お互いに相乗効果が生じ、両者とも売り上げがUPする。
(「協争」と呼ばれる原理が働く/よきライバルとして、競争しながら互いに伸びていく感覚と思えばよい)

正則効果:
競合が増えると限られたマーケットを喰いあい、両社とも売り上げが減少する。
また、価格競争がおき収益を大きく圧迫する。

順位効果:
あるカテゴリーの中で、
・競合数が何個あり、
・そのなかでシェア等の順位が何番か
でそのブランドの強さがきまる。
競合数が適度にある中で、順位を上げることがブランド戦略の大切な目標になる。
逆に言えば競合の少ないジャンル、エリア、価格帯へ、
オンリーワン・ファーストムーバで進出することが望ましい。

今回の銀座の阪急メンズ館、ルミネはお互いの棲み分けもよく、
かつ夫婦、恋人、家族をうまく同じビルの中でとりこむことができ、
クラスター効果を得ることができそうだ。
また銀座全体で見ても、この魅力的な店舗が銀座全体の魅力を高め、
銀座の回遊性を心地よくし、回遊の人数も増え、
銀座全体にクラスター効果という恩恵をもたらすことになる。

この稿おわり

追記:

ひとつトピックスを!
「有楽町」は、「銀座である」?
という市民権は得たのだろうか。
以前西武百貨店がこの地に店舗を構えた時は、
地元の人は、この店舗を西武百貨店の銀座店と呼ばせることを拒んだという。

今回でも、両社は「有楽町店」となっている。
有楽町と銀座は明らかにひとつの超・大商業集積であり、
実質的に有楽町は銀座の玄関口である。
お互いに首都圏、海外、地方の生活者を呼んで、楽しんでもらう、
という利害では一致している。

それでも有楽町店とは呼べない?!
銀座という由緒ある街の繁栄を守る最後の砦としての有楽町ではあるが、
やはり銀座とは呼ばせてもらえない。

100年後の銀座はどのような変貌を遂げた街になっているのだろうか?
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■ ダイソンの革新・その凄さの本質、「思想美」とは!

2011年10月26日 | Weblog
■ ダイソンの革新・その凄さの本質、「思想美」とは!

A.はじめに:ダイソンとは

ダイソンは、
革新的な商品を産み出した。
掃除機とファン(扇風機)に「新たな価値」をもたらした。
大評判である。

「安全性」と「かっこよさ」、
この2つの価値に生活者はお金を払う。

掃除機では、ほこり・ごみをブロックする非衛生な紙パックをなくしてしまった。
ファン(扇風機)では、危ない羽をとってしまい安全性を確保した。

そしてどちらも極めて斬新なデザインで、
見た瞬間に、人にインパクト与えるものに仕立てた。
見た瞬間に開発思想が直感できる。
両者とも、機能美として美しいが、「思想美」としても優れものである。
(そういう意味ではアップルの商品に似ている!?)

そう、
「思想美」という新しい概念を皆の前に見せてくれたといえる。

ダイソンは、
日々小型化、高性能化、高使い勝手化を目指し革新を進めている。
きめ細かい生活者ニーズに対応している。
意外性で勝負した商品でありながら、
日々の改善を怠らない実務的なマーケティングがダイソンの飛躍の秘訣である。

いま日本では、
廃棄の除菌タイプ、モーター音の静寂なもの等、
様々なサイクロン掃除機が誕生している。
サイクロン掃除機の競争は激化している。
激しい技術開発競争の中での怠りは低迷へと繋がる。
気は抜けない。

シンガポールに大規模商品開発センターができた。(テレビ東京/ガイアの夜明けより)
多数の開発者が日々開発業務にしのぎを削っている。
能力主義で、
やる気と成果の達成をマネジメントし、
開発に邁進している。

成長著しいアジア圏を狙っての投資という。
グローバル経済に対応した布石という側面もあるらしい。
為替変動、カントリーリスクのヘッジ等々様々な目論見が垣間見える。
ひとつの消費財メーカーの動きの中に、
今日の経済状況の観点が含まれていることに注目したい。

B.日本向けの開発状況:

アジア圏の中で、
日本はどのような位置付けなのだろうか。

テレビ東京の「ガイアの夜明け」では、
日本向けの商品開発と日本上市へのアピール作戦を報じていた。

日本市場の特性について、
ジェームズダイソン会長の言葉。

日本市場は優れた技術と性能、良いものをどこよりもきちんと評価してくれる。
イッセイミヤケ、本田(ホンダ)、盛田(ソニー)を心から尊敬しているという。

日本は、品質・性能追求のインキュベーションの場、
というニュアンスが籠められている。
日本で大人気のダイソン、
技術屋魂に満ちたトップとしてみれば、
精魂籠めた商品を評価してくれる日本には、特別の感情が湧くのだろう。

ダイソン会長は、オーナーとはいっても、
経営者としてではなく、
今でも、チーフエンジニアとして開発の現場に立つ。

そのダイソンが、
きれい好きな日本へ新商品で、改めて乗り込んでくる。
シンガポールでは、
日本向け開発は、大変エクサイティングな作業ということで、
現場では非常にノリがよいという。

日本の住宅は狭い。
あちこちで掃除機が家具にぶつかる、
ぶつかってもスムーズに動きまわることが求められる。
前後左右にこまめに動き回らなければならない。

研究の結果として、
本体に球体を用いることを試みた。
また、本体だけでなく、
接合部を球体方式でスムーズに動かし部屋の中を転がりやすくした。

開発作業は極めてリアルで職人芸的な作業になる。
プロトタイプのアイデアがまとまるとダンボール&カッターでサンプルをつくる。
ダイソンの原点である。
会長が最初にダイソン掃除機を生み出すときに、
5000個もの試作品を作った時と同じように、
ダンボール&カッターで工作?したという。

出来た商品は高い。
10万円ちかいものもある。
しかし、高くても売れる。
ダイソンはある?!指名買いが多いという。
ブランドが息づいている証拠である。

C.ダイソン日本向け、自信のPR作戦:

商品テストは半端ではない。

耐久テストの概要はいかの通りである。
・段差のある床の走行テストは600時間、
・持ち上げ落下テストは7000回
・左右首振りテストは72万回

自信をもって投入された商品。

日本での最初のPRは流通バイヤーに対しておこなわれた。
国立西洋美術館の中の近代的なホールの中でおこなわれた。
当該美術館は、
古い建物と現代的なホールの取り合わせが心地よい空間である。
ダイソン会長の指示という。
商品説明はあえて夜が選ばれた。
ライティングされたダイソンの新商品が、
きれいに、表の庭の噴水の水面に浮かぶ。

意外なシーンが見られた。
流通関係者(ヤマダ電機、BIGなど量販店のバイヤー達)は、
道具をもたされ、新商品の分解をさせられている。

球形本体のパーツまでメカを全部開示するという。
自分で分解することで愛着が湧いてくる、

さらに、700台を自宅で奥様に使ってもらい、
そのよさを家族で実感してもらうなど、
異色のデビューを飾った。

そのプレゼンのインパクトは、
良い意味でのハレーションを起こした。
アップルのジョブズ会長の新商品発表プレゼンとは違った意味ですごい。
ジョブズ会長はカリスマである。その人間的な魅力で商品を印象づける。

ダイソンは、会長のカリスマを使ったプレゼンはしない。
あくまでも機能で迫る。

自信のプレゼンは、
以下のような市場ニーズに徹底的に忠実だったことから生まれる。

ダイソンは、
・紙パック無しの掃除機、
・風車のない扇風機など、
極めて斬新な商品開発で主婦の精神的な心配・不安を除去した。

主婦のきらいな家事のNO1は掃除。
面倒、汚いものを扱う、ハウスダストその他の汚れ、ばい菌と、
掃除には裏側にトラウマがこびりついている。

危険な家電は扇風機。
音がうるさい。
羽が危ない。

そのようなネガティブな機能的な問題を解決するのみならず、
機能を具現化したデザインでも生活者を魅了する。
女性だけではなく、男性もその機能美に心を奪われる。

今、サイクロン方式の掃除機は世界の52カ国に輸出されている。
イギリスでは、掃除機の売り上げの半分以上はダイソンという。

D.ダイソン会長の発明の意味:

ダイソン会長は逆風野郎と呼ばれていた。

学生時代に、
車輸送ボート、
ボール付の手押し車(車部分が球形なので泥道でも埋まらない、平衡感覚が取りやすい)
を発明した。
これらのヒットで得た資金でサイクロン方式の開発に乗り出したという。

現状の不足点、不満点を解消して、
一段上の優位性、差別性を作り出しブランド化して、
最大限の価格設定で売り出す。

しかし、冷静に見ると、
ダイソンの商品の特徴は、
決して『新規性』という範疇の差別性ではない。
シュンペーターが言うところの「創造的破壊」ということではなく、
どちらかというと、
生活便利性の向上、生活使用上のリスク除去、
という視点の開発モデルである。
差別性の中の『優位性』、『差異性』といわれるものである。

エジソンが発明した電球や蓄音機と同列に並べることは出来ない。
どちらが社会にインパクトを与えたかといえば、
間違いなく後者である。

だからといって、ダイソンの技術革新が本質、本格的なものではない、
ということではない。

サイクロン技術が、
掃除機以外の思わぬところで大きく花開く可能性は否定出来ない。
また、ちょっとした生活便利性の技術改善・革新が
積もり積もって社会を変えていくということもある。
馬鹿にしてはならない、と思う。

ダイソン会長は天才である。
超人的な集中力でことを成し遂げる。
そういう意味では、アップルのジョブズ氏と相通じるものがあると思う。

冷静に見ると、
ジョブズ氏も世の中をひっくり返すような技術革新をしたわけではない。
むしろ、現存する技術を組み合せて、
徹底的に使い勝手性を追求し、超シンプルなデザインへと落とし込んだ、
生活革新の人である。
ダイソンとジョブズ氏は、
意外と「似ている二人」だと思う。

両氏は
生活革新の本質はデザインで体現される、
ことを教えてくれた。

商品開発の「筋の良さ」は、
・開発目標の筋のよさ(社会的インパクト、有用性、浸透可能性)、
・それをやり遂げる意思の強さ、
・背景にある技術・ノウハウの存在、
・市場の評価に耐えうる信念の強さ
・市場の欲求に機敏に対応する社内体制
・そして絶対外してはならない『デザイン』への執念
の組み合わせで決まる。

ダイソン会長の体には、
これらの才能が、
DNAとしてビルトインされている。

E.最後に/ダイソンは『超・情緒型』商品:

最後に、
ダイソンは典型的な機能・テクノロジーオリエンテットな商品かというと、
実は違う?!
という話である。

あえて逆説的に言うと、
ダイソンは「超・情緒型商品」である。

価格からもこのことは言える?
掃除機に、ファンにあんな高いお金を払うなんて、
情緒型の商品以外の何者でもない、
それも「超」が付く情緒商品なのでは?!
としか言いようがないということだ!

ダイソン、斜め45度の視点
ダイソンの技術はすごい。
しかし、・・・・・その本質とは?

■ ダイソンのファン(扇風機)の本質とは?!

羽根が付いている手頃な扇風機ではダメなのだろうか?
数千円で買える扇風機でも充分ではないか?
なぜ数万円もする、一桁違う扇風機を買うのだろうか、

一言で言えば、デザインのもつ不思議さである。
ダイソン扇風機の不思議さとは、
・革新性、
・異端性、
・希少性、
・スノッブ性(高いほど良く見える、人に少し自慢したい、自分の選択眼の良さに浸りたい)等で構成される。

通常のものは持ちたくない、自分の選ぶものは他と違うということを感じたい
という、
・商品選択を通じての自己実現、
・他人目線からの満足感、
の2つの基本ニーズに見事にミートしている。

「風が送り出される」のに羽根でない方法に、
どれだけ機能的な意味があるのだろうか?
極端に言うと、
ないといっていい。
(安全性という機能は間違いなくあるが、今の羽付きでも充分に確保できる)

しかし、である。
羽根がないのに、
飛行機のようなスムーズな風が、
無から有が生じてくるように出てくる感覚は、
本能的にハットさせられる。

世の中に新しく生まれて、世の中を変えていくものに、
人は素直に感動する。
ダイソンの扇風機は、消費者の側から言うと、

『不可思議な超・情緒商品』

ということになる。

■ ダイソンの掃除機の本質とは?!

紙パックを使わない、

その機能的な意味は大きい。
・紙パックを外す時に、ほこりが舞う、周囲が汚れるという不衛生感を感じなくて済む。
・紙パックを買わない金銭的なメリットが多少だが生じている。

登場したときは、皆が衝撃を受けた。
それまでは、掃除機がすったほこり・ゴミは、
何かでブロックしなければならないという固定概念があり、
皆がそれを信じていた。

それを見事に打ち破った。

どうなっているの?
という関心が世の中に巻き起こった。
女性から見れば、衛生的で、交換の手間がかからないから嬉しい、
男性から見ると、メカ的な興味が刺激される、
と感じた。

その衝撃はファン(扇風機)以上だったと思う。

最初にやることの、常識を打破することへの敬服の念が湧いてくる。
そんなの無理だよ!!
ということにチャレンジする
その個性・エネルギーの凄さが、
ダイソンを羨望・憧憬の目で見てしまう理由である。

ダイソン掃除機は、ファンと同じように、

『脱コモンセンスの、異端の超・情緒商品』

といえる。

ダイソン会長は、掃除機の代名詞がダイソンになることを夢見ている。
(グルタミン酸ソーダが「味の味」の素といわれ、宅配便が「宅急便」といわれるように)
イギリスでは掃除機の売り上げの半分はダイソンという。
間もなくダイソンは、掃除機といえばダイソン!という感じで、
「代名詞化」するのだろうか?

■ ダイソンの掃除機、ファンの両者に見える、
ダイソンの企業価値とは?

それは新しいものを生み出すというより、
常識を変える、
世の中の常識を打ち破るという確固たる信念である。
それはダイソン会長のWILLそのものである。

“そういえば、「車のワイパー」をなくしてもらえないだろうか”

この稿おわり
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■ 「ジャパネットたかた」の凄さ、なぜ売れる?隠れたマーケティングの原点!

2011年09月22日 | Weblog
■ 「ジャパネットたかた」の凄さ、なぜ売れる?隠れたマーケティングの原点!

はじめに/経緯:

会社で夜なべをして、朝の4:00頃目が覚めてしまい、
何となくTVをつけると、
「ジャパネットたかた」のTVショッピングの映像が流れている。
(筆者の年になると朝の目覚めが早いのです!?)

そのプレゼンのテンポのよさに引かれてついつい見入ってしまう。
優秀な訪問販売員が、
目の前の見込み客の気持ちをそらさないように、
巧みに身振り手振りを交えてトークを展開するが如くである。

なぜ、「ジャパネットたかた」がよく売れるのか?
どうも、そのようなテクニカルな話だけではない奥の深さがあるように見える。

「ジャパネットたかた」。
94年に、TVショッピングを初めて、今や1700億円に到達した。
通販の雄である。
実は、あの有名なTVショッピングは全体の2割ぐらいという。
チラシが主体である。
しかし、TVは、今でもジャパネットの顔であり、
それによってジャパネットたかたのブランドができていることは間違いない。
チラシで買う人も、
高田社長の顔を思い出しながら買っている。

高田社長は、
普通のカメラ店の経営者から、いつ通販に目覚めたのか?
42才の時、ラジオショッピングを行い、
たった5分間で、カメラ50台、一台2万円で100万円を売り上げたという。
ここにマスメディアを使う通販の可能性を見たという。

高田社長とはどんな人?!
TVの姿からうかがい知るしかないが、
高田社長は、相当な芸人、職人、商人とお見受けした。

・芸人とは:
あのTVショッピングでみるプレゼン力はひとつの芸の域に達している。
大道芸的なエンタメ感がある。

・商人とは:
高田社長はもともと英語が得意で機械メーカーで海外の経験もあるという。
26歳で退社し、平戸市の実家のカメラ店を手伝い、
その後、佐世保に自分のカメラ店を開業したという。
小さいころから新聞配達など、仕事をすることが好きだという。
根っからの商売人で商品を説明して納得して買っていだき喜んでいただく、
というCS(顧客満足)の原点の人である。

・職人とは:
一糸乱れのないトークとその組み立て、臨機応変なアドリブである。
間違いなく、侮ることなくプレゼンを進める姿は、
落ち度のない仕事を完成させる職人そのものである。
職人の臨場感のある技があのトーク、演出に生きている。

高田社長が出演すると、
普通の社員と比べて格段の売り上げの差が生じるという。

なぜか?


A.ジャパネットたかた、社長プレゼンの秘訣:

3つの秘訣がある。

熱心、説得、実感である

熱意:
自分が納得して、
これは人に薦められるという商品しか取り上げない。
自分向きかどうかがポイントになる。
自分が感動して、その内容を、感情移入した状態で伝えられるかか大切

説得:
TVの向こうにいる視聴者が、
これでもか!
というぐらいその良さを伝え、説得していく。

「是非買ってください」とクロージングをする、
これを買えば、たとえ衝動買いだとしても、後悔はさせません、
というオーラを放って勝負する。

一般的に言われることだが、
成績の上がらない販売・営業担当は、
なかなかクロージングが出来ないといわれる。
ものを売る商売人ということを忘れ、
ひとりの人間にもどりクロージングを恥ずかしがる、断られたら嫌だから、
買ってくださいと言えない、
という心理が働く。

この裏には、自分が商品に自信がないから、
強い自信のあるトークが出来ないともいえる。
DNA的に、そのような自信をなかなか持てない、
いわゆる営業に不向きという人も確かにいる。

しかし、それ以上に、商品への愛着・自信というものがないが故に、
トークが相手の心に響かないというケースが多い。
これは何も商売に関することだけではなく、
交渉ごとすべてに言えることである。
たかた社長の説得力は、
商品に対する自信、自らの納得感があって生じてくる。

実感:
それを使えば生活がどう楽しくなる、便利になる、得をする、
を使用現場の5W1H的なシーンをまじえて説明する。

オケージョンが明確になり、視聴者は自分向きの商品だと感じるようになる。
たとえ自分に近くないオケージョンだとしても、
ひとつの例示を与えられると、
自分ならこう使おう!?
という、想像が湧いてくる。
実感力は最後の購入決定への一押しになる。

B.「ジャパネットたかた」のブランド戦略:

そのブランドの源泉は何か。
これは誰もが異論がないところである。
高田社長というキャラクターブランドである。

一般的には、ブランド体系の中には、
コーポレートブランド、ファミリーブランド、プロダクトブランド、
商品横断的なテクノロジー・ノウハウブランド等々、
様々なブランド概念が存在している。

中でもユニークで強烈なのは、キャラクターブランドである。
これは商品・企業のシンボルとしての、
いわゆるキャラクターもあるが(例えばディズニーのような)、
ここでは企業の中のカリスマ・有名人をさす。

例えば、
アップルのスティーブジョブズ氏、ソフトバンクの孫氏、日産のカルロスゴーン氏、
ユニクロの柳井氏、故人では本田宗一郎氏、松下幸之助氏・・・・・・
のことである。
そのカリスマ性により、
個性的な企業・商品群を育て、生活者へある種の神話をつくり、
企業活動を有利に進めた人々である。

高田社長はキャラクターブランドである。
そのブランドエクイティを確認してみよう。

1.量的エクイティ:

・認知:全国区である。
・好意:誰からも好かれる敵のいない人柄、

2.質的なエクイティ:

・知覚品質(イメージ):さわやかさ、若々しさ、
・連想点:あの若さあふれる仕草・表情(しょうゆ顔)、
トレードマークである『かん高い声』

3.インフラ的エクイティ:
(ジャパネットたかたの企業としてのインフラ)

・マーケティング:全国的な配送網、チラシ配布力、
TVチャネルという電波活用ポジション、
プレゼン力、プレゼン内容臨機応変力
・ テクノロジー:超こだわりの商品選び、
独特の値付け(金利手数料、おまけアイテムのつけ方・・・・・)

いろいろなブランド要件が揃い、
完全ともいえるバランスを示している。
これはすべて高田社長のカリスマの基に創られたブランド構造である。

特に、『連想点』がその頂点にある。
あの『甲高い声』は脳裏に焼きついて離れない。
少し話しはそれるが、
桑田圭介、松谷由美の声は気持ちのいい波長と音色を放つ
彼らのヒットの裏にはこの声質が大きく寄与しているという話がある。

あの「甲高い声」は、あまりに熱心に商品を勧めるあまり、
声が裏返ってしまう、上ずってしまうということらしい?

ジャパネットたかたと聞けば、『高田社長』!
高田社長と聞けば、あの『甲高い声』!
という価値連鎖があり、
それがジャパネットたかたの最大のブランドとなり、
重要な無形の経営資産となって皆の脳裏に焼きついている。


C.商品学的に見た高田社長のプレゼンの意味:

商品の進化には、生活者に近づくほど、
プロトタイプ、製品、商品、広告品、生活品という進化が生じる。

「生活品」とは、
生活者が、自分の生活文脈の中で個別の事情を踏まえて商品を使い込んでいき、
様々な価値を個別生活の中で発見する、そのような価値を意味する。

この価値を理解した時に、生活者は、その商品を自分に近いものだと思い、
買って使いこなせる予感をもち、
生活が便利に、楽しくなりそうだ、無駄にならない、
と感じ財布の紐を緩めて購入する。

高田社長はこの「生活品」という概念のプレゼンをしている。
自分の使える生活が便利になる・・・と思いながらプレゼンをしている。
TVの中の使い方の説明事例はひとつ、ふたつである。

しかし、それを高田社長は熱心に訴えるので、
自分の生活に必ずしも適合しない事例でも、
擬似的に自分向きのオケージョンも多分あるのだろうと、
いい意味で錯覚して買ってみたくなるのである。

高田社長は、製品、商品、広告品を売っているのではなく、
正に「生活品」を売っている。

今、ライフスキルというマーケティング用語が注目されているが、
生活の「術」(すべ)を会得すれば、生活がハッピーになれる、
という概念である。
ライフスタイル、ライフステージといった価値観、家族環境ではない、
生活のスキルにフォーカスした新しい概念である。

高田社長はこのライフスキルを肌感覚で大切と思い?
それを活用して商品をプレゼンしている。

高田社長がここまでブランド化されると、
視聴者はそのプレゼンを聞いて、
家族、親友、恋人から薦められているような気持ちになる。
高田社長がそこまでいうなら、
だまされてもいいか?
という気持ちまで起こってくる!

ブランド力の凄さである。

D.高田社長の本当の凄さ:

ひとつわすれてはならないのは、高田社長のプレゼンの心である。

かっこつけよう、うまく言おう・・・といった
邪心、野心がない。

その天性の資質を見逃してはならない、
そこに「信用という知覚品質(イメージ)」が生まれてくる。
もしかすると、
これが高田社長のプレゼンの最大の武器かもしれない。

信用はすべての商売の原点である。
高田社長は商売の基本を地で行っている。

高田社長の信念。
「人は人の為に生きてこそ人」

テレビ東京のソロモン流という番組がある。
高田社長が、東北大震災の各県を回り、
ジャパネット高田のテレビの購入枠を使って、
無料で地元の産品を紹介するというボランタリーを行っていた。

この稿おわり

追記.ジャパネット高田の試練:

影の部分もある。
‘04年に、個人情報が漏洩した。
社員の持ち出しによるものだ。
このとき2ヶ月間営業を自粛をした。

年間の六分の一の売り上げが減るということは、
もともと薄利の小売業態では致命的である。
この間、業務体制を変更して、二度と同じ過ちが起きないように、
BPR・ビジネスプロセスリエンジニアリングを徹底した、
という話を聞く。

ここで見逃してはならないのは、
エマージェンシーが起きた時にも、
高田社長のキャラクター(ブランド)の効果が出ていることである。

良いブランドイメージがあれば、
何かあったときにも応援してくれる人がいる、
頑張れという雰囲気が醸し出される、
という点が、
ブランド効用の別の側面としてある。


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■ フジTV、ゆかたは魅力的?コンセプトワークの妙とは!

2011年09月13日 | Weblog


■ フジTV、ゆかたは魅力的?コンセプトワークの妙とは!

はじめに:ゆかたの勝利とは?!

ゆかたの実験があった?
若い双子の姉妹が、
ゆかたとカジュアルなTシャツを着て、
フジテレビ・お台場合衆国でうちわを配った。
暑い夏の日のイベントである。

30分の間に、どちらがうちわをたくさん配れるか、
という実験である。
通行者へ掛ける言葉も二種類だけと決めている。
双子の違いは、
ゆかたとTシャツの違いだけである。

結果は
ゆかたに軍配があがった。
なぜか?

A.ゆかたの勝因、ゆかた姿の基本価値:

ゆかたが勝った理由は、四つに整理できる。

1. 基本的な理由:

ゆかたの女性。
夏の花火の時期、夕方から夜に掛けてよく見かける。
まだまだ街中では珍しい。
当たり前のように見かけるTシャツよりもはるかに珍しい。

即ち、ゆかたは、
その存在の希少性で端から優位に立っていた。
Tシャツには大きなハンディキャップがあった。
「ゆかた姿の女性がうちわを配る」という絵は、珍しく人の好奇心をくすぐる。

2.機能的理由:

・ゆかたの方が涼しく感じ、それがうちわと連鎖して、
うちわの涼しさ感をよりもたらす感覚が生じている。

うちわの「涼しさという機能的な魅力」がゆかたによってより強まる。
ゆかたの方が、Tシャツより、うちわを取る気持ちが高まる。
うちわをもらって扇いで、涼もうという気になりやすい。

3.情緒的理由:

・ゆかたとうちわの組み合わせは、妙に合っていて「極めて絵になる」。
その雰囲気の中で、うちわにすんなりと手がのびてしまった。

・ゆかたの方が「親しみやすく」、うちわをもらいやすい感じがする。

・あの場所でゆかた姿でいることが「イベント感覚」を醸し出し、
「遊び感覚」で気軽にうちわを貰う気になれる。
もらうことがイベントそのものなので、
手を出すことに躊躇はない。
街中でティシュや同じうちわをもらう時の戸惑いといったものはない。

4.人間関係的理由:

・ゆかたの女性のほうが「かわいい」からそっちへ手が伸びてしまう。
うちわよりゆかた姿に魅せられた、ということである。
正に、花より団子である。

男性の目線からも、女性の目線からも、
ゆかたの女性はかわいく見える。

ゆかた姿がかわいい、
については、いろいろな解釈が出来る。

男性の目線から言うと、
襟足、うなじ、あがった髪、うしろ姿、歩く姿の小股のちょこちょこ歩き
がかわいいのだという。
(番組の中での男性へのインタヴューより)

特にうなじについては、カジュアルなTシャツは全体的に露出部分が多いので、
相対的にうなじの露出の重みが小さくなる。
ゆかた姿では、
体が閉じられており露出部分が少なく、うなじだけが突出して存在感を増す。
マーケティング的に言えば、「うなじはオンリーワン的」な存在として、
周囲に目立つ部位になる。

更に、ゆかたの後ろのえりが立ち、よりセクシーさを光らせる、
ということらしい。

これはブランドエクイティ論でいうところの「連想点」にあたる。
ゆかたと聞いて思い出すのは、
女性の「襟足まわり」!ということになり、
ゆかたが襟足をクローズUPする。
ゆかたのかわいさがTシャツに対して有利に働いた。

勝利の女神は、ゆかたに微笑んだ。

しかし、冷静に見ておかなくてはならないことがある。
うちわさえもらえれば嬉しいという人もたくさんいるので、
うちわの基本機能が、
この実験の根本にあることを忘れてはならない。
うちわの基本機能があるから皆がもらいたがる。

製品の基本機能(うちわの風をつくる機能)がしっかりしていなければ、
いくら良いコンセプトでお化粧(うちわの涼感それを支えるかわいいゆかた姿)しても、
良い商品にはならない、
ということは踏まえておく必要がある。


B-1.ゆかた勝利の要因: イベントの特殊性からの視点

うちわの配布実験を仔細に見ていくと・・・。

まず、うちわをもらう心理とは何か?

・うちわが欲しくて近づくのか?
・ゆかた姿の女性がかわいくて、思わず近づいて、
その結果としてうちわをもらうのか?
・その中間か?

双子の勝負は、うちわの数で出すのだが、
うちわをもらう気持ちはかなり違う。

どちらのもらい方が良い、良くないとかいう話ではない。
イベントは、深い思いで参加する心理と軽いノリで参加する心理とがある。
どちらもイベントとしては大成功である。
逆に後者のようなノリがないと、
機能重視のうちわ業界の商品PRのようになってしまう。

イベント実験の効果でいえば、
・うちわそのものを欲しくてもらっても、
・かわいい浴衣姿の女性がいて、ついでにうちわをもらっても、
もらうという結果は同じである。

もらってうちわを使ってその人がハッピーになれば、
うちわを配布するというイベントの趣旨は完結する。

入手の経緯(理由)はともかく、
うちわを使うきっかけがイベントという形で提供され、
使った結果満足が得られれば、すべてはOKということである・・・?!

しかし、イベントという特殊空間の催眠効果の中で、
商品がPR、試用、配布されたとしても、
結局は冷静になったときの使用感が大切で、
そこで商品の性能・品質が問われる、
という本質は忘れてはならない。

B-2.ゆかたの勝利の技とは: コンセプトの巧みさからの視点

今回のフジテレビ・お台場合衆国のうちわ競争イベントには、
コンセプトワークの妙(技)が潜んでいる。

今回のイベント実験の趣向をコンセプトメーキングの観点から見ると、
以下の通りである。

うちわを配る女性は同じである。
配り方、声掛けの言葉も同じである。

結果は、
女性の表面的な服装を変えることだけで周囲の人の反応が変わった、
うちわの配布数が大きく変わった。

一般的にコンセプトワークとは?
スッピンの女性(製品)に、お化粧をして何らかの主張を持たせる(商品)こと、
これがコンセプトワークである。
このコンセプトワークによって、製品・商品の売れ行きはかなり違ってくる。

コンセプトワークによって違ってくるのは、結果はもちろんだが、
途中の反応である。
今回のイベントで言えば、
表面的なうちわの配布数だけではなく、
うちわを受け取る手前の、
通行者の目線の配り方、振り向き方に注目する必要がある。
ゆかたとTシャツでは、かなり大きな差があったと予想される。

ゆかた勝因は、以下の通りである。

・まず、うちわをもらうという金銭的なお得感がある。
うちわを欲しくない人はどのような女性でも受け取らない。
これが原始的な「物的(取得)価値」にあたる。

・次に、うちわの涼しさ感を得たいという純粋な欲求がある。
これが「機能(取得)価値」である。

・更に、ゆかた、うちわによって楽しさ感、季節感のような感情の高ぶりが得られる、
気分的な満足度が得られる、
これは「情緒(取得)価値」にあたる。

・最後に、うちわを配る時の、配る人の雰囲気、かもし出す人間的なオーラ、
これは「人間関係(取得)価値」にあたる。
商品と良い関係になりたいという欲求である。

うちわの配布数という量的な結果を得るには、
心理的なプロセスで結果をださなければならない。

今回の場合だと、
うちわの情緒価値、ゆかた姿の女性の人間価値の両方が、
うちわを受け取るまでの心理プロセスにどのような影響を与えたか、
を見る必要がある。

この心理プロセスでの賛同者がたくさんいたからこそ
(目を振り向いてくれる人、立ち止まる人が多くいて)、
その結果として、うちわの最終配布数も伸びたという計算になる。

この心理プロセス効果は、
ゆかたの方が、Tシャツより格段に高かった。

つまりは、コンセプトワークの勝利ということになる。
単純なうちわのお得感、涼しさ感という価値だけではない、
コンセプトワークを施されたゆかた姿の勝利ということになる。

Tシャツの女性はややハンディキャップがあった。
ゆかたは日本的なかわいい女子を演出したコンセプトであった。
また、季節の古来の風物詩としての価値も持たせている。

Tシャツはカジュアルな感覚で気軽にアプローチするものである。
存在感としては明らかにゆかたの方が優れている。

もし、Tシャツではなく、
セレブ的なセクシー系、かわいいガーリー系・・・・と、
いろいろと服装をかえてみるとどうか。
ややちがった結果がでたかもしれない。
ただ、うちわとゆかたのベストマッチングに優るものはないので、
結果はゆかたがダントツの一番であることは間違いないだろう。

今回の結果を、
ゆかただから勝てたという訳ではなく、
差別性があれば、どれでもTシャツに勝てた可能性がある、
ということかもしれない。

ことほどさように、コンセプトとワークは重要であり、
マーケティングの基本の基本技術である。

マーケティングのWINはコンセプトワークから生み出される。

この稿終わり
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 日経の大フライング?日立と三菱重工の統合「大発展時代の幕開け」?

2011年08月31日 | Weblog


■ 日経の大フライング?日立と三菱重工の統合「大発展時代の幕開け」?

はじめに:

日立、三菱重工の2社は統合へと向かう!
この記事が出たのは8月4日である。
これが間違いだったようだ。

日経朝刊としては、久しぶりに一面で大スペースを割いた記事だった・・・?

両者の提携・統合について、
火の無いところに煙は立たない・・・・・?
何かの兆候があったことは間違いない。
しかし取材がキチントできていたのかが問われる?
また、記事が先行して、
両者の提携・統合検討当事者がびびってしまい、
進み始めていた話を後戻りさせた、ということがあったのか?
それとも、もともと小火(ぼや)程度のものだったのか?

本当のところは分からない。

真偽はともかくとして、
このような大型の提携が待望されている、
社会的、経済的な背景は間違いなくある。

筆者のような上年代のものにとって、日立、三菱重工といえば、
日本のよき時代・高度成長時代を牽引した「重厚長大」産業の雄である。
その後、「軽薄短小」、「バーチュアル&リアル」といった、
時代を象徴する産業キーワードはいろいろと登場してきたが、
「重厚長大」は、特別な感傷を抱いてしまうキーワードである。

今回の話は、極めて重大な経営のTOP案件である。
日経の編集会議の中でも、
当該記事をあれほどの大きさで扱うことについては、
上年代の編集委員クラスと、若年代の現場記者との間で、
取材の真偽も含めて相当な議論があったことは想像に難くない。

今回の記事は、
それほど大きいネタであった。
日本経済の転換が叫ばれて久しいが、
そのパラダイム変化を象徴する、時代象徴的な案件であった。

A.日立、三菱重工、提携・統合の意味とは:

このところ大型の企業提携・統合の話が目につく。

このような大型提携・統合の話がでてくる背景とはなんだろうか?
今回の記事の真贋は別として、今回の記事の内容から考えてみる。

このところの大型提携・統合の動きには、
企業の経営・マーケティングを考える上で重要な
「3つのS」(スケール、スピード、スコープ)といわれる概念が
関わっている?

今やグローバルの時代である、といわれて久しい。

一つ目の事例:
昔、新日本製鉄は世界NO1の鉄鋼会社であったが、
今はビタルである。
世界中でM&Aを繰り返しあっという間に世界一になってしまった。

一見してスケールだけが優先されているように見える。
ビタルの場合は、
確かにスケールが大前提ということはある。

しかし、単純に大きいということではなく、
その大きさが、
スピードの速さ、スコープの柔軟さをもたらしている、
という側面は見逃してはならない。

グローバル経済の発展で世界中に需要が筍のように発生している。
コロンブス時代の「大航海時代」ならぬ、
「大発展時代」の幕開けともいえる状況にある。
ASEAN、BRICS、中東、アフリカと世界は発展途上国の勢いで、
世界の経済フレームがつくられている。

この旺盛な需要にこたえなければならない、となると・・・・、
世界に生産、物流、販売の拠点を設けなければならない。

それがあれば、世界の様々なオポチュニティの発生にスピーディに乗ることができ、
しかも局所的に生ずるリスクも他のエリアでヘッジすることもできる。
また、スコープの調整もスムーズに出来ることになる。

常に収益を最大化、最適化するというメカニズムが、
ビタルの中にビルトインされている。

二つ目の事例:
昔はドメスティク企業の典型であった小売業、食品会社は、
日本の厳しい消費者に鍛えられ、
過剰ともいえる製品品質を実現している。

超高品質を実現する製造・物流・販売のトータルシステムをもっている。
アジア・欧米で、その既存商品・既存技術を水平展開している。
最も分かりやすい規模中心のマーケティングの展開である。

その流れの中で、
現地ローカルの飲料会社、食品会社をM&Aする話は、
毎日のように記事となっている。


B.日立、三菱重工統合のグローバルな背景:

以下、日経の記事の骨子である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日立、三菱重工の2社は、
2013年の春に、ホールディングカンパニーを作って、
中核事業を統合する。
インフラ、環境・エネルギー分野での統合になる。
具体的には発電、鉄道等々が俎上に上がっている。
両者の統合で表面的な売り上げ高は12兆円規模になる。
しかし、世界にはGE・・・・・といった大きな同業会社がひしめき合う。
予定される利益率ROE(リターンオンエクイティ)は一桁台でかなり劣る。
10%を超える競合に比べると見劣りする。

世界のGDPの伸びはこれからもBRICS中心に高く維持される。
またバングラディシュも含めた第二の途上国もどんどん発展してくる。

世界のインフラ基盤整備、エネルギー開発分野はこれからが本番になる。
実は、これらの分野には、上記のような世界の大企業が、
昔からエントリーして実績を残している。
日本企業が単独で世界の雄と戦うビジネスモデルは、
もはや通用しない時代になってきた。

その象徴として両者の提携話があった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
といったところが記事の概要となる。

日本の企業が、単独で高品質を武器に挑戦しても、
コンペでは勝てない状況が続く。
韓国などは、インフラ整備事業に数十年ものアフターケアを政府主導でおこなう、
という大胆なフレームで受注増に励んでいる。
政府は民間企業の成約を徹底的にサポートする。

日本では、地方分権の流れの中で、
政府の役割は外交、防衛、国民福祉等々と狭く限定しようとの動きもある。
国民生活の安定と発展ということ、
外交の意味を広く貿易・交流の発展ということまで取り込めば、
経済外交、首脳先導の経済活動は政府の重要な仕事になる、
という意見もある。

アメリカは民間の自主性を尊ぶお国柄である。
民間活動の活性化で大衆の生活がよくなるなら、
自由主義を標榜しながら、時には輸入制限も辞さない国である。

世界を見渡すと、
・ 巨大プロジェクト
・ 超ハイリスク事業
・ 長期アフターサービス事業
・ 超複合システム事業
・ 超ハイテク事業
・ インフラ事業
といった特徴を持つ産業カテゴリーで、
グローバル経済の発展に伴う大型の引き合いが目白押しとなっている。

具体的には、
原子力発電、都市建設、鉄道事業、巨大プラント建設、コンビナート建設、資源開発事業・・・・・
等々である。

これらの受注は国際間の、グローバル企業との競合になる。
また政府を巻き込んだ政治的な競合にもなる。

世界の規模からみれば、
日本のひとつの企業の規模、ノウハウでの受注の確率は極めて小さくなる。
何社かの知恵、人材、ノウハウの集合体と政府の支援によるコンペ参画が不可欠である。

コンペで受注するために、
コスト競争力、アフターサービス力、収益力、コアコンピータンス
等を高めることが不可欠である。
その切り口はT,S、Hになる。

T/時間軸:スピード、アフターサービス、保証の期間
S/空間軸:インフラ全体にかかわる地理的な広さ、グローバルな資源、パーツの調達
H/人間軸:人財メンテナンス、人材の多様性確保、人のローカライゼーション

これらをマネジメントするノウハウ・テク、マネー、体制・組織は、
半端なく大きなものになる。
一社の単独マターではありえない。
日立、三菱重工の統合は間違いなく必然ということになるのだが・・・・・・??


C.日立、三菱重工提携・統合のKFS(KEY FACTOR FOR SUCSSESS)とは:

当該記事を読んで感ずるところがあった。
この提携・統合話がもし進んでいたとしたら、
最終的にはうまくいったのだろうか?

客観的にみると、
両者はいろいろと難儀なことが生じても、
それらをしのいで、統合を成功に導くことができた、
と筆者は考えている。

以下、その理由である。

・外国のインフラ整備等の大きな中核事業で、
お互いの強みを生かして、弱点を補って、
一緒にやりましょう、という話しはこれまでも何回もあり、
ジョイントベンチュアなどの体制を組んで十分に経験を積んでいる。
この種の提携・統合は、
大企業が過去の続けてきている、
企業間提携の範囲での話しであり、
とっくに経験済みであり、カルチャーショックをうけるような怖い話ではない。

・メリットのあることを共同でやる、
ということは、合併ではないのでうまくいく。
中核事業をホールディングカンパニーをつくって、
一部の事業から統合していくというのは、
形は違えど経験済みであり想定の範囲の話である。

・一社では取れない確率が極めて大きいということもあり、
互いに争っている場合ではない、
という切羽詰まった事情があり、これも提携・統合の成功への追い風になる。

・原発事故という背景がある。
原発事故で日本ブランドが傷み、
他の大型事業のマネジメントノウハウ、基本技術・ノウハウも、
雲がかかったような見方をされ、翳りが生じている。
両者、力を合わせて、
日本ブランド毀損の障害を少しでも和らげていこう、
という意味が働く。

いろいろな角度から見て、
両者の一部中核事業の提携・統合は、
問題なく進むということになる、のだが!?

しかし、評論家的には、正解のことでも、
人間のやることになると、なかなか簡単にはいかない、
ということになる。

また次のことも、
この提携・統合話が、フォローの風にのる材料ではあったのだが・・・。

もともと日立も三菱重工も巨大企業であり、
社員は日立、三菱という在籍証明はあるものの、
事業部が異なれば、会社生活の中で一度も会わすに退職する状況にある。

同じ会社とはいえ、異なる事業風土(一種の職場風土)で過ごして定年を迎える。
まったく異なる会社の従業員といってもいい。
日立、三菱重工は、
もともと違う会社の集合体という感覚の大組織である。

従って、
実際には、今回の提携・統合の話には大きな違和感はない!
というのが社員の本音だと思う。
ただ、あまりにも大きな話であり、
大会社がつながるということの心理な衝撃があったことは容易に想像される。
特に役員層で、
若い頃入社して定年近くまで慣れ親しんできた会社が、
異なる会社と一緒になる、ぶつかり合うというエネルギーは、
半端ではなく大きいもの、
と感じられたのは事実であろう。

兎にも角にも、両者の提携・統合という話は幻に終わった。


D.国内再編と世界進出の本質とは:

『大発展時代』の経営・マーケティングの有り様とは?!

日立、三菱重工の2社は、国内マーケットで、
自治体、国のインフラ企事業、電力会社、鉄道会社と安定的な絆で結ばれ成長してきたが、
この失われた20年間は、
そのまま両者の減速の20年間だったともいえる。

これからは海外で受注するという選択が不可避のものになる。
そこしか成長の目はない。

日本企業は消費者に育てられたとよく言われる。
厳しい消費者の目にかなうように、品質の向上に努めてきた。
それが『日本品質』である。
しかし国内は過当競争がつづく。
不毛な小さいことの差別性にエネルギーを使うより、
国内再編に尽力して、
世界に進出して大型案件を受注し、
世界の『大発展時代』に貢献することが重要である。

国内再編は不可避である。
韓国と比べてGDPに対する企業数が多すぎる、
という指摘はよくある。
乗用車、総合電気しかりである。

『大発展時代』というメガトレンドの中で、
この日立、三菱重工の統合は国内企業の再編の呼び水になれば
との期待が高まっていたことは事実である。

最後に、
スケール、スピード、スコープの「3つのS」について、
マーケティング的な観点で簡単に整理すると、
以下のようになる。

・ スケール:
規模が大きくならなければ収益の絶対額、率もあがらない。
マーケティング投資もままならない。
規模が小さければ、シェアが下がりいいポジションがとれない。
やがて事業終了・市場からの退場ということになる。

・ スピード:
社会、マーケットの成長・衰退のスピードは極めて速い。
ニースの変化・進化・深化も半端なく早い。
それに追いつかなければ、競合に負けサステナブルな事業にはならない。

・ スコープ:
「選択と集中」が、マーケティング投資の効率を高め、収益性を改善させる。
事業領域とそれに対応するマーケティングノウハウの範囲はどんどん変わる。
それを的確に見極め経営・マーケティング資源をシフトさせていくことが重要である。

「3つのS」は、
企業の単純な経営・マーケティング手段(ツール/ノウハウ)ではなく、
「大航海時代」ならぬ
『大発展時代』の経営・マーケティングのクリティカルポイント、クリティカルパス
である。

この稿おわり

追記:
この両者に限らず、
重厚長大の大型提携・統合・合併案件は、
今後も紙上をにぎわすことは間違いない。
もしかすると、
日立、三菱重工が復縁か?、
という記事が大スクープされる日が来るかも!
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■ アラフォー世代!元気な団塊ジュニア、40歳前後のマーケティング!

2011年08月23日 | Weblog
■ アラフォー世代!元気な団塊ジュニア、40歳前後のマーケティング!


はじめに:

本稿のモティーフは「アラフォー」である。

アラフォーが元気だ。
スピードスケート岡崎朋美選手、39歳が、
6回目のオリンピックに挑戦するという。
長野オリンピック女子500Mスピードスケートでは、
銅メダルを獲得している。
赤ちゃんはまだ6ヶ月という子育て真最中での決断である。

筋肉は覚醒している感じだという。
筋肉は、
まだうずくよ!頑張れ!と岡崎選手に訴えたのだろうか。

アラフォーの岡崎選手。
39歳というのに若々しい容姿である。
記者会見も溌溂としていた。


A.アラフォー・団塊ジュニアとは:

団塊ジュニアとは、団塊世代の子供達である。

・ 団塊世代とは、
1947年~1949年生まれの
第一次ベビーブーム世代で世界最大の人口ボリュームゾーン
・ 団塊ジュニとは、
1970年~1974年生まれで団塊世代の子供達で、
毎年200万人以上生まれた世代であり、世代人口は960万人に達する。

団塊ジュニアは、
いま流行の言葉でいえば40歳前後の「アラフォー」である。

どんな人がいる?
竹之内豊、木村拓哉、貴乃花、イチロー、松井秀樹、
藤原紀香、宮沢りえ、松雪泰子、松嶋奈々子、森高千里・・・・・
心身ともに充実したタレントが目白押しである。

団塊ジュニアの生活の価値観とはなんだろうか?
10代の頃にバブルを経験し、思春期に豊かな時代を刷り込まれている。
人生に対してアグレッシブで楽観的である。
気持ちはかなり若々しい世代である。
少年ジャンプなど少年誌のブームをつくり、
コンピューターゲームなど若者文化の発信者でもあった。

一方、バブル崩壊後の就職氷河期を経験し人生の挫折も味わう。
(貧乏くじ世代とも呼ばれる)
天国と地獄?を味わっている複雑な世代で、消費は案外堅実と言われている。
MUJIのような実質的な機能ブランドを好む傾向もある。


B.元気印な人・アラフォー女性:

お叱りを覚悟で言うと、
一般的には、
40歳といえば、
おばさんの後半に突入と揶揄される?!
らしい。

この認識は改めなければならない、
と思う。

森高千里は、
「わたーしがー、おばさーんに、なーあっーてもー♪」
とうたって大ヒットとなった。
彼女は、今、「おばさん」ではなく、
若々しい雰囲気でテレビにも出演している。

いまのアラフォーは、どんどん綺麗になっている。
魔女と呼ばれることもある。

昔とちがって、
女性が家庭に入り込み、奥様・母親になり良妻賢母として生きる
というライフスタイルはない。
奥様という言葉はほとんど死語同然である。

今や奥様は、
外様(外で活躍)になっている。

集様(集まってパーティ)、味様(グルメの追及)、幸様(ハレの追及)、巧様(便利グッズ活用)・・・・・・、
と「しんか」(進化、新化、深化)している。
女性は「娑婆の空気」を吸って生き生きと生きている。

社会で、職場でストレスもたまるが、逆に磨かれ綺麗になっている。

世間でよくいわれる、いわゆる「ぬかみそ臭さ」がない。
洗練された女性として君臨?している。

サプリメント、食事の栄養価、化粧品の品質の向上、エステの進化、
もてたいという女性心理の増幅等々、
社会の成熟化により整ってくる諸条件が今出揃い、
女性をフルにサポートしている。
アラフォー女性は、
ますます綺麗になっていくという社会構図になっている。

商品購入における女性の決定権限の強さも半端なく強い。

一見男性中心の商品と思われがちな車、住宅(マンション含む)でさえも、
女性が主導権を握る。

お金は男性が出すにしても、
普段車を使うのは女性、家の中で主体的に過ごすのも女性である。
デザインの嗜好から、ソフト(使い勝手性)まで女性が、
自分で使いやすいように、気持ちよく使えるようにどんどん決めていく。

最近では女性専用の耐久消費財もたくさん出てきている。

パナソニックの女性商品開発にチームの話。
女性ターゲット向けのデジカメから、
ついに黒というカラーがなくなってしまった。
女性商品開発チームが黒はいらないといったら、
それが社内の稟議で通ってしまう状況にある。
保護ケースのふたの裏の生地にもこだわり、
女性が好きそうなかわいい模様をいれたりする。

折りたたみのボタン式のスマートフォンがでた。
(長い爪の女性でもボタンタイプなので使いやすい)
女性専用アプリも登場している。

消費者の半分は女性なのだから、
男性優位の商品開発の量は半分になっても、
まったくおかしくはないのである。

そういえば、
欧米では、大きな企業の役員の3-4割は女性で、
という法律が通るという。
現状もそのような感じになっている。
日本では、上場企業の女性役員の構成比率は、
全役員の1%にも満たない。

日本の女性の活躍は、
まだまだ、家庭内、会社の下部・中間組織層に限られているが、
今後は、上層部への社会進出がより顕著になってくるように思う。


C.消費世代という概念:

40台は消費世代とよばれる。
この世代には大きな特徴がある。

40代の標準世帯(夫婦と子供世帯)は、
成長して消費量が最大化する年代である。
家族が皆大きくなり、
食、教育、レジャー、住宅、ハウスキーピング、車、家電の購入・使用が
最大化する。
要するにお金がかかる年代・世帯ということである。

実はそこに人口のボリュームゾーンが突入するとバブルが生じる、
というのが消費世代論の本質である。

80年代のバブルは、
団塊世代という人口ボリュームゾーンが、
40代に突入したことで起きたものである。

超金融緩和で金余りになり、
不動産、株を買い漁り価格を高騰させた
ということだけが喧伝されているが、それは本質ではない。

本質は消費世代論で語られなければならない。
消費というGDPの根底が、バブルであればこそ、
金融商品・不動産もそれにつられてバブルになる
といえる。

団塊ジュニアというボリュームゾーンも、
一部はこの40代に突入している。

前回のバブルを起こした40代の団塊世代は、
標準世帯(夫婦と子供世帯)が中心である。
その標準世帯が、消費を牽引し急激に消費を膨らました、
という前回の超バブルのようなことはない。

団塊ジュニアの40代には、
ひとり暮らし、夫婦二人も多い。
団塊世代の超バブルのような激しいインフレーションは、
起こらないかもしれない。

しかし、人口のふくらみは前後の世代よりはるかに大きく、
ミドルなバブル?を起こし、
消費・社会を牽引していくことは間違いない。

日本でも久しぶりのバブルが生じるということは、
記憶に留めて置いてよい。

因みにジュニアのジュニア、第三世代はどうだろうか、

人口構成曲線をみるとそこの人口はわずかにしかふくらんでこない。
団塊ジュニアには、
未婚が多い、DINKSが多い、子供を産む年齢が分散して「かたまり」になりにくい、
などの理由があるからである。

団塊という言葉は、
アラフォー・団塊ジュニアを最後に死語になる可能性がある。

ただし、人口曲線上では見かけ上膨らんでいないだけであり、
実際のジュニアの子供は、
その周辺の世代の子どもに比べれば一番多く、
そのような団塊ジュニアのジュニアという属性でみれば、
充分に面白いマーケティングが可能である。

団塊ジュニアの消費行動で、
もうひとつ見ておきたいことがある。
団塊世代と違って、
逆にいろいろなタイプのライフステージ、ライフスタイル、タイフスキルの人が存在し、個性豊かな消費文化を作り出す可能性がある、
面白い消費社会が現出してくる可能性がある、
ということである。

メーカー・小売はそれにどのように乗っていくか。
乗りそびれは収益のチャンスを逸することになる。

団塊ジュニアは、
団塊世代のように線形でカローラから終わりはクラウンで
というようなクラス感だけで消費を決めることはない。

よくマーケティングのテクニックで使われる「クラスター分析」が、
団塊ジュニア世代ではかなり実務的に有効となり、
面白いマーケティング、ブランデングができる可能性がある。
団塊ジュニアの価値観は多様化しているので、
クラスター分析が機能しやすい状況にあるといえる。

団塊ジュニアをどう取り込んでいくかは、
向こう5年間の最大のマーケティングテーマである。


D.アラフォーとはどんな女性?:

広くは35歳から45歳までの女性層を指す。

アラウンドフォーティー(40歳前後)の略。
流行語にもなった。
この層を狙った女性雑誌がたくさん創刊されており、
いまや、マーケティングの旬である。
今、消費の多様化・個人化がすすんでいるといわれているが、
恐らくアラフォーが最後のマスでものを売りさばくことが出来る層になる。

思春期にバブルの先例を受け、豊かな消費を素朴におおらかに許容する気持ちがある。
今ここを雑誌各誌が狙っている。
GLOW,STORYなどが、
大人なのにかわゆくてきれいな女性像をイメージして雑誌をつくっている。

女性は、
どんどんきれいにかわゆくなっている。

男性はそれに比べてどんどん疲れてくる。
家族を養う責任感、社会的な競争で勝ち抜く競争感の中で消耗していく。

総合職で活躍する女性の大変さは男と同様のものがあるが、
一般的に女性はのびのびと生活を楽しんで、
プライベートも充実させて女を磨いているのである。

この稿おわり

追記:

「人口ボーナス」期とは、(15~64歳人口)/(~15歳+65歳~)の値が2以上で経済・労働の主体が多く、非生産人口を支えやすい期間のことをいう。
日本を見ると、高度成長期は人口ボーナス期であり、

今は人口オーナス期である。
BRICSなどの新興途上国はこれから人口ボーナス期を迎える。
団塊ジュニアは、親である団塊世代の老後をみなければならない。

ミクロレベルで各家庭をみると団塊ジュニアは憂鬱な世代でもある??
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■ NO1の凄さ、スパコン・京、トヨタのマーケティング的な意味!

2011年08月10日 | Weblog
■ NO1の凄さ、スパコン・京、トヨタのマーケティング的な意味!

はじめに:日本の世界NO1いついて

ここ数年の、日本の世界NO1をみると・・・・・!

・トヨタは車の生産台数でGMを抜いて世界一に
・惑星探査機はやぶさが、世界で最初に小惑星に着陸し岩石の標本をかかえて帰還
・東京スカイツリーが世界NO1の電波塔に
・ スーパーコンピューター「京」が計算速度で世界1に

中々のものである。

実は世界一の学問的功績を競う理系分野のノーベル賞では、
日本人はかなり頑張っている。

キーデバイスでも、
日本の大中企業の世界シェアNO1のものはたくさんある。
その部品がなければ世界中が困るという状況は枚挙に暇がない。
今回の大震災でも車のキーデバイスの生産がストップして、
世界の車アセンブリーメーカーが立ち往生した
という話を聞く。

日本には世界一が結構ある!!

A.NO1であることのマーケティング的効用:

NOIそれも世界NO1というのは、
どの位の価値・意味があるものだろうか。

これはマーケティングの基本の基本のテーマである。
以下、NO1の効用である。

1.インナーモラル/インナーリソースの向上:
・ 社内や協力企業のモラルが上がる、自信がついてくる。
自信は創造性、生産性の向上に繋がる。
・ 優秀な人材、スタッフ、協力会社が集まってくる。

2.ブランドイメージの向上:
・ 社内外で企業イメージがアップしてくる。
・ 周囲(世界)の日本を見る目が違ってくる。良い意味での過大評価が生じてくる。
(日本ってすごい国なんだ!日本のものは間違いがない、創造性に富んでいる!!)

3.コミュニケーション効果の向上:
・ だまっていてもマスコミがPRしてくれる。
・ 広告表現が正のハレーションを生じさせる。
(内容がいい方向へ解釈される)

4.選好性の向上:
・ 同一品質ならNO1ブランドが選ばれる。
/同じ価格なら高品質に見てもらえる。
・ 価格が多少高くても購入してもらえる。
・ 目の前に2つのブランドが並んだ状況では、
価格差が2割ぐらいあっても、高いNO1ブランドが選ばれる。

5.ネゴ力の向上:
・ 企業間取引で有利な条件が引き出せる、有利に商談が進められる。
・ 初期の検討セットブランドに必ずエントリーされる。
人はNO1のものをます検討商品群のセットの中に必ず入れて検討に入る。
(初期の段階であらゆる商談でエントリーされる)
・いいブランドは品質も良いという評価が定まるので、
人の人格、セールステク、その他ヒューマン系資源のばらつきがあっても有利な商談が展開出来る。
・同様に、商品以外のマーケティング品質が多少弱くても、
販売実績を出すことができる。
(但し、これが高じると技術偏重、ブランド偏重的な土壌を生むことにもなり要注意である)

等々である。

NO1は最高・最大・最強の経営・マーケティング資産である。
一歩ぬきんでた、有利なハンディキャップを持った状態から
競争をスタートさせることができる。


B.NO1の義務(リスク):

NO1にはCSR的な義務が生じてくる。
それはリスクと言い換えても良い。

NO1には、責任が重くのしかかる。
世間からの風当たり、競合の圧力も強くなる。

例えば、トヨタ。

トヨタが生産台数で世界NO1になるか、ならないか、
という微妙な時期に、
トヨタアメリカの副社長クラスの幹部がセクハラ問題で告発された、

またレクサスのブレーキ問題、IT機器周りの不具合問題で、
激しく攻め立てられた!?

これは米国がトヨタを標的にして陰謀を巡らしたということではなく、
そのような悪材料がでてくると、
それに便乗する形でマスコミ、国をあげてのキャンペーン的なムーブメントが
作り上げられることを意味する。

トヨタの場合は、
実際にそのような渦中に見事に置かれてしまった。

トヨタは販売実績で後塵を拝する場面が、当然の如く増えてきた。

この間GMが政府の支援をうけながら回復していった。

オバマ大統領の主導により、
民主党支持の大票田である車系組合への配慮がなされたとの解釈は当たっている。
また、アメリカは世界最強の国であり、
その象徴である世界一の製造業GMが痛んでいくことは、
アメリカの心情として耐え難いという側面もあった。

一方で議会を中心にGMの放漫経営を追求し、
健全な自由主義、市場主義の伝統を守ろうとする勢力もあった。
しかし、現実はGMを、政府の関与によって見事に立ち直らせることになった。
民主主義の権化のアメリカで社会主義的対応がとられた!
ということは重要なことである。

アメリカは、
自国の都合でいろいろなスタンダードをたくみに使い分ける、
したたかな国である。
国益、大衆益ということを露骨に具現化する国である。
Wスタンダードの国といっていい。

話はトヨタに戻る。

今ごろになってトヨタのレクサスのITには不具合は無かったという結論になった。
トヨタは無罪放免になった。
しかし散々言われたい放題いわれて、
事実上のビジネスは踏んだりけったりであった。
大損害である。
いまさら何をいわれてもというのが当事者の気持ちであろう。

米国は典型的な民主主義の国である。
大衆が関心を呼ぶことに傾斜した態度を示さないと、
次の選挙では戦えない、危ないという議員心理が働く。

GMがつぶれて、ますます経済が劣化する、将来に希望が持てない、
という感覚を大衆が抱く、
また、世界一の製造業だったGMがつぶれるということは、
耐え難いものとして捉える、
という空気の時に、
最終的にはGMを救済しなければ国がもたない、
という結論になつたといえる。

一種のスケープゴートである、
という感覚も間違いではない。
一位になったトヨタは、ひどい目にあった。
一連の試練は、トヨタが一位にならなくても訪れたものなのだろうか。
もしかすると様相はやや違ったものになっていたかも知れない。

このトヨタの話は、
NO1という地位の重さは、
経済的、経営的な重さもさることながら、
社会的な責任の重さを背負うという自覚を企業に求めている、
ことを示している。

会社はNO1になった瞬間に社会の公器になる。
その業界の代表選手であり皆のあこがれの的になる。
嫉妬の的にもなる。
目立つがゆえに社会の監視の対象になる。

単純に、売り上げで、利益で、シェアで世界一になったからといわれて、
喜んではいられない。
すぐ後ろから追われる立場になる。
NO1を維持するためには、
技術、マーケティングの不断の革新がいる。

同時に、
社会の中で生かされているという市民感覚が求められる。
トヨタの事例は、
このソフト的な市民感覚が、
もっとも大切という教訓を残した。

NO1を維持するには、
世界一になる以上の、多様な努力・苦労が求められる

C.スーパーコンピューター「京」の話:

2011.6.11、あの大震災の3ヶ月後に
スーパーコンピューター「京」が計算スピードで世界一を達成した。
2012の完成時には、1京(1兆の一万倍)の計算を一秒の間にするという。
人智では理解できない領域である。

民主党蓮舫議員の、
“NO2ではダメですか?!”
というあの有名な台詞が思い出される。
民主党の目玉政策、事業仕分けの議論の中で、
スーパーコンピューターへの予算配分が俎上に上がった時の話である。

あの時の屈辱?を胸に秘め、
それを発奮材料にして、理化学研究所、富士通のプロジェクトメンバーは頑張ったという。
今回の計算速度NO1は二位の中国に断トツの差をつけてのNO1である。
スパコンはどんどん進化している。
何と、今のパソコンは20-30年前のスパコンと同じ性能を持っているという。

素朴な話として、
スーパーコンピューターの意味とは?
どのような位置づけの科学領域になるのだろうか?

「理論」を構築し、それを「実験」で証明ということを繰り返して科学は発達してきた。
コンピューターの進化で、
新たに、「シミュレーション」という科学領域が誕生した。
コンピューターの計算能力を使って、
実際にものをつくって実験をしなくても、
かなりのものが創造できる時代になった。

「シミュレーション」は、
理論、実験という伝統的な方法論に加えて、
今や、「第三の科学分野」と呼ばれるようになっているらしい。

スーパーコンピューターの進化で、
シミュレーション分野が大きく華開いた。
創薬、気象・環境予測、安全性技術(車、航空機)、新素材開発、宇宙の解明
等々、
超複雑な変数が関与している分野、不確定な変数が絡む将来予測の分野での
貢献は計り知れない。

因みに「京」は、一定の条件を満たせば、
誰でもほぼ無料?で使うことができるという。
これを中小企業にも使えるようにして、
日本のインフラを形成している中小企業群の研究開発に寄与しようとの動きもある。

スパコンの開発には半端でないお金、知恵、手間が掛かる。
国を上げてのサポートが不可欠である。
今後の「京」の後の話になるが、
予算を潤沢にとって、人材を投入して、
いけいけどんどんで、その品質・性能を向上させるという状況にはないという。
予算上は、難儀な話になっていると聞く。

昔の面白い話。

大学の予算をつかさどる経理の人の話がある。
物理部門はでかい実験装置、検査装置などお金が掛かりすぎる、
数学部門を見習え!
といったという。
物理部門はやたらと、高い大人のおもちゃを欲しがる、
数学部門は紙と鉛筆と消しゴムがあれば、それでOKなのに、
ということらしい。

しかし、今やコンピューターという半端ではない道具ができて、
数学屋もすっかり味を占めてしまったようだ。
スパコンという道具で、
超大量、超スピードの計算が出来るようになり、
数学の難問にトライすることの魅力に取り付かれるようなったといわれる。

D.最後に:

NO1という響きは妙に心地よい。

上り詰めたという感覚が、
ある種の麻薬的な達成感、快感をいだかせる。

勝ったという単純な高揚感だけではない、
社会に対して何らかの関与ができる、
そのような市民感覚的な貢献感の味わいも大きい。

NO1は、
それを目標にした時から、
異常なエネルギーの高揚が生じ、
皆のこころを鼓舞する。
一番になりたい、
という素朴な感情はだれも止めることができない。

一番じゃなければダメなんです!!??
蓮舫さん

この稿おわり

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■「月刊ぴあ」の蹉跌、時代の象徴が消える?情報マーケティングの本質!

2011年07月25日 | Weblog
■「月刊ぴあ」の蹉跌、時代の象徴が消える?情報マーケティングの本質とは!

A.そもそも「ぴあ」とは何?:

「月刊ぴあ」が、
創刊39年目にして廃刊になる。

記念に最終号を購入した。
創刊号の復刻版が綴じ込みでついていた。
サイズ・厚さ・内容、
この39年間で大きく変化・進化し、
隔絶の感がある。

「月刊ぴあ」は1972年に創刊された。
高度成長時代という宴が終わり、
次の時代テーマを模索していた時代である。
当時は、第4次中東戦争が起き資源ナショナリズムが台頭し、
原油価格も4倍に上昇し、
大変な時代の始まりが予感されていた。
暗中模索の時代の始まりであった。

単純な西欧に追いつき追い越せ、
ものの豊かさを求めるという一時線形的な価値観ではない、
多様な価値観が台頭しはじめ、
皆が新しい何かを期待していた時代であった。

成熟社会の生き方とは何か?
日本全体が模索していた時代ともいえる。

エンタテイメントも例外ではなく、
新時代の成熟したレジャー、人生の楽しみ方とは何か、
と模索する中で、
新しいエンタメの定義、楽しみ方が生まれてくる時代でもあった。

「月刊ぴあ」は、
正にその時代の象徴として登場した。
そして、
バブル華やかなりし1990年あたりで最盛期を迎え、
発行部数は53万部に達した。
その後、衰退を続け、
現在は上年代の読者を中心に5万部をやっと越えるような状況であった。
正に、活字世代のエンタメ媒体であった。

そしてついにインターネットに代替されることとなった。
「月刊ぴあ」は時代の寵児であったが、
今その役割を終え「大往生の時」を迎えた。

「月間ぴあ」の考え方そのものは、
インターネット、周辺のメディアを通してこれからも続いていく。
いろいろな意味で健闘を祈るばかりである。
「月刊ぴあ」も、
秋には大きく形を変えて再登場するような予告もあり、
楽しみである。

しかし、である!
中心メディアの「月間ぴあ」がなくなるということは、
何か時代的な運命を見てしまい、大きなさびしさを感じずにはおれない。
一方で、
何か新しい時代の胎動を予感させ、
気持ちをわくわくさせる気持ちもある。

「もの・こと」の終焉には必ずや何かしらの感傷が伴う・・・・・!?

追記:
エンタメへの関与行動をみると、
自分のひいきの劇場、演者、団体へ直接アクセスし、
マスコミの宣伝等があればそのキーワードで直接アクセスしたいという感覚がある。
エンタメのポータルからではなく、
自分で面白いエンタメをいくらでも見つけられる時代になっている。
今後、ピアのようなエンタメのポータルはどのように存在感をつくっていくか、
課題は大きい。
・単なるチケット購買の便利な窓口、
・単なる公演情報が載っている、
ということではない、
新しい時代の価値観を具現化した「ぴあ」になってほしいと思う。

B.「情報誌」というメディアについて:

「月刊ぴあ」はエンタメ分野の情報誌である。
実は、情報誌の走りはリクルートである。

話は「リクルート」という情報企業のことへ。
「月刊ぴあ」に先立つこと10年前、1963年に、
江副浩正氏という学生企業家によって、彼の東大学生時代に設立された。

今は1兆円を越える企業である。

その業態、業容は多様を極め、
一言では言いがたい企業体である。
多数の企業家を排出し、ベンチャー企業の走りような起業である。

当時の採用システムもユニークで、常時人を採用し6ヶ月のインターン期間を設け、
企業とその人の相性、仕事への能力・適正などをお互いに確認しあい納得した上で、
正式な社員になるというシステムであった。

そのリクルートが、
世の中で初めて全ページ広告という活字の宣伝雑誌を作り出した。
いわゆる「情報誌」の誕生である。

企業の採用情報から始まって、
アルバイト探し、不動産、旅行、車、結婚と
あらゆる分野に突き進んでいった。

どのような情報メディアか、
というと・・・・・。

ある分野の供給側と需要側のマッチングを、
雑誌媒体で実現するというビジネスである。
例えば、不動産を売りたい人が住宅情報という雑誌にミニ広告を出す、
買いたい人はそこから物件を探す。
また、本誌が不動産業種でメジャーになると、
大手のマンション業者等が単純に広告を大きく打ち出すという好循環も生まれてきた。
また銀行員が不動産の相場を知って融資先の担保価値を算出する時に、
本誌をみて、大体の相場を掴むというような使われ方もされるようになった。
雑誌本体の価格は手数料程度のわずかなもので、
基本は供給側の広告収入でまかなった。
何せ全ページが広告である。

この全ページ広告という意味は、
収益的にはかなり深い意味がある。

つまりその情報カテゴリーが時代に求められていれば、
いくらでも厚いページ数が可能である。
ページが増えても広告収入は比例的に増えていくという仕組みである。
普通の雑誌であれば、
あるページ数で限界に達する。
編集内容の量、取れる広告の数には限界があるからである。

この情報誌というビジネスモデルは、半端ではない収益をリクルートにもたらした。

しかし、いいことばかりが続くわけではなく、
リクルートはリクルートコスモスという不動産事業で、政治家への献金が不正とみなされ、ボスの江副氏が逮捕され、挫折した。

将来の首相候補とされた藤波孝生衆院議員の逮捕へと続き、
リクルート疑獄事件となってしまった。
新興の急成長企業は、どこかで無理をして、また反発を買い挫折する。
最近ではライブドア、村上ファンド等が記憶に新しい。

その後ダイエーの中内社長が個人資産も入れてリクルートを買収したが、
ダイエーの超債務体質の中で、ダイエー自身が整理される過程で、
リクルートにも別の資本が投入されて今日に至っている。

リクルートは「情報誌」というビジネスモデルで一世を風靡したが、
実は、その裏側をみると、

・小規模の広告主から細かい広告を取り、
/広告内容をフォーマット化して印刷に入稿するための
代理店システムと
・出来た雑誌を供給する販売チャネル
の整備に資源を投入した極めてリアルなビジネスモデルという側面がある。

決して「情報だけで金を生む虚業」ではないというところは見ておかなくてはならない。


C.ぴあという情報誌の特性:


「月刊ぴあ」もまた情報誌である。
リクルートと同じような艱難辛苦を経て大きく育ったが、
今終りを迎えた。
エンタメ情報の有用性はますます高まっている。
しかし、情報インフラの進化によって、
活字媒体での情報提供は、
時代の中ではだんだんと無用のものとされた。

「月刊ぴあ」の終わりは、
情報時代のインフラ、インターネットのハード的な発展によってだけでなく、
インターネットのもたらす、
多様で、豊穣な、個人の志向・嗜好にきめ細かく対応できる情報価値によって起きた、
という側面を忘れてはならない。

エンタメというカテゴリーは曖昧になっている。

人は、今、多様なエンタメ情報を自由に手に入れることができる。
例えば、
スポーツ観戦、商業施設ツーリング、ゲーセン、ネットゲーム・・・・単純なネットサーフィンまで、
あらゆる「プチエンタメ」な空間・サービスが急速に増えてきている。
いわゆる「ぴあ」的なエンタメ(映画、ミュージカル・・・・・)ではない、
広い意味のプチ・NEO的エンタメが多い中で、
生活者は、自分が楽しむこと・ものを、
TPOに応じて自由に気ままに選ぶことが出来る。

ぴあだけでは用がたりない。
インターネットでなければダメ!
という時代である。

「ぴあ」的な、下記のような典型的なエンタメを探す場合に限っていうと・・・?
例えば、
映画、ミュージカル、芝居、演劇等々のエンタメ情報は、
インターネット上で、
いつでもどこでも、自由にサーフィンされ、
ピンポイントで到達し初期に欲しかった情報以外の、
即ち、自分が探しているものを超えた意外な発見(道草、余分、超越・・・といった概念の情報探索)が出来そうな予感で、
探されている。

何せ無限の情報のプールが目の前のPC、携帯画面の中のあるわけである。
しかも、最新のエンタメ情報が得られる、
リアルタイムのエンタメプロモーションも楽しめる、
ときている。
選ぶことが極めて楽しいことになっている。

「月刊ぴあ」は、エンタメ情報をどこから取るか?
という、
雑誌(紙)とインターネットのメディア間の単純な争いで負けたのではない。
インターネットがもたらす、
パフォーマンスの価値の広さ・深さ・新しさ・意外性・面白さ・・・・・、
そしてエンタメ周辺情報の雑駁さ、リッチ感等々の迫力によって
代替されたのである。

インターネットは、
消費者の購入したものへの満足度だけではなく、
選ぶ過程で得られる満足度、即ち
「選択満足度」という別のベネフィットを消費者へもたらした、
という点で特筆される。

何かを買う時は、
選んでいる時が一番楽しいとよくいわれる。
選んでしまうと、とたんに選から漏れたものが良く見えたりする。
認知的不協和という自分の選択した行為に違和感を持ち、
自分の選択行動は本当に良かったのだろうか?
と悩んだりする。

特にエンタメは、
嗜好品の局地のような奥深いサービス商品である。
選ぶたのしみは、
全体の中で大きな比重を占めている。
選んだ後の不協和も大きいサービス商品である。
この選択満足度という価値は、
雑誌メディアだけでは絶対に達成出来ないことである。
インターネットが不可欠である。

「月刊ぴあ」は、
ネットサーフィンという「選択的顧客満足」充足行為に、
時間のシェアを奪われて読まれなくなった、
ということになる。


D.女性誌という情報誌の運命:

実はインターネットにやられた典型的な事例が他にもある。
女性誌である。

女性誌という活字メディアが携帯電話に時間でシェアされて、
今悪戦苦闘しているのも、本質的には同じことである。
ファッション情報を、紙ではなく携帯電話でみている、
という単純なメディア間の代替ではない、
ところに根の深さがある。

携帯電話には、
もっと面白いゲーム、アプリ等々がいろいろと取り揃えられていて、
そっちに時間を取られているうちに、
結果として雑誌という活字を見なくなっていた、
というのが実情である。

大きくて重い雑誌より、
携帯電話のほうが軽くてどこでも扱える、
というハード的な要因ももちろん大きいが、
ことの本質は携帯インターネットの価値の勝利ということである。

そこで女性誌は、
今は「おまけ」という別のインセンティブで販売部数を伸ばすことになる。

情報を提供するというよりは、
ブランドと提携して、
何百万個(=発行部数)という単位でまとめて、その雑誌向けの専用品をつくり、
本当に安くていいもの(そのブランド)を提供するという、
アウトレット的なひとつの窓口の機能で生き残りをはかった。
リアルな「おまけ」をつけることで、
雑誌というメディアをより凄みのある、別の機能のメディアへと変身させた。

いろいろな意味で「月刊ぴあ」は力つきた、
ということになる。



E.「月刊ぴあ」のプロダクトライフサイクル(PLC)について:

マーケティング的な意味で言うと、
「もの・こと」はすべてライフサイクル曲線を描いて終焉する。

時代、社会の環境の中で、
・新しい競合の台頭、
・新技術の台頭、
・新制度・法律の登場、
・もの・ことの社会(ユーザー)からの飽き
等々によって、
必ず陳腐化し、退場を余儀なくされる。

「月刊ぴあ」も、
エンタメの楽しみ方の変化、進化、深化という流れに乗ることが出来なかった。
インターネットという新技術、新ノウハウ、新制度の洗礼を
諸に受けてしまった。

マーケットからの退場は、
マーケティングのセオリーどおり正に必然であった。

一般的に言うと、
陳腐化を防ぐためのマーケティング手法は3つしかない。

「月刊ぴあ」では、
・ 「月刊ぴあ」を刺激をする定期的なコミュニケ-ション投資が不足していた
(マーケティングスティミュラントの不足)、
・ 「月刊ぴあ」の商品コンセプトを時代にあわせて進化させられなかった。
(コンセプトシフトの失敗)
・ 「月刊ぴあ」の商品R&D/ダイナミックな新サービスの開発ができなかった

ということになる。

端的に言えば、
広義のC.S.(顧客満足)の創造ができなかったことになる。

ドラッカーは、企業・事業の目的は「顧客創造」である、
と喝破した。
新しい時代のエンタメとは何か?
エンタメを商う「月刊ぴあ」という事業とは何か?
新しい時代の顧客とは誰か、何を望んでいるか?
それを実現するツールとは何か?
が真摯に語られねばならなかった。

それらは、
ピアの中の別のメディア群に託された。
また、秋の「月刊ぴあ」の後継の新メディアに託されたということになる。

この稿終わり

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■ 大震災被災後の消費の本質とは!日テレ・ダッシュ村から感じたこと!

2011年07月06日 | Weblog
■ 大震災被災後の消費の本質とは!日テレ・ダッシュ村から感じたこと!

はじめに:

日本テレビのTOKIOが出演している超長寿番組「ダッシュ村」の場所がわかった。

以前から
東北にある、といううわさはあった。
それが、浪江町とわかった。
福島第一原発の20-30KM圏の町で、計画的避難区域の町である。
あのダッシュ村が消えようとしている。

「ダッシュ村」は、
日本テレビの長寿番組でTOKIOの面々が、
自ら田舎の民家をつくりあげ、
その暮らしを実体験して、その土地になじんでいく
という設定である。

地味だが人間の素朴な営みの本質をつく内容で、長寿番組になっている。

今回の原発事故で、
素朴な牧歌的な生活が、
ある日を境に突然変質してしまった。
実に辛いことである。

その不連続性は、はるかに人智を越え不条理でさえある。
理性ではとても割り切れない話である。

「ダッシュ村」の話を聞いて、
土地を捨てて非難するという辛い臨場感が、
やっと私個人のものになったような気がして、
原発問題に感情移入でき、
人ごとではないという実感が強く湧いてきている。

実は、筆者は東京で幼稚園に通う前は、
長野の田舎で、毎日とんぼやざりがにを追って暮らしていたという原体験があり、
ダッシュ村の件は他人事ではなく極めて身近なことに感じている。

A.被災後の消費心理について:

本稿の本題にはいる。

もともと消費者心理は、
表面的なGDP指標が上がった下がったとは違う観点で形成される。

今回の被災でも、表面的な日本のGDPは影響を、
あまり受けないという予測がでている。
しかし、消費者心理には間違いなく雲が掛かっている。
勢いがあるとはいえない状況にある。

では、どんな背景が消費を萎えさせているのだろうか?

1. 原発問題という背景:
これは放射能汚染、風評問題につながる。
目に見えない放射能というものへの恐怖感は大きく、
生活そのものを萎えさせる。

2. 感情移入という心理背景:
被災地の困難を極める状況へ感情移入してしまい、
気持ちが萎縮する。
おなじ日本人として元気がでてこない。

3.「申し訳ない」という心理背景:
あの被災者の状況を見たら申し訳なくて遊べない、
のんきに生活していていいのだろうか、
という素朴な負い目が生じる。

4.計画停電、電力節約という背景:
そのまま食べられるインスタント食品の購入、
冷蔵庫で保管しにくくなる食品の購入控えが起こる。
節電意識で生活に何となくの縛り感が出てくる。

5. 余震への不安背景:
いろいろとうわさされる巨大余震という、
目に見えない第二回目の大災害への不安もある。

異常の5点が、消費の意欲を、生活の意欲を萎えさせている原因である。
この萎縮・抑制感がもとに戻るにはかなり時間が必要だろう。
いや、もう戻ることはないのかもしれない?
これについては本稿の最終章で触れる。

但し、注意しなくてはならにないことがある。
国民全員が、
すべての買物機会で買う気持ちを抑制させてはいない、
ということである。
経済は力強く継続しており、
ここへきて回復の足取りもかなり明るくなってきている。
今年のGDP予測でも1-2%減程度になるとされている。

被災地の厳しい状況や調子の良くない産業部門が映像化され喧伝されるので、
どうしても、すべてのことが厳しいという印象になりがちだが、
同じ東北でも元気で通常の生活を送っている人が大半、
という現実もみておく必要がある。
日本人の大半も普通に生活している。
被災という各論を評価する時は、
全体の評価も合せて見ておくことが肝要である。


B.ユニークな消費形態の台頭:

今回、東日本大震災が起き、様々な消費の形態が浮かび上がってきた。
良いもの、良くないものといろいろある。

異常時には一見して異常値ともみえる現象が生じてくるのは、
世の常である。

以下、ランダムにその現象をあげてみる。


■ 異常時の限定消費心理

1.家族内・家庭内消費:
家の中で会話という時間を消費する、
内食の台頭(手作り感覚で食事を楽しむ/節約意識の現れ、手作りという素朴な行為への回帰)、
家族で遠くへ行かずに近くで消費する(映画を見たり、近場のドライブを楽しんだり・・・)、

2.近場消費:
近場のエンタメは好調である。
コンプレックス型の映画、劇団四季・ミュージカルは満席である。
近くで家族皆で安く過ごそうと考え方である。

3.逆バブル消費:
極端な買物控えが生じている。
趣味系で多い。
特に旅行への自粛がひどく観光産業は散々である。
家族でまとまって安心できる自宅にいようとの思いがある。
何かあったときの離散は嫌だという思いも強い。
3月11日に家族が分断されて家に帰れなくなってしまった状況が、
小さなトラウマを生じさせている。
(但し、ゴールデンウィークは、箱根、日光をはじめとして平年並みに戻しているらしい)

■異常時の我慢消費心理

4.供給不足への慣れ消費:
いろいろな食品の供給不足がおこったが、
特にヨーグルト、納豆の発酵食品の供給不足はひどかった。
ものがないと気ぜわしくなる。
しかし無いことに慣れると、ないことが苦にならなくなる。
また、今までの愛用の銘柄でなくとも別の銘柄に移ってそれが当たり前になる。
今回の大震災は、ブランドの固定意識にも影響を与えている。

■異常時の自己防衛消費心理

5.恐怖消費:
今までにないものが売れる。
防災グッズ、放射線測定器、核シェルター付きマンション・・・・

特に放射線については次元が違う判断がいる。
死や重い病気を予感させる不安はいままでには無かったものである。
このような異常事態における異常心理は、
生活者を恐怖に駆られた消費に追い込む。

例えば、
東京で水道水に放射能がはいり、乳飲み子にミルクを与えられない情況が起こった。
実際は一日で基準値以下になったが、
ほとんどの水でOKなのか、
たまたま測定したところが下まわっただけなのかという不安が残った。
また、あの騒動が一週間続いたらパニックになった可能性がある。
母として、
いくら子供が脱水症状になるよりは汚染された水でも飲ませた方がいい、
すぐ健康に問題が生じることはないといわれても、
放射能が若干でも入った水でつくったミルクを飲ませられるだろうか?
出来ない話である。
水の蓄えに走るのは至極当然の消費者行動である。

6.過剰反応消費:
水の家庭内在庫の確保というトレンドはまだつづく。
特に乳幼児がいる世帯では神経質になっている。
幼児に長期的な影響を与える放射能で、
もし水が汚染されたら!?と考えると、
母親は防衛的な買物行動を取らざるを得ない。

7.非認識の不安消費
あのミリシ-ベル、ベクレルという、初めて聞く「単位」が持つ響きが、
いたずらに不安をあおる。
今回の原発問題の特殊性はここにある。

数字に絶対的な意味がない単位は気味が悪く恐怖が募る。
CM、トンとかいう長さ・重さの単位には慣れている。
その絶対量のイメージが体感できる。
しかし放射線量は違う。
未知への恐怖感がよぎる。

むしろ、素人向けに、どのような説得間のある言い回しができるか検討すべきである。
一回の胸のレントゲン検診で受ける被爆量で表示するような工夫があれば、
初めて自分の尺度として自己判断できる。
また、子供と大人の被爆による影響の違いも不安をあおる。

今回の大震災が、消費心理に強い負の影響を与えているとすれば、
これが大きいと考えられる。

■ 公共消費/エスニック消費:

8.応援消費:
直接応援/東北の産物を購入しようとの機運が高まっている。
これは真に応援したいという気持ちである。
間接応援/ある商品を買えば、その中の数%が東北に寄付される、
という商品が人気を呼んで売れているという。

狭い意味での公共/エスニック消費といわれるものである。
社会、地域に貢献できることで満足感を得るという
消費意識・行動を示すものである。

9.美談消費:
応援するという名目での買い物、現地のものを買う
買うものへある種のエクスキューズ、こだわりをつけて満足するという、
消費意識である。
ネガティブな見方も出来るが、
消費を拡大するという意味では効果はある。
どんな名目であってもお金が回ることは景気拡大に繋がる。

■ 伝聞消費:

10.風評消費:
風評は「負のブランディング」という現象である。
評判が良くて商品が売れるという、
正のブランディングはよくある話である。

逆に負のブランディングは中々みられない。
WEBの炎上で商品・ブランドに傷が付くのはこの感覚に近い。
一旦、商品・ブランドに傷がつくと、
すべてのものが色眼鏡で見られてしまう。

今回も、
福島県産の野菜・魚、日本の食品、日本の工業製品はダメだ、
といったマイナス評価になってしまい、
消費されなくなっている。

偏重したニュース内容に不安を感じ、
正当性のない、不合理な消費行動をしてしまう、
というのが風評消費である。

11.コメンテーター信用・煽り消費:
テレビワイドショーのコメンテーターで、
政治・経済に疎い人が、
新聞、伝聞、雑誌、極端を言えば、電車の中刷り広告からのキャッチーな情報で、
いろいろなことを言うのはまだ分かる。
しかし、それなりのインテリジェンスをもった解説委員、エコノミストクラスの人が、
ある種の説得性をもって発言するのは、
時には誤解を招きかねないので要注意である。

例えば、
テレビでの発言を取り上げてみる。
そのテレビの放映内容が一部の状況をセンセーショナルに伝え、
全体像を正確に伝えてないとすると、
その識者の、その一部に関する発言は、
結果として視聴者を大きくミスリードをする危険性がある。
間違った消費行動を誘発することになりかねない。

実は、
この二つの消費心理はマーケティング的に極めて意味が大きい。

一般的な話として、
マーケティングは常に伝聞によって行なわれる。
平時の広告、WEBでの口コミ等々すべて言い意味での伝聞である。
伝聞をどう制御し、そう創造的に扱うかが、
マーケティングの巧拙を分ける。
特に異常時でのコントロールは要注意である。

■ その他:

12.逃避消費:
中国をはじめとして、日本から逃避して消費機会を放棄する。
東京を脱出して西日本へ移動して消費する。
実際に、新幹線で西へ行く人は90%。西から東へ来る人は70%という。
お金の循環が東から西へ、日本から海外へ移るというのは東北の被災地への景気循環から言って好ましいことではない。

以上ランダムに述べてきたが、
様々な心理模様が、多様に展開されていることが、
改めてよくわかる。
ある現象だけで重要なことを判断するのは極めて危険である。


C.異常な消費心理がもたらすマーケティング的意味:

上記のような異常時の異常な消費心理からもたらされるものはなんだろうか?

異常消費心理のキーワードは大きく4つになる。
自粛、節約、自立、幸福
である。

1.自粛消費の弊害:
このキーワードの本質は、
合成の誤謬である。
一人ひとりは合理的な利益のある行動をしても、全体としては不合理な結果を招き、
最終的には皆に不利益をもたらす。
サッカーで言えば自殺点的な負の消費行動である。
皆が自粛すれば、経済は停滞する。
日本の500兆円のGDPの中の半分は個人消費である。
それが落ち込めば、全体のGDPが下がり、
景気は間違いなく下降段階に入る。

景気が悪くなれば、被災地への金銭的な支援も、被災地へ入る支援の人の数も減る。
国、自治体の税収も落ち潤沢な経済支援もできなくなる。

被災地のことを気にして消費を自粛することは、
自殺点行為である。

2. 節約消費の効用:

このキーワードの本質は、「錦の御旗」である

消費を、自粛せずに自然体で行うとはいっても、
無駄な消費は排除しなくてはならない。

これは原発事故による電力不足問題とからんでくる。
エネルギー不足に消費の側面からどう対応するかは、
国民的な課題である。
消費の裏側には生産がある。
生産を支えているのは電力である。
消費の節約は、電力エネルギーの節約に繋がる。

以前から大きな関心を呼んでいる地球温暖化問題という観点からも
節約は必須である。

ただ、原発は別の問題を提起している。
CO2の削減に有効とされたクリーンエネルギーである原子力発電が頓挫した。
原発は、そのリスクを考えたら決してクリーンではなく、
超コスト高であることもわかってしまった。
しかし、原発の停止・廃止は、一時的に代替エネルギーの化石燃料の使用量を増やし、
地球温暖化に逆行することになる。

いづれにしても、節約消費は、
CO2削減とエネルギー削減という一石二鳥の効果をもたらすことにはなる。

誰もが否定できない「錦の御旗」であり、ますます進めていかなくてはならない。

3. 自立消費の台頭:

このキーワードの本質は「自己責任」である。

人は、風評、コメンテーターに流され、一喜一憂しながら消費生活をし学習していく。
そして、だんだんと訓練されて、
個人で判断して消費行動を決めるようになれる。
同時に、他人の目線を意識した幼児的な消費意識も減ってくる。

風評、コメンテーター消費は、
人を痛い目にあわせたり、社会的に損害を与えたりするが、
意外と、自己責任消費を育むことにも結果としては寄与している。

また、自分だけでなく社会、コミュニティにも有益となる、
公共的な、成熟した大人的な消費意識の醸成にも寄与する。
自分、家族のため、しいては社会のためという
大儀が当たり前のような消費社会をもたらす。

4. しあわせ消費の登場:冴えない消費心理の今後とは

このキーワードの本質は「GNH」である。

最後に自問する。
大震災後の異常な消費心理は、果たして一過性のものだろうか。
大震災の傷が癒された後には、
通常の消費社会に戻っていくのだろうか。

下手をすると、
このまま日本は、今の冴えない状況のまま推移していくのではないか?
日本沈没的な漠然とした没落感らしきものを感じながら
日本は普通の国になっていってしまうのではないか?
と心配したりもする。

実は、今の異常な消費心理は震災前から用意されていたものであり、
大震災をきっかけに吹きだしてきたものではないだろうか。
そうすると、大震災後の様々なケアとは関係なく、
日本人の消費生活を根本から変えていく可能性のほうが高いのでは?
と思われる。

今後、GDP的なものの量の復活は果たせたとしても、
生活・消費の考え方、哲学は随分と違うものになっていくように思われる。

ここで登場するのがGNHである。
グロスナショナルパッピネス/国民総幸福量、昔からある概念である。
国で言えばブータンが有名である。

GNH。
国民総幸福量を国の基本指標とする社会づくりが始まる?
幸せとは何か?を基準に生活をしていく?
という考え方が、
改めてクローズアップされてくるように思われる。

GDPが同じでも、
もっと幸福感を味わえるような、
社会の仕組み、個人の心のもち方が問われるようになる。

今、日本には、
どんよりと暗い停滞感が首をもたげてきている。
心理的な、経済的なリセット感がないまま、
ずるずると時だけが過ぎていく、
今ひとつ冴えない、ぱっとしない気分が社会に横溢している。

どこかでリセットし、未来へ向かって再出発していけそうな、
メリハリが不可欠である。
GNHはそのような指標になるのだろうか?
ポストGDPの座を、
とることが出来るのだろうか?

この稿おわり
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■ 大震災は、産業・経営史にどう刻まれるか?経営・マーケティングの新潮流とは!

2011年06月25日 | Weblog
■ 大震災は、産業・経営史にどう刻まれるか?経営・マーケティングの新潮流とは!
研ぎ澄まされたバリューチェーンの落とし穴

はじめに:

大震災から100日が経ち、産業の復興は着実に進んでいる。
日本の産業力はなかなかのものである。

今の時点で、
冷静にこの100日をレヴューしてみると・・・・・!
意外な、経営・マーケティングのメガトレンドが垣間見えてくる。

A.東日本大震災の産業界への影響:

まず、車産業の状況から見ていく。

大震災で最も打撃を受けたのは車産業といわれる。
回復が遅れていた車産業もここへきて、
震災前の状況へ急速にもどりつつある。

車産業は、産業システムの頂点に君臨するカテゴリーである。
とにかく産業規模が大きい。
雇用、給与支払い、納税での社会への貢献、
外貨を稼ぐという意味での国への貢献も大きい。

当然、生産・物流・販売・アフターサービスのバリューチェーンも、
半端なく広くて深い。
そのバリューチェーンは、
無駄なくスリムに作られスムーズに運営されている。
超・合理化が行き届き、
本稿タイトルのような研ぎ澄まされた産業システムになっている。

純粋昇華された、排他的な、見事なバリューチェーンだけに、
機能しなくなった時は、
逆にどうにもならないということになる。

コストカットし生産性を徹底的に高めた当システムは、
「想定されたエマージェンシー」には適応していたが、
1000年に一度の大災害の前では、
なすすべもなく機能不全に陥ってしまった。
今回のような想定外の天変地異が起こってしまうと、
極めて融通のきかないシステムであった。

専門性の高い、特殊なキーデバイスは他の会社、工場からは調達できない。
特に東北は電子部品が多く、
代替が利かない最先端技術の集積となっていた。
トヨタは、ここ何年か中部(お膝元)、中国・九州、に加えて、
東北を第3の生産拠点として育成してきていたという。

実際に、今の車は全部品の内、30%ぐらいは電子部品といわれている。
車はIT商品そのものである。
それも機械的な部品とは違い、
車の運転・安全にかかわる頭脳をつかさどっている部品が多い。

東北の生産拠点の破壊は、正に致命的なものであった。

B.これからの産業システムのあり方:

今後、産業界は、
大震災による艱難辛苦に耐え、
新しい産業システムを創造していかなくてはならない。

寸断されたバリューチェーンをつなぎ合わせて回復させることは、
時間をかければそれなりに解決される。
しかし、回復への時間のロスは、
ダイナミックなグローバル経済の動きの中では致命的なチャンスロスを招いてしまう。

今後、東北は、
電子部品の生産が多く代替が利かない最先端の工場の集積帯、
という持ち味(集中化・専門家・特殊化)を活かしつつも、
エリアとしてどのようなリスクヘッジをとっていくのか?
今後、車産業は、
東北でどのような新しいヴァリューチェーンを構築していくのか?

■例えば、「リスクの分散」というハード的な、最も分かりやすい方法がある。
・部品の在庫を積み増しておく。
(これは英語にもなっている世界に冠たるカンバン方式の名に逆向する)
・キーデバイスは原則2箇所以上で生産する
(国内の2箇所?グローバルな視野で2箇所?それも片方で生産がとまった時にもう片方で増産できるように生産キャパにゆとりを持たせる) 
しかし、これもアイドルキャパが生じて無駄が生じる
・生産拠点を多少細かくしてブロックに分けて、そのブロック内ですべての部品を生産しアセンブルできるような完結したシステムにしておく。

■また、「リスクの共有」というソフト的な発想もある。
企業間の利害を超えた横断的な生産システム体制を準備しておく
大災害時の対応を
自社内だけではなく、他企業、地域、国と普段から相談しておき、
いざとなれば、全体で主導できるようにしておく。
大規模なエマージェンシ-が生じたときには、
ひとつの企業だけで対応するという発想のマネジメントは古いと考える。

あるいは、普段から調達の第二系統化を進め、
ある一定の量は異なるエリア、工場、他企業から確保しておき、
いざという時の取引の積み増しが可能な第二ヴァリューチェーンをつくっておく、
ということである。
これには当然コストがかかるが、
それはいざという時の保険という割り切りが必要になる。

■更に「リスクからの逃避」というヒューマン的な考え方もある。
エマージェンシーが起きた時はばたばたしても仕方がない、
という日本独特の諦念的な考え方である。
ややネガティブになるが、
何かの緊急事態が起こってもよいように万全な体制はとり、
被害が生じれば果敢に回復させていくという行為はとりつつも、
運命的に受け入れて、
被害に関連する事業・商品はあきらめ、
別の収益源にシフトして収益を補うという発想である。
事業・商品の多様化が進んでいなければ出来ない発想である。
シングルパーパスな事業・商品に集中している企業だと難しい。

しかし、あわてず、騒がず粛々と対応する、
というおよそ工業的ではない天変地異に順応する方法もある。
第一次産業的な鷹揚、寛容な対応は、
すこし合理性を欠くものではあるが、極めて地に足の着いた対応である。
最後は、どんな業種にあっても、
このような心の構えが不可欠である。

■ 話はかわるが、
電力不足という恒常的な表面化したリスクにどう対応するかも極めて大きい問題である。
電力は産業の血液である。
電力使用の総量規制も叫ばれている中でどう対応するか?
計画停電というシステムが定着してしまうと、
それに応じて生産方式をチェンジしなくてはならない。
生産を中止して工場を止めればいいというものではない。
ひと、もの、かね、情報の経営のあらゆる要素が絡んで無駄が生じる。
車の十八番、カンバンシステムの運用にも支障をきたす。
それは高コスト構造を産み、国際競争力をそいでいく。

生産・物量システムは経営の中でも比較的地味な分野であるが、
日本経済を根本から支える基磐であり日本経済の強みの源泉でもあった。
それが今回の大震災で、俄然脚光を浴び、
皆が日本の立ち位置にはたと気づいた、
というのは皮肉なことである。

C.産業システム再構築のもうひとつの視点、CSR:

今回の大震災で、
改めて、企業、産業は社会というフレ-ムの中で活かされている、
ということを痛感させられた。
企業の社会的な責任は大きい。
未曾有の国難の中で、社会の公器である大企業は、
経済復興、差被災地復興に貢献しなくてはならない。

具体的には、
被災地での雇用の創出、
被災地への商品の安定かつ低価格での供給、
寄付等々の金銭支出
となる。
また、被災地域での企業活動からの納税で、被災地に富をもたらすことも求められている。

しかし、一方で、
企業はグローバルな活動もしている。
世界的な視点で考えると、
最適なエリアへ生産・物流・販売の拠点を移転するという
合理的な意思決定をおこなわなければならない。
それを怠ると経営効率の低下を招き、国際競争では勝てない。
しかし企業のグローバル化が進みすぎると、
国内経済は疲弊し被災地域の復興にも支障をきたす。

日本のグローバル企業は、ここしばらくはジレンマを抱えることになる。

トヨタの事例。

今、トヨタが生産量世界第一位にも関わらず、
国内生産が50%超あることで、
円高に苦しみ収益の低下に悩んでいる。
一方、日産は生産拠点のグローバル化が進み順調な収益を確保している。
現時点では、トヨタの成功体験(国内のカンバンシステム・・・)は、
収益確保への障壁になっている。
トヨタは日本に経済的な貢献をしていることになるが、
経営的な観点では収益性を落とした脆弱な企業という評価になる。

シャープ亀山ブランドの事例。

亀山ブランドは、
シャープの亀山工場でつくられる液晶パネルのブランド名である。
TVCMが人気となった。
猫が出てきて「エコです」としゃべる、
あの癒し系の表現で人気を博したブランドである。

その亀山ブランドは今は昔?
という状況である。
薄型テレビカテゴリーへの韓国勢の参入で過当競争が進み、
価格が半端なく下がり、
亀山工場での大型液晶の生産はついに中止に追い込まれた。
小型液晶(スマートフォン対応等)へ生産をシフトさせていくという。

当時は、評価された経営哲学である
「基本的な研究、技術、生産は日本国内に置く」、
という亀山ポリシーは資本主義の厳しい現実の前に、
見事に崩れたかっこうである。

ユニクロの事例。

ユニクロはSPAの典型企業である。
冷静に考えると高度成長時代の大領生産・大量販売の典型システムである。
アパレルの中間流通をなくし、
大量・少品種マーケティングを展開することで大きな収益を上げるシステムである。
しかし、この大震災により、
車と同様の研ぎ澄まされたヴァリューチェーンが臨機応変に機能しなくなり、
既存店の収益は低迷している。
実は、大震災が起きる前から、
ニーズの多様性とスピーディな変化に即応できないことから、
既存店の収益は低迷していた。
むしろ在庫を持たずにニーズに応じて臨機応変に仕入れを調節できる卸的なアパレルで高収益をあげるところが出来てきている。

このところ、
ユニクロは国内投資より、海外投資に重点を移しているように見える。

CSRの観点から言うと、
企業には中・長期的に、
日本国内の活動が、現時点では多少効率性が悪くとも、
ロングレンジでは十分意味があるという経営分野、機能領域を
見つける嗅覚、意気込みが求められている。
また、そのようなドメインは時とともにかわるという前提で、
不断に見直し、「国内におくべき何か」をいつでも改廃し新しく探すという機能を経営の中にビルトインしておかなくてはならない。

国内に何らかの貢献をしていくということは、
純粋な経営の意思決定論から言えば、また投資家の立場から見ても、
問題のある考え方になる。
しかし企業の社会責任という観点からは、
その制約を真摯に受け止め、
逆に経営にメリットのあるように、その製薬を克服する創造性が求められている。

広くて深い意味のCSRが、
今後の経営・マーケティングの最大のテーマである。

D.真の21世紀の経営・マーケティングモデルとは?

話は大きくなるが、
21世紀の経営・マーケティングモデルとは何だろうか?!
この大震災がそのモデルをつくる契機になるような気がする。

後世の経営学者、歴史学者は、
大震災後に起きる経営・マーケティングにまつわる「諸現象」を
どのように総括するだろうか?

・ 企業の存在目的とは、
・ 企業と顧客の関係のあり方とは、
・ 企業の雇用形態のあり方とは、
・ 企業の社会的なミッションとは、
・ 企業の寿命とは、
・ 企業の事業ドメインの変化の速さとは、
・ 企業理念の変化の速さとは

等々いろいろはことに見直しが始まっているように思われる。

18世紀のイギリスで産業革命がおき、生産拡大の手段として企業という組織が発明され、そこから雇用が生まれ、給与所得者(=消費者)という偉大な副産物が生まれ、
近代消費社会が育ってきた。

そのときに生まれた企業という組織の意味は、今でも基本的には変わっておらず、
利潤追求の手段としてむしろどんどん磨きがかかり今日に至っている。
時にはリーマンショックのように社会に甚大な被害をもたらす存在になっている。
もちろん社会性、公共性を加味した経営、
という考え方が少しずつ生まれ、
企業もその観点をしっかり受け止めてはいるがまだまだ発展途上である。
「CSR」という経営視点はその象徴である。

一方消費も、
「エスニック消費」という象徴的な概念が誕生し、社会性・公共性のある消費を行うことで、満足を得るという深層心理が急速に台頭してきている。
自己の所有・使用という満足だけではない、
新しい満足を獲得するための経営・マーケティングの仕組みが、
今後はますます求められることになる。

今、いろいろなところで起きている経営・マーケティングの諸現象を、
大きな文脈でみていくと、ひとつのメガトレンドとして、
社会、企業が動き始めていることが見えてくる。

例えば、

携帯電話によるGPSを使って近くの店に割引サービスで呼び寄せる。
これを単なる小さな販促とみてはいけない。
供給側(店)のシーズと需要側(周辺を歩いている生活者)のニーズを
最適マッチングさせる行為ととらえるべきである。
この最適というところが重要である。
ここには「ものやとき」などの資源を無駄にしないという、
社会的な要請が潜んでいる。
結果として企業にも、利用者にもメリットが生じてくる。
そういう意味ではメガトレンドにのっている。
このようなサービスは形態はいろいろと変化、進化しても、
決して一過性でおわるものではない、
本質的なサービスいう判断ができる。

例えば、

派遣社員の問題点が指摘されている。
正社員より待遇が良くないとされる。(悪く言えば搾取しているとされる)
しかし、派遣という雇用形態が企業と派遣社員の双方の合意で成り立っており、
そこには正社員ではなく派遣でよしとする必然性もある
(時間の自由度、職業選択の幅の確保・・・)
派遣制度により、
マクロ経済的にも雇用の流動性が確保され、企業の要請と本人の職業適性の最適なマッチングがおこなわれ、個人の満足度も上がり、それが社会全体のメリットの増大にもなる。
近い将来には正社員のという形態はなくなり、
一人が数社と契約を結びマルチで活躍するという二束のわらじを履くような雇用形態が当たり前のようになるのかも知れない。
また、正社員だとしても、所属部署はなくいつもアドレスフリーで、
時が至ればあるプロジェクトにアサインされ、
終わればまたフリーで待機状態になるという、
雇用システムも当たり前のようになるかもしれない。


E.当面の企業の経営・マーケティングスタイルの変化とは:

やや現実に戻る。

大震災で起きたエマージェンシーを契機に企業はいろいろな対応を考えるが
最後は「意思決定の質」をどのように高めるかに帰着する。

ふだんはもちろんだが、緊急時は特に、
世界的な規模、視野での、
最適な生産、物流、販売の状況を作るための最速の意思決定が求められる。

鉄鋼・ミタルのような、
スーパーグローバル企業の誕生はそれを可能にする。
世界を見回して最適の意思決定が瞬時に出来、
最適の生産、物流、販売、アフターサービス状況を即実現するような組織は、
今後もどんどん増えてくる可能性がある。
今はやりのM&Aもこの文脈の中の現象といえる。

逆にスーパーマイクロ企業という形態も生じてくる。

零細中小企業は、ミクロレベルでみれば、
ある意味でそのような態様のひとつである。
市場からの退場、登場が頻繁におこなわれる。
新陳代謝がしっかりと行われ、
そのときの社会に必要な能力を持った企業群全体としてその役割を演じる。

大企業でも、このような新らしいシステムが起こってくる。
ある部署のマーケットへの適合性が悪くなればすぐ廃止する。
逆に、必要であれば社内ベンチャーのような形で即誕生させる。
ここで大切なのは部署というのは、
はじめから「つぶす」ことを予定調和したものとして、
経営システムの中にビルトインされるということである。

その経営は、
最初から「つぶす」ということを前提とした意思決定システムということになる。
「つぶす」ことで失う成果物(商品、サービス等)は、
別の企業から調達すればよいと割り切る。

大企業の経営システムは、徐々に
自社にかかえる部・課・係・人を、そのように臨機応変に改廃するという
経営システムに進化していく。

・企業内おこっている、
プロジェクト性、スモールチーム制、
社内REP性(ある職種の社内専門家が現場にいき指導する制度/人事REP,マーケREP等々)はその前兆である。

・取締役会という機能は、
外部取締役をいれることが一種のブームになっているが、
外部取締役への期待は経営の臨機応変な意思決定に最適対応するための手段といえなくもない。
その時々の状況で、外部の取締役のリテラシーをいろいろと変えて有効に活用しようとの思惑がある。

・広告代理店という業種は、
実はこれを地で行くような業種である。
クライアントからのテーマが生じれば、
それに最適な人材を内外で編成してチームを組んで臨機応変に事に当たるという
業態である。内部で固定的に人材資源をかかえるということはしない。

未来は過去・現在にその萌芽がある、
といわれる。(ドラッカー)
今、経営の現場で起こっている上記のようなことが、
もっとドラスティクに、大規模に、スピーディに起こってくると考えられる。

更にドラッカーによれば企業とはマネジメントであり、
マネジメントとは顧客の創造である、と喝破している。
事業とは何か、顧客とは何か、顧客が望むものは何か、
を常に自問自答することが、
いまほど求められている時代はない。

成熟国の顧客のニーズは相当なレベルまで多様化・個性化する。
発展途上国からは新たな顧客が登場する。

また、企業には、
とんでもない危機が待ち受けているということは論を待たない。

経営・マーケティングは常に臨機応変でなければならない、
ということがますます運命付けられていくようになる。

この稿おわり





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