将門ブログ

このブログは、歴史上の人物『平将門』公を探求する、ポータルサイトです。

日出町(東京都)

2006年11月23日 | 縁地探訪(東京都)
今年六月、東京都日の出町の将門伝説を訪ねてみました。

●『日の出町の昔ばなし・将門伝説』
《将門の軍が相模原方面から、藤原秀郷の軍に追われて北上し、大久野(日の出町)の勝峰山に一夜城を築いて篭ったのは暮れも押し詰まった12月半ばであった。 追っ手の大将・秀郷の軍は総勢3000人。天慶3年、屠蘇の香も消えやらぬ正月7日、秀郷軍は武将菅口六郎を先発隊に向山より攻め上った。すると将門軍は一気に迎えにうって出た。ことに将門は、並ぶものなき大力の持ち主であったので、1丈(約3m)もの金棒を振り回して奮闘した。 戦いは激烈をきわめ、勝敗もつかぬまま夕方となり、両軍は小休止を始めた。一方、戦いの様子を藤太橋(大久野字幸神)から眺めていた秀郷は、ややいらだち始めた。 すると、その時のことであった。馬にまたがった大将らしい者の姿が、あかね空にくっきりと浮かび上がったではないか。「将門に間違いない」とにらんだ秀郷は、ここぞとばかり、近くに生えていたケヤキの木に弦を張り、強弓を作って従者数十人に引きしぼらせた。そして、将門めがけて放つと矢はぐんぐんと延び、将門の鎧の袖をかすめて、向こう側の谷へと消えて行った、この秀郷軍の矢が越えた沢を矢越(やこう)沢と呼ぶようになった。 さすが将門も衆寡敵せずとさとり、せまりくる宵闇を幸いに山を下り、青梅方面へと逃れて行った。そして金剛寺に立ち寄り梅の一枝を地にさして「わが事成るなら この梅栄えよ 成らぬなら枯れよ」と祈願した。》
「大久野から二俣尾へ・将門伝説を辿る峠越えの道」
http://homepage3.nifty.com/k_harada/umenoki/umenoki.htm

【八幡神社】日の出町平井字道場
武蔵五日市線武蔵増戸駅から北東1㎞。また、青梅線福生駅から平井経由武蔵五日市行きバスで「上平井」下車。承平五年(935)、征東将軍藤原忠文が将門追討のため、参詣したといわれています。
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/24_nishitama/24124.html
「征東将軍藤原忠文」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E6%96%87

【平井の地】日の出町平井
将門は、上野国染谷川の戦いで伯父国香・良文と戦って敗れ、下総に退いた。良文は、この地にきて休息ししばらく滞在したといわれています。

【藤太口】日の出町大久野字幸神
福生駅から来る武蔵五日市行きのバスに乗って「幸神」で下車。ここ幸神の地は、勝峰山に立てこもった将門軍に対峙して、藤原秀郷が集結した場所だと伝えられ「藤太口」ともいわれています。大久野中学校の前にあるラーメン松華の右の路地に入りますと、酒屋森澤屋の手前に「藤太橋」の説明板があります。それには、秀郷と菅口六郎左衛門が陣を敷いたとあります。また、酒屋の裏手にレトロ風な「藤太軒」という床屋があります。
「藤太軒」(藤太橋の説明板の写真あり)
http://www5c.biglobe.ne.jp/~tohtaken/rekisi%20.htm

【勝峰(かっぽ)山】日の出町大久野字岩井
幸神神社の北側から左の沢沿いの道に入ります。集落を抜け貯水槽を右に見て、右手の整地中のところを過ぎると、右の立ち木に赤のビニールテープが巻かれているところが登山口になります(道標なし)。細い踏跡(藪あり)がまっすぐ山頂まで延びています。山頂は広場になっていて、石祠が一つだけあります。しかし展望はありません。『新編武蔵風土記稿』には、《天慶年中、将門が一時この山に城砦を築き、羽生土橋口から攻めかかった藤原秀郷軍と戦った》とあります。
「山行記録(私の歩いたコースと違います)」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~DSN80012/ha303003.htm

【勝峰権現社・早道場】日の出町大久野字岩井
勝峰山の山頂から少し戻ると、西から東に道が横切ります。この道を東に降りていくと新築された小祠(中になにもなし)があります。近くには廃された祠もあり、ここに「勝峰権現」が祀つられていたのではないかと思われます。少し下るとセメント工場の敷地内の道路にでます。左に少し上ると勝峰山の東の中腹にあたり、藪に覆われた広い道が一直線に伸びています。ここが「早道場」と呼ばれる馬場跡ではないかと思われます。

【鈴が石】日の出町大久野字岩井
勝峰山の山頂近くに「血の池」と呼ばれる池があり、この縁に直径30センチほどの砂石の丸石があり、この石は将門の愛妾・鈴が御前にちなんで「鈴が石」と呼ばれていたといいます。この石は鈴が御前の娘・桔梗姫のお手玉であったといいます。この地では、桔梗は将門の娘とされています。この「血の池跡」や「鈴が石」が、どこにあるのかまったく確認できませんでした。勝峰山の東側はセメント工場の敷地内なので、構内道路を利用して下ることはできないので、登ってきた道を下りました。

【大久野の風習】日の出町大久野
勝峰山の麓にあたる岩井、水口、松尾などの家々は、成田山に参拝しないといいいます。また、胡瓜を作ったり食べたりしないともいいます。

【岩井院(勝峰山子の権現)】日の出町大久野字岩井
かつては、勝峰山に祀られていたといわれ、将門を祀った社です。将門の守り本尊の黄金像を勝峰山上に安置し、戦勝を祈願したのが始まりだといわれています。

【間坂峠(将門峠)】日の出町大久野字岩井
将門が常にこの道を越えて、秩父へ往還したといいます。通矢尾根の中間にある峠で、「間坂(まさか)峠」とも将門峠とも呼ばれています。

【通矢尾根】日の出町大久野
秀郷の矢は、さらに尾根を越えて飛んだといいます。この尾根は「通矢尾根」と呼ばれています。
「山行記録」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~DSN80012/ha211002.htm

【山神社】日の出町大久野字水口
間坂峠を越えて水口集落に出ますと、東方の山の上に「山神社」があります。この社は、天慶二年(935)に再建されたといわれ、将門と関連があるというのですが調べても詳しくは判りませんでした。

【矢越(やこう)沢】日の出町大久野字肝要
平井川流域の観光施設「さかな園」に架かる橋を「矢越橋」といいます。この橋を渡り少し南に行くと「矢越沢」で、矢越沢林道があります。矢越の名は将門伝説に由来するもので、将門を勝峰山に追いつめた秀郷が藤太橋(幸神)から射た矢が勝峰山を越え、この沢を越えて落ちたといわれています。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/ttok_014.htm
http://www5e.biglobe.ne.jp/~yagoshi/zenkoku_yagoshi/hinodemati_yakoubasi.htm
「やこーざーの由来」
http://www.gws.ne.jp/norabose/yakozawa.html

あと少し奥へと歩けば「つるつる温泉」に着きます。立ち寄り湯に入れて、食事もできます。
http://www.gws.ne.jp/home/hinode/
帰りは、「つるつる温泉」前から「機関車バス」で武蔵五日市駅へ。

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/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会


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