将門ブログ

このブログは、歴史上の人物『平将門』公を探求する、ポータルサイトです。

青梅市(東京都)

2006年11月20日 | 縁地探訪(東京都)
今年五月、青梅線御岳駅周辺の将門伝説地として、青渭神社のある惣岳山に登り、多摩川遊歩道を歩いてみました。

【青渭(あおい)神社】青梅市沢井
惣岳山上に鎮座しており、御岳駅から登山道があります。創建年代不詳。承平年間、源経基が将門追討のため多摩川辺を通ったとき、水の色が変わり藍色になったので不思議に思っていると、この社のほうから一人の童女が現れ、勝利は間違いないと告げた。そこで追討軍を進めて、ついに将門を滅ぼした。源経基は、この社を青渭神社と崇めることにしたと伝えられています。山頂近くに「真名井」と称する霊泉があります。『新編武蔵風土記稿』によると、青渭神社の項には次のように記されています。
《除地山林一町五段四畝廿二歩、村(澤井)の北大丹波村の山界にあり、山上に登ること十八町山路曲折す、社説に云總嶽は山の名なり、故に總嶽山青渭神社と号すと云、門は道のほとりにあり、神主は(略)、本社六尺に九尺巽に向う、昔は拝殿および鳥居などありしも、先年火災にかかりしより今に至るまでなを再立に及ばず、抑当社は延喜式神名長に載るところにして祭神は大已貴命と云、》
http://www.sky.sannet.ne.jp/y-shida/en..aoi..oume/aoi.oume.htm
「高水三山(惣岳山・岩茸石山・高水山)山行記録」
http://members.jcom.home.ne.jp/yam-sugi/takamizu.html

【熊野神社】青梅市御岳
御岳駅から青梅街道を少し進み多摩川に架かる橋を渡り、対岸の道路に出て北の熊野神社に向かう。この神社は、天文年間に将門の家臣の浜竹五郎が居館を構え、ここを砦(中野塁)として紀州熊野三山を鎮座したという。
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/24_nishitama/24056.html

●青梅で将門の後裔を名乗っていた「三田氏」について
三田氏が青梅地方に登場してくるのは十四世紀に入ってからで、『武蔵名勝図絵』には、《三田氏は平将門の後裔にして、世々この辺に居住し、勝沼殿と称しけり、往古の事はつまびらかならずといえど、代々鎌倉将軍家に属す》とあります。三田氏が将門の後裔であるということは、大永元年(1521)に三田政定が根ヶ布(ねかぶ)の天寧寺に奉納した鐘銘に「平朝臣将門の後胤三田弾正忠政定」とあることから、自ら将門の後裔と称していたことがわかります。関東、特に青梅地方に根強い伝説をもち、英雄視・神格化されている将門をその祖に誇示することは、民衆統治に大きなプラスになると考えたからでしょう。三田氏が将門の後裔かどうかは不明です。
「武家家伝・三田氏」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/h_mita.html

【海禅寺】青梅市二俣尾
青梅線二俣尾駅の東方200m、徒歩5分の青梅線沿いに「海禅寺」(かいぜんじ)があり、石垣の上に立派な山門が建っています。案内板には「群馬県北群馬子持村中郷・雙林寺の末寺で曹洞宗」と書かれていて、境内にはクスノキの巨木と三田氏代々の供養塔があります。一説にこの寺は、将門がこの地に庵室を建立したのが始まりだと伝えられています。また別説では、この寺に将門の位牌が伝えられているといいます。
http://www.asahi-net.or.jp/~CN3H-KKC/tera/tera224.htm

【神田家】青梅市二俣尾
この地の神田家は、三田氏の一族で将門の後裔を称していたといいます。その神田家の所有地内に、将門の霊を祀った「神田社」があったと伝えられています。しかし、神田家を確認できませんでした。

【辛垣城址(辛垣山)】青梅市二俣尾
青梅線二俣尾駅の北側に道標があり、雷電山への登山道に入ります。名郷峠(標高400m)で尾根上の「青梅丘陵ハイキングコース」に入ります。雷電山への登山道は南を巻いていきますから、「辛垣(からかい)城址登り口」の道標から右の尾根道に入ります。辛垣城址は三田氏の城で、青梅市内(杣保・そまのほ)の勝沼城に対して「西城」とも称していました。後北条軍と最後の合戦が行われて、三田一族はこの城で滅亡しました。
「青梅丘陵から辛垣城址へ三田氏ゆかりの道を行く」
http://homepage3.nifty.com/k_harada/ohme/ohme.htm

【将門の残党(後の佐藤塚)】青梅市成木
雷電山(標高494m)から榎峠へと下り、右(北)の成木方面に歩きます。丁字路となり、左に行くと松ノ木トンネルです。この丁字路に「佐藤塚」があり、五輪塔二基と一本の杉の大木があります。「佐藤塚」の説明板もありますが、将門とは関係ありません。このあたりに将門の残党が鎧を捨てて、食料を詰め替え木を植えて逃げ去ったといいます。
「吹上峠を越えて白粉の道、成木街道を行く」
http://homepage3.nifty.com/k_harada/nariki/nariki.htm

【鎧塚】青梅市沢井
軍畑駅入り口まで戻り軍畑大橋に向かい、青梅線高架下を過ぎると高さ10mぐらいの小山の「鎧塚」があります。三田一族が後北条軍との最後の戦い(辛垣合戦)で、亡くなった武者の亡骸や鎧などの武具を埋めたといいます。
「東国武士の踏み固めた鎌倉街道山ノ道」(逆コース)
http://homepage3.nifty.com/k_harada/kamakura_yn/kamakura_yn.htm

【愛宕神社】青梅市柚木町
吉野街道を行くと「吉川英治記念館」の手前の大きな鳥居が、「愛宕神社」の入り口です。鳥居の先の右手に「金光梅」があります。この梅は、金剛寺の「将門誓いの梅」から根分けした梅だということです(説明板あり)。石段を登ると「愛宕神社」です。本殿前から、朝方に歩いてきた海禅寺や青梅丘陵の辛垣城址(辛垣山)がよく見えます。この神社は、平師秀(三田氏の祖)が勧請したといわれていて、師秀の祖先・師門は、将門の血を引いた貴公子で奥州に居を構えていたといわれています。

ついでに「吉川英治記念館」に寄ってみました。
http://www.kodansha.co.jp/yoshikawa/
吉川英治の作品に「平の将門」があります。昭和25~27年、雑誌「小説公園」に連載。亡くなる五年前の作品です。講談社歴史時代文庫にあります。
http://www.lightload.net/yondara/nikki/0409171618d.html

【即清寺】青梅市柚木町
鎌倉時代、源頼朝が畠山重忠に命じて堂宇を改築させたという。畠山氏は秩父平氏で、将門の叔父・良文の子忠頼の裔です。
http://rihaku.jugem.jp/?eid=42

【吉野梅郷・梅の公園】青梅市梅郷
「吉野梅郷」は、元々は梅郷ではなく、桜の里を目指していたという。明治22年吉野村が誕生した時、大和の吉野山の様な桜の里にしょうと数千本の桜を植樹した。ところが桜はうまく根づかず、結局明治の終わり頃、古くからこの地に馴染んだ梅の木を大量に植樹したことが、今日の吉野梅郷の始まりといわれています。この古くからの梅ノ木は、金剛寺の「将門誓いの梅」を根分けして植えたものといいます。さらに、「梅の公園」も整備されています。
http://www.city.ome.tokyo.jp/index.cfm/30,0,157,html

【畑中の三田家】青梅市畑中
三田氏の家臣・野口秀房は、「将門平親王朝臣三田代々尊霊」の位牌を、青梅市にある金剛寺、天寧寺、海禅寺に納め、主家の菩提を弔ったといいます。その子孫は、代々三田家の供養碑を篤く護ってきたという。江戸後期に旗本の三田氏がこの地に巡り、先祖が祀られていのを知って感激し、三田の姓を与えたといいます。畑中神社周辺の畑中集落で探したのですが、この三田家は確認できませんでした。

【金剛寺】青梅市青梅
「金剛寺」の境内の本堂右手前にあるのが、天然記念物に指定されている青梅です。平将門がこの地に仏縁を結び、一枝の梅をさして、芽を吹くか否かによって願の成就を占ったところ、芽が吹いたことから「将門誓いの梅」と呼ばれています。また、この梅は実が季節を過ぎても熟することなく、落果するまで青いことから「青梅」と呼ばれ、地名のいわれにもなっています。境内にある胴鐘には金剛寺の縁起が刻まれていて、青梅地名伝説と将門伝承説話を伝えています。胴鐘をよくよくみたら、「平親王将門」と確かに刻まれていました。
http://risshi.web.infoseek.co.jp/cubkh1201.html
http://www.ome.or.jp/yurai.htm

【稲荷神社】青梅市裏宿町
多摩高校と青梅市立第一中学校の北、青梅線を渡ると「稲荷神社」と裏宿神社があります。この稲荷神社は、天慶稲荷・将門稲荷ともいわれ、御神体の鉄平石に天慶三年と刻まれているそうです。ただし、伝承地の稲荷がここかどうか確認できるものはありませんでした。

ついでに、青梅市立第一中学校の前「七兵衛公園」の中にある「裏宿七兵衛供養塔」に寄ってみました。裏宿七兵衛は義賊(庶民のヒーロー)で、中里介山の小説『大菩薩峠』にも登場して、世に知られるようになりました。私は、こういう人物が大好きで、是非に寄ってみたかった。
http://www.buyo-gas.co.jp/tamagawayuuhoki/tamagawayuuhoki-13.htm

【瀧上家】青梅市滝ノ上
青梅市立美術館の前にある常保寺の裏手(北側)に、石垣のある豪邸「瀧上家」があります。瀧上家は、往昔、武蔵国の国司で、大目(おおめ)を努めていましたので「大目」を名乗っていました。この大目家に将門が逗留し、大目家の梅を金剛寺に植えたと伝えられています。その梅が青梅だったので、大目を「青梅(おうめ)」と姓を変えたといいます。さらに、屋敷が滝の上にあったので、「瀧上」を名乗ったといいます。この家には屋敷神が祀られていて、その御神体は将門が手植えした梅の古木の一部だといわれ現存しています。また、この滝は「富士向きの滝」といわれ、将門が滞在したときに、この滝で修行したと伝えられています。常保寺あたりに滝があったと思われます。

【鹿島玉川神社】青梅市長淵
東青梅駅から南1km。下奥多摩橋を渡ると正面に「鹿島玉川神社」の鳥居が見えてきます。説明板によれば、この神社は源経基が常陸の鹿島神社を勧請したとありました。

【塩船観音】青梅市塩船
将門が、この観音に深く帰依したと伝えられています。塩船観音寺の開創は伝えられる説によれば、大化年間(645-650)に若狭国の尼僧・八百比丘尼(やおびくに)「人魚伝説の主人公、十七歳の時人魚の肉を食し不老長寿の身となる、後に法縁を得て尼僧となり諸国を遍歴し、齢八百歳となり福井県、健康山・空印寺の裏山の洞にて入定された」が諸国遍歴のおり、当地に来たりて、この地こそ諸天善神が鎮護する仏地であると感得して、草庵を築き紫金の千手観音像を安置したことに始まったと伝えられています。八百比丘尼といえばどこかで聞いたような、そうだ、大月市の岩殿山円通寺だった。時代が前後しますが、八百歳で入定じゃありえます。
http://www4.ocn.ne.jp/~kannonji/ryakuengi.htm

【勝沼城址】青梅市吹上
青梅市北東部にある加治丘陵(霞丘陵)の南の端に比高35mの小高い丘、それが勝沼城址です。土塁、郭、空堀などの遺構が今も残る、中世戦国期の三田氏の居城でした。二の郭は妙光院の墓地になっています。その北方の広い林が城址になっていて、青梅市文化財としてよく保護されています。墓地の見て回ると、「師岡家」の墓石は九曜紋でした。三田氏が後北条に滅亡されたのち、北条氏の家臣・師岡将景がこの城に入ったのですが、なぜ九曜紋なのか疑問です。三田氏はこの勝沼城を拠点として、青梅地方(杣保・そまのほ)一帯を支配し「勝沼殿」と呼ばれました。杣保は、将門に因んで「相馬の保」との説もあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Tokyo/Katsunuma/index.htm
http://www2s.biglobe.ne.jp/~msn/kojou/tama/siro_tama_katunuma.htm

【天寧寺】青梅市根ヶ布(ねかぶ)
勝沼城址から北方500m、青梅ゴルフ場の西方に天寧寺(てんねいじ)があります。曹洞宗、梅華林高峯山。開創は天慶年間(938~946)で平将門が創建。後に兵火にあい堂宇は焼失、廃寺となった。寛正元年(1460)再興。後柏原天皇より、永正三年(1506)、勅して紫衣ならび神獄通竜禅師の号を賜った。また、詔勅して天下の安寧と改称して高峯山と号した。将門が滞在したとき、不動滝で沐浴中、白龍が現れ雲に乗って多摩川の上流に向かった。それを見て将門は上流に根拠地を求めたという。三田氏寄贈の古鐘には、「大檀那、平氏朝臣将門之後胤、三田弾正忠政定」と刻まれ、自身が将門の後裔であることを残しています。古鐘を見ると、確かに刻まれていました。
http://www.t-net.ne.jp/~tenneiji/

【虎柏神社】青梅市根ヶ布
天寧寺より北西300m。虎柏(とらかしわ)神社の説明板には次のように記されています。《祭神は大年御祖神ほか四柱を祀る。延喜式内の旧社と伝え、昔は諏訪宮と称した。文応元年(1260)再建、永正年間(1504~20)勝沼城主の三田氏が改築。明治維新に旧名に復し、古くは小曽木郷の総社であったが、明治六年郷社に列した。》
天慶三年、源経基が諏訪から勧請したと伝えられています。かなり年代のたった木立に囲まれ薄暗く広い参道を進むと奥に拝殿があり、左手の山上には高峯神社があります。さらに奥に行くと、「平松の跡」の石碑があります。
http://www.ask.ne.jp/~tachi/moso/toraka2.htm

【安楽寺】青梅市成木
次は成木方面に向かいます。虎柏神社の入り口に「諏訪神社」バス停があり、トンネル経由成木循環に乗り、成木一丁目で下車。安楽寺は、真言宗、成木山愛染院、通称、成木の軍荼利さん。本尊は不動明王。和銅年間(708~14)に行基が軍茶利明王を彫刻し一堂に安置したのが安楽寺の基となったことが縁起に記されています。この寺に、将門が一部の法華経を納めたといいます。
http://www.sky.sannet.ne.jp/y-shida/san..anrakuji/anrakuji.html

にほんブログ村 歴史ブログへ

/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
平将門子孫田路氏養子孫 (世良 康雄)
2016-01-08 11:45:48
平将門子孫田路氏一時期養子世良家祖父(兵庫県宍粟市一宮町生栖梶原、世良親王養母昭慶門院領、徳川幕府領)孫私ですが、anch MRA&Amnesty(音響兵器原爆原発731部隊正力長島力道山小沢一郎大前研一落合信彦派、CIA岸-統一教会佐藤会長首相-統一教会安倍首相親戚関係)の平将門子孫仲間募集中です。

【ameba blog Casshern】http://my.ameba.jp/menu.do?guid=ON【Gree RAMBO】http://m.gree.jp/?mode=home&act=top&from=footer&gree_mobile=f2d6927ff0720dbbd78ac1556a00b302
【mixi RAMBO】http://m.mixi.jp/home.pl?
【はてなyasuosera119】http://d.hatena.ne.jp/yasuosera119/archivemobile
【故郷の家】http://kokyokobe.blog40.fc2.com/
朴永権牧師とキリスト教勉強中、原さん紹介天理教勉強中
返信する
Unknown (なりすまし反社会的勢力追放運動🙏)
2021-11-06 16:30:46
 朴永權牧師は、北朝鮮拉致指名手配犯金吉旭キム=キルウク自称山川銘木店兵庫県神戸市中央区古湊通一家マイケル=チャン一家拉致犯洛東光で、北朝鮮拉致指名手配犯キム=ナムジン一家で、天理教原信徒は、北朝鮮拉致指名手配犯洪寿恵ホン=スエ通名石田すみえ「兵庫県宍粟市一宮町生栖梶原大歳神社乗っ取り作戦世良家祖父母暗殺指定暴力団極東会曹奎化チョ=ギュハ首領娘で、子北朝鮮拉致指名手配犯金世舗キム=セホ禿げづらハイアップシューズ世良文博」故、警戒宜しくお願い致します🙏 
 LINE【世良康雄】タイムライン更新🆙🙇1988年名古屋アベック殺人犯&足立区綾瀬女子高生コンクリ詰め殺人犯再犯埼玉県川口市コンフォート東内野殺人未遂事件執行猶予今月位迄❓湊伸治改名上田英昭山口組殺人犯和歌山県県逮捕愛知県警碧南警察署逮捕2014.7.13通名松岡修造指定暴力団道仁会村上一家共犯伊原慎一通名神和住純🎾一家妻モキナミ萌木七海37歳中年グラドルは、兵庫県警神戸市兵庫警察署関係者らしいですが、私弟世良卓也勤務トヨタレンタリースCM松岡修造タカラジェンヌ一家相武紗季女優村上一家小宮せいや夫妻危惧です。仏教界は、暴力団赤軍指名手配犯なりすましに対策として、婚姻届役所提出書類📃立候補者選挙管理委員会提出書類📄「公開義務化期待🙏」等個人情報開示請求【8士業「勤務17年公務員行政書士増加期待🙏」他士業】相談会等で、反社会的勢力追放されていらっしゃいますか?

LINE【世良康雄】タイムライン
facebook【世良康雄(コウユウ)】
twitter【安康天皇雄略天皇】
instagram【blocker4bosspalder】
返信する

コメントを投稿