
>今までに数回にわたり訪ね歩いた、東京都区内にある将門伝説に関係する史跡・寺社等をまとめてみました。歩くにあたり、手元に東京都23区地図を携え、都営・メトロ共通一日券(一日1,000円)を利用しました。
作家・加門七海は、「平将門は神になれたか」(後に「平将門魔方陣」と改名)という作品を発表しました。それによると、「将門関連史跡の一部は東京を取り囲む北斗七星の格好をしている」と・・・・。
http://www.excite.co.jp/book/product/ASIN_4309473075
まずは、千代田区大手町の『将門首塚』から。
大正12(1923)年9月1日関東大震災が発生。被害は大蔵省庁舎にもおよんだ。将門塚の上に建てられてあった碑も亀裂が入ったため、そこで工学博士・大熊喜邦は思い切って、この古墳の中を覗いてみることにした。中にはなにもなかったという。大蔵省は仮庁舎を建設することとなった。ところが、時の大蔵大臣・営繕局工務部長屋橋・武田政務次官・荒川事務官ら計14人もの怪我人が続出、不思議なことに負傷者は全て足に関係するものであった。巷ではうわさが広まった「将門様の祟りだ!」と。そのため大蔵省は取り壊されることになり、昭和2年4月27日大鎮魂祭がとりおこなわれたのだった。昭和15(1940)年6月20日。帝都は激しい雷と激しい風雨にみまわれた。この時大蔵省本庁舎に落雷し炎上するという事件がおきた。しかも落ちた場所が将門の首塚近くだった。それは丁度将門没後1,000年目の出来事だった。
この将門首塚が、多くの将門伝説の原点となったところです。
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011532/Masakado.html
以下、将門伝説に関係する史跡・寺社等です。
●千代田区
【神田明神】(外神田)
将門の霊を祀る。平将門は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守りました。明治7年(1874)明治天皇が参拝されるにあたり、一時、摂社・将門神社に遷座しましたが、昭和59年に再び本殿に奉祀されています。社殿の後ろに、将門の娘・如蔵尼を祀る御堂があります。徳川の世に江戸総鎮守となり、将門伝説も大いに伝播されていきました。
http://www.kandamyoujin.or.jp/
【筑土神社】(九段北)
天慶3年(940)6月、関東平定後、藤原秀郷らの手で討たれ京都にさらされた平将門公の首を首桶に納め密かに持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神と称したのが始まりで、江戸城築城後の文明10年(1478)6月には、太田道灌が江戸城の乾(北西)に当社社殿を造営。太田家の守護神、そして江戸城の鎮守神として厚く崇敬されました。
http://www.tsukudo.jp/
●中央区
【椙森神社】(日本橋堀留町)
平将門の乱に、藤原秀郷が戦勝を祈願した
http://www.dentan.jp/ningyou/mori.html
【鎧橋・鎧の渡し】(日本橋兜町)
永保年間(1081~84)、当時入江が深く入り込み下総方面への渡し場に利用されていたこの地に、東征途上の源義家がやってきた。ところが、折悪しく暴風雨で渡しが使えない。そこで義家が、自分の鎧を脱いで海神(龍神)に供え祈ったところ、暴風雨は収まり無事に下総へ渡ることができた。これにちなんで、以後この渡しを「鎧の渡し」と呼ぶようになったという。また、将門の鎧塚があったと伝えられています。
http://mediaport.on.coocan.jp/kandagawa/bridges/yoroibashi.htm
【兜神社】(日本橋兜町)
鎧の渡しの近くに、鎧稲荷(将門を祀る)と兜塚(将門の兜を祀る)があります。
http://www.geocities.jp/haguma27/masakado/kabuto.htm
●港区
【烏森神社】(新橋)
天慶3年(940)に、将門の乱の時、鎮守将軍藤原秀郷が武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白矢の矢を与えた。その矢をもって、すみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現われて神烏の群がる所が霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想の如く烏が森に群がっていたので、そこに社頭を造営したのが烏森稲荷の起こりです。
http://plaza.rakuten.co.jp/karasumorijinja/
【愛宕神社】(愛宕町)
源経基が将門と対立し、水垢離をとって都へ帰った。
http://www.atago-jinja.com/
【増上寺】(芝公園)
風水の裏鬼門として、天海が造営・将門の霊を祀る。
http://www.zojoji.or.jp/
【三田の台】(三田)
「武芝の荘」があり、武蔵武芝が領主をしていた。
【済海寺】(三田)
将門が調停にあたった武蔵武芝の伝説が伝わっています。
http://www.geocities.jp/npowaro/take-2-1.htm
【一本松(冠の松)】(元麻布)
将門を征服した源経基が冠装束を架けた。
【氷川神社】(元麻布)
天慶五年(942)源経基が東征の際、この社を祀った。
http://www21.big.or.jp/~tetsuki/shuin/touto_jinja/03_azabu_hikawa.html
【笄橋】(西麻布)
源経基が刀の笄を、竜川の関守に与えて渡ることができた。
http://azabu777.hp.infoseek.co.jp/mukasi2.html#32
【氷川神社】(赤坂)
将門の神像が伝えられているという。
http://www.akasakahikawa.or.jp/
●新宿区
【熊野神社】(西新宿)
将門末裔が将門を守り神として建立。
http://parkandcats.hp.infoseek.co.jp/kumanozinzya.html
【稲荷鬼王神社】(歌舞伎町)
将門の霊を祀り、将門の幼名「外都鬼王」から社号がついたという。
http://www.xiangs.com/Masakado/shiseki/tokyo/kiou1.shtml
【鎧神社】(北新宿)
将門滅亡後、将門を慕う人々が彼の鎧をここに祀ったという。
http://www.xiangs.com/Masakado/shiseki/tokyo/yoroi1.shtml
【円照寺】(北新宿)
将門の残党を追ってこの地にやってきた藤原秀郷が重病に陥った時、それが将門の祟りではないかと恐れ、薬師如来を本尊とする円昭寺の寺内に将門の鎧を埋め、祠を建ててその霊を弔ったところ、病がきれいに治ったという。
http://www.dentan.jp/baba/okubo03.html
【蜀江山】(北新宿)
この地は、秀郷と将門の戦場でした。戦いの最中に、平将頼が蜀江の錦を落としたのでこの名が付いた。地名として「蜀江坂」が残る。
http://homepage2.nifty.com/tokyo-walk/a050478.htm
【筑土八幡神社】(筑土八幡町)
将門を地主として守る。→『筑土神社』(千代田区九段北)
http://humsum.cool.ne.jp/fuu-441tukudo.html
【水稲荷神社】(西早稲田)
秀郷の旧社地で、稲荷大神を勧請した。
http://www.dentan.jp/otowa/otowa6.html
【宝泉寺の毘沙門堂】(西早稲田)
秀郷が建立し、将門征伐の戦勝祈願をした。
【穴八幡宮】(西早稲田)
秀郷が、将門討伐を祈った場所として毘沙門堂を建立。
http://humsum.cool.ne.jp/fuu-160.html
【赤木明神】(赤城元町)
将門の首が飛んできてこの地に落下し、当社の木の梢に落ち留まった。その木に血が付いたので、赤木の明神と称したという。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~OUYOUKAI/h_akagidai2.htm
【富士稲荷神社(藤杜稲荷社)】(下落合)
乙女公園の南側。源経基がこの社の神託により、平将門の暴虐を朝廷に訴えた。これによって、官位を賜ることになったという。境内に藤の大木があったことが社名の由来とか。
●文京区
【湯島天神】(湯島)
将門が新皇宣言した際に、菅原道真が現れた。
http://www.yushimatenjin.or.jp/pc/index.htm
●台東区
【鳥越神社】(鳥越)
将門の首が飛び越えたという伝説があります。 また、日本武尊が東征のおり、当時白鳥村と呼ばれていたこの地に滞在したことから、村民が彼を白鳥明神として祀ったのが起源だという。
http://www.xiangs.com/Masakado/shiseki/tokyo/torigoe1.shtml
【神田山日輪寺】(西浅草)
神田明神の前身で、将門の霊を祀る。
http://www.xiangs.com/Masakado/shiseki/tokyo/nichirin1.shtml
【浅草寺】(浅草)
藤原道真と将門に関係する土師氏が建立。
http://www.asakusashichifukujin.jp/sen.html
【待乳山聖天】(浅草)
浅草寺から遷される(分社)。
http://www.tctv.ne.jp/matuti/
【海禅寺】(松ヶ谷)
将門が下総国相馬郡に創建した寺で、この地に遷された。
【下谷神社】(東上野)
天慶3年、秀郷が相馬郡へ発向の際、当社に参詣して将門追討を祈願した。
http://www.tctv.ne.jp/shitaya-/
【黒船三社稲荷社】(寿)
天慶3年(940)、平貞盛と藤原秀郷が東州平定のときに、この社を造営。
●江東区
【香取神社】(亀戸)
秀郷が将門討伐の戦勝祈願をした。
http://www.katorijinja.or.jp/
●大田区
【熊野神社】(山王)
将門の乱に、この地の熊野五郎が鎮圧に向かう際、この社に戦勝祈願をした。
http://www.mikumano.net/ztokyo/ota1.html
【千束八幡神社】(南千束)
承平五年(935)将門の乱が起こり、朝廷より鎮守府副将軍として藤原忠方が遣わされた。乱ののち、忠方の館が池上にあったことから池上氏を称した。
http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_senzok.html
●渋谷区
【金王神社】(渋谷)
源経基の館跡。
【東福寺】(渋谷)
源経基が竜川(笄橋)の関守に与えた笄があるという。
【幡ヶ谷不動】(幡ヶ谷)
藤原秀郷が将門に勝利したので、下野国小山にあった不動像をこの寺に遷した。
【平田神社】(代々木)
平田篤胤が生き神様のように崇拝した将門像が秘蔵されているという。
http://csx.jp/~iriomote/j13/hrt.htm
●中野区
【中野の原・城山公園】(中野)
この地で将門の弟・将頼が、秀郷の子・千晴と戦って敗れ、川越において死んだという。
http://www.asahi-net.or.jp/~CN3H-KKc/shiro/nakano.htm
●板橋区
【氷川神社】板橋区東新町二丁目
この神社に、将門が深く信仰した太刀佩(たちはき)観音が伝えられています。像高一尺二寸(約36cm)の木彫立像で、衣冠装束姿で笏(しゃく)を棒げ、太刀を佩いている珍しいもの。一説には、将門像ともいわれています。また、将門が金泥で書いたという写経の紙片がこの社に現存しています。「大般若切絹金泥平新王御正筆」と記されているとのことです。さらに、将門の宮殿の瓦で造ったとされる硯が伝えられています。これら、観音像、親筆、瓦などは、かつては築土明神の別当寺、成就院に伝えられていた什物と思われ、この成就院が廃寺となったさいに、この社に移されたといわれています。
http://kitahachi.jugem.cc/?cid=98
【小豆沢の地】板橋区志村
東京都板橋区志村の小豆沢地区。この地に、小豆沢神社まであります。地名「小豆沢」のいわれは、《小豆沢村は、往昔、荒川の入り江に傍って、奈々子崎へ唱えし、わずかの湊なり、平将門東国を押領せし頃、貢ぎ物の小豆を積来り船、この江に沈みしかば、此の名は起これり》とあります。また、この地には多数の古墳や祭祀の土器の材料となる赤土や土師の住居があった可能性もあるといわれています。小豆の語源が「斎(身を清め神に仕える)」だという一説をあてはめると、小豆沢は何やら意味ありげな地名です。小豆沢神社と、その隣には龍福寺があり、二箇所の社寺の説明板に将門に関して小豆沢の地名のいわれのことが書き込んでありました。小豆沢地区にはこのほか、「薬師如来の出現説話」が伝えられたり、徳川八代将軍吉宗が命名したという「薬師の泉」や国指定史蹟の「志村の一里塚」が現存しています。現在の新河岸川の水上バス停留所あたりに、小豆沢の入り江があったと思われ、この入り江に将門の小豆を積んだ船が沈んだといいます。
「小豆沢周辺の地図」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~nkgw-4a/sub3.html
「中仙道」
http://www.geocities.jp/ymasu0352/nakasendou3.htm
●葛飾区
【夕顔観音堂】(水元飯塚)
御堂は平良文の墳墓であるといわれ、夕顔観音は現在の安福寺内に遷された。
●江戸川区
【霧島神社(浅間神社の境内)】(上篠崎)
浅間神社の境内に鎮座しており、平貞盛が創建して将門征伐を願い坂東の平定を祈願した。
http://www21.big.or.jp/~tetsuki/shuin/touto_jinja/23_shinozaki_sengen.html

写真:新宿・熊野神社(撮影者:シュバン)
/取材:源六郎/平将門関連書籍/将門奉賛会/
作家・加門七海は、「平将門は神になれたか」(後に「平将門魔方陣」と改名)という作品を発表しました。それによると、「将門関連史跡の一部は東京を取り囲む北斗七星の格好をしている」と・・・・。
http://www.excite.co.jp/book/product/ASIN_4309473075
まずは、千代田区大手町の『将門首塚』から。
大正12(1923)年9月1日関東大震災が発生。被害は大蔵省庁舎にもおよんだ。将門塚の上に建てられてあった碑も亀裂が入ったため、そこで工学博士・大熊喜邦は思い切って、この古墳の中を覗いてみることにした。中にはなにもなかったという。大蔵省は仮庁舎を建設することとなった。ところが、時の大蔵大臣・営繕局工務部長屋橋・武田政務次官・荒川事務官ら計14人もの怪我人が続出、不思議なことに負傷者は全て足に関係するものであった。巷ではうわさが広まった「将門様の祟りだ!」と。そのため大蔵省は取り壊されることになり、昭和2年4月27日大鎮魂祭がとりおこなわれたのだった。昭和15(1940)年6月20日。帝都は激しい雷と激しい風雨にみまわれた。この時大蔵省本庁舎に落雷し炎上するという事件がおきた。しかも落ちた場所が将門の首塚近くだった。それは丁度将門没後1,000年目の出来事だった。
この将門首塚が、多くの将門伝説の原点となったところです。
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011532/Masakado.html
以下、将門伝説に関係する史跡・寺社等です。
●千代田区
【神田明神】(外神田)
将門の霊を祀る。平将門は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守りました。明治7年(1874)明治天皇が参拝されるにあたり、一時、摂社・将門神社に遷座しましたが、昭和59年に再び本殿に奉祀されています。社殿の後ろに、将門の娘・如蔵尼を祀る御堂があります。徳川の世に江戸総鎮守となり、将門伝説も大いに伝播されていきました。
http://www.kandamyoujin.or.jp/
【筑土神社】(九段北)
天慶3年(940)6月、関東平定後、藤原秀郷らの手で討たれ京都にさらされた平将門公の首を首桶に納め密かに持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神と称したのが始まりで、江戸城築城後の文明10年(1478)6月には、太田道灌が江戸城の乾(北西)に当社社殿を造営。太田家の守護神、そして江戸城の鎮守神として厚く崇敬されました。
http://www.tsukudo.jp/
●中央区
【椙森神社】(日本橋堀留町)
平将門の乱に、藤原秀郷が戦勝を祈願した
http://www.dentan.jp/ningyou/mori.html
【鎧橋・鎧の渡し】(日本橋兜町)
永保年間(1081~84)、当時入江が深く入り込み下総方面への渡し場に利用されていたこの地に、東征途上の源義家がやってきた。ところが、折悪しく暴風雨で渡しが使えない。そこで義家が、自分の鎧を脱いで海神(龍神)に供え祈ったところ、暴風雨は収まり無事に下総へ渡ることができた。これにちなんで、以後この渡しを「鎧の渡し」と呼ぶようになったという。また、将門の鎧塚があったと伝えられています。
http://mediaport.on.coocan.jp/kandagawa/bridges/yoroibashi.htm
【兜神社】(日本橋兜町)
鎧の渡しの近くに、鎧稲荷(将門を祀る)と兜塚(将門の兜を祀る)があります。
http://www.geocities.jp/haguma27/masakado/kabuto.htm
●港区
【烏森神社】(新橋)
天慶3年(940)に、将門の乱の時、鎮守将軍藤原秀郷が武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白矢の矢を与えた。その矢をもって、すみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現われて神烏の群がる所が霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想の如く烏が森に群がっていたので、そこに社頭を造営したのが烏森稲荷の起こりです。
http://plaza.rakuten.co.jp/karasumorijinja/
【愛宕神社】(愛宕町)
源経基が将門と対立し、水垢離をとって都へ帰った。
http://www.atago-jinja.com/
【増上寺】(芝公園)
風水の裏鬼門として、天海が造営・将門の霊を祀る。
http://www.zojoji.or.jp/
【三田の台】(三田)
「武芝の荘」があり、武蔵武芝が領主をしていた。
【済海寺】(三田)
将門が調停にあたった武蔵武芝の伝説が伝わっています。
http://www.geocities.jp/npowaro/take-2-1.htm
【一本松(冠の松)】(元麻布)
将門を征服した源経基が冠装束を架けた。
【氷川神社】(元麻布)
天慶五年(942)源経基が東征の際、この社を祀った。
http://www21.big.or.jp/~tetsuki/shuin/touto_jinja/03_azabu_hikawa.html
【笄橋】(西麻布)
源経基が刀の笄を、竜川の関守に与えて渡ることができた。
http://azabu777.hp.infoseek.co.jp/mukasi2.html#32
【氷川神社】(赤坂)
将門の神像が伝えられているという。
http://www.akasakahikawa.or.jp/
●新宿区
【熊野神社】(西新宿)
将門末裔が将門を守り神として建立。
http://parkandcats.hp.infoseek.co.jp/kumanozinzya.html
【稲荷鬼王神社】(歌舞伎町)
将門の霊を祀り、将門の幼名「外都鬼王」から社号がついたという。
http://www.xiangs.com/Masakado/shiseki/tokyo/kiou1.shtml
【鎧神社】(北新宿)
将門滅亡後、将門を慕う人々が彼の鎧をここに祀ったという。
http://www.xiangs.com/Masakado/shiseki/tokyo/yoroi1.shtml
【円照寺】(北新宿)
将門の残党を追ってこの地にやってきた藤原秀郷が重病に陥った時、それが将門の祟りではないかと恐れ、薬師如来を本尊とする円昭寺の寺内に将門の鎧を埋め、祠を建ててその霊を弔ったところ、病がきれいに治ったという。
http://www.dentan.jp/baba/okubo03.html
【蜀江山】(北新宿)
この地は、秀郷と将門の戦場でした。戦いの最中に、平将頼が蜀江の錦を落としたのでこの名が付いた。地名として「蜀江坂」が残る。
http://homepage2.nifty.com/tokyo-walk/a050478.htm
【筑土八幡神社】(筑土八幡町)
将門を地主として守る。→『筑土神社』(千代田区九段北)
http://humsum.cool.ne.jp/fuu-441tukudo.html
【水稲荷神社】(西早稲田)
秀郷の旧社地で、稲荷大神を勧請した。
http://www.dentan.jp/otowa/otowa6.html
【宝泉寺の毘沙門堂】(西早稲田)
秀郷が建立し、将門征伐の戦勝祈願をした。
【穴八幡宮】(西早稲田)
秀郷が、将門討伐を祈った場所として毘沙門堂を建立。
http://humsum.cool.ne.jp/fuu-160.html
【赤木明神】(赤城元町)
将門の首が飛んできてこの地に落下し、当社の木の梢に落ち留まった。その木に血が付いたので、赤木の明神と称したという。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~OUYOUKAI/h_akagidai2.htm
【富士稲荷神社(藤杜稲荷社)】(下落合)
乙女公園の南側。源経基がこの社の神託により、平将門の暴虐を朝廷に訴えた。これによって、官位を賜ることになったという。境内に藤の大木があったことが社名の由来とか。
●文京区
【湯島天神】(湯島)
将門が新皇宣言した際に、菅原道真が現れた。
http://www.yushimatenjin.or.jp/pc/index.htm
●台東区
【鳥越神社】(鳥越)
将門の首が飛び越えたという伝説があります。 また、日本武尊が東征のおり、当時白鳥村と呼ばれていたこの地に滞在したことから、村民が彼を白鳥明神として祀ったのが起源だという。
http://www.xiangs.com/Masakado/shiseki/tokyo/torigoe1.shtml
【神田山日輪寺】(西浅草)
神田明神の前身で、将門の霊を祀る。
http://www.xiangs.com/Masakado/shiseki/tokyo/nichirin1.shtml
【浅草寺】(浅草)
藤原道真と将門に関係する土師氏が建立。
http://www.asakusashichifukujin.jp/sen.html
【待乳山聖天】(浅草)
浅草寺から遷される(分社)。
http://www.tctv.ne.jp/matuti/
【海禅寺】(松ヶ谷)
将門が下総国相馬郡に創建した寺で、この地に遷された。
【下谷神社】(東上野)
天慶3年、秀郷が相馬郡へ発向の際、当社に参詣して将門追討を祈願した。
http://www.tctv.ne.jp/shitaya-/
【黒船三社稲荷社】(寿)
天慶3年(940)、平貞盛と藤原秀郷が東州平定のときに、この社を造営。
●江東区
【香取神社】(亀戸)
秀郷が将門討伐の戦勝祈願をした。
http://www.katorijinja.or.jp/
●大田区
【熊野神社】(山王)
将門の乱に、この地の熊野五郎が鎮圧に向かう際、この社に戦勝祈願をした。
http://www.mikumano.net/ztokyo/ota1.html
【千束八幡神社】(南千束)
承平五年(935)将門の乱が起こり、朝廷より鎮守府副将軍として藤原忠方が遣わされた。乱ののち、忠方の館が池上にあったことから池上氏を称した。
http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_senzok.html
●渋谷区
【金王神社】(渋谷)
源経基の館跡。
【東福寺】(渋谷)
源経基が竜川(笄橋)の関守に与えた笄があるという。
【幡ヶ谷不動】(幡ヶ谷)
藤原秀郷が将門に勝利したので、下野国小山にあった不動像をこの寺に遷した。
【平田神社】(代々木)
平田篤胤が生き神様のように崇拝した将門像が秘蔵されているという。
http://csx.jp/~iriomote/j13/hrt.htm
●中野区
【中野の原・城山公園】(中野)
この地で将門の弟・将頼が、秀郷の子・千晴と戦って敗れ、川越において死んだという。
http://www.asahi-net.or.jp/~CN3H-KKc/shiro/nakano.htm
●板橋区
【氷川神社】板橋区東新町二丁目
この神社に、将門が深く信仰した太刀佩(たちはき)観音が伝えられています。像高一尺二寸(約36cm)の木彫立像で、衣冠装束姿で笏(しゃく)を棒げ、太刀を佩いている珍しいもの。一説には、将門像ともいわれています。また、将門が金泥で書いたという写経の紙片がこの社に現存しています。「大般若切絹金泥平新王御正筆」と記されているとのことです。さらに、将門の宮殿の瓦で造ったとされる硯が伝えられています。これら、観音像、親筆、瓦などは、かつては築土明神の別当寺、成就院に伝えられていた什物と思われ、この成就院が廃寺となったさいに、この社に移されたといわれています。
http://kitahachi.jugem.cc/?cid=98
【小豆沢の地】板橋区志村
東京都板橋区志村の小豆沢地区。この地に、小豆沢神社まであります。地名「小豆沢」のいわれは、《小豆沢村は、往昔、荒川の入り江に傍って、奈々子崎へ唱えし、わずかの湊なり、平将門東国を押領せし頃、貢ぎ物の小豆を積来り船、この江に沈みしかば、此の名は起これり》とあります。また、この地には多数の古墳や祭祀の土器の材料となる赤土や土師の住居があった可能性もあるといわれています。小豆の語源が「斎(身を清め神に仕える)」だという一説をあてはめると、小豆沢は何やら意味ありげな地名です。小豆沢神社と、その隣には龍福寺があり、二箇所の社寺の説明板に将門に関して小豆沢の地名のいわれのことが書き込んでありました。小豆沢地区にはこのほか、「薬師如来の出現説話」が伝えられたり、徳川八代将軍吉宗が命名したという「薬師の泉」や国指定史蹟の「志村の一里塚」が現存しています。現在の新河岸川の水上バス停留所あたりに、小豆沢の入り江があったと思われ、この入り江に将門の小豆を積んだ船が沈んだといいます。
「小豆沢周辺の地図」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~nkgw-4a/sub3.html
「中仙道」
http://www.geocities.jp/ymasu0352/nakasendou3.htm
●葛飾区
【夕顔観音堂】(水元飯塚)
御堂は平良文の墳墓であるといわれ、夕顔観音は現在の安福寺内に遷された。
●江戸川区
【霧島神社(浅間神社の境内)】(上篠崎)
浅間神社の境内に鎮座しており、平貞盛が創建して将門征伐を願い坂東の平定を祈願した。
http://www21.big.or.jp/~tetsuki/shuin/touto_jinja/23_shinozaki_sengen.html
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写真:新宿・熊野神社(撮影者:シュバン)
/取材:源六郎/平将門関連書籍/将門奉賛会/
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