将門ブログ

このブログは、歴史上の人物『平将門』公を探求する、ポータルサイトです。

奥多摩町(東京都)

2006年11月19日 | 縁地探訪(東京都)
七ツ石山から石尾根を東京都奥多摩町の六ツ石山へと向かいます。

【将門の城山】奥多摩町境
鷹の巣山の東方2kmの尾根上に位置しています。標高1,523m。尾根道を行くと、知らずにいつの間にか通り過ぎてしまいます。『多摩郡村誌』に、将門の一夜城とも城壁であったとも記されています。地元の人は、平親王様のお城といっています。

【将門馬場】奥多摩町境
城山の東方800m。標高1,455m。登山道はここを通らずに、いつの間にか通り過ぎてしまいます。いわれてみれば、なるほど馬場だったのかと思わせる平坦地で「馬責場」ともいいます。貞盛・秀郷連合軍に討たれるまで、将門と常に一緒だった六人の影武者とともに、この地で馬術の稽古などに励んだことでしょう。

【大堀】奥多摩町境
六ツ石山の手前に、両側が掘られていて平らな場所があります。逃れてきた将門一行が、陣を構えて堀を造ったといわれています。一説に、良門の居所とも伝えられています。

【六ツ石山】奥多摩町境
将門を祀ると伝えられている、大きな自然石があります。

石尾根は、まだまだ続きます。この先にも、多くの将門伝承地がありますが、それは次回とします。

【羽黒三田神社・里宮】奥多摩町氷川字南氷川
奥多摩駅から青梅街道を多摩湖目指して歩くと、南氷川に「むかしみち」の案内板があります。ハイキングコースに入ると、すぐ「羽黒三田神社」があります。鳥居の先には石段が続いています。その上には本殿があるのだろうと思って登ってみましたが、結構急な階段で一気に登ると息が切れてしまいます。何とか上まで登ってみましたが、そこには何もありませんでした。石段の途中に山門のようなものがあり、それが里宮だったのかと思われます。瓜生卓造氏の『奥多摩町異聞』には、次のようにあります。
《羽黒三田神社はもと穴沢天神と称して穀物の神様を祀っていた。天慶年間(938~947)に、京都の中央権力に反旗を翻した平将門の子の良門が戦勝を祈願して社のご神体となり、さらに永禄9年(1566)奥多摩渓谷を永らく支配した名族三田氏が羽黒神を合祀した。こうした複雑な経緯を経て、明治維新後、羽黒三田神社となったという。》
鳩ノ巣駅に近い棚沢の将門神社と同様に、将門の子・良門の参詣が伝えられており、さらに三田次秀も両社に係わっていて、この両社の連携が感じられる文書が棚沢の三田神官家に残されています。また、ここの摂社の双馬神厩は「そうまさま」と呼ばれており、相馬宮と想定されます。
「奥多摩むかしみち(逆コース)」
http://friend.bird-mus.abiko.chiba.jp/all/okamoto/machi/mukashimichi/okutamamukasimichi.html

【羽黒三田神社・奥宮】奥多摩町氷川字南氷川
急な石段を登りきって、さらに舗装路を進むと、左に「石尾根(六ツ石山)登山道入り口」の道標があります。この登山道を登っていくと、まもなく奥宮に着きます。私の地図には「羽黒山神社」となっていました。

【将門の城】奥多摩町氷川小字城
さらに登っていくと車道に出て、「石尾根(六ツ石山)登山道」の道標を右に見ます。ここは登山道と別れ、なおも車道を西に行くと民家が二軒ほどある小字「城」の集落に着きます。ここは、岩で築地を構えその上が平地であり、「将門の城址」であったと伝えられています。

【城の将門社】奥多摩町氷川小字城
ここ城地区で、少し行ったところ「奥多摩駅」の道標のある道を少し下ると、右に小さな祠があります。この祠は、この地区の産土神として将門を祀っているといわれています。鍵がないので扉を開けて覗いてみると、小祠が二つありました。

【三ノ木戸】奥多摩町氷川小字三ノ木戸
なおも車道を行くと小字「三ノ木戸」に着き、車道は終点となります。ここは『武蔵風土記稿』によれば、《昔、平将門が居住せし頃の大手口なり》と伝えられています。以前、城・三ノ木戸両の戸数は合わせて十数戸でしたが、今はその大部分は平地に移って、ほとんどが廃家となっています。また、この地に将門の城の木戸があったところで、「木戸口」という屋号の家も存在していたといわれています。

【三ノ木戸の将門社】奥多摩町氷川小字三ノ木戸
車道終点から左に少し下ると、廃家の横に小さな祠があります。この社に、将門が天満社と同じに祀られています。覆舎の中には四つの小祠がありました。

【三ノ木戸の清泉】奥多摩町氷川小字三ノ木戸
将門がこの地に来たとき、喉の渇をこの泉で凌いだといわれています。この付近は山葵田(わさび)が多く、どれが将門の清泉なのか皆目分かりませんでした。

【絹笠集落跡・絹笠神社】奥多摩町氷川小字絹笠
城の集落まで戻り、「石尾根(六ツ石山)登山道」の道標を見て(この道を登ると石尾根の峰畑峠に出ます)、この道でなくその先のカーブするところから山道に入ります。沢を過ぎると感じのいい峠状のところに小さな祠があり、中に石仏があります。さらに進むと「石尾根登山道」に合流します。ここから右に下ると、すぐに「絹笠神社」があります。さらに下ると石仏が二体あり、周囲に廃家があります。ここが「絹笠集落跡」(以前七軒あったという)で、将門がこの地に来て金の笠を置いていったと伝えられ、「きんかさ」から「きぬかさ」となり、この集落を「絹笠」と呼ぶようになったといわれています。また「絹笠神社」は、絹笠大明神と称されていましたが、もともと将門を祀る神社であったと伝えられていて、今はお稲荷様が祀られていて「稲荷神社」とも呼ばれています。絹笠の集落は1960年頃の火事により、すでに廃墟となりみんな移住してしまいましたが、絹笠神社(稲荷神社)のみが現存しています。

【越路の杜(峰畑峠)】奥多摩町氷川
今度は先ほどの分岐まで戻り、石尾根(六ツ石山)に向かって登ります。尾根に出ると気持ちのいい登山道となります。しばらく六ツ石山に向かって歩くと、「山火事注意」の立て看板を見ます。ここが「越路の杜」と呼ばれている「峰畑峠」(道標などなにもなし)です。この森の中にある岩の下で、将門が雨宿りをしたと伝わっています。別の説では、この峠を将門が峰畑へと越えていったともいわれています。立て看板に「峰畑峠」と記されていて、隣の樹木に下のサイトの方が付けられた「越路の杜」と書かれた峠名標があります。私の地図には、この峠から峰畑まで破線がありますが、現在は歩かれていないので廃道となっています。
「奥多摩の顧みられない峠たち・その弐=越路の杜(峰畑峠)」
http://homepage3.nifty.com/tougepal/minehata.htm

石尾根はこの先、七ツ石山から六つ石山まで歩いていますので、ここ越路の杜(峰畑峠)から引き返すことにしました。絹笠集落跡を過ぎると、「石尾根登山口」の車道にでます。少し下って、左の東京農業大学演習林への林道に入ります。途中、東京農業大学の学生たちに出会いましたが、奥多摩駅からここまで歩いて来るとは驚きです。

【峰畑の将門神社】奥多摩町峰畑
山葵(わさび)田のある沢(峰畑沢?)を過ぎてしばらく行く(3分ぐらい)と、右下の杉林の中に小さな小屋らしきものを見ます。道の無い林の中を下って見ますと、ありました、これが「峰畑の将門神社」でした。社殿と中の祠は、廃されてしまいぼろぼろです。以前、将門の霊を祀っていた神社で、わずかにその名を残していたのは、右隣にある「将門神社」と刻まれた石碑でした。一説には、将門の財宝を埋めたところだと伝えられています。以前この社の棟札には「平親王平将門神霊鶏明神崇之」とあり、将門を夜明けの神、世直しの神として祀ったと伝えられています。現在、峰畑集落は無人となって、平成3年、栃久保の「根元神社」の境内に新社殿を建立して遷宮を行ったといいます。鳥居ももろく崩れさり倒れていて、下っていくと五軒ほどあった峰畑集落は全戸が移住しており、今は茅葺の廃屋がわびしく残る廃村になっていました。車道に下ったところが「寺地」バス停です。

【根元神社】奥多摩町氷川字栃久保
この神社は奥多摩駅の近くにあり、社殿の右側に峰畑から遷ってきた将門神社の小さな新社殿がありました。

【将門の投げ石】奥多摩町日原
石尾根の六ツ石山と七ツ石山の間から将門が投げたという石が、この地の上ノ山と呼ぶ畑の上の林の中にあるというのですが、確認できませんでした。

【将門家臣の刀】奥多摩町日原
この地の黒沢家の先祖が仙元道から刀を拾ってきて、この地の丹生明神社に奉納したと伝えられ、この刀の柄元に「将門家臣守満」という銘があったといわれています。

【丹生明神社・一石山神社】奥多摩町日原
この二つの神社は、ともに武蔵七党の丹党の氏神社です。丹生明神社は日原鍾乳洞の手前の集落にあり、一石山神社は日原鍾乳洞そのものを神体とする神社で、役行者が開祖という伝説があります。
「一石山神社」
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/tam/tama/tam/t202/t202t.htm

【樽沢古戦場跡】奥多摩町日原
この地の石尾根・六ツ石山から流れる樽沢のあたりは、平将門と藤原秀郷が戦った場所だと伝えられています。

【将門の厩場】奥多摩町日原
この地の孫想谷の通称「つばめ岩」の基場に小さな洞窟があり、そこは将門が馬を繋いでいた場所だと伝えられています。

【天祖山】奥多摩町日原
将門がこの山の頂上で余生を過ごしたとも、あるいは、将門一行が七ツ石山からツバノ尾根を降りてこの山に登り、その北側から秩父大血川方面へと逃れたとも伝えられています。
「天祖山山行記録」
http://homepage1.nifty.com/iimaru/tenso/tenso.htm

【ウトウの頭】奥多摩町日原
善知鳥(ウトウ)とは、ウミスズメ科の海鳥です。浄瑠璃で山東京伝の読み本『善知鳥安方忠義伝』では、文化文政のころ江戸市村座で初演された『世善知鳥相馬旧殿』となった。これは将門の遺児・滝夜叉姫が、忠臣の善知鳥安方の亡霊とからみ、女の武器と蝦蟇の妖術を駆使して、源家に復讐するという物語(常磐津『忍夜恋曲者(しのびよるこいはくせもの)』)です。
「ウトウの頭山行記録」(注:この山は山慣れた人でないと登れません)
http://www.asahi-net.or.jp/~NW8T-INB/utounoka.htm
「ウトウの頭からの考証学」
http://homepage2.nifty.com/kitanbr/berg/berg29/uto.htm

【熊野神社】奥多摩町棚沢
鳩ノ巣駅北方500m。いつの頃か、棚沢の将門神社がさびれてから、この社にあった将門の木像と扁額が、はじめ多名沢神社に移され、ついでここ熊野神社へと移されて合祀されたといわれています。
http://www.mikumano.net/ztokyo/okutama3.html

【将門神社】奥多摩町棚沢
鳩ノ巣駅東方500m。秩父地方では、秩父で生き残った将門一族が奥多摩側へ移住し子孫が繁栄したとの言い伝えがあります。鳩ノ巣駅近くの棚沢集落には、将門神社があります。この神社は、将門の子の将軍太郎良門が亡父の遺影を刻んで奉納して将門宮(将門大明神)と呼び、やはりその子孫で当村の領主三田忠平が鎮守としてから栄え、かつては秩父地方からの参詣者でにぎわったといわれています。神社の境内には御幸姫観音像も建てられており、いまでも奥多摩町の民家では将門の愛姫・御幸姫のお札を戸口に貼っているのを見かけます。
http://www.ktplan.net/morinonaka/callenger/dds/masakado.html
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/ttok_020.htm

【将軍太郎良門】奥多摩町棚沢
将軍太郎良門はこの地に来て、将門神社に父・将門の像を納め、一時、氷川の大堀(石尾根)に居住したといわれています。

【三田家】奥多摩町棚沢
当家の系図によると、高祖を将門とし、その子・良門を経て、姓も相馬から原島、三田、山宮と変え、再び三田に戻って今日に続いているといわれています。明治に至るまで、将門神社の神主を代々努めてきました。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/h_mita.html

【将門講】奥多摩町棚沢
江戸時代、将門神社は秩父一帯にかなり講中を有し、その人たちが三田神官家に泊まって将門講が行われていたといいます。また、将門神社の神主は定期的に講中を巡り将門伝説を伝播していったと推定されます。とくに秩父方面へ出かけていったのが注目されます。

【将門ヶ原】奥多摩町棚沢
将門神社から南に下って青梅街道に出ると、「将門」というバス停があります。ここから南にかけて、眼下に多摩川の渓谷が大きく曲がった台地が「将門ヶ原」または「住安所」と呼ばれ、一説に「そまのほ(杣保)」と称したという。地元の人は「まさかっぱら」といっています。ここは将門の舘跡といわれ、地名も将門。将門が兵馬を訓練したところとして伝えられ、原の中ほどに将門が休憩したという「御幸塚」があったといいます。御幸塚は、将門の愛姫(御幸姫観音像の説明板には、将門の妃となっています)御幸姫を祀った塚(墓)といわれ、昭和14年に鉄道工事の火薬庫を作るため、取り壊されたといいます。

【城山】奥多摩町棚沢
将門ヶ原の対岸、坂下集落の背後に聳える山が城山です。鳩ノ巣駅から御岳山裏登山道を行き、大楢峠に着いてから北方尾根伝いに山頂までいけます。『武蔵風土記稿』には、《このあたりの高山なり・・・山の頂の長さ三十間、幅二十間ほどの池あり、相伝う、平将門当所に来たりしとき、砦に構えたるところなり》とあります。この山からは、大菩薩峠の稜線からはっきりと望見できるといわれ、そこで甲武の境に急あるときは、通信連絡を果たす狼煙場であったと推定されています。
「鳩ノ巣城山山行記録」
http://www.okutama-yado.gr.jp/yamano-kai/off&ibent/2006/0318/0318.htm

【越沢の地】奥多摩町越沢
城山の麓、越沢の地には、将門が城山に城を構えてから将門の一族が住んでいたといいます。

【白丸】奥多摩町白丸
昔は「城丸」と称し、将門の城または砦に関する地名だといわれています。

【将門沢】奥多摩町白丸
この地に、将門の名が付いた沢が存在するといわれていますが、確認できませんでした。

【浜竹五郎と尾崎十郎の将門柵】青梅市御岳・奥多摩町丹縄
この地に、将門の家臣の浜竹五郎と尾崎十郎が居館を構えていました。二人は多摩川を挟んで、浜竹五郎は中野塁(青梅市御岳・熊野神社のある地)を、尾崎十郎は尾崎塁(奥多摩町丹縄)を築いて、互いに「将門柵」としました。

【尾崎の坂】奥多摩町丹縄
再び多摩川に戻り、遊歩道を歩き「御岳美術館」の前を過ぎて、「せせらぎの里美術館」に向かう。せせらぎの里美術館で、現在の青梅街道に合流。青梅街道のこの辺りから「尾崎の坂」といいます。ここは将門の家臣の尾崎十郎が居館を構えていたところで「尾崎塁」を築いていました。
「旧青梅街道を歩く(御岳から川井・棚沢)」
http://homepage2.nifty.com/sa-osamu/oume3.htm
「旧青梅街道を歩く(沢井から川井)」
http://a-spa.hp.infoseek.co.jp/oumekaido/oumekaidou-4.htm

【巣鷹神社】奥多摩町丹縄
せせらぎの里美術館から青梅街道に出たところ、青梅線の下に小祠があります。これが「巣鷹神社」だと思われるのですが、確認はできませんでした。巣鷹神社は、将門を祀り、かつて神田明神または将門明神と呼ばれていたといいます。

【姫が淵伝説】奥多摩町丹縄
せせらぎの里美術館から上流の多摩川が一番狭まったあたりが「姫が淵」といわれ、昔は藤橋が架かり、浜竹五郎と尾崎十郎が両岸に柵(将門柵)を作り守っていた。この尾崎の息子と浜竹の姫が恋仲となった。浜竹の郎党がこれを妬み、息子が多摩川の藤橋を渡るとき、それを切り落とした。そのため息子は死亡し、悲しんだ姫も同じ淵に投身自殺を遂げた。そして、この場所を「姫が淵」と呼ぶようになったといいます。

にほんブログ村 歴史ブログへ

/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会


最新の画像もっと見る

コメントを投稿