将門ブログ

このブログは、歴史上の人物『平将門』公を探求する、ポータルサイトです。

18「源護の訴による将門召喚そして恩赦」

2008年01月18日 | 将門の乱
「源護の訴による将門召喚そして恩赦・承平六-七年」
=源護の告状によって将門らへの召喚。将門急遽上洛。将門恩赦により罪を許される。将門帰国。

●「将門、恩赦に遭う」(『将門記』より)
《そうこうしているうち、前大掾・源護の訴状により、その護と犯人・平将門と平真樹らを召し進めるべき由の官符、去る承平5年12月29日の符が、同6年9月7日に到来したが、これは左近衛の番長・正六位の上・英保純行(あなほのすみゆき)、英保氏立、宇自加支興らを使者として、常陸・下野・下総などの国に派遣されたものである。そのため将門は原告より先に同年10月17日急いで上京し、すぐに朝廷に参内して、つぶさに事のよしを奏上した。幸いに天皇の判決をこうむり、検非違使に捕らえ調べられるうち、理路整然と語ることには長けていなかったものの、神仏の感応があって、ことを論ずるに理がかなっていた。天皇のお恵みがあった上に、百官の恩顧があって、犯した罪も軽く、罪過も重くなかった。かえって武勇の名声を畿内に広め、京中に面目を施した。京都滞在中に天皇の大いなる徳にて詔が下され、暦が改められた。〔承平八年を天慶元年としたことをいう〕ゆえに、松の緑の色は千年もの恒久の繁栄をことほぐかのように輝きを増し、蓮の糸は十種の善の蔓を結ぶ。今や、多くの人民の担った重い負担は、大赦令によって軽減され、八つの重罪は、犯人から浅くされる。将門は幸いにこの仁風に遭って、承平7年4月7日の恩赦によって、罪に軽重なく、喜びのえくぼを春の花のように浮かべ、郷里に帰ることを五月になって許された。かたじけなくも、燕丹のように辞して、嶋子のように故郷に帰る〔昔、燕の王子・丹は秦の始皇帝に人質となっていたが、長年過ごした後、燕は暇を請うて故郷に帰ろうとした。始皇帝は、烏の首が白く、馬に角が生じたときには帰ることを認めよう、と言った。燕丹が嘆いて天を仰ぐと、烏はこのために首が白くなり、地に伏すと、馬はこのために角を生じた。始皇帝は大いに驚き、帰るのを許した。また、嶋子(浦島太郎)は幸いに常楽の国に入ったけれども、故郷の廃墟に帰った。それゆえ、この句がある〕。北方産の馬は北風が吹くといななき、南方産の鳥は南向きの枝に巣を作るという。ましてや、人間であれば信条として、どうして故郷を懐かしむ心がないはずがあろうか。》

今回は、特に補足説明はありません。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿