将門ブログ

このブログは、歴史上の人物『平将門』公を探求する、ポータルサイトです。

19「子飼の渡の戦い」

2008年01月19日 | 将門の乱
「子飼の渡の戦い・承平七年(937)8月」
=良兼、兵を発し、常陸・下総の境の子飼の渡しで将門を攻める。将門敗退。良兼らは、豊田郡栗栖院常羽の御厩を焼く。

●「子飼の渡の戦い」(『将門記』より)
《こうして同年5月11日をもって都を辞してみすぼらしい自宅に着く。まだ旅の脚を休めず、まだ十日・一月を経ていないうちに、例の下総介良兼、前々からの怨みを忘れておらず、やはり敗戦の恥をすすごうと思った。ここ数年準備した軍備は、平常と違って優れていた。そうして8月6日に常陸・下総両国の境にある子飼の渡を囲んできた。その日の陣立ては、霊像を陣の前に張り飾った〔霊像というのは、故・上総介・高茂王(将門の祖父・高望王)の形と、故・陸奥将軍・平良茂(将門の父・良持)の形であった〕。精兵を整えて将門を襲い、攻めた。その日の明神には将門への怒りがあって、将門は何もできなかった。従う兵が少ない上、準備もすべて劣っていて、ただ楯を背負って帰る。このとき、下総介は、下総国豊田郡栗栖院常羽御厩(くりすのいん いくはのみまや)や人民の家を焼き払った。このとき、昼は人家の食事の火の始末をし終えたのにかかわらず、奇怪な灰が家ごとに満ち、夜は民のかまどの煙が立ち上らず、漆のように焼けこげた柱が家々に立ち並んでいた。煙ははるかに空を覆う雲のように広がり、良兼軍のかがり火は地に星が散っているようであった。同7日をもって、敵は勇猛の武名を将門から奪い取って、いちはやく去っていき、将門は深い怨みを抱いたまましばらく潜伏した。》

【子飼の渡し】千代川村宗道・つくば市吉沼
良兼は、将門が無罪となって帰郷したことに腹の虫が治まらない。一族の長としての恥辱をそそぐため、帰郷後、静かにしている将門を攻撃します。両軍は「子飼の渡し」で遭遇しますが、良兼軍は高望王と良将という将門にとっては祖父と父の像を陣頭に掲げ平氏一門の反逆者討伐を装うと言う奇策を用います。将門はこれに閉口します。子飼の渡しは、吉沼(つくば市)と宗道(結城郡千代川村)の間にあったとされています。このあたりは鬼怒川と小貝川が氾濫により、幾たびとなく流路を変えた後の湿地帯でした。宗道周辺は埋め立てられ、江戸時代に栄えた宗道河岸も窪地として残っているだけです。良兼は、将門の抵抗がないのを良いことに将門の領地である常羽の御厨や栗栖院等を焼いて引き上げます。
http://homepage3.nifty.com/jyoso/zyousou/kogai.htm

【ユニークな木像戦法】
この時期、将門は京より戻ったばかりで、長旅の疲れを休めていたらしく不意を突かれたようです。良兼軍の先頭には、高望王と将門の父親で有る良将の霊像を立てて儀式の様に見せ掛けていました。将門もこの奇策には手足も出ず、一方的に敗走し散々の負け戦でした。この木像戦法に、将門およびその将兵が恐怖を感じて敗れたというのは、戦史上きわめてユニークな戦法だといえます。これは当時の人々がみな霊魂の不滅を信じて祟りを恐れていたということを物語るもので、同時に当時の人々がいかに単純だったかを示すものです。

【栗栖院】八千代町栗山
良兼が焼き払った栗栖院は、現在の結城郡八千代町栗山佛生寺境内にある栗山観音堂(仏性寺)の前身です。ここに安置されている薬師如来は、平安時代初期の特色を示しているといわれています。焼かれる前からあったものかその後直に造られたものかは不明。栗栖院が炎上した時、多治経明の指示で臣下の横山某が観音像を背負って逃げたために、栗栖観音堂には観音像がないといわれています。
http://www.ippusai.com/hp_home/bandoh/bandoh07.htm
「栗山観音堂の梵鐘」
http://www.asahi-net.or.jp/~np4m-hrok/bonsyo.htm

にほんブログ村 歴史ブログへ

/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会


最新の画像もっと見る

コメントを投稿