将門ブログ

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12「将門記」

2008年01月12日 | 将門の乱
今回やっと「将門記」にたどり着きました。

○「将門記」(真福寺本と楊守敬旧蔵本)
『将門記』(しょうもんき)は、「平将門の乱」の顛末を描いた初期の軍記物語です。将門記の原本とされるものは残っておらず、『真福寺本』と『楊守敬旧蔵本』の二つの写本がありますが、いずれも冒頭部分が失われており、本来の題名はわかりません。平将門が一族の「私闘」から国家への「反逆」に走って最後に討ち取られるまでと、死後に地獄から伝えたという「冥界消息」が記されています。『真福寺本』は、名古屋市の真福寺に伝わるもので1099年に書き写したという意味の奥書があります。『楊守敬旧蔵本』は、明治時代初期に来日した清国の楊守敬が所持していたとされるもので、真福寺本に比べて欠落部分が多く筆蹟も奔放で訂正加筆が目立ち内容も異なる部分が多いのですが、研究者によっては真福寺本より数十年古いとする見解もあります。いずれも巻首部分が欠落していますが、抄本『将門記略』などから、将門一族の対立抗争の経緯が叙述されていたものと推測されています。文体は両本とも和風の強い漢文変体で書かれていますが、随所に本来の漢文でない和語や変体漢文特有の語彙(ごい)法を用い、故事を引用して四六駢儷体(べんれいたい)を作ろうとしています。また、虚構、仮託と思われるところもあり、装飾、飛躍、形容、比喩(ひゆ)などがありますが、一種の詩的表現の名文ともいえます。
「将門記」
http://hanran.tripod.com/japan/masakado11a.html
「真福寺(大須観音)」
http://toppy.net/nagoya/naka8.html

○「将門記」の作者と成立年代
作者・成立年代も不明で、諸説入り乱れています。この本の内容から、作者は将門をよく知っていて坂東の事情にも明るい者が書いたと推測されます。「平将門の乱」の一部始終を詳細に書き綴っていること、仏教的な世界観や挿話がある点からいろいろな説があります。この文献は成立年代が天慶の乱平定直後といわれていますが、追加の文章もあるようで、これもどうも疑った方が良いようです。一説には、この書物を完成させた人物は最低で三人はいると推測されています。第一の著者は、当時坂東におり、将門の近くにいて将門について強い興味を持っていた「学識のある者」(僧侶?)。第二の著者は「その記録を元に取りまとめた者」。そして第三の著者は、公文書類に基づいた記述があることに注目して「朝廷にいた貴族」、また、将門の死後に京都近郊で「再編集加筆した者」がいると考えられています。
将門の乱に関する歴史考察は、殆どが『将門記』に依存しています。この乱は十世紀前半のできごとであり、あまりに古い出来事であると同時に地方の出来事であるがゆえに当時の文献は曖昧な記述が多いといいます。この『将門記』も歴史的に正しいとは言いがたい所が当然存在しますが、この乱について最も細部に渡って描かれているのも事実です。この文献が果たして将門よりなのか、朝廷よりなのか、からまず考察の必要があるのですが、これも諸説あり、今日に至るも定まった見解はありません。結果的に、将門賛美の箇所、将門を軽蔑している箇所、仏教説話的要素の強い箇所など、極めて奇妙な書物にしあがっているため、読み進めるのには慎重を要します。
成立年代も、巻末に「天慶3年6月記文」とあることで、将門死去の直後に書かれたとする説が明治時代以来支配的でありましたが、昭和に入り、この記年は冥界消息に付随する虚構であるとの指摘がなされました。他に、末法を示す記述が見られる点から、1052年以降の成立ではないかとする研究者もあります。この本は初めから『将門記』という題名だったのではなく、諸書で写し伝えられているうちにこのような題名がついたといわれていて、最初は『将門合戦記』『将門合戦状』といったものではないかという説もあります。『将門記』はこのように、疑問点の最も多い史書として知られていますが、中央政府の記録しかなかった時代に、文化の中心、京都を遠く離れた坂東という一地方の出来事が、詳細に記されところに大きな意味があります。戦記として最も古いものであり、のちの『平家物語』その他にも多大の影響を与えたといわれています。

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/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会


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