「新政府の発足・天慶二年(939)12月」
=将門、徐目を行って東国の国司を任命。王城建設の謀議を行う。
●「新政府の発足」(『将門記』より)
《一方、武蔵権守・興世王は当時の主宰者であった。玄茂らは宣旨と称して諸国の除目を発した。
下野守には、弟の平朝臣将頼(まさより)。
上野守には、常羽の御厨の別当、多治経明(たじのつねあきら)。
常陸介には、藤原玄茂(はるもち)。
上総介には、武蔵権守・興世王。
安房守には、文屋好立(ぶんやのよしたち)。
相模守には、平将文(まさふみ)。
伊豆守には、平将武(まさたけ)。
下総守には、平将為(まさため)。
こうして諸国の受領を決定した一方で、王城を建てるための謀議をおこなった。その記録によると、「王城を下総国の亭南に建てる。さらに、[木義]橋(うきはし)を名付けて京の山崎とし、相馬郡の大井の津を名付けて京の大津とする」。そして左右の大臣、納言、参議、文武百官、六弁八史、みなすべて決定し、内印・外印を鋳造する寸法、古字体・正字をも定めた。ただし、決まらなかったのは、暦日博士だけであった。》
【除目と王城建設】
新皇になった将門は人事発令(?)を行い、これを発表します。多くの人が指摘していますが、これにはとんでもない錯誤があります。常陸、上総の国司を「守」ではなく「介」としたことです。上野国を含めてこの三国の守は、親王が任命されることが慣例になっています。しかし、朝廷に対抗して新政権を樹立するならそんな慣例は無視すべきなのです。この人事は興世王の発案と思いますが、所詮この人はこの程度の男だったのでしょう。このことは将門の左右には有能な謀臣、例えば源頼朝の側近で鎌倉政権樹立に多大な貢献をした大江広元のような人材は一人もいなかった証拠なのです。『将門記』によれば、将門は発令と同時に「王城は下総国の亭南」(坂東市の石井営所との説あり)として、王城建設を計画したといいます。
【平将頼】
「将貞」とも。平良将の子で平将門の弟。「御厨三郎」と称しました。常に将門を助け、将門軍の参謀として働きました。藤原秀郷の子・藤原千晴との合戦で、中野原(中野区中野一丁目あたり)で討死したといわれていますが、史料的裏付けはなく確証はありません。『将門記』では、天慶三年将門討ち死にののち、相模国で殺されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%A0%BC
【多治経明居館跡】八千代町平塚
多治経明は、将門軍の第一線部隊長。天慶三年の合戦で、藤原秀郷に敗れましたが生死は不明です。上野の土豪で常羽御厨の別当だった多治経明の居館跡が、結城郡八千代町平塚にあります。一分土塁が残っていますが、その面影を偲ぶよすがもないくらいの林となっており、道に沿って建てられた柵と案内板があるのみです。
http://homepage2.nifty.com/nihon-castle/TOUKAIDOU/ichibanyashiki.htm
多治経明及びその関係者とみられる者について、『将門記』の記すところを見ると、関東の多治氏としては、将門の敵である叔父良兼の上兵として多治良利が見えており(承平七年〔937〕)、天慶二年(939)の太政大臣藤原忠平の家司として多治真人助真が見えます。「タジヒ」を名乗る氏族には、皇親系の丹比真人及び神別で尾張連同族の丹比連(のち宿禰姓)があり、時代により丹比・多治比・丹治と記されましたが、前者は貞観八年二月に多治真人と改姓し、以降その表記で平安中期には中下級の官人となって続いていました。
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/titibu1.htm
【文屋好立】
将門の一ノ家人。承平八年(938)の「信濃千曲川の戦い」で、貞盛方の佗田真樹は戦死し、将門方の文屋好立(ぶんやのよしたつ)は負傷しましたが助かっています。天慶三年の合戦ののち、生死は不明です。
【平将文】
『将門記』に登場する平将文は、新皇宣言の後に行われた除目で相模守になった将文がいます。彼は将門の4番目の弟として位置づけられている人物です。
【平将武】
平良将の子で平将門の弟。「相馬六郎」と称しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E6%AD%A6
【平将為】
平良将の子で平将門の弟。「相馬五郎」と称しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E7%82%BA
/取材:源六郎/平将門関連書籍/将門奉賛会/
=将門、徐目を行って東国の国司を任命。王城建設の謀議を行う。
●「新政府の発足」(『将門記』より)
《一方、武蔵権守・興世王は当時の主宰者であった。玄茂らは宣旨と称して諸国の除目を発した。
下野守には、弟の平朝臣将頼(まさより)。
上野守には、常羽の御厨の別当、多治経明(たじのつねあきら)。
常陸介には、藤原玄茂(はるもち)。
上総介には、武蔵権守・興世王。
安房守には、文屋好立(ぶんやのよしたち)。
相模守には、平将文(まさふみ)。
伊豆守には、平将武(まさたけ)。
下総守には、平将為(まさため)。
こうして諸国の受領を決定した一方で、王城を建てるための謀議をおこなった。その記録によると、「王城を下総国の亭南に建てる。さらに、[木義]橋(うきはし)を名付けて京の山崎とし、相馬郡の大井の津を名付けて京の大津とする」。そして左右の大臣、納言、参議、文武百官、六弁八史、みなすべて決定し、内印・外印を鋳造する寸法、古字体・正字をも定めた。ただし、決まらなかったのは、暦日博士だけであった。》
【除目と王城建設】
新皇になった将門は人事発令(?)を行い、これを発表します。多くの人が指摘していますが、これにはとんでもない錯誤があります。常陸、上総の国司を「守」ではなく「介」としたことです。上野国を含めてこの三国の守は、親王が任命されることが慣例になっています。しかし、朝廷に対抗して新政権を樹立するならそんな慣例は無視すべきなのです。この人事は興世王の発案と思いますが、所詮この人はこの程度の男だったのでしょう。このことは将門の左右には有能な謀臣、例えば源頼朝の側近で鎌倉政権樹立に多大な貢献をした大江広元のような人材は一人もいなかった証拠なのです。『将門記』によれば、将門は発令と同時に「王城は下総国の亭南」(坂東市の石井営所との説あり)として、王城建設を計画したといいます。
【平将頼】
「将貞」とも。平良将の子で平将門の弟。「御厨三郎」と称しました。常に将門を助け、将門軍の参謀として働きました。藤原秀郷の子・藤原千晴との合戦で、中野原(中野区中野一丁目あたり)で討死したといわれていますが、史料的裏付けはなく確証はありません。『将門記』では、天慶三年将門討ち死にののち、相模国で殺されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%A0%BC
【多治経明居館跡】八千代町平塚
多治経明は、将門軍の第一線部隊長。天慶三年の合戦で、藤原秀郷に敗れましたが生死は不明です。上野の土豪で常羽御厨の別当だった多治経明の居館跡が、結城郡八千代町平塚にあります。一分土塁が残っていますが、その面影を偲ぶよすがもないくらいの林となっており、道に沿って建てられた柵と案内板があるのみです。
http://homepage2.nifty.com/nihon-castle/TOUKAIDOU/ichibanyashiki.htm
多治経明及びその関係者とみられる者について、『将門記』の記すところを見ると、関東の多治氏としては、将門の敵である叔父良兼の上兵として多治良利が見えており(承平七年〔937〕)、天慶二年(939)の太政大臣藤原忠平の家司として多治真人助真が見えます。「タジヒ」を名乗る氏族には、皇親系の丹比真人及び神別で尾張連同族の丹比連(のち宿禰姓)があり、時代により丹比・多治比・丹治と記されましたが、前者は貞観八年二月に多治真人と改姓し、以降その表記で平安中期には中下級の官人となって続いていました。
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/titibu1.htm
【文屋好立】
将門の一ノ家人。承平八年(938)の「信濃千曲川の戦い」で、貞盛方の佗田真樹は戦死し、将門方の文屋好立(ぶんやのよしたつ)は負傷しましたが助かっています。天慶三年の合戦ののち、生死は不明です。
【平将文】
『将門記』に登場する平将文は、新皇宣言の後に行われた除目で相模守になった将文がいます。彼は将門の4番目の弟として位置づけられている人物です。
【平将武】
平良将の子で平将門の弟。「相馬六郎」と称しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E6%AD%A6
【平将為】
平良将の子で平将門の弟。「相馬五郎」と称しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E7%82%BA
/取材:源六郎/平将門関連書籍/将門奉賛会/
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